「起きて歩け」—信仰といやし【マタイによる福音書—約束されたメシア】#4

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あなたが人生で最も恐れるもののリストを作るなら、それはどのようなものになるでしょうか。私たちの多くにとって、そのリストには死に瀕した家族や、あるいは死に瀕したあなた自身が含まれるでしょう。そして、それは確かに無理からぬことですが、それがいかに地球中心であるか考えてみてください。現世の私たちの生活に関することばかりです。この世の命が終わること、特に命がさほど長く続かない場合に、それは、本当に私たちが最も恐れるべきことなのでしょうか。

もし神が御自分の最も恐れるもののリストをお作りにならねばならないとしたら、そこには私たちの家族や私たち自身が永遠の命を失うことが確実に含まれるでしょう。

確かに、神は肉体的な病や死を気にかけておられますが、彼が最も気にかけておられるのは、霊的な病や永遠の死です。イエスは多くの人をいやし、死者さえ復活させられましたが、それは一時的なことにすぎません。いずれにせよ、彼らはみな肉体的に死にました。例外として、イエスが御自身の復活の際によみがえらせた聖徒たちはいますが……(『SDA聖書注解』第5巻550ページ、英文、『希望への光』1091ページ、『各時代の希望』下巻317ページ参照)。

救済計画は私たちのためにさまざまなことを成し遂げましたが、この世の病や死から私たちを免れさせることはありませんでした。このことを念頭に置きながら、肉体的、霊的いやしに関するいくつかの物語について考え、それらから信仰に関するどんな重要な教訓が引き出せるかを見てみましょう。

触れがたい人々に触れる

神の国の原則を説明した山上の説教のあと、イエスはサタンの国に再び遭遇されました。そこは、体の弱った人々が救いを求めてうめいている冷たく暗い場所、イエスの支持されるあらゆるものとしばしば相反する原則を持つ場所でした。そしてそのとき、いかにサタンの国が悲惨で、堕落してしまったかの貴重な実例の一つが、重い皮膚病の中に見られました。

マタイ8:1〜4を読んでください(レビ13:44〜50を参照)。重い皮膚病を患った人は、イエスの前にひざまずき、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(マタ8:2)と言っています。「おできにな(る)」に相当するギリシア語は「デュナマイ」で、英語の「ダイナマイト」などと同類の語です。力にあふれることを意味します。つまり、「もしあなたの御心にかなうなら、あなたは力にあふれ、私の人生を変えることがおできになります」ということです。イエスは、重い皮膚病をいやすことは「わたしの心だ」(同8:3、新改訳)とおっしゃり、ただちにそうなさいました。

イエスが病人に触れられたという事実は、その様子を見ていた群衆を身震いさせたに違いありません。確かに、別の(例えば、次に記録されているいやしの)機会になさったように、イエスが言葉を発するだけで、その病人はいやされたことでしょう。それなのに、なぜイエスは彼に触れられたのでしょうか。

「ハンセン病人をその恐るべき病気からきよめられたキリストの働きは、魂を罪からきよめられるキリストの働きの実例である。イエスのみもとにきた男は、『全身ハンセン病』であった(ルカ5:12)。その致命的な病毒は彼の全身にひろがっていた。弟子たちは主が彼にさわられないようにしようとした。この病人にさわるとその人もけがれた者となるからであった。しかしイエスはハンセン病人に手をおいても、けがれを受けられなかった。イエスの手がふれたことによって、いのちを与える力がさずけられた。ハンセン病はきよめられた。罪という病もこれと同じである、——それは根強く、致命的で、人間の力できよめることはできない」(『希望への光』801ページ、『各時代の希望』上巻335ページ)。

おそらくイエスは、重い皮膚病の人に触れることで、私たちの罪がどれほどひどかろうと、それからの清め、いやし、ゆるしを願う者たちに近づくことを示されたのでしょう。

ローマ人とメシア

ダニエル書が多くの紙幅を割いてローマを扱っていることには(ダニ7:7、8、8:9〜12、23〜25参照)、もっともな理由があります。その巨大な力が、キリストの在世当時にも広く行き渡っていたからです。それにもかかわらず、ローマの権力の象徴であるとともに、そのあらわれでもあった百人隊長の1人が、イエスのもとにやって来ます。その男は、私たちを襲うありふれた試練、悲劇に直面して、何もできない状態にありました。地上の権力ができることには限りがあることの、なんという教訓でしょうか。最も偉大で、最も影響力のある指導者たち、最も裕福な人々が、人生のありふれた困難を前にして何もできずに立ち尽くしてしまいます。本当に、神の助けなくして、一体私たちにはどんな希望があるでしょうか。

マタイ8:5〜13を読んでください。百人隊長というのは、通常80人から100人程度の兵士を指揮するローマ軍の将校でした。兵役に服しているおよそ20年の間、彼は法的に認められた家族を持つことが許されなかったので、彼の僕は、唯一の本当の家族だったのかもしれません。

ユダヤ人の文化の中で、こういう異邦人よりも嫌われていたのは、重い皮膚病を患った人だけだったはずです。それゆえこの将校は、彼の家に入るとイエスが言ったとしても、実はそうすることを望んでおられない、とたぶん思ったのでしょう。イエスが実際においでになるのではなく、その言葉だけを求めることによって、百人隊長は今日の私たちにも語りかけてくる大きな信仰——イエスの言葉には、イエスが触れてくださるのと同じくらい力があるという信仰——を行動で示しました。この百人隊長にとって、イエスがだれかをいやすのは難しいことではありませんでした。それは、軍の将校が部下の兵士に命令を与えるに等しい、いつものことでした。

さらに、マタイ8:11、12でイエスが言われていることに目を向けてください。大きな特権を与えられている者たちにとって、なんと厳しい警告でしょうか。私たちアドベンチストも大きな特権を与えられているので、注意しなければなりません。

悪霊と豚

マタイ8:25〜34を読んでください。ユダヤ人の思想では、神の大権だけが自然と悪魔を支配しました。簡単な言葉で激しい嵐を静めたあと(マタ8:23〜27)、イエスはガリラヤ湖の東の岸辺に降り立たれました。そこは異邦人の土地であっただけでなく、悪霊に取りつかれた者が数人住んでいる場所でした。

マルコ5:1〜20とルカ8:26〜39は、悪霊に取りつかれた男たちの物語に詳細を加えています。悪霊たちは自分たちのことを「レギオン」と呼んでいます。軍隊において、1レギオンは6000人の兵士のことで、この悪霊たちは、2000頭の豚の中へ送り込まれました。

なぜ悪霊たちは豚の中に送り込まれることを願ったのだろうかと、多くの人が不思議に思ってきました。ある言い伝えによれば、悪霊たちは虚しくさまようことを嫌うため、たとえ汚い豚であっても、ある種の住みかを望んだのだといいます。また別の言い伝えによれば、悪霊たちは水を恐れていたということで、イエス御自身も、休む場所を求めて水のない場所をうろつく悪霊に言及しておられます(マタ12:43参照)。悪霊は終末論的な最後の主の日に先だって滅ぼされる、と教えているユダヤ人の言い伝えもあります。

しかし最も重要な点は、この物語に出てくる男たちの破滅的状態が、まさに神の子らに対してサタンが望んでいる破滅的状態だということです。しかし、イエスは彼らの人生をすっかり変えられました。サタンが私たちの人生の中で起こそうとするあらゆることを、イエスは、御自分に献身することを選ぶ者たちのために、無効にすることがおできになります。そうでなければ、私たちはサタンに対して無力です。

私たちは大争闘において、いずれかの側にいます。イエスが次のようにおっしゃったとき、それがいかに厳しく、妥協なく聞こえようと、彼はこの真理をこれ以上わかりやすく表現することがおできになりませんでした。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(ルカ11:23)。どちらの側に付くかは、私たち次第です。

「起きて歩け」

私たちは、イエスが百人隊長に、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない、と言われたことに注目しました。しかし、イスラエルの同じ時期に、体のいやしよりも心のいやしを強く求める境地に達していた男がいました。

マタイ9:1〜8を読んでください(ロマ4:7、Iヨハ1:9、2:12も参照)。非常に興味深いことに、中風の人が目の前に連れて来られたとき、イエスが最初に対処されたのは、その男の霊的状態でした。明らかにイエスは、何が真の問題であるかをはっきりわかっておられました。その男の惨めな肉体的状態にもかかわらず、より深い問題は、非常に罪深かったに違いない彼の人生に対する罪責感であることを、イエスは知っておられました。それゆえにイエスは、赦しを求めるその男の願いを知りつつ、罪の現実と損失を理解している者にとって最も慰めとなるに違いない言葉を口にされました。「あなたの罪は赦される」

エレン・G・ホワイトは、次のように付け加えています。「しかし彼が熱望したのは肉体的な回復よりもむしろ罪の重荷からの解放だった。もしイエスにお会いすることができて、罪のゆるしと天とのやわらぎの保証が与えられるなら、神のみこころにしたがって死のうが生きようが満足だった」(『希望への光』802ページ、『各時代の希望』上巻337ページ)。

あるアドベンチストの牧師が、いやされないことに対する十分な信仰を持つことについて、しばしば説教をしていました。これは、私たちの肉体的状況よりもさらに深い所に目を向け、私たちの永遠の状況に焦点を合わせる至高の信仰です。私たちの祈りの願いは、しばしば肉体的な必要に関するものであり、神はこういったことも確かに気にかけられます。しかし、イエスは山上の説教において、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタ6:33)とおっしゃいました。それゆえ最終的に、私たちの差し迫った肉体的な必要にもかかわらず、非常に多くのものがはかなく、つかの間であるこの世において永遠のものを念頭に置き続けることは、なんと重要でしょうか。

「死んでいる者たちに……死者を葬らせなさい」

マタイ8:18〜22を読んでください。まず私たちが目にするのは、イエスに近づく2人の男たちです。2人は誠実ですが、両者とも何かによって引き止められているようです。私たちのすべての思いをご存じのイエスは、単刀直入に問題の核心に触れられました。イエスは最初の男に、イエスに従うためにすべてのものを(ベッドさえも)心から進んで諦めるかどうかを問われます。これは、人がイエスに従うなら地上の持ち物をすべて失うだろうという意味では必ずしもなく、単純に、人はそうする心構えが必要だということです。

続いてイエスは二番目の男に、心から進んでイエスを自分の家族より優先するかどうかを問われます。一見したところ、二番目の男に対するイエスの言葉は非常に手厳しく思えます。彼がしたいと望んでいたのは、父親を葬ることでした。なぜ彼は父親をまず葬り、それからイエスに従うことができなかったのでしょうか。特に当時は、両親をきちんと葬ることが十戒の第五条に従うことの一部だと、ユダヤ教において考えられていました。

しかし聖書解釈者の中には、この男の父親はまだ死んでいなかったか、死の間際にさえなかったのだ、と主張する人たちがいます。要するにこの男は、「家族に関するあらゆることに決着をつけさせてください。それから、あなたに従います」とイエスに言っていたのだ、と言います。それゆえ、イエスはあのようにお答えになりました。

マタイ9:9〜13には、弟子への召命に関するもう一つの話、嫌われていた徴税人マタイの召しに関する話があります。イエスはその男の心をご存じでした。その心は、召しに対する彼の応答が示しているように、真理に対して明らかに開かれていました。イエスは、マタイのような人間を召すことでどんな反応が生じるかを確実にご存じであり、聖句が明らかにしているように、そのとおりになりました。現代の私たちの視点からすると、マタイのような人間を召すことが当時の人々にとって、どれほど現状を動揺させるものであったかを理解するのは困難です。私たちがここに見るのは、福音の召しがいかに普遍的であるかということのさらなる一例です。

さらなる研究

ドイツには、「一度目は数のうちに入らない」ということわざがあります。これは、何かが起きても、それが一度だけなら数には入れない、という意味の慣用句です。それは重要ではないと言います。一度しか起こらなかったことは、まったく起こらなかったようなものだ、というわけです。あなたが同意するにせよ、しないにせよ、木曜日の研究との関連で、このような考えについて思いを馳せてみてください。この日の研究の中でイエスは、まず父親を葬りに行き、それから弟子にならせてほしいと望んだ男に、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(マタ8:22)と言われました。

イエスは、その男(生きている男)が死んでいると暗に言うことで、何を意味されたのでしょうか。もし「一度目は数のうちに入らない」のなら、人が一度だけこの地上に生き、そのあとに永遠が続かないということは、まったく生まれてこなかったに等しいということです。その人は今、死んでいるのも同様です(ヨハ3:18参照)。来世を信じない世俗の思想家たちは、永遠に消え去る前に、たった一度だけ、ごく短期間存在する人生の無意味さについて不平を口にしてきました。もしこれほど短い期間のあとに私たちが永遠にいなくなり、忘れ去られるのであれば、人生はどんな意味を持ちうるのだろうかと、彼らは問うてきました。ですから、イエスが言われたことは驚くに値しません。イエスは、この世が提供するものより偉大なものに、この男を振り向かせようとされていました。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年2期『マタイによる福音書』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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