魂の偶像(とそのほかのイエスの教え)【マタイによる福音書—約束されたメシア】#9

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私たち人間は、環境と文化の産物です。こういったものが私たちの価値、考え、態度に大きな影響を与えます。あなたが大都会で育ったにしろ、きれいな飲み水のない村で育ったにしろ、違いはありません。あなたが育った文化や環境が、現在のあなたを生み出しました。たとえあなたが新しい環境に移ることができるとしても、あなたが育った環境は、死ぬまであなたに影響を残すでしょう。

残念ながら、私たちの環境や文化のほとんどは、ある程度、神の国の原則に逆らって作用します。何しろこの世は堕落した世界であり、その価値、倫理、習慣は、しばしばその堕落した状態を反映しているからです。それらは、ほかにどのようなものを反映しているでしょうか。それを理解することは、私たちが自分の文化や環境にどっぷり漬かっているので、容易ではありません。

私たちの心の中における神の働きは、何よりも、神の国の価値、倫理、基準を私たちに指し示すことです。今週、見て行くように、それらの価値、倫理、基準は、私たちが生まれついたもの、私たちを育んだものとは、しばしば大きく異なります。弟子たちはこのような教訓を学ばなければなりませんでした。私たちも学ぶ必要があります。

謙遜の偉大さ

偉大さというものにあこがれない人がいるでしょうか。言い換えれば、偉くなりたい、偉大なことをしたい、と思わない人がいるでしょうか。このような強い願いは、必ずしも身勝手さや自我や傲慢から生まれるとは限りません。偉大であるというのは単純に、あなたのすることがほかの人に祝福をもたらすはずだと思いながら、何事であれ、あなたがすることにおいて最善を尽くすことかもしれません(コヘ9:10も参照)。

しかし、「偉大さ」の定義づけにおいて問題が生じます。人間の堕落した心は、なんと容易に、神の見方とは非常に異なる形でこの概念を理解してしまうことでしょう。

マタイ18:1〜4を読んでください。真の偉大さの意味を明確にするため、イエスは1人の子どもを呼び寄せて御自分の前に立たせ、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(マタ18:4)と言われました。イエスは、偉大な牧師、偉大な実業家、偉大な慈善家になることについて語られませんでした。神の観点からすれば、偉大さは私たちの内面の状態であり、私たちが外面的に行うことではありません。無論、内面にあるものは、外面的に行うことに影響するでしょう。

イエスが、この世のほとんどの人とは異なる形で偉大さを定義していることに注目してください。ある日、目覚めた途端、自分が人生に求める偉大さとは子どものように謙遜になることだ、と結論を下す人がいるでしょうか。私たちにはそのようなものを熱望することが奇妙に思えますが、それはひとえに、私たちがこの世の原則、考え、概念に染まっているからです。

子どものように謙遜であるとは、どういう意味でしょうか。謙遜さを示すものの一つは従順さ、つまり神の御言葉を私たちの意志より優先することです。もしあなたが人生において誤った道を進んでいるとしたら、それは、あなたがあなた自身の道を歩んでいるからです。その解決方法は単純です。謙遜になって、御言葉に服従することで神の道に立ち帰ることです。もしアダムとエバが謙遜であり続けていたなら、彼らは罪を犯さなかったでしょう。命の木と善悪の知識の木がいずれも園の中央にあったということを考えるのは、興味深いことです。しばしば、命と破滅は遠く離れていません。その違いは謙遜さです。

赦しの偉大さ

罪に堕ちたことの最悪の結果の一つは、対人関係の中に見られます。アダムが自分の罪の責任をエバに負わせようとしたときから(創3:12)、今日の地球のこの瞬間に至るまで、人類は個人間の争いによって荒廃し、人間性が低下してきました。残念なことに、争いは世の中にだけでなく、教会の中にもあります。

マタイ18:15〜35を読んでください。正直に認めましょう。陰でだれかのうわさ話をしたり、文句を言ったりすることは、その人のところへ直接行って、問題に対処することよりずっと簡単です。そうしなさい、と主から言われているにもかかわらず、私たちがそうしたがらないのは、まさにそれが理由です。しかしイエスは、私たちを傷つけた人のところへ行って、関係を修復するように努めなさい、と私たちに教えておられます。もしその相手が受け入れないなら、さらなる指示があります。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタ18:20)。文脈に注目してください。それは、懲戒や回復に関する内容です(私たちはこの聖句をずっと広い意味で適用しがちです)。

イエスは、数人の集団が1人の信者を回復しようと努めているとき、聖霊が御臨在なさる、とおっしゃっています。それはすばらしい贖いの働きです。そしてそれは、正しいことを謙虚に行い、あなたを傷つけた人と直接話し合うことから始まります。これもまた、そうする人の偉大さのさらなる例になるでしょう。

マタイ18:21〜35を読み直してください。「七の七十倍までも赦しなさい」とイエスが言われたとき、彼が本当に言おうとしておられたのは、だれかを赦すことをやめてはならない、ということです。イエスは、他者のためだけでなく、私たち自身のためにも、赦しの必要性を真剣に考えておられます。このことを伝えるために彼が語ったたとえ話は、なんと説得力があることでしょう。私たちは多くのことを赦していただけます。それこそがまさに福音であり、赦しです(出32:32、使徒5:31、コロ1:14参照)。しかしもし私たちが、神によって自分が赦されたように他者を赦さないなら、私たちは恐ろしい報いを受けることになります。

魂の偶像

マタイ19:16〜30を読んでください。この男について具体的なことはあまり語られていませんが、際立った特徴をいくつか拾い上げることはできます。彼は金持ちであり、議員であり(ルカ18:18参照)、どうやらとても几帳面に神の律法を守っていたようです。さらに、彼が人生に何か不足を感じていたこともわかります。このことはマルティン・ルターの話を思い出させます。彼は、外面的には敬虔な修道士でしたが、内面的には霊的生活に満足できず、救いの確信を得たいともがいていました。いずれの男たちも、自身と神との間の大きな隔たりが自分の外面的な行いによっては埋まらないだろうと感じていました。

「この役人は、自分自身の義を高く評価していた。彼は自分に何か欠けたところがあるとは本当に思っていなかったが、そうかといって全く満足しているわけでもなかった。彼は自分の持っていないもの、何か足りないものを感じていた。イエスが小さな子供たちを祝福されたように、自分を祝福してくださって、自分の魂の欲求を満たしてくださることがおできになるのではないだろうか」(『希望への光』943ページ、『各時代の希望』中巻327ページ)。

ある人たちは、こう主張するかもしれません。この物語においてイエスは、私たちが善行に基づいて永遠の命を受けると教えているのだ。何しろイエスが、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」とマタイ19:17で言っているからです。もしこれがこのような主題に関する唯一の聖句であるなら、論争もできるかもしれません。しかし、実に多くのほかの聖句が、とりわけパウロの書簡の中の聖句が、律法は私たちを救うことなく、ただ救いの必要を指摘するものだと教えています(ロマ3:28、ガラ3:21、22、ロマ7:7参照)。イエスはこの男に、彼が行っていたこと以上の大きな必要を気づかせようとしていたに違いありません。詰まるところ、もし律法を守るだけで救いが得られるとしたら、この男はすでに救いを得ているでしょう。彼は几帳面に律法を守っていたからです。福音は心を突き刺し、魂の偶像へと真っ直ぐに突き進む必要があります。そして、神との関係を妨げるもので、私たちが執着しているものは、何であれ、取り除かれねばなりません。この男の場合、それはお金でした。イエスは、金持ちが救われることがいかに難しいかを指摘しておられます。しかしルカは、この対話のすぐあとに、まさにそのようなことが起こったすばらしい話を記録しています(ルカ19:1〜10参照)。

どんな得があるのか

金持ちの議員との出来事の直後、どのようなことが起きていますか。

「すると、ペトロがイエスに言った。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか』」(マタ19:27)。

この質問を促したものが何だったのか、聖句は記していません。しかしその質問は、金持ちの男がイエスのもとから去って行ったことの直接的な結果として生じたものでしょう。ペトロは、この男や、イエスを拒絶したり、しばらくイエスと過ごしたもののやがて去ってしまった者たちとは違って、彼とほかの弟子たちはイエスのために何もかも捨てた、と言っているようです。彼らは個人的に大きな犠牲を払っても、イエスに忠実であり続けていました。ですから、問題は「どんな得があるのか」ということでした。

私たちは今日の観点から見て、この質問は、弟子たちがいかにかたくなで、霊的に鈍かったかを示す一つの例だと思うかもしれません(確かに、ある程度、そのとおりです)。他方で、ペトロのような質問をすることは、なぜだめなのでしょうか。イエスに従うことで何が得られるのだろうかと、なぜ彼は考えるべきではないのでしょうか。

何しろ、地上での人生は、最上のものを持っている人たちにとっても大変なことです。私たちはみな、心の傷、失望、罪深い存在であるがゆえの苦痛を経験します。ジャコモ・レオパルディという19世紀イタリアの知識人は、人類の避けがたい不幸について、「人間は命を感じる限り、不満と苦痛をも感じるのだ」と書きました。

人生はしばしば戦いであり、この世における善は、必ずしも悪と均等ではありません。それゆえ、ペトロの質問はまったく筋が通っています。「人生は大変なことですが、イエスに従うことで私たちはどんな利益を得られるのですか。イエスが私たちに求める献身をすることで、私たちは何を期待すべきですか」

イエスがペトロの身勝手さを叱責されなかったことに注目してください。イエスはまず単刀直入に答え、それから労働者と賃金に関するたとえ話をなさいました(マタ19:28〜20:16参照)。このたとえ話の基本的なポイントははっきりしています。私たちは、イエスが約束なさったものを手に入れるだろう、ということです。

「できます」

マタイ20:20〜28に記されているヤコブとヨハネ(と彼らの母親)に関するきょうの物語を正確に理解するために、まずルカ9:51〜56を読んでください。この出来事は、イエスが弟子たちとエルサレムに向かわれたときに起こったのですが、それは、ヤコブとヨハネが、自分たちは王国においてイエスの右と左に座れるでしょうかと尋ねた数日前のことでした。

マタイ20:20〜27を読んでください。ヤコブとヨハネ、「雷の子ら」は、宣教するために周辺の地域に遣わされたあとでさえ、周りの人たちの救いよりも、自分たちの将来のことを明らかに気にしていました。この話はそれなりに、私たちが昨日注目した、イエスに従うことで何を得ることができるのかというペトロの質問とどこか似ています。

ここでのイエスの答えを注意深く吟味してください。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(マタ20:22)。言い換えれば、イエスの将来の栄光を共有するというのは、まずイエスの苦しみと死——ヤコブとヨハネが予期しておらず、準備もしていないこと——を共有することを意味していました。2人が「できます」(同)と即答した事実は、彼らがイエスの警告しておられることを理解していないことを示しています。最終的に、彼らは学ぶでしょう。

ここには、私たちが自分自身について考えるのに必要な興味深い対比が示されています。昨日の研究で触れたように、私たちはイエスに従うならすばらしいもの——「永遠の命」(マタ19:29)さえも——約束されています。しかしその一方、この世でイエスに従うことには犠牲——ときとして非常に大きな犠牲——が伴うことを聖書は明らかにしています。後日、イエスは、ペトロが殉教の死を遂げるであろうと告げました(ヨハ21:18、19参照)。歴史を通じて多くの信者が、今日でさえ、イエスに従うことのために高い代償を払ってきました。実のところ、もし私たちが主に従うことに対して高価な代償を払ってこなかったとしたら、「私の歩みはどこかおかしいのではないか」と、自問したほうが賢明かもしれません。しかし、その代償がどれほどのものであったとしても、まったく損はないでしょう。

さらなる研究

何世紀にもわたって、ある人々は「自然法」と呼ばれるものを支持してきました。自然法にはさまざまな形がありますが、その概念は、私たちの行動の指針となる道徳的原則は自然界から得ることができるというものです。自然界が神の「第二の聖書」だと考える私たちクリスチャンは、ある意味で、これにも一理あると受け入れることができます。例えば、人間は自然界から神を理解することができるはずだという、ローマ1:18〜32におけるパウロの言説を見てください。一方で、この世は堕落した世界であり、私たちは堕落した知性でそれを見ているということを忘れることはできません。それゆえ、私たちが誤った道徳的教訓を自然界から導き出すことは、無理もありません。例えば、古代の最も偉大な道徳的人間の1人であったギリシアの哲学者アリストテレスは、自然界に対する彼の理解に基づいて奴隷制に賛成しました。彼にとって、自然界は二つの階級の人々を啓示していました。一方の階級は、「獣が人間より劣っているように……他方の階級よりも劣って」おり、それゆえ彼らにとって、「奴隷のように服従する人生は好都合」だといいます。これは、いかにこの世の原則、価値、考えが神の国のそれらと食い違っているかを知ることのできる多くの例の中の一つにすぎません。だからこそ、私たちは——どこで生まれ育ったかに関係なく——神の御言葉を学び、私たちの生活を支配する道徳、価値、原則をそこから得る必要があります。それ以外のものは信用できません。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年2期『マタイによる福音書』からの抜粋です。

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