【テサロニケの信徒への手紙1・2】終末の諸事件【最大の希望】#9

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今回の聖句でも、再臨が主要なテーマですが、焦点が変わっています。パウロはここで、イエスの再臨についての詳細を明らかにするよりも、むしろ再臨(と、それにともなう裁き)の光に照らして絶えず準備をする必要性について述べています。先の聖句は励ましに満ちたものでした。終わりが来るとき、その結果はテサロニケの信者が考えていたよりもはるかに素晴らしいものとなるのでした。彼らは今、再臨の性質をはっきりと理解しましたが、問題はどのようにして再臨に備えるかということでした。

当時の教会に見られた問題は、いわば「無事だ、安全だ」という神学にあったように思われます。その背景に、再臨の日時を計算する信者がいたことが考えられます。彼らは、預言を通して終末の諸事件の起こる時期を予想することができれば、それによって再臨に備えることができると考えました。そのようなわけで、一部の者たちは切迫感を持たないままに生活していたと思われます。

今日も、こうしたことはよくあることです。地上に長く留まっていればいるほど、切迫感が薄れるものです。だからこそ、私たちはここにあるパウロの言葉に留意する必要があるのです。

裁きが持つ二つの側面

問1

創世記3:15~24を読んでください。これらの聖句はアダムとエバに対する神の裁きについて述べていますが、そこにはどんな肯定的な側面と否定的な側面が見られますか。

テサロニケIの5:1~11には、「裁き」という言葉は出てきませんが、それらは明らかに裁きと関係があります。パウロがテサロニケの信者に知ってほしいと願ったことは、神の裁きが終わりのときに天国において起こる出来事であると同時に、毎日の生き方とも重要な関わりを持つものでもあるということでした。

現代人の多くは裁きを好意的に受けとめていません。裁きの持つ否定的で、脅迫的な響きが気に入らないのでしょう。しかし、聖書が教える裁きは単なる脅迫や断罪、処刑よりも広い意味を持ちます。裁きには肯定的な側面もあります。日常のささいな憐れみや親切な行為は気づかれることも、報われることもありません(マタ10:42参照)。肯定的なことであれ否定的なことであれ、神は私たちの行うすべての行為をご覧になります。それらはすべて、究極的な計画の中で意味を持ちます。

裁きの二面性は聖書の初期の記録の中に認められます。エデンの園において、神はアダムとエバの罪を否定的に裁いておられます。出産、農耕、住環境に、罪の結果が現れます。同時に、神は彼らを肯定的に裁かれます。神は彼らとサタンとの間に敵意を置き、憐れみ深くも皮の衣を彼らに着せられます。変化する環境において過度に苦しむことがないためでした。重要なことは、これらの皮の衣が彼らの罪を覆うキリストの義を象徴していたことです。

創世記4章で、神はカインを追放することによって彼を否定的に裁いておられます。しかし、カインはまた肯定的な裁きを受けています。だれも彼を殺すことがないように、神はカインにしるしをつけておられます。洪水のときにも、神は洪水で滅ぼすことによって人類を否定的に裁かれますが、同時に逃れの道として箱舟を提供することによって肯定的に裁かれます(創6:1~9:17)。

創世記11章で、神は言葉を乱し、人類を全地に散らされます(否定的裁き)。肯定的な裁きはどこにあるでしょうか。アブラハムが「地上のすべての民」(創12:3、新国際訳)―先にバベルで散らされたのと同じ民(創11:9)―の祝福となるように召されたことがそれです。

突然で、予期しないもの(1テサ5:1―3)

問2

テサロニケIの5:1~3、使徒言行録1:6、7を読んでください。これらの聖句にある「時と時期」は何を意味しますか。

「主の日」は旧約聖書の裁きに関連した聖句によく出てくる表現です。それは神による決定的な「終わりの時」の介入を描写するもので、不従順にともなう否定的な結果を強調しています(イザ13:6~9、エレ46:10、エゼ30:2~12)。今日の聖句の中で、パウロはこの初期の思想をイエスの教えておられる盗人の比喩と結びつけています(マタ24:43、ルカ12:39)。

主の日、夜中の盗人、産みの苦しみという三重の比喩はすべて同じことを例示しています。イエスの再臨は悪人にとっては突然で、予期しないもの、逃れることのできないものです。終わりの時は、終わりに備えるための時ではありません。備えをする時は今です。

しかしながら、4節からも明らかなように、パウロはテサロニケの信者を叱責してはいません。盗人が夜やって来るように、主の日が来ることを、彼らはすでに知っているからです。来るべき滅びによって驚かされるのはほかの人々、つまり「無事だ、安全だ」と言っている人たちです。

使徒言行録1:6、7で、イエスの弟子たちは地上歴史の最後の諸事件の時期についてイエスに質問しています。しかし、イエスはこれらの事柄についての彼らの好奇心を満足させようとはされません。終わりの時を知ることは彼らのなすべきことではありません。「時と時期」という言葉は終わりの時期を計算する企てにつながります。そのような企ては関心を引くことはあっても、霊的には逆効果です。それは、計算された時期が過ぎ去ったときに失望をもたらすか、計算された時期が遠い将来であった場合に準備の遅れをもたらすかのどちらかです。

ルカ21:34によれば、多くの人は―酒や娯楽などによって―霊的な責任から逃れようとします。ほかの人々は終わりの時に備えて霊的な準備をしなければならないと思っているかもしれませんが、生活の思い煩いによって道を逸れています。しかしながら、終わりの時が不意にやって来るということは、道を逸れた人たちや自己満足に陥っている人たちが逃れることのできない時が来るということです。しかし、テサロニケIの5:1~11によれば、ルカ21:34~36のキリストの言葉を覚えて「目を覚ましている」人たちは、それから逃れることができます。

信者の強み(Iテサ5:4、5)

パウロは第5章の冒頭の聖句の中で、理由が何であれ、準備のできていない人たちの状態について述べています。テサロニケの信者は再臨の現実が確かであることをすでに知っていました。知らないのはその時期だけです。準備のできていない人たちにとっては、驚きは悲劇的なものとなります。ある人たちにとって準備ができていないのは、再臨を信じないからであり、ほかの人たちにとって準備ができていないのは、諸事件が終わりの近いことを確信させてくれるまでは準備を遅らせることができると考えるからです。

1950年代の終り頃のことです。ある若者が、イエスは1964年に来られるので、教会はその準備をしたほうがよいと、説教者が言うのを聞きました。その若者は、再臨はまだ何年も先のことだから、準備をするのは1962年になってからでいいだろうと考えました。言い換えるなら、切迫感を持たせるという説教者の意図がその若者にとっては逆効果となったのでした。

言うまでもないことですが、このように遅れは危険です。なぜなら、あなたは自分が明日まで生きるかどうかもわからないからです。むしろ、私たちがいま準備をするためにも、イエスがいつ来られるかを知らないほうがよいのです。

問3

テサロニケIの5:4、5を読んでください。光と昼、暗闇と光といった比喩は霊的な意味で、あなたの人生のどんな側面を表していますか。

パウロはこれらの聖句の中で、昼と夜、闇と光をもって一連の対比を開始しています(3節には、滅びと救いの対比が暗示されています)。信じていない者たちは終わりの出来事によって驚かされますが、信じている人たちは驚かされることがありません。なぜでしょうか。彼らが光の中に生きているからです。聖書は「わたしの道の光わたしの歩みを照らす灯」です(詩編119:105)。預言が与えられているのは、将来のあらゆる出来事に対して霊的な備えをするために必要な情報を私たちに与えるためです。

再臨への備えは神の御言葉に時間を投資することを含みます。それは天に宝を積むことです。それは日ごとに主に献身することです。

今日の世界には、仕事からEメールまで、娯楽から各種の麻薬・覚醒剤まで、多くの誘惑があります。パウロの勧告は時代を超えて私たちに与えられています。誘惑を退けなさい。神の御言葉をあなたの生活の中で最優先しなさい。そうすれば、どれほど予期しないときにあったとしても、事件が突然、あなたを襲うようなことはありません。

絶えず警戒する(1テサ5:6―8)

問4

テサロニケIの5:6~8を読んでください。酔っ払いとしらふの比喩はイエスの再臨に備えることを理解する上でどんな助けになりますか。

翻訳にもよりますが、パウロは6節を「従って」または「だから」という言葉をもって書き始めています。彼は先に、イエスに従う者たちが光の子、昼の子であることを確認しています。今日の聖句でも、引き続き比喩を用いて、さらにイエスの再臨に備えるように彼らに勧めています。7節はやや本題から逸れていますが、6節と8節は待ち受けている問題に備えて目を覚まし、身を慎み、身を固めるように、テサロニケの信者を励ましています。

パウロは眠っていることと目覚めていることとを対比させることによって始めています。信者は「昼に属する者」なので(英国標準訳)、眠るべきではありません。眠るのは夜です。もちろん、パウロは比喩を用いて書いています。ここでの眠りは霊的怠惰・無関心の比喩です(10節では、死の比喩)。「眠っていないで」は原語では、眠り「始めないで」を意味します。すでに目覚めているはずだとは思うが、さらなる警戒を怠らないようにと、パウロは彼らに勧告しているのです。

パウロは次に、酔っていないで、しらふでいなさいと勧めています。当時の世界においては、しらふであることは哲学的論証の象徴でした。聖書にもとづいて論証するときには思慮深く、注意深くあるように、パウロはテサロニケの信者に望んでいます。一部の人たちは聖書を用いて日時を設定したり、推測したりしていました。パウロが信者に望んでいたのは、むしろ彼らが自分自身の霊的備えのために聖書の言葉を用いることでした。しらふと酔いの比喩はまた、パウロがテサロニケIの4:1~12で説いているような倫理的な生き方に言及しているのかもしれません。

昼は目覚めていること、しらふであることと関係があります。人が眠るのは夜で、酔うのも、ふつうは夜です。しかし、パウロは8節で軍事的な守りを比喩として用いています。見張りは昼も夜も、つねに目を覚まし、しらふでいる必要があります。したがって、兵士は警戒することに関して標準以上である必要があります。同じように、パウロは再臨への備えに関して標準以上であるようにクリスチャンに望んでいます。兵士と同じように、クリスチャンも自分の持ち場につく前に、あらゆる装備を身につけねばなりません。

互いに励まし合いなさい(Iテサ5:9~11)

ここまで見てきたように、パウロはテサロニケIの5:1~11で一連の対比を用いて、再臨における裁きが持つ二つの側面を例示しています。今日の聖句(Iテサ5:9~11)の中で、パウロは怒りと救いを対比させています。信者は終わりの時代にあって確信を抱くことができます。自分が光の子であるという保証がキリストのうちにあるからです。

テサロニケIの5:8~11を読んでください。今日、聖書にある神の怒りの思想が神についての真理というよりも聖書時代の文化を反映するものであると感じている人が少なくありません。しかしながら、これは思い違いです。聖書の中で、神が御自分の真理を人間の言葉の持つ限界に適合されたことは確かです。しかし、神の怒りの思想は聖書の古い部分に限定されたものではありません。それは、たとえばイエスの言葉(ルカ21:23―ヨハ3:36参照)、パウロの筆(ロマ1:18、Iテサ1:10)、黙示録の幻(黙6:16、17、15:1)を含めて、新約聖書にも広く見られるものです。したがって、神の怒りの思想を無視することはできません。それは神と救いの計画について非常に重要なことを教えています。ここでは、この問題について詳しく考察することはできませんが、神の怒りが不合理で、衝動的な怒りでないことは確かです。神の道は私たちの道とは異なります(イザ55:8、9)。聖書にある神の怒りの思想は、他人を虐待し、抑圧する法律違反者に対して、国家が正義を行う必要があるのと似ています。悪に執着する者たちは罰せられ、滅ぼされます。私たちはみな神の律法を犯したので、もしキリストの命と死、復活がなかったなら、私たちはみな正義を執行されていたはずです。

これが、テサロニケIの5:8~11を通して輝いている神の怒りについての福音です。私たちのための神の目的は「怒り」や懲罰的な正義ではなく、恵みと救いです。私たちが裁きによって滅ぼされることのないように、神はキリストにおいて私たちに必要な守りを与えてくださったのです。正しく理解するなら、神の怒りが恐れでなく、励ましの理由であるとパウロが考えたのはそのためです(Iテサ5:11)。キリストに結ばれているなら、私たちは決して神の怒りに遭うことはありません。なぜなら、キリストが私たちに代わって神の怒りに遭われたからです。これこそ、福音です!

まとめ

「警戒する必要がある。私たち自身の心は欺くものである。私たちは人間性という弱さともろさで囲まれていて、サタンは滅ぼそうとしている。私たちは警戒を怠ることがあるが、敵は決して怠慢ではない。彼はたゆみなく警戒しているので、私たちはほかの人々のように眠らないで、『目を覚まし、身を慎んで』いなければならない」(エレン・G・ホワイト『教会へのあかし』第5巻409ページ、英文)。

「主の祝福を求める前に、試験を受け、自分が変えられたことを主に証明する必要があると感じている人たちがいるようである。しかし、……私たちが今のままの状態で―罪深く、無力で、だれかに依存して―主のもとに来るように、主は望んでおられる。私たちは夜や闇ではなく、光の子らであると言う―どんな権利があって、信じないというのであろうか」(エレン・G・ホワイト『セレクテッド・メッセージズ』第3巻150ページ、英文)。

「クリスチャンを自認する多くの人たちが……世のために生きている。彼らの信仰は自分の快楽に対してほとんど抑制力を持っていない。彼らは光の子らであるという一方で、闇の中を歩んでおり、夜と闇の子らである」(エレン・G・ホワイト『教会へのあかし』第1巻404ページ、英文)。

「あたかも神がいないかのように振る舞い、利己的な営みに没頭している世界は、やがて突然の滅びに遭い、そこから逃れることはない。……踊り、騒ぎ、酒を飲み、タバコをふかし、動物的な欲望にふけりながら、彼らは屠られる牛のように行く」(エレン・G・ホワイト『伝道』26ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2012年3期『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ,Ⅱ』からの抜粋です。

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