【テサロニケの信徒への手紙1・2】教会生活【最大の希望】#10

目次

この記事のテーマ

パウロは『テサロニケの信徒への手紙I』を17の勧告(Iテサ5:12~22)と、それに続く締めくりの祈り(Iテサ5:23~27)をもって結んでいます。今回の研究は指導者に対する教会員の態度に関する三つの勧告をもって始まります(Iテサ5:12、13)。これらの勧告に、教会指導者が教会員に対して持つべき態度に関する六つの勧告が続きます。

八つの短い勧告が次の七つの聖句の中に続きます(Iテサ5:16~22)。これらは二つのまとまりに分けることができます。三つの勧告は積極的なクリスチャンの態度を持ち続けることに関するもので(Iテサ5:16~18)、五つが預言のかたちの新しい光に対して取るべき態度に関するものです(Iテサ5:19~22)。

締めくりの祈りの中で、パウロはこの手紙の重要なテーマについて要約しています。それは、テサロニケとその周辺の信者が再臨のときまで聖なる者として成長し続けるということです。言い換えるなら、彼らは日々、主の再臨に備えて生きるということです。ある意味で、これこそ「現代の真理」が意味するものです。

奉仕への応答(1テサ5:12、13)

今日の研究の中心にある二つの聖句は、前回の研究の締めくりになっている勧告―「励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」(Iテサ5:11)―に続くものです。この働きは個々の教会の、指導と育成の過程において見られるものです。今日の研究は、弟子たちが指導者や教育係の努力にどのように応答すべきかについて教えています。

問1

テサロニケIの5:12、13を読んでください。パウロが言っていることの要点は何ですか。私たちはどのようにそれを自分自身に適用すべきですか。どうしたら、もっと「主に結ばれた者として導く」人たちと協力し、彼らを支え、愛することができますか。

12節のギリシア語の構造は、後半の三つの語句がすべて同じグループ、つまりテサロニケ教会の指導者をさしていることを示しています。パウロは教会員に対して、これらの指導者を「知る」ように[英語聖書参照]、つまり彼らに注目し、彼らを尊敬し、認めるように求めています。このことは、教会の中に権威を軽んじる者たちがいたことを暗示します。

「戒める」という言葉は指導する、警告する、さらには「態度・考え方を変えさせる」ことを連想させます。パウロはここで、教会指導者もしばしば「非情な愛」を行使する必要があることを認めています。この種の指導はいつでも歓迎されるとは限りません。しかし、パウロは引き続き13節で、教会員が自分たちの対処すべき難しい問題のために指導者を尊ぶように求めています。パウロは教会員全員に対して、互いに平和に過ごすように望んでいます。

これらの聖句に用いられている言葉は当時の、人間を扱うための戦略を反映しています。パウロの時代の思慮深い指導者たちは、人間を扱うことが細心の注意を要する働きであることを知っていました。彼らは部下の状態を注意深く分析し、部下が率直に指導を受け入れるかどうかを敏感に感じ取り、正しい時機を選び、適切な矯正法を適用するように同僚を教えました。とりわけ、指導者は人を矯正する前に自分自身を吟味するように求められました。パウロはこうした基本的な要素に別の要素を付け加えています。クリスチャンにとっては、神が指導者の模範です。教会指導者の目標は、教会員が神にふさわしい生き方をすることです。

奉仕を提供する(Iテサ5:14、15)

パウロは12節と13節で、教会員が指導者とどのように接するべきかについて教えています。今日の聖句では(Iテサ5:14、15)、パウロの関心は教会指導者に、また彼らが自分の指導のもとにある人々とどのように接するべきかに向けられています。

テサロニケIの5:14、15を読んでください。パウロは教会指導者に対して、教会員とどのように接するように勧めているでしょうか(原則に注目)。

パウロはテサロニケの指導者に、「怠けている者たちを戒めなさい」と勧告しています(Iテサ5:14)。怠けている者たちとは、自活することを拒み、素直に従わないで、反対する教会員のことでした。

対照的に、パウロは指導者に、「気落ちしている者たちを励まし……弱い者たちを助け」、「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」と教えています(Iテサ5:14)。「気落ちしている者たち」とは、自分に対して自信と誇りの持てない人たちです。彼らは多くのことに対して不安と恐れを抱いています。そのような人は神にとって価値のある人たちです。指導者は彼らを励まさねばなりません。

「弱い者たち」とは、道徳的・霊的な弱さを持っている人たちです。彼らはだまされやすく、困難に遭うとすぐに失望し、知らない人を恐れます。その心は真っすぐなのですが、知識に欠け、過去に苦しんでいます。彼らは生き残るための助けを必要とします。

パウロは教会指導者に対して、すべての人と忍耐強く接しなさいと勧めています。14節にある初めの三つの勧告はさまざまな状況に合うように調整されたものですが、忍耐はどんなときにも牧者の配慮にふさわしいものです。

パウロは15節でも指導者のことを念頭に置いていると思われます。勧告を快く思わない者たちから攻撃されるとき、指導者は報復したい気持ちに駆られるかもしれません。しかし、指導者が報復するなら、その指導がキリストの精神から出たものでないことの証明となります。健全な教会指導者に必要なことは、つねに他人の長所を心にとめることです。

12節~15節は、教会に教育係と弟子がいることを前提としています。重要なことは、両者の間に高度の尊敬と忍耐が要求されるということです。しかし、テサロニケIの5:11―「励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」―も忘れてはなりません。牧者の配慮には、両方が含まれます。教育係が教育を必要とすることもしばしばあります。

積極的なクリスチャンの態度(1テサ5:16―18)

テサロニケIの5:12~15によれば、クリスチャンは建設的な批判の受け方と与え方を学ぶ必要があります。これはよい人間関係の中でのみ可能です。要するに、すべてのクリスチャンは他人に対して責任を負い、同時に進んで他人の責任を問う必要があります。祈る教会は勧告と励ましの中で成長します。

問2

テサロニケIの5:16~18を読んでください。どんな三つのことがすべての信者に対する神の御心であると、パウロは言っていますか。それらはどんな意味で重要なものですか。ガラ5:22、フィリ4:4参照

愛されたアドベンチストの説教者グレン・クーンはよく、聖書の中には、喜びなさいという命令の方が安息日を守りなさいという命令よりも多く出てくると言っていました。しかし、私たちはあるべきほどに喜びを強調していません。喜びに満ちた生活は聖霊の結ぶ実の一つです(ガラ5:22―フィリ4:4参照)。霊に満たされた喜びは苦しみの中にあっても可能です(Iテサ1:6)。

パウロは確かに、絶えず祈ることがどのようなことであるかを自ら実践した人でした。これまで見てきたように、『テサロニケの信徒への手紙I』は祈りに満ちています。パウロはここで、手紙の読者に対して自分の模範に従うように勧めています。感謝することは、パウロが実践したもう一つの積極的なクリスチャンの態度です(Iテサ1:2、IIテサ1:3)。異教徒が堕落した原因の一つに、神に対する感謝の欠如がありました(ロマ1:21)。イギリスの音楽家トマス・アースキンは言っています。「新約聖書においては、宗教は恵みであり、倫理は感謝である」(F・F・ブルース『解放された心の使徒パウロ』19ページに引用、1977年)。興味深いことに、ギリシア語の「喜び」と「感謝」は同じ語根を持っています。神聖な喜びの鍵となるのは、絶えず神に感謝する心です。

目を開けてよく見てください。神の賜物はどこにでもあります。毎日の試練や闘いに心を奪われているために、それらについて神に感謝するのを忘れているだけなのです。もっと神に感謝する態度を養うなら、私たちの神との歩みはずっと親密なものとなり、私たちの生活は喜びで満ちたものとなります。

「新しい光」に対処する(Iテサ5:19~22)

問3

「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」(Iテサ5:19~22)。パウロはここで何と教えていますか。これらの言葉は私たちの経験にどのようにあてはまりますか。あなた自身のうちに、遠ざかるべき「悪いもの」はありませんか。

パウロはテサロニケIの5:12~15で、教会に勧告していました。19節~22節では、新たに預言の賜物に関して勧告しています。この部分は二つの否定的な言説をもって始まっていますが、それらはどれも継続的に強調されるものです―「聖霊の火を消すのをやめなさい」、「預言を軽んじるのをやめなさい」(Iテサ5:19、20、著者による私訳)。パウロは基本的に、テサロニケの信者が一貫して行ってきたことをやめるように彼らに告げているのです。

パウロがどんな特定のことを問題にしていたのかはわかりませんが、彼はさらなる光に心を開き、同時にそれを吟味し、それが本当に光なのかどうかを見極めるように言っているように思われます(IIコリ11:14)。

預言の賜物を傷つける方法はさまざまです。その一つが「聖霊の火を消す」ことです。真の預言者の働きを軽視したり、それに逆らったりすることがそれです。エレン・G・ホワイトの生涯と奉仕において与えられた預言の賜物に対して、教会の内部から加えられたさまざまな反対に目を向けてください。

預言の賜物を傷つける第二の方法は、語られたことを受け入れる一方で、それを誤って解釈し、誤って適用することです。私たちは素直な心で預言の言葉を受け入れながらも、それを不適切な方法で直接的な背景に適用してしまうことがあります。これは、私たちがアドベンチストとして特に注意しなければならないことです。私たちは素晴らしい賜物を与えられています。それを誤用することによって、この賜物を傷つけることのないように留意したいものです。

預言の賜物を傷つける第三の方法は、神から賜物を受けていない人間や著作に対して預言者の権威を与えることです。預言の言葉が教会を高めるものとなるかどうかを知るために、教会はつねに警戒を怠ることなく、あらゆるものを吟味する必要があります。

終わりの時に聖なる者とされる(1テサ5:23―28)

問4

テサロニケIの5:23、24を読んでください。主の来臨において「聖なる者とされる」、「非のうちどころのないものとされる」とはどんな意味ですか。今でも、そうあるべきではないのでしょうか。

今日の聖句において、パウロの言葉は祈りの言葉に戻っています。その口調はテサロニケIの3:11~13に似ています。その主題も似ています。再臨において聖なる者、非のうちどころのない者とされるようにということです。パウロはここで、テサロニケの信者が行っていたと考えられることから(Iテサ5:12~22)、神が私たちのうちに(聖)、また私たちのために(再臨)してくださることへと話題を変えています。

この聖句がイエスの再臨時に期待される人間の性質と品性について教えていることの正確な意味については、しばしば信者の間でも異なった見解が見られます。これらの聖句について概観することによって、どんなことが明らかになるかを見てみましょう。

パウロによれば、神が私たちのうちになされることは全人格にまで及ぶべきものです。イエスの来臨が近づいている今、信者の生活のあらゆる面が清められる必要があります。パウロは「霊も魂も体も」と言っていますが、これは人体を構成するさまざまな部分について、科学的で正確なことを言っているのではありません(聖書の考えによれば、心と身体は一体であって、別々に存在するのではありません)。彼が言っているのは、私たちの心と身体のすべてを神にささげるべきであるということです。私たちの思想と感情と行動のすべてを神の支配にゆだねるべきです。

パウロの祈りは現在からイエスの再臨にまで及びます。信者は主の来臨まで非のうちどころのないものとして保たれ、守られる必要があります。信者が神に対する完全な献身を終わりに至るまで持ち続けるように、パウロは祈っています。この手紙によれば、テサロニケの信者は完全からほど遠い存在でしたが、彼らの持っているものはイエスの再臨まで持ち続けるに値するものでした。あらゆることについて言えることですが、彼らがイエスとの関係を通して恵みに成長し続けるように、パウロは祈っています(ヨハ15:4~6参照)。

まとめ

「[子どもとしての]イエスはご自分の労働に快活さと気転とを持ち込まれた。家庭生活と職場に聖書の宗教をとり入れ、世の中の仕事の重荷を負いながら、なお神の栄光に対して目が澄んでいるためには(マタイ6:22参照)、非常な忍耐と霊性とが必要である。この点においてイエスは人々の助けとなられた。彼は天の事物のために時間を費したり考えたりする余裕がないほどこの世の苦労をいっぱいかかえておられなかった。たびたびイエスは詩篇や天の歌をうたって心のよろこびを表明された。ナザレの住民たちはイエスが神への賛美と感謝をささげられる声をたびたび聞いた。イエスは歌を通して天とまじわられた。仲間の者たちは、働きに疲れて不平を言うと、イエスの口から出る美しい歌の調べに元気づけられるのだった。イエスの賛美は悪天使を追い払い、香煙のようにその場をかおりで満たすように思われた。聞いている者たちの心は、この地上の放浪から天の家郷へとはこばれて行った」(『希望への光』699ページ、『各時代の希望』上巻67ページ)。

「感謝と賛美の精神ほど心身の健康を増進するものはない。憂鬱、不満な気持ちや思想に抵抗することは祈ることと同じように積極的な義務である」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』240ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2012年3期『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ,Ⅱ』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次