エルサレムでのイエス【マタイによる福音書—約束されたメシア】#10

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マタイ20:27、28においてイエスは、「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われました。そこにおられるのは、永遠の神、万物を創造されたお方でありながら、この地球において僕の人生を送られたイエスです。彼は、彼らの多くがイエスを軽蔑していたにもかかわらず、失われた者、病める者、貧しい者たちの必要を満たされました。そのような自己否定、自己犠牲は、私たちにはほとんど理解できません!

僕のようなイエスの生き方は理解しがたいものですが、驚きはさらに深まります。なぜなら、永遠の神である彼が、地上に来られた目的——「多くの人の身代金として自分の命を献げる」こと——に、今や直面しようとしておられるからです。その自己否定、自己犠牲は、「天使たちも見て確かめたいと願っている」(Iペト1:12)神秘、つまり十字架において、間もなく最大の山場を迎えます。

私たちは今回の研究で、イエスがエルサレムにやって来られたときの主要な出来事と教えとに目を向けます。彼がエルサレムに来られたのは、多くの人が望んでいたように地上の王になるためではなく、「わたしたちの罪のために……罪とされ……、わたしたちが、彼にあって神の義となるため」(IIコリ5:21、口語訳)でした。

預言されたメシアの到来

バビロンにおける70年間の捕囚のあと、ユダヤ人はエルサレムに帰還し始めました。彼らは神殿の再建に意気込みましたが、その基礎が据えられたとき、ソロモンの壮麗な神殿を覚えていた者たちは、この第二神殿がすばらしさにおいて遠く及ばないだろうことに気づき、「大声をあげて泣」(エズ3:12)きました。

その人たちは、彼らの中に立っていた2人の人から思いがけない励ましを受けます。その2人とは、年老いた預言者ハガイと若い預言者ゼカリヤです。ハガイは彼らに、ソロモンの神殿の真の栄光は、ソロモンやだれかがそれにもたらしたものによるのではないことを思い出させます。あれはソロモンの神殿ではなく、神の神殿でした。「『まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度/天と地を、海と陸地を揺り動かす。諸国の民をことごとく揺り動かし/諸国のすべての民の財宝をもたらし/この神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。銀はわたしのもの、金もわたしのものと万軍の主は言われる。この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える』と万軍の主は言われる」(ハガ2:6〜9)。

さらに若い預言者ゼカリヤが、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」(ゼカ9:9)と語ったとき、状況は一層希望にあふれたものとなりました。

これらのすばらしい預言は、マタイ21:1〜11(イエスのエルサレム入城)に適用されています。「キリストは、王の入城について、ユダヤ人の慣例に従っておられた。キリストが乗られた動物はイスラエルの王たちが乗った動物であって、預言には、このようにしてメシヤが王国にこられるということが予告されていた。キリストが小馬にお乗りになるやいなや、勝利の叫びが大気をふるわせた。群衆は、キリストをメシヤ、彼らの王として歓呼した。イエスはいま、以前には決しておゆるしにならなかった敬意をお受けになったので、弟子たちはこのことを、イエスが王位につかれるのを見ることによって自分たちのうれしい望みが実現される証拠として受けとった。群衆は、彼らの解放の時が近づいたことを確信した。彼らは、ローマの軍隊がエルサレムから追われ、イスラエルがもう1度独立国家になる時のことを胸にえがいた」(『希望への光』970ページ、『各時代の希望』下巻2、3ページ)。

神殿でのイエス

人類が堕落した当初から、動物のいけにえは、神がこの世に救済計画、つまりやがて来られるメシアに対する信仰を通しての恵みによる救い(ロマ4:13〜16参照)を教えるために選ばれた手段でした。この真理に関する絶好の例が、創世記4章にあります。それはカインとアベルの物語であり、何よりも礼拝を巡って起きた悲劇に関する物語です(黙14:7〜12も参照)。それゆえ、神はイスラエルを御自分の選民、「祭司の王国、聖なる国民」(出19:6)として召されたとき、救いに関するより十分でより完全な説明として聖所の奉仕も制度化されました。荒れ野の幕屋から、ソロモンの神殿、バビロン帰還以後に建てられた神殿まで、聖所の奉仕という象徴と型において、福音は啓示されました。

神殿の起源は神でしたが、その儀式は罪深い人間によって行われました。そして、ここでも、神が御自分の愛と恵みを堕落した世界に示すために制度化された聖なる奉仕に腐敗が起きました。イエスの時代にはすでに、祭司たち(まさにその奉仕を行うことを託された人々!)の欲深さによって、正道からひどく逸脱していました。「人々の目の前で、犠牲制度の神聖さは大部分失われていた」(『希望への光』979ページ、『各時代の希望』下巻29ページ)。

問1

マタイ21:12〜17を読んでください。神を礼拝する者である私たちにとって、ここにはどのような教訓がありますか。

ほかの多くの箇所と同様、イエスは御自分の行動を正当化するために聖書を引用しておられ、それは、主に従う者である私たちが聖書を自分のあらゆる世界観の中心にしなければならないという、さらなる証拠です。イエスは聖書を引用するとともに、目の見えない人や足の不自由な人たちを奇跡的にいやしておられます。これはすべて、イエスの神性と召しに関する一層有力で説得力のある証拠です。このような証拠を最も鋭く見いだし、受け入れるはずだった人たちがイエスに最も強く抵抗したというのは、なんという悲劇でしょうか。多くの祭司が、この世の宝と、神殿の「管理者」「守り役」としての自分の地位を心配して、まさに神殿の奉仕が指し示したもの、つまりイエスによる救いを逃しました。

ならない実

イエスの宮清めは、憐れみの行為でした。売り買いがなされていたのは異邦人の庭であり、イエスは御自分の家をすべての人にとっての祈りと礼拝の場所にしようとなさいました。

しかし、その清めは裁きの行為でもありました。神殿を運営する祭司たちは、すべての人を祝福する機会を台なしにしてきました。彼らの裁きの日は近づいていました。神によって遣わされたことをイエスが明らかにしても、もしこれらの人たちが彼を拒むのであれば、彼らが悲しむべき自らの選択の結果を刈り取ること以外に、どんなことが起こりえるでしょうか。

マタイ21:18〜22を読んでください。イエスがいちじくの木を呪われたのは、ユダヤ人の指導者の多くが、最終的、かつ決定的に、自分たちの播いたものを刈り取るだろうことを行為でたとえるためでした。しかし私たちは、このたとえがすべての宗教指導者を指していなかったという点を覚えておく必要があります。実際、彼らの多くがイエスをメシアとして信じました。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」(使徒6:7)とあります。しかし、いちじくの木が実をつけなかったように、神殿の働きも実をつけることなく、まもなく無効になるでしょう。

この行為とイエスの厳しい言葉は、彼が公生涯を通じて明らかにされた憐れみと受容という教訓をまだ学びつつあった弟子たちに、大きな衝撃を与えたに違いありません。このイエスは、「世を裁くためではなく、世を救うために来た」(ヨハ12:47)と宣言されたイエスであり、「人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなく、それを……救うためである」(ルカ9:56、詳訳聖書)と主張された同じイエスでした。イエスの働きにおけるどの言葉も行為も、堕落した人間を回復し、彼による新しい命の希望と約束を指し示すためのものでした。ですから、イエスがあのように振る舞い、きっぱりと厳しく語られたことに、弟子たちは驚きました。それゆえマタイは、「弟子たちはこれを見て驚き……」(マタ21:20)と記しています。

もしあと数日しか生きられないとしたら、あなたはその数日を用いて何をするでしょうか。イエスがなさったことの一つは、聞く者たちに大きな影響を残す物語を語ることでした。

問2

マタイ21:33〜46を読んでください。主人、農夫たち、僕たち、息子は、だれをあらわしていますか。

イエスが引用された詩編118:22、23に注目してください。「退けた石」の預言を引用したとき、イエスはイスラエルの歴史の中で起こったことを語られました。その出来事は第一神殿の建設に関係することでした。ソロモンの神殿が建てられたとき、壁や土台のための巨大な石は、すべて採石場で用意されました。それらの石が建物に搬入されたあと、一つの道具もそれらに用いられなかったので、槌やつるはしの音はまったく聞こえませんでした。職人たちは置くべき場所に石を置くだけでよかったのです。土台に用いるため、並外れた大きさで、独特な形をした一つの石が運び込まれました。しかし、職人たちはその石の場所が見つけられず、受け入れようとしませんでした。それが用いられずに邪魔になっているのは、彼らにとって迷惑でした。長い間、それは「退けた石」のままでした。

「建築家たちが隅のおや石を据える段になると、この特別な場所を占め、その上にかかる巨大な重みに耐えるのに十分な大きさと力と独特な形をした石をみつけるために、彼らは長い間さがした。……しかし最後に、長い間捨てられていたあの石に注意が向けられた。……石は受け入れられ、指定された場所へはこばれ、ぴったりと合った」(『希望への光』984、985ページ、『各時代の希望』下巻42ページ)。

問3

マタイ21:44を読み直してください。この石に関連して二つの異なる使用方法が述べられています。一つは、この石の上に落ちて砕かれ、もう一つは、この石が人の上に落ちて、その人が押し潰されるというものです。これら二つの方法の決定的な違いは何でしょうか(詩編51:7、ダニ2:34も参照)。

恵みの代償

聖書のすばらしい知らせは、私たちが愛情深い神によって造られたということ、その神が私たち全員に、十字架におけるイエスの犠牲によって、罪と死のこの混乱状態から抜け出せる方法を提供しておられるということです。これが、聖書全体を通じてさまざまな形で登場する主題です。イエスが語られた次のたとえ話の中にも、それを見ることができます。

問4

マタイ22:1〜14を読んでください。信仰による救いについて、このたとえ話はどのようなことを教えていますか。

このたとえ話がどれほど厳しく思えようと、すべての人間にとって、永遠の命か永遠の滅びかという極めて重要な問題が問われているということを覚えておくことは大切です。それに比べれば、ほかに何が重要でしょうか。

人類救済のために神が支払われた代償である十字架に目を向けるとき、この問題がどれほど大きく、深く、理解しがたいほど深刻であるかがわかるにちがいありません。私たちが今話題にしているのは、永遠なる父・子・聖霊の神のお1人が罪に対する神御自身の怒りを一身に負われるということです。これ以上に深刻な話題はありません。もしこれが永遠にわたって私たちの学ぶべき主題であるなら、今それをほとんど理解できないとしても驚くには当たりません。

それゆえ、このたとえ話の中には強烈に容赦のない言葉が出てきます。神は、すべての人が婚宴に参加できるようにすべての物を準備なさいました(黙19:7参照)。必要なものはすべて、どんなたとえ話も正確にあらわせないほど深い代償を払って、寛大にも準備されていました。それゆえ、婚宴に招かれた者たちが実際に「それを無視し」、いつもどおり自分の仕事に取りかかるというのは、かなりひどいことでした。しかし中には、寛大なその招待を伝えに来た者たちを襲う人たちさえいました。容赦のない対応は、無理もありません。

礼服はキリストの義を、つまり聖なる者たちの人生や行動においてあらわされる義を象徴しています(黙19:8参照)。その礼服を着ていない人は、恵みと救いの特権を自分のものとして要求はするけれども、福音によって自分の生き方や品性を変えられてこなかった名ばかりのクリスチャンを象徴していました。すべての準備は大きな代償を払って、招待を受け入れる者たちのためになされたのです。このたとえ話が次に示しているように、神の国に入ることには、その入り口までやって来るよりもずっと意味があります。

さらなる研究

かつてロンドンの新聞『ザ・ガーディアン』に次のような大見出しが載りました。「女性、アパートの一室で3年前に死亡。テレビをつけたまま白骨化したジョイスさん、ソファーで見つかる」

ロンドンのアパートで3年前に亡くなり、だれも彼女がいないことに気づかなかったのでしょうか。彼女の様子を知ろうと、だれも電話をしなかったのでしょうか。しかも、いつでもだれとでも連絡が取れる時代に、なぜこんなことが起きたのでしょうか。この記事が報じられるや否や、それは国際的なニュースになり、ロンドン市民はとりわけ衝撃を受けました。彼女がこれほど長い間死亡していたのに、どうしてだれも気づかなかったのでしょうか。しかし、福音の希望と約束、大きな代償を払って私たちに提供された救済の希望と約束がなければ、私たちはみな、かわいそうなロンドンの女性と同じように忘却される運命にあります。しかも、その状況は一層深刻です。なぜなら、私たちを見つけて、私たちの死を嘆いてくれる人は、死後3年あとどころか30億年あとにさえいないからです。現在の科学的合意によれば、遅かれ早かれ、全宇宙は「熱的死」と呼ばれるものの中で消滅し、死に絶えるだろうといわれます。しかしキリストの十字架は、この見解は間違っていると私たちに告げています。永遠の忘却の代わりに、私たちには新天新地における永遠の命という約束が手に入ります。そのような信じがたいほどすばらしい展望を見据えつつ、私たちは、イエスが提供なさったものを得る邪魔を、だれにも、何にもさせないように、どうしたらできるのでしょうか。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年2期『マタイによる福音書』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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