終末時代の諸事件【マタイによる福音書—約束されたメシア】#11

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キリストの再臨は、キリスト教信仰の最大の山場です。イエスの初臨と十字架における死は、再臨のための重要な先駆けでした。再臨は初臨なくして起こりえませんし、再臨なくして初臨は実を結びません。両者は時間においてではないにせよ、人類の救済と大争闘の終結という目的において、密接につながっています。初臨は終わり、完結しました。今や私たちは、切望しながら熱心に再臨を待ち望んでいます。

私たちは今週、マタイ23章に記録されていることに目を向けます。そこには、一部のユダヤ人指導者に対するイエスの最後の訴え——悔い改めて救いの唯一の希望である私を受け入れなさいという訴え——が記されています。続く24章においてイエスは、再臨の前に起こる出来事についての質問に答えられました。再臨に先行する事柄とエルサレムの滅亡を結びつけながら、イエスはかなり厳粛な状況をここで描写しておられます。

しかし、いかに状況が困難になろうと(例えば、戦争、飢饉、裏切りが起ころうと)、私たちには「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来る」(マタ24:30)という約束が残されています。言い換えれば、労苦と悲しみにもかかわらず、私たちには喜ぶべき十分な理由があります。

「ものの見えない案内人」

力ある御手と御腕を伸ばし、イスラエルの子らをエルサレムに導かれたのは、イエス御自身でした。イエスは彼らを鷲の翼の上に乗せてエジプトから導き出し、御自分のもとに連れて来られました。「あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出19:5、6)。

ある意味において、シナイと呼ばれる美しい山で、イエスはイスラエルに求婚しています。出エジプト記24章には、指導者や長老たちが山に登って行き、「イスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。……彼らは神を見て、食べ、また飲んだ」(出24:10、11)と記されています。男性が結婚を望み、すばらしい未来を与えたいと思う女性に杯を差し出すように、キリストは、契約の杯をイスラエルに差し出されました。イスラエルはその杯を受けて、「はい、私たちは約束の地で永遠にあなたと生きたいと思います」と応えたのでした。

問1

このような背景を念頭に置いて、マタイ23章を読んでください。イエスはイスラエルの指導者たちに、何と言っておられますか。どんな警告が与えられていますか。さらに重要なことに、イエスが彼らを具体的に叱られた事柄に関して、私たちはどのような教訓を得ることができますか。どうしたら同じ罪を犯さないようにできるでしょうか。

マタイ23章は、愛する者との和解を願うイエスの最後の必死の訴えでした。しかし、彼が愛する者は去ってしまいました。イエスは彼女の決心を受け入れ、最終的に2人の家(神殿)を出て行かれました。「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(マタ23:38)と、彼は言われました。イエスが神殿を去られたとき、そこは、主が彼らを最初に救い出された荒れ野のように、荒れ果て、人気なく、見捨てられた場所となりました。

救済史における大きな変化が起きようとしていましたが、これらの指導者たちも、彼らにあざむかれる人々もそれを見逃します。一方で、聖霊の導きに心を開いた多くのほかの人(ユダヤ人、そしてやがて異邦人)たちは、偉大な働き、イスラエルの使命を継続します。彼らはアブラハムの真の子孫、「約束による相続人」(ガラ3:29)になります。今日、私たちも、神からの同じ使命を共有する同じ民の一員です。

終末のしるし

イエスが、彼を拒んだ特定のユダヤ人指導者たちを非難されたあと、ヨハネ12:20〜26は、一つの興味深い「お願い」について記録しています。「イエスにお目にかかりたい」と願っている異邦人たちのことが、キリストに告げられます。しかしこの異邦人たちは、イエスに忠実なユダヤ人たちにまずお願いをしており、間もなく、同様のことがはるかに大規模な形で起きます。イエスを拒絶するユダヤ人もいれば、多くの異邦人がイエスを知るために、そのきっかけ作りをしたユダヤ人もいました。イエスがユダヤ人指導者たちに、彼らの家は荒れ果てるだろう、と言われた直後にこのお願いが記されているのは、なんと興味深いことでしょう。本当に、古いものは新しいものに間もなく取って代わられます。そしてそれ(ユダヤ人のみならず異邦人も救われること)は、神がずっと意図しておられたことでした。

マタイ24:1〜14においてイエスは、忠実な信者たちと一般の世界、その双方に対する将来像を示しておられます。イエスはこれを、再臨と終末のしるしに関する質問に答えて口になさっています。「イエスは弟子たちに答えるにあたって、エルサレムの滅亡とご自分がおいでになる大いなる日とを別々にとりあげられなかった。主はこの2つの出来事をいっしょにまぜて描写された。イエスがご自分のごらんになった通りに未来の諸事件を弟子たちに示されたら、彼らはその光景に耐えることができなかったであろう。彼らに対する思いやりから、主は2つの大きな危機をまぜて描写し、その意味を弟子たちが自分で学ぶようにされた。……この話の全体は、ただ弟子たちのためだけでなく、地上歴史の最後の場面に住む者たちのために語られたのであった」(『希望への光』1003ページ、『各時代の希望』下巻92ページ)。

イエスの答えの中で、はっきりしていることが一つあります。再臨に至るまでの出来事は楽しいものではない、ということです。イエスは、地上の理想郷や平和な地上の千年期など予告されませんでした。戦争、自然災害、迫害に直面する教会、偽キリスト、さらには偽信徒。ここに描かれている最も肯定的なものは、「御国のこの福音は……全世界に宣べ伝えられる」(マタ24:14)という約束です。

エルサレムの崩壊

問2

マタイ24:15〜22を読んでください。イエスはここで何とおっしゃっていますか。問われた質問に答えて、再びイエスはどのような状況をここで描いておられますか。

「憎むべき破壊者」とは、ある種の冒行為、または、聖なるものを汚すことだ、と一般的に理解されています。イエスは紀元70年に起こるエルサレムの崩壊について明らかに語っておられます。昨日触れたように、イエスはこの出来事の描写と再臨直前の世界の状況の描写とを混ぜ合わせられました。

「キリストは、不信と反逆によってかたくなになり、急速に神の刑罰を受けようとしていた世界を、エルサレムが象徴しているのを見られた」(『希望への光』1597ページ、『各時代の大争闘』上巻8ページ)。

しかし、その破壊(滅亡)のさなかにあっても、主は救われるべき者たちを救おうとなさいます。ルカによる福音書においてイエスは、破壊が起きる前に弟子たちは脱出すると語っておられます。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである」(ルカ21:20〜22)。

エルサレムのクリスチャンは、このことが起きるのを見たとき、イエスがお命じになったように町の外へ逃れました。が、多くのユダヤ人は残ったために殺されました。エルサレムの包囲攻撃の間に、推定で100万人以上のユダヤ人が死に、9万7000人以上が捕虜となりました。「しかし、ローマ軍が不意にエルサレムの包囲を解いた一時的休戦状態の間に、すべてのクリスチャンは逃げ出し、1人も命を失わなかったと言われている。彼らが逃れた場所はペラで、ガリラヤ湖からおよそ17マイル(約27キロ)南、ヨルダン川東岸の丘陵地にある町だった(『SDA聖書注解』第5巻499ページ、英文)。

イエスの再臨

マタイ24章のここでのイエスの答え(マタ24:23〜26)は、「あなたが来られ……る〔つまり、イエスが支配するためにおいでになる〕ときには、どんな徴があるのですか」(同24:3)という質問に対するものです。

問3

再臨前の出来事との関連で、イエスはほかにどんな警告をお与えになっていますか。また、それは歴史を通じて、どのように目撃されてきましたか(マタ24:23〜26)。

ここにいるイエスは、世俗的な見方をすれば、わずかな弟子を引き連れた一介のガリラヤ人巡回説教師にすぎません。しかしそのイエスが、彼の名前で多くの者があらわれ、彼だと自称するだろう、と予告しておられます。言うまでもなく、それは、今日に至るまで何世紀もの間にまさに起こってきたことであり、神のみ言葉が真実だという有力な証拠になる事実です。

問4

マタイ24:27〜31を読んでください。再臨はどのように描かれていますか。イエスが来られるとき、どんなことが起きますか。

自称キリストが大勢あらわれるという警告のあと、次にイエスは、再臨が実際にどのような様子であるかを描写しておられます。

第一に、イエスの再臨は、本人が実際にやって来ること、文字どおりのことです。地球に戻って来られるのはイエス御自身です。「主御自身が天から降って来られます」(Iテサ4:16)というのは、キリストの再臨は想像上のことだとか、人類史における一つの新しい時代にすぎない、と主張する者たちに対する明白な反論です。再臨は、空にひらめき渡る稲妻のように目に見えます。「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」(黙1:7)。ラッパの比喩は、それが死者さえも目覚めさせてしまうほど騒々しいことを明らかにしています。そして最も重要なことに、初臨において、イエスは屈辱をお受けになられましたが、再臨においては、「すべての敵」(Iコリ15:25)に勝った勝利の王として来られます(黙19:16)。

目を覚まし続ける

イエスの再臨は、あらゆるクリスチャンの希望の頂点、私たちに約束されているあらゆることの成就です。再臨がなければ、どうなるでしょうか。私たちは、だれもがそうであるように、死んだあと地中で腐るでしょう。再臨とそれに伴うことがなければ、私たちの信仰に関するその他もろもろのことは、うそや茶番——批評家や反対者たちが再臨に対して文句をつけてきたこと——になってしまいます。

ですから、再臨を熱望するあまり、あるクリスチャンたちがその日付を設定したのも無理はありません。何しろ、いろいろなことが再臨にかかっています。しかしもちろん、知ってのとおり、キリストの再臨のために設定された過去の日付は、いずれも間違っていました。

問5

マタイ24:36、42は、なぜ日付を設定する人々が誤っているのだと説明していますか。

私たちは、主がいつ戻って来られるのかを知らないからこそ、用意をし、「目を覚まして」いなければならない、と言われているのです。

マタイ24:42〜51を読んでください。イエスはここで、目を覚ましていること、再臨に備えることの意味について語っておられます。イエスははっきりしておられます。私たちには、彼がいつ戻られるのかわかりません。それどころか、彼は、私たちが予想していないときに来られるでしょう。それゆえ、彼がいつ戻って来てもいいように、私たちは準備をする必要があります。たとえ私たちにその時がわからなくても、彼がいつ戻って来てもいいように、私たちは生きる必要があります。「彼は当分帰って来ないから、私は好きなようにできるのだ」という思いは、まさにイエスが警告しておられる態度です。私たちは主を愛し、彼によって正しいことをしたいと思っているのですから、彼がいつ戻って来られようと、忠実であろうとする必要があります。さらに、裁き(とりわけ、ほかの人をひどい目に遭わせる人々への裁き)に関する聖句がいくらあっても、再臨のタイミングはさして重要ではないでしょう。遅かれ早かれ、裁かれるからです。

さらなる研究

マタイ24章に描かれている出来事に関連して、イエスは、「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」(マタ24:34)とも言われました。この聖句は混乱を引き起こしてきました。なぜなら、これらすべてのことは、明らかに一つの時代(世代)の中では起こらなかったからです。リチャード・レーマン博士は『セブンスデー・アドベンチスト神学ハンドブック』の中で、「時代」と訳されているギリシア語は、ヘブライ語の「ドール」に対応するもので、このヘブライ語は、例えば「頑な反抗の世代」(詩編78:8)といったように、人間の集団や種類を指すためにしばしば用いられる、と書いています。それゆえ、イエスがこの言葉を使っておられるのは、時代や日時をあらわすためではなく、彼が先に言及していた悪い人々のたぐいをあらわすためでした。「この旧約聖書の使用方法に準じて、イエスは『この時代』という言葉を時間的な意味を含めずに、一つの人間の種類を指すために用いられたのだろう。その悪い人々には、悪しき特徴を持つすべての人が含まれるのだろう(マタ12:39、16:4、マコ8:38)」(『セブンスデー・アドベンチスト神学ハンドブック』904ページ、英文)。言い換えれば、悪は、時の終わりまで、つまりイエスが戻って来られるまで残るということです。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年2期『マタイによる福音書』からの抜粋です。

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