イエスの最後の日々【マタイによる福音書—約束されたメシア】#12

目次

この記事のテーマ

今回の研究において、イエスはいよいよ十字架を前にした最後の日々へと入って行かれます。この世が、そして宇宙さえもが、万物の歴史において最も重大な局面を迎えようとしています。

私たちは今週見る出来事から多くの教訓を引き出せるでしょうが、先に触れたように、一つのことに焦点を合わせましょう。それは自由と自由意志です。自由というすばらしい高価な賜物を、さまざまな登場人物たちがいかに用いたかに目を向けてください。この賜物のさまざまな用い方から生じた重大な、永遠にわたりさえする結果に目を向けましょう。

ペトロも、ユダも、石膏の壺の女も、みな選択をしなければなりませんでした。が、何より重要なのは、イエスも選択をなさらねばならなかったことです。そして、彼の最大の選択は、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタ26:39)と彼の人間性が叫んだにもかかわらず、十字架に向かうことでした。

なんという皮肉でしょうか。私たちが悪用した自由意志の賜物が、まさにこの瞬間を、つまりイエスが御自分の自由意志を用いて、私たちを滅びから救うか救うまいかの選択をしなければならない瞬間をもたらしました。

「良いこと」

私たちはいよいよ、地上におけるイエスの最後の日々に入って行きます。ただし、彼はまだ十字架に向かっていませんし、復活もしていません。十字架につけられ復活したこの世の救世主として、御自分を明らかにしてもいません。イエスの弟子たちがどれほど彼を愛し、称賛していたとしても、彼らは、イエスの正体について、イエスが彼らのためになさろうとしていたあらゆることについて、まだたくさん学ばねばなりませんでした。聖書全体、特に、イエスの贖いの死に関するパウロの力強い説明とともに振り返ってみるとき、私たちは、イエスが私たちのために何をしようとしておられたのかを、この物語の当時の弟子たちよりもずっと知ることができます。

以上のようなことを踏まえて、マタイ26:1〜16を読んでください。マタイが、イエスの頭に香油が塗られた物語(たぶんエルサレムへの勝利の入場の前に起こったこと)を、イエスの殺害計画が進行する中に置いていることに注目してください。イエスに危害を加えようと計画する同胞者がいる一方で、この女性は「極めて高価な香油の入った石膏の壺」(マタ26:7)で、あふれるばかりの愛と熱意を彼に注いだのです。

弟子たちがその無駄遣いを嘆く一方で、イエスは、彼女がしたことを「良いこと」と呼ばれました。外見的にはぜいたくすぎるこの行為によって、この女性は、イエスに対する彼女の愛情がいかに真実で深いかをあらわしました。マリアはこれから起きることや、その意味を知らなかったに違いありませんが、自分がイエスからとても恩を受けていることは十分に理解していました。それゆえ、彼女もたくさん恩返しをしたいと思いました。おそらく彼女は、「すべて多く与えられた者は、多く求められ(る)」(ルカ12:48)というイエスの言葉を聞いていたのでしょう。その一方で、イエスがなさってきたことをこの女性よりも目にしてきたはずの弟子たちは、いまだに重要な点をまったく理解していませんでした。

「その香油は、与える者のあふれ出る心を象徴していた。それは、天の流れによってあふれるまで注がれた愛の外面的な証拠だった。そして、弟子たちが無駄遣いと言ったマリアのその香油を注ぐ行為は、感じやすい人々の心の中で何度も繰り返されている」(『SDA聖書注解』第5巻1101ページ、英文)。

新しい契約

問1

マタイ26:17〜19を読んでください。それが過越祭の時期であったことは、なぜ重要なのですか(出12:1〜17、Iコリ5:7も参照)。

言うまでもなく、出エジプトの物語は贖い、つまり救出——自力でそうできない者たちのために神がなさる業——の物語です。イエスが私たちのために間もなくなさろうとしていたことの、なんとふさわしい象徴でしょうか!

マタイ26:26〜29を読んでください。イエスは弟子たちに、過越祭のより深い意味を指摘しておられます。エジプトからの救出は、神の支配権と力のすばらしいあらわれでしたが、結局のところ、十分ではありませんでした。それは、ヘブライ人や私たちが本当に必要とした贖いではなかったからです。私たちはイエスによる贖い、つまり永遠の命を必要としています。「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」(ヘブ9:15)。イエスは弟子たちに、ぶどう酒の本当の意味、パンの本当の意味を指摘しておられます。それらはすべて十字架における彼の死を指し示していました。

それゆえ、イエスの死を前もって指し示していた動物の犠牲とは違い、聖餐式に参加することは、私たちをイエスの死に、あとから振り向かせます。いずれの場合にも、それらの象徴は私たちを十字架のイエスに振り向かせます。

しかし、十字架で物語は終わりません。イエスは弟子たちに、「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(マタ26:29)と言っておられます。が、彼はそのとき、弟子たちの目を未来に、再臨とそれ以降に向けさせておられました。

ゲツセマネ

過越の週、祭司たちはキドロンの谷から丘を上がったすぐの所にある神殿で、何千頭もの小羊を犠牲としてささげました。小羊から出た血は祭壇の上に注がれ、次に管を通って落ち、キドロンの谷の間を走る小川へ流れ込みました。その小川は小羊たちの血で実際に赤くなっていたかもしれません。イエスと弟子たちは、ゲツセマネの園へ向かう途中、この小川の赤い水を渡ったことでしょう。

マタイ26:36〜46を読んでください。イエスが「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタ26:39)と祈られたときに恐れていたのは、肉体的な死ではありませんでした。イエスが恐れた杯とは、神との隔離でした。イエスは、御自分が私たちのために罪となり、私たちのために死に、罪に対する神の怒りを御自分の身に受けるには、父なる神から隔離されなければならないことを知っておられました。神の聖なる律法の違反は深刻であり、それはその違反者に死を要求しました。イエスがおいでになったのは、まさにその死を御自分の身に引き受けるためであり、それは私たちを死から救うためでした。イエスにとって、そして私たちにとって危機的状況にあったのは、このことでした。

「この戦いの結果を目の前にして、キリストの魂は、神からの隔離という恐れに満たされた。もしキリストが罪の世の保証人となられるならば、隔離は永遠のものとなり、キリストは、サタンの王国と一体となり、ふたたび神と1つになることがおできにならないであろうと、サタンはキリストに告げた。……恐るべき瞬間がきていた。それは世の運命を決定する瞬間であった。人類の運命ははかりでゆれていた。キリストは、不義な人類に課せられた杯から飲むことをいまでも拒否することがおできになった。まだ遅くなかった。主はひたいの血の汗をふいて、人類を罪とがのうちに滅びるままにしておくこともおできになった。罪人にその罪の値を受けさせて、わたしは父のみもとにもどろうと言うこともおできになった。神のみ子は、屈辱と苦悩のにがい杯を飲まれるだろうか。罪なきお方が不義な者を救うために罪の行為の結果を受けられるだろうか」(『希望への光』)1037、1039ページ、『各時代の希望』下巻177、182ページ)。

ユダ、魂を売る

もしユダがエルサレムへの最後の旅の前に死んでいたなら、彼は聖なる歴史の中の最も尊敬された英雄の1人だったかもしれません。多くの教会堂が、彼にちなんで名づけられたことでしょう。しかしそうならずに、ユダの名前は裏切りと背信とに永遠に結びつけられています。

ヨハネ6:70とルカ22:3を読んでください。言うまでもなく、ユダのしたことの責任をサタンに負わせることは構いませんが、それは問題をはぐらかしてしまいます。悪魔がユダをこのような背信へ至らせることができたのは、ユダの何が原因だったのでしょうか。何しろ、サタンはペトロも手に入れたいと思ったと記されています(ルカ22:31参照)。しかしその差は、ユダが自分自身をすべて主にささげようとしなかった点にあるに違いありません。彼は何らかの罪や性格的短所を手放さず、それらがサタンに付け入るすきを与え、あのようなことをさせたに違いありません。ここでもまた、私たちは自由選択の強い影響を目にします。

マタイ26:47〜50、27:1〜10を読んでください。マタイ26:47〜50には、大祭司や長老たちと一緒に兵士の独立班(600人ほど)を案内するユダの姿が見られます。ユダにとって、なんとすばらしい権力の瞬間でしょうか。人々が心から望むものをあなたが手中に収めたとき、ここでのユダのように、あなたには大きな力があります。少なくとも彼らが望むものをあなたが持っている間は、いいでしょう。しかし、彼らがあなたを大事にする理由があなたの持っているものだけであり、やがて彼らがその望むものをあなたから得てしまうなら、最終的に彼らはもはやあなたが必要でなくなります。数時間のうちに、ユダは何もないまま、独りきりになるでしょう。

もう一つの重要な教訓は、何のせいでユダは彼の魂を失ったのかという点に関してです。銀貨30枚のせいでしょうか。今日の価格に換算すると、(銀貨の種類によりますが)総額で1か月から4か月分の給料に相当すると言われています。たとえその額が10倍、あるいは100倍だとしても、それがどんな犠牲を彼に払わせたか、考えてみてください。そして物語が示しているように、彼はそれさえも失いました。彼はその銀貨を1枚も使うことなく、それどころか、最初にそれをもらった者たちの1人の足もとにすべて投げ返してしまいました。結局のところ、私たちの目をイエスから背けさせるもの、私たちの魂を失わせるものは何であれ、ユダにとっての銀貨と同じで役に立たないという、なんと説得力のある実例でしょうか。ユダは永遠の命のすぐ近くにいましたが、彼はそれを無駄にすることを選びました。

ペトロの否認

イエスは、ユダが自由意志によって裏切る決心をしていることを前もって知っておられました。それは、神が私たちの自由選択を事前に(それらの選択をまったく侵害せずに)ご存じであることを示す、聖書の中の多くの実例の一つです。またイエスは、ユダの裏切りだけでなく、ペトロが、いつもは虚勢を張っているにもかかわらず、肝心なときに逃げ出し、次にはイエスを否認することも知っておられました。

マタイ26:51〜75を読んでください。しばしば私たちは、ペトロはただ怖くてイエスを否認したのだと考えます。しかし、(ヨハ18:10によれば)ローマ兵に向かって剣を抜く勇気を持っていたのはペトロでした。彼は、イエスが止めなければ、輝かしい栄光に包まれて喜んで死のうとしたのでした。

それでは、ペトロの中で何が変わったのでしょうか。剣を振り回していた瞬間から、イエスを知らないと否認するまでに、ほんの少ししか経っていませんでした。彼はなぜ、自分は弟子でない、と言ったのでしょうか。なぜ、「そんな人は知らない」(マタ26:72)と言ったのでしょうか。

もしかするとペトロは、自分がその人を知らないこと、その人が地上に来た理由も逮捕された理由もわかっていないことに気づいたのかもしれません。それゆえ、一瞬のパニック状態の中で、「そんな人は知らない」と否認してしまったのです。おそらくペトロは、イエスがしておられることを自分は理解していないと気づいたときに、彼を否認したのでしょう。イエスが〔この世のものを〕諦めようとしておられるのを見たときに、彼は〔イエスを〕諦めたのです。ペトロは、信じがたいしるしをいろいろ目にし、イエスをキリストであると大胆に告白したにもかかわらず(マタ16:16)、イエスを全的に信頼する代わりに、依然として自分自身の理解にあまりにも信頼を置いていました。ペトロの否認は、私たちの心が完全にイエスに服従しない限り、この世におけるどんなしるしも奇跡も私たちを神に忠実でいさせることはない、と私たちに教えています。

さらなる研究

1959年、2人のならず者がカンザス州のある家に侵入し、両親と10代の2人の子どもを殺害しました。その殺人者たちが見つかる前に、殺された父親の兄が、次のような手紙を地方紙に寄せました。「“この町には……強い憤りが渦巻いています”とフォックス氏は書きました。“犯人が見つかったら、手近な木に吊るしてしまえという声を、わたしも一度ならず耳にしました。しかし、どうぞそんなふうには思わないでください。もう済んでしまったことでありますし、別の命をとったところで、何が変わるというわけではありません。そのかわり、神の御心に従って、許してあげようではありませんか。心に恨みを抱くのは正しいことではありません。犯行に及んだ人間にしても、まったく平然と生きていくのは至難の業だということがわかるでしょう。彼の心の平穏は、神に許しを請うときにしか訪れません。それを邪魔することなく、彼が平穏を見いだすように祈ろうではありませんか”」(トルーマン・カポーティ『冷血』新潮社、111、112ページ)。

死刑に関する問題はともかく、私たちはここに、キリストが提供なさるような恵みの力強いあらわれを見ることができます。ペトロの弁解の余地なき否認のあとでさえ、キリストは彼を赦し、魂を獲得する働きを彼に託されました。「ペテロはイエスを知らないと断言したばかりだったが、いま激しい悲しみのうちに、主が自分をこんなにもよく知っておられ、こんなにも正確に自分の心と、自分自身も知らなかった虚偽を読み取っておられたことに気がついた」(『希望への光』1050ページ、『各時代の希望』下巻210ページ)。

キリストは、ペトロが知る前から彼の中にあるものをご存じでした。ペトロが知る前から、彼がどうするかをご存じでした。しかし、ペトロの行為の責任が彼自身にしかなかったにもかかわらず、キリストの愛と慈悲は依然として変わりませんでした。同じような過ちを犯した人に対処するとき、私たちは自分自身に慈悲を望むように、慈悲をその人に施すことは、なんと大切でしょうか。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年2期『マタイによる福音書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次