【テサロニケ人への手紙1・2】神の召しにこたえる【解説】#1

目次

良い方法は良い結果を生む

救霊において成功するためには、私たちはイエスと個人的な関係に入り、イエスと使徒たちの方法に従いそれらの方法をこの時代と文化に適応させなければなりません。パウロの働きは伝道のためのすばらしい原則を提供しています。テサロニケの信者のあかしは個人的なあかしの力を例示しています。

テサロニケにおいて示された重要な救霊の原則

パウロが救いの福音を宣べ伝えるために神によってつかわされるまでは、テサロニケはユダヤ人の会堂が一つあるだけの異教のとりででした。しかし、パウロが来たことによって状況は変わりました。それはパウロの霊的献身と方法論によるものでした。いかにすぐれた技術力があったとしても、神に祝福されないならばよい収穫をもたらすことはできません。一方、霊的な働きにおいても、その働きの結果はある程度、用いる方法によって決まってくることも事実です。パウロの手紙はそれぞれ、彼の伝道の方法についていろいろなことを教えてくれます。しかし、テサロニケにおける彼の救霊の働きほど、彼の伝道法をはっきりと教えてくれるものはありません。

今回はまず、福音がどのようにしてテサロニケに伝えられたのかを学んでみましょう。キリスト教の最も有力な証人として広く認められているパウロの霊的資質と伝道の方法についても考えます。

大都市伝道(使徒17:1)

質問1
ピリピの牢獄から出たあと、パウロはどのような町々を通ってテサロニケに到着しましたか。Iテサ2:1、2、使徒17:1 

質問2 
パウロがこれらのマケドニヤの町々を通って来たのはなぜでしたか(使徒16:4、5、8〜10)。彼がピリピとのあいだにある小さな町々の一つではなくテサロニケを働きの場所として選んだのはなぜだと思いますか。

戦略的な拠点

「テサロニケは明らかに政治的、商業的に重要な町で、伝道活動の戦略的な拠点であった。そしてまた繁栄しており人口も多かった。旅行する商人やその仲間たちは20世紀の人間に対すると同様に、1世紀の眼識のある伝道者に対しても、訴えるものがあったであろう。ジャニ・ロースンやグラディス・エイルウォードが中国を何百マイルも旅するラバの列を見て心を動かされ、八福旅館を建てたように、パウロは、もし回心した商人たちが旅の途中で『福音をいいふらす』ことによって、もたらされる伝道の可能性に心を動かされた。中国につかわされた二人の婦人伝道師は旅館のラバ追いに福音の話をした。パウロはユダヤ人の会堂でキリストを宣べ伝えた。原則は同じである」(ロナルド・A・ワード『テサロニケ人への手紙注解』7ページ)。

質問3
パウロの方法が戦略的に正しかったということがどうしてわかりますか。Iテサ1:6〜8 

テサロニケ人は模範

「彼らはどういう点で模範であっただろうか。それは明らかに伝道の熱意であった。『主の言葉は……響きわたっている』(8節)とある。しかし、これには根拠がなければならない。多くの著者がその根拠を述べている。人々はみな彼らの信仰について語った。このゆえに、彼らは正しい回心、永続する信仰熱心な宣教についての典型的な模範である。彼らは良い模範であった。なぜなら、彼らは無意識のうちに、あらゆる場合の模範であるパウロ自身を見習っていたからである(Iテモ1:16)」(ワード『テサロニケ人への手紙注解』37、38ページ)。

パウロの移動は実利的なものだった

彼のなすべきことはたくさんあって、時間も限られていて、資金はわずかしかありませんでした。したがって、彼は取捨選択し、正しい決定を下さなければなりませんでした。彼は小さな町々にいる魂を愛していましたが、テサロニケが大きな町にも小さな町にも福音を伝える拠点になることを知っていました。彼の方法が正しかったことは、この若い教会が周囲に及ぼした影響を見ればわかります。エペソ、アテネ、ローマ、ピリピ、その他の町々におけるパウロの働きは、彼が一貫して同じ方法を用いたことを示しています。

パウロの伝道戦略(使徒17:2)

質問4
パウロはまずテサロニケのだれに伝道し始めましたか。その理由は何でしたか。使徒17:1、2

ペテロはユダヤ人への使徒、パウロは異邦人への使徒と、よく言われますが、パウロはしばしばユダヤ人に説教することによってその働きを始めています。彼はこの方法でよく伝道しました。ベレヤでもそうでしたし(使徒17:10)、コリントでも(同18:4)、エペソでも(同19:8)、そしてもちろんテサロニケでも(同18:4)そうでした。この伝道法は「イスラエルの家の失われた羊」に対するキリストの関心を反映しています(マタ10:5〜7、15:24参照)。パウロはかつての神の選民の救いのために非常な重荷を感じていました(ロマ9:1〜5参照)。

質問5 
パウロはユダヤ人からその働きを始めていますが、その一方でどれほど広範囲の働きをしていますか。使徒13:42、44、48、18:4

パウロはあらゆる人々に種をまいた

「テサロニケには、ユダヤ人だけでなく多くの信心深いギリシヤ人も出席している会堂があった。……『神を恐れる人たち』と呼ばれていたこれらの異邦人たちは、ユダヤ人の崇高なる倫理的一神教にひかれ、完全に改宗することなく、利益を求めて、偶像のない会堂の礼拝に出席していた。パウロがテサロニケにおいて初めてキリストに回心する者たちを得たのはこうした会衆のうちからであった。その大部分は異邦人であった(使徒17:4、 1 テサ1:9 ) 」( ワード『テサロニケ人への手紙注解』8ページ)。

メッセージの中心(使徒17:3、1テサ5:1、2)

質問6 
パウロはテサロニケの人々に、おもに何を用いて働きかけましたか。彼はキリストの生涯のどんな面をとくに強調しましたか。使徒17:2、3 

キリストがメッセージの中心 

パウロはキリストの生涯について語ることによって、テサロニケにおける伝道を開始しました。「パウロは……テサロニケの人びとに『ほふられた小羊』であられるキリストの生涯、死、復活、天における働き、そして未来の栄光に関して、聖書から説いた(黙示録13:8)。彼はキリストをあがめた。キリストのみわざについての正しい理解は、旧約聖書の意味を明らかにする鍵であり、その豊かな宝への接近をゆるすものである」(『患難から栄光へ』上巻246ページ)。

質問7 
初代教会の信徒と指導者はつねにどんなことを強調しましたか。使徒5:42 

十字架を誇る

「キリスト教の初期のころ、滅びゆく世に救いのよきおとずれを携えていった献身的な使命者たちは、自己称揚の思いから、キリストとその十字架を示す働きを台なしにするようなことはなかった。彼らは権威も、自己の卓越をも望まなかった。彼らは救い主の中に自己をかくし、救いの偉大な計画と、この計画の創り主であられ、完成者であられるキリストのご生涯をかかげた。きのうも、きょうも、また永遠に変わることのないキリストが、彼らの教えの要旨であった」(『患難から栄光へ』上巻225ページ)。

質問8 
パウロの教えには、ほかに聖書のどんな重要な真理が強調されていますか。Iテサ5:1,2、2テサ2:3〜5 

パウロがテサロニケ人に対して、その時期と場合とについては書きおくる「必要はない」と言っているのはなぜでしょうか。キリストの再臨が「盗人が夜くるように来る」ということを、彼らはどのようにして知っていたのでしょうか( I テサ5 : 2 ) 。それは、彼らがすでにこれらのことについて教えられていたからです。これらの聖句からもわかるように、パウロはテサロニケにいるときにキリストの初臨と再臨の預言について彼らに詳しく教えていました。

質問9 
パウロがとりわけ強調したのはどの預言のメッセージでしたか。使徒26:19〜23 

旧約聖書から説く

「パウロはメシヤについての旧約聖書の預言を、またそれらの預言がキリストの生涯と教えに一致することとを、この主題についての証拠を受け入れるすべての者たちの心に明らかにした。キリストはその働きにおいてご自分の弟子たちの心を旧約聖書に対して開き、『モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた』」(『パウロ略伝』82ページ)。

個人的なあかしの力(Iテサ2:8) 

質問10 
テサロニケの信者に訴えるにあたって、パウロはどんな個人的な経験にふれていますか。1テサ2:8

キリストの改変力について語る 

「パウロは、以前に自分が礼典律に熱心であったこと、それからダマスコの門のところで受けたすばらしい経験について、テサロニケのユダヤ人たちに話した。改心する以前に彼は、先祖伝来の信心に信頼し、誤った望みをもっていた。彼の信仰はキリストにつながっていなかった。その代わりに形式と儀式を信じていたのである。律法に対する彼の熱意は、キリス卜への信仰と切り離されていたもので、全く無益であった。……しかしパウロが改心したとき、すべてのものが変わった。彼が聖徒たちの名を借りて迫害していたナザレのイエスが、約束のメシヤとしてパウロの前に姿を現されたのである。この迫害者は、神のみ子としてのイエスを見た。このイエスは、さまざまの預言を成就するためにこの地上に来られ、しかも、その生涯において、聖書が明細に述べていることに全くかなっておられた」(『患難から栄光へ』上巻244、246ページ)。

質問11 
のちに、パウロはどんな大事なときに自分の経験についてあかししていますか。それはどんな結果をもたらしましたか。使徒25:22、23、26:1、13〜18、28 

貧しい百姓に対してであれ、権力者に対してであれ、パウロはダマスコ途上でのイエスとのすばらしい出会いとそれによる根本的な生き方の変化についてあかししました。ヘロデ・アグリッパ2世はパウロの回心の話を聞いたただ一人の王でした。彼はもう少しで福音を受け入れるかのように見えました。アグリッパはユダヤ人だったので、彼のキリスト教への改宗は神のみわざに大いなる勝利をもたらしていたことでしょう。しかし、残念なことに、彼は聖霊の嘆願に従いませんでした。それでも、彼の生いたちと地位を考えるなら、彼がパウロの言葉に深く感動し、自分の思いをフェストや妹のベルニケ、またその他の高官たちに進んで告白しようとしたことは注目に値します。

救霊者のためのその他の原則(1テサ1:1)

質問12 
キリストの教えられたどんな重要な伝道法がテサロニケにおけるパウロの働きに反映されていますか。マル6:7、 1テサ1 :1、2テサ1:1 

友が友を助ける

「イエスは、12人をみもとにお呼びになって、2人ずついっしょになって町々や村々をまわるようにお命じになった。だれも1人ではつかわされず、兄弟と兄弟、友だちと友だちが組み合わされた。こうして彼らは、互に助け合い、励まし合い、共に助言したり祈ったりして、一方の力で他方の弱さを補うことができた。同じやり方で、イエスはのちに70人をつかわされた。福音の使者たちがこのように組み合わされることが、救い主のみこころであった。今の時代にこの模範にもっと忠実に従うなら、伝道の働きはもっとずっと成功するであろう」(『各時代の希望』中巻80ページ)。

質問13 
パウロはどれだけのあいだ、テサロニケの会堂で教えましたか。使徒17:2 

短期の滞在 

大部分の聖書注解者は、テサロニケ人への二通の手紙、使徒行伝17章、それにピリピ4:16から総合的に判断して、この滞在はたぶん2、3カ月だっただろうと推測しています。パウロのテサロニケ滞在は比較的短いものでした。しかし、彼の伝道活動がすべてこんなに短いとは限りません。たとえば、彼はコリントで18カ月(使徒18:11)、エペソで3年(同20:31)働いています。 テサロニケにおける経験からわかることは、比較的少ない努力で豊かな収穫が与えられる場合もあるということです。「その日」のうちにバプテスマを受けたエチオピア人がそのよい例です。(使徒8:29〜39参照)。

質問14 
テサロニケにおけるパウロの伝道の働きが調和のとれたものであったことはどんな言葉からわかりますか。Iテサ2:2、7 

パウロの働きにはすばらしい調和がありました。彼は恐れを知らず、大胆でしたが、同時に親切で、思いやりがありました。私たちも今日、人々への伝道において、またお互いの交わりにおいて同じ調和をもって働きたいものです。大胆かつ親切でありたいものです。もしそうするなら私たちの家庭、教会、私生活においてなされる伝道は輝かしい結果をもたらすことでしょう。

まとめ 

テサロニケにおけるパウロの働きについての聖書の記述を読むと、彼が伝道に不可欠ないくつかの原則を忠実に実行していたことがわかります。彼はまず神の声を聞いて、それに従うことによって働きを開始しました。キリストと個人的な関係に入り、喜んで聖霊の臨在を心に受け入れました。それから、方法論についての神の勧告に従うことによって最大の結果を生み出しました。

*本記事は、安息日学校ガイド1991年3期『再臨に備えて生きる』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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