この記事のテーマ
ヘブライ1章と2章はイエスの天の王、神の民の解放者としての即位式に焦点を当てていましたが、3章と4章はイエスを、私たちに安息を与えるお方として描いています。この焦点の変化は、神が約束の王を与え、神の民に敵からの「安らぎ」を与えると約束されたダビデとの契約を思い出すとき、その意味が理解できます(サム下7:10、11)。この安息は、イエスが神の右の座に着かれるとき、現在の私たちもあずかることができるものになるのです。
ヘブライ人への手紙はこの安息を、神にある安らぎと安息日の休みの両方の意味で用いています(ヘブ4:1〜11)。神はこの神にある安息をアダムとエバにもお与えになりました。人類最初の安息日は、完全を可能にされるお方と共に完全を経験することでした。神はまた、安息日の休みを約束されます。なぜなら、真の安息日遵守には、神が創造当初の完全を取り戻されるとの約束が含まれているからです。
私たちは安息日を守るとき、神は、天地創造によって、そして十字架上での贖いによって、私たち人類の必要に完全に応えてくださったことを覚えるのです。しかしながら、真の安息日遵守は、覚えること以上の行為です。それは、この不完全な世界にあって、神が約束しておられる未来を前もって味わうことなのです。
安息の場所としての約束の地
問1
創世記15:13〜21 を読んでください。神はアブラハムに何を約束されましたか。
神がイスラエルをエジプトの奴隷から救い出された目的は、イスラエルをカナンの地に導き入れることでした。それは彼らに安息を与えるためでした(出33:14、ヨシュ1:13)。カナンの地は、国を離れ、約束の地に行きなさいとの神の声に従った彼らの父祖アブラハムに神が約束された嗣業(しぎょう)でした(創11:31〜12:4)。
神が彼らにカナンの地を与えられた目的は、単にその地を彼らの所有とすることではなく、彼らを神のもとに連れ帰ることでした(出19:4)。神は、彼らが何の妨げもなく、神との近しい関係を楽しむことができる土地に住み、真の神が誰であるか、神がその民に何を与えてくださっているのかを世に証しするように望まれたのです。創造における安息日と同じように、カナンの地は贖い主との親密な関係と神の優しさを味わうことを可能にするための枠組みでした。
申命記12:1〜14において、神はイスラエルが安息に入るのは、単にその地に入る時だけでなく、その地から偶像を一掃する時であることを告げました。その後に、神は選ばれた民である彼らに、神がその中に住まわれる土地を示されたのです。
問2
出エジプト記20:8〜11 と申命記5:12〜15 を読んでください。安息日の休みはどのような二つのことを記念していますか。その二つはどのように関連していますか。
神は創造の安息日とエジプトからの救出を結びつけておられます。神はイスラエルに、創造の記念とエジプトからの贖いの記念として安息日を守るように教えられました。創造と贖いの両方を覚えることが、安息日の戒めに込められているのです。自分で自分自身を創造していないのと同様に、自分では自分自身を贖えないのです。それは神だけができる働きです。安息日に休むことによって、私たちは、自分たちの存在においても、救いにおいても、神に依存していることを認めるのです。安息日を守ることは、信仰のみによる救いを受け入れる明確な表明です。
不信のために
問3
ヘブライ3:12〜19 を読んでください。イスラエルはなぜ約束された安息に入ることができなかったのですか。
それは悲しい物語でした。エジプトから救出された民は、神が約束された地に入ることができなかったのです。イスラエルが約束の地の国境、カデシュ・バルネアに着いたとき、彼らは必要な信仰に欠けていました。民数記13、14章はこの出来事を、偵察隊が「偵察してきた土地について悪い情報を流した」(民13:32)と述べています。彼らはその土地が良いことを認めながらも、そこに住む民は強く、町々は堅固で征服することはできないと報告したのです。
ヨシュアとカレブもその土地は良い地であり、その民は強く、町は堅固であることには同意しましたが、神が彼らと共におられるので、神は彼らにその地を与えてくださるだろうと言いました(民14:7〜9)。しかし民は、神が疫病をもってエジプトを滅ぼし(出7〜12章)、ファラオの軍隊を紅海で全滅させ(同14章)、天からパンを降らせ(同16章)、岩から水が出るのを見(同17章)、絶えまない神の御臨在と導きを示す雲を見たにもかかわらず(同40:36〜38)、約束の地を前に、神を信頼しなかったのです。驚くべき神の業を見た世代が、不信仰の象徴となったことは悲劇であり皮肉です(ネヘ9:15〜17、詩編106:24〜26、1コリ10:5〜10)。
神が神の子らに約束される賜物は、人間の想像をはるかに超えています。それらは、恵みに基づいており、信仰を通してのみ到達することができます。ヘブライ4:2は、その約束は、「彼らには……役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」(ヘブ4:2)と説明しています。
イスラエルは共同体として約束の地に向かって旅をしていました。その矛盾する報告を聞いたとき、人々は偵察隊の中の信仰に欠けた者たちに影響されました。信仰も不信仰も同じように伝染します。だからこそヘブライ人への手紙は、「日々励まし合いなさい」(ヘブ3:13)、「互いに愛と善行に励むように心がけ」(同10:24)、そして「神の恵みから除かれることのないように……気をつけていなさい」(同12:15)と訓戒しているのです。
今日、あなたたちが神の声を聞くなら
問4
ヘブライ4:6〜11 を読んでください。神は何にあずかるよう招いておられますか。
荒れ野世代が約束の地を目前に失敗しても、神はなおその民に働かれました。神は彼らの不信の後も、なおも忠実でした(2テモ2:13)。だからこそ、パウロは何度も神の約束は「残されている」と繰り返すのです(ヘブ4:1、6、9)。ここで彼が、約束は「残されている」と言うとき、「残す」「放っておく」という意味のギリシア語の動詞を用いています。つまり約束が取り残されていたこと、無視されていたことを意味します。安息に入るようにとの招きが、ダビデの時代にも繰り返されている事実からも(同4:6、7、詩編95参照)、その約束は果たされないままで、まだ有効であったことがわかります。事実、パウロは、安息は天地創造の時からずっと有効であると述べています(同4:3、4)。一方、神は「今日」、安息に入るように招いています。この「今日」には深い意味があります。モーセが約束の地の国境で、イスラエルの神との契約を更新したときも、彼は「今日」の重要性を強調しました(申5:3を同4:8、6:6、11:2と比較)。「今日」は、神はなおも彼らに忠実であることを知るように、モーセが民に内省を迫った時であり(同11:2〜7)、また、彼らが主に対して忠実であることを決心するべき時でした(同5:1〜3)。この決心を延期することはできませんでした。
同様に、「今日」は、私たちにも決心を迫っています。いつの時代でも神の民が直面してきたように、チャンスの時は同時に、危険な時でもあるのです。ヘブライ人への手紙に出てくる「今日」という概念は、神の約束が成就される時代を示しています。神はこの時代を、「わたしは今日、あなたを産んだ」との宣言をもって開始されました(ヘブ1:5)。それは神の約束の成就である、王としてのイエスの即位を意味します(サム下7:8〜16)。こうして、イエスの即位は、私たちのための祝福とチャンスとなるべき新しい時代の幕開けをもたらしました。 イエスは敵を打ち破り(ヘブ2:14〜16)、新しい契約を実行されました(同8 〜10)。こうして私たちは、「大胆に」恵みの座に近づくことができ(同4:14〜16、10:19〜23)、神の御前で感謝と賛美の霊的犠牲をもって喜ぶことができるのです(同12:28、13:10〜16)。「今日」という宣言は、神が今も私たちに忠実であることを認識するように呼びかけています。神の招きを先延ばしにせずにすぐに受け入れるべきすべての理由は、すでに与えられているのです。
神の安息に入る
問5
ヘブライ3:11 とヘブライ4:1、3、5、10 を読んでください。神が私たちを招いておられる安息はどのようなものですか。
神はただ私たちを単なる安息に招いておられるのではなく、神の安息に招いておられます。聖書全体を見ると、「安息」はカナンの地における平和を示すこともあれば(申3:20)、契約の箱が安置されている神殿や(代下6:41)、神とイスラエルが彼らの仕事を離れて「休む」安息日を示す場合もあります(出20:11)。しかし今、主は彼らを「神の安息」に入るよう招いておられるのです。
問6
ヘブライ4:9〜11、16 を読んでください。私たちは何をするよう招かれていますか。
安息日の休みは、神がその創造(創2:1〜3、出20:8〜11)と贖い(申5:12 〜15)の業を終えた事実を祝うものですが、同様に、イエスの天の神殿での即位式は、彼が私たちの救いのために完全な犠牲を献げ終えられたことを祝うものです(ヘブ10:12〜14)。
神は私たちの幸福を確保したときにのみ休まれます。天地創造の際にも、世界を創造する働きを終えたときに休まれました。その後、神は、アブラハムに約束された地が、ダビデの勝利によって征服され、イスラエルが「安らかに暮らした」後に(王上5:1〜5〔口語訳4:21〜25〕を出15:18〜21、申11:24、サム下8:1〜14と比較)、神殿で休まれました。神はイスラエルとその王が彼らの住む家を確保した後に、御自身のための家をお持ちになったのでした。
神が私たちに約束しておられる最終的な「安息」とは、大争闘が終結した後に私たちのために神が創造される新しい世界です。ヘブライ人への手紙は、これを「神が設計者であり建設者である……都」(ヘブ11:10)、そして「天の故郷」(ヘブ11:14〜16)と呼んでいます。それは、神が創造当初に人類に与えられた主権と「栄光と栄誉」の回復を意味します(ヘブ2:5〜8、12:28)。それが「神の」安息なのです。それは私たちが平和に生きることができる完全な地であるだけでなく、新しい天と新しい地にある神の御座における安息日の休みをも意味しています。
新たな創造を先取りする
問7
出エジプト記20:8〜11、申命記5:12〜15 をヘブライ4:8〜11 と比較してください。両者には安息日の休みの意味においてどのような違いがありますか。
すでに学んだように、出エジプト記と申命記は私たちの目を過去に向け、神の創造と贖いの完成を祝うために安息日を休むように勧めています。一方、ヘブライ4:9〜11は、私たちの目を未来に向け、神が将来の安息日の休みを準備していることを教えています。ここに安息日遵守の新しい次元が示されています。すなわち、安息日は、過去の神の勝利を記念するだけでなく、神の未来の約束をも祝うのです。
この安息日遵守の未来の次元は常に示されていたのですが、しばしば無視されてきました。人類の堕落の後、それは神がいつの日かメシアを通して創造当初の栄光を回復されることを意味するようになりました。神は私たちに安息日遵守を通して神の贖いの業を祝うようにお命じになりますが、それは安息日が贖いの頂点である未来の新しい創造を指し示すものだからです。安息日遵守は、この不完全な世界にあって天国を先取りすることなのです。
このことはユダヤの伝統においては常に明白でした。紀元前1世紀から紀元2世紀の間に書かれた『アダムとエバの人生』という文書(ジェームズ・H・チャールズワース編『旧約聖書外典』第2巻18ページ)には、「第7日は復活の象徴であり、来るべき時代の安息である」と記されており、また別の古代ユダヤの資料には、来るべき時代とは、「永遠の完全な安息日の休みの時代である」(ジェイコブ・ニューズナー『新訳ミシュナ』873ページ、英文)と書かれています。
更に後に書かれた『ラビ・アキバのオティオト』には、神とイスラエルの次のような会話が記されています。「聖なる方の前でイスラエルは言った。『神に祝福があるように。世界の主よ、私たちが戒めを守るなら、何がいただけるでしょうか』。神は言われた。『来るべき世界を』。イスラエルは神に言った。『それはどのようなものなのでしょうか』。そこで神は彼らに安息日を示された」(セオドア・フリーマン「安息日─救済への期待」季刊『ユダヤ教』第16巻443、444ページ、英文)。
安息日は、祝い、喜び、感謝するためにあります。私たちは安息日遵守を通して神の約束を信じ、神の恵みの賜物を受け入れることを示すのです。安息日は生きて脈動する信仰です。行為として見る安息日遵守はおそらく、神にある信仰を通して、恵みによって救われた確信の最も完全な表明なのです。
さらなる研究
ヘブライ人への手紙において非常に特徴的であるのは、パウロが、神が私たちに提供しておられる恵みによる救いの象徴として、日曜日でなく、安息日の休みを用いていることです。安息日は信者たちによって、このように恵みによる救いの象徴として大切に守られていました。しかし、紀元2世紀以降、教会に決定的な変化が起こります。安息日遵守が救いの象徴ではなくなり、ユダヤ教と古い契約への忠誠の象徴として扱われ、避けなければならないものとされたのです。この頃から安息日を守ることは、「ユダヤ教化」と同義になります。その例として、アンティオキアのイグナティウス(紀元110年頃)は、次のように述べています。「古い秩序に生きていた者たちは、新しい希望を見いだした。彼らはもはや、安息日ではなく、主の日、すなわち私たちの命がキリストとその死によってよみがえらされた日を守るのである」(ジャック・B・ドゥーカン『イスラエルと教会─同じ神に対する二つの声』42ページ、英文)。同様に、マルキオンは彼の弟子たちに、ユダヤ人と彼らの神を拒否するしるしとして安息日に断食するよう求め、ウィクトリヌスは、彼が「ユダヤ人の安息日を守っている」と思われたくありませんでした(『イスラエルと教会』41〜45ページ参照)。こうして恵みによる救いの象徴としての安息日遵守の理解が失われ、キリスト教会における安息日の消滅につながったのです。
「キリストにある生涯は、平和な生涯です。感情の興奮はないかもしれませんが、いつも変わらない平和な信頼をもった生活です。自分に望みがあるのではなく、キリストに望みがあるのです。自分の弱さはキリストの力に、無知はキリストの知恵に、もろさはキリストの持久力と一つになります。すると私たちは、自分をながめて自分のことばかりを考えないで、キリストをながめるようになるのです。キリストの愛をめい想し、その性格の美しさ、完全さを心にとめて考えましょう。キリストの自己犠牲、キリストのへりくだり、キリストの純潔と聖潔、またその比類なき愛を魂のめい想課題といたしましょう」(『希望への光』1959ページ、『キリストへの道』改訂第三版99ページ)。
*本記事は、『終わりの時代に生きる─ヘブライ人への手紙』からの抜粋です。