今回の記事のテーマ
聖書の世界観は、「大争闘」とも呼ばれる宇宙規模の争いであり、それが私たちの世界の、さらには全宇宙のドラマが展開する背景となっています。罪、苦しみ、死、国々の盛衰、福音の宣布、終末の諸事件—こういったことはみな、この宇宙規模の争いという背景の中で起きるのです。
私たちは今週、この争いが根づくことになったいくつかの重要な場面に目を向けます。この争いは、ルシファーという完全な存在の心の中でなぜか不可解にも始まり、彼は別の完全な存在であったアダムとエバを堕落させることによって彼の反逆を地球に持ち込んだのです。大争闘は、ルシファーの堕落、それに続く私たちの最初の両親の堕落という、これら二つの「転換点」に起源を持ち、それ以後ずっと激しく続いています。私たち1人ひとりは、この宇宙規模のドラマの一部です。
しかしありがたいことに、大争闘はいつの日か終わるだけでなく、キリストがサタンに対して完全に勝利する形で終わります。しかもさらに感謝すべきことに、イエスが十字架で成し遂げてくださったことの完全さゆえに、私たちはみな、この勝利にあずかることができるのです。そしてその勝利の一環として、私たちが、必ず再臨されるイエスによって約束されているすべてのことを待つ間、神は私たちを信仰と服従へ召しておられます。
完全な存在の堕落
もし宇宙規模の争いが聖書の世界観の背景を成しているとしたら、このことは多くの疑問を引き出します。重要な疑問の一つは、「いったい全体それはどのように始まったのか」というものです。愛情深い神が宇宙を創造されたのですから、悪、暴力、対立などが最初から被造物の中に組み込まれていたと考えるのは、理にかなっていません。この争いは、当初の創造とは関係なく生じたに違いなく、創造の必然的な結果では決してないのです。それにもかかわらず、争いはここに存在し、現実であり、私たちはみな、それに巻き込まれています。
問1
エゼキエル28:1、2、11〜17とイザヤ14:12〜14を読んでください。ルシファーの堕落と悪の起源について、これらの聖句は何と述べていますか。
ルシファーは天に住む完全な存在でした。なぜ彼の中に、とりわけそのような環境の中で、不義が生じえたのでしょうか。私たちにはわかりません。聖書が「不法〔不義〕の秘密の力」(IIテサ2:7)について述べているのは、たぶんそれが一つの理由なのでしょう。
神が御自分のあらゆる知的被造物にお与えになった自由意志以外に、ルシファーが堕落した理由は存在しません。エレン・G・ホワイトが深くも次のように記したとおりです。「罪の存在を理由づけようとして罪の起源を説明することは、不可能である。……罪は侵入者であって、その存在について理由をあげることができない。それは神秘的であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる」(『希望への光』1836ページ、『各時代の大争闘』下巻228ページ)。
「罪」を「悪」という言葉に置き換えても、この文は通じます。悪の存在を理由づけようとして悪の起源を説明することは、不可能です。……悪は侵入者であって、その存在について理由を挙げることができません。それは神秘的であり、不可解であって、その言い訳をすることは、それを弁護することになるのです。
頭で知るだけでなく
私たちは、悪がなぜ生じたのかを説明できませんが(なぜなら、悪を正当化する理由は存在しないからです)、聖書は、それが天においてルシファーの心の中に始まったことを明らかにしています。エレン・G・ホワイトの著作物から得られる興味深い洞察(例えば、『各時代の大争闘』下巻 第29章「罪悪の起源」参照)を除けば、それがいかに天で始まったかについて、聖書はあまり記していません。しかし、悪がいかに地上で生じたかについては、もっとはっきり述べています。
創世記3:1〜7を読むと、アダムとエバの過失責任を示すことが起きました。ここでとても悲しいのは、エバが、彼女とアダムに神が語られた言葉を覚えていたという点です。彼女は、「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(創3:3)と、その言葉を繰り返しています。聖書からわかる範囲では、木に「触れる」ことについては何も記されていませんが、エバは、木の果実を「食べる」ことが死をもたらすという真実は知っていました。
するとサタンは、公然とあからさまにその言葉に反論しました。「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない』」(創3:4)と。
これ以上にはっきりした対比はありえたでしょうか。最初、エバへのサタンの接近は巧妙なものでしたが、ひとたび彼がエバの注意を引きつけ、彼女が抵抗していないとわかると、サタンはあからさまに主の命令に異議を申し立てました。そして悲劇的なことは、エバは知らないという立場で行動していませんでした。エバは、「知りませんでした、わかっていませんでした」と主張できなかったのです。
エバは確かに知っていました。知っていたにもかかわらず、エバは間違ったことをしてしまったのです。エデンという完璧な環境の中であっても、知識そのものは、彼女(や、同じく真実を知っていたアダム)が罪を犯させないようにするには不十分でした。私たちは、今自分を救うのに知識だけで十分だなどと考えて、自分自身をごまかすべきではありません。確かに、私たちは、神の言葉が語ることを知る必要があります。しかし、それを知るとともに、私たちは聖書が語ることに従うという一種の降伏も必要としているのです。
天と地における争い
私たちの最初の両親が罪を犯したことで、この世は、罪、悪、死の中に沈み込みました。直接の原因や非難されるべき者について、人々の意見は異なるかもしれませんが、この地上に私たち全員を苦しめる混乱、暴力、変動、対立が存在することを、だれが否定できるでしょうか。
私たちは宇宙規模の争い、宇宙規模の対立について語ります。まさにそのとおりなのです。しかし、この対立の宇宙的起源が何であれ、それはこの地上においても繰り広げられています。実際、聖書の多くの歴史は(エデンにおける堕罪からイエスの再臨につながる終末の諸事件に至るまで)、さまざまな意味で、聖書による大争闘の説明です。私たちはこの争いのただ中に生きています。神の言葉は、何が起きているのか、何がその背景にあるのか、最も重要なことに、それがどのように終わるのかを私たちに説明してくれます。
黙示録12:1〜17を読むと、戦いが天と地上で繰り広げられていることが描かれています。天における一つの戦いとともに、地上における複数の戦いが見られます。最初の戦いは、「竜」(サタン〔黙12:7〜9〕)と「ミカエル」(ヘブライ語の意味は「神に似ている者はだれか」)との間のものです。反抗的なルシファーはサタン(敵対者)として知られるようになりました。サタンは被造物にすぎませんが、永遠の創造主なるイエス(ヘブ1:1、2、ヨハ1:1〜4)に立ち向かっています。
ルシファーは自分の造り主に反逆していました。大争闘というのは、戦う神々に関する争いではなく、自分の創造主に反逆し、その反逆を地上の被造物をも攻撃することで明らかにした一被造物に関する争いなのです。
天においてキリストとの戦いに敗れたサタンは、キリストが人間として誕生された直後、地上でキリストを狙おうとしました(黙12:4)。しかし、そこでのキリストとの戦いに負け、続いて荒れ野で、のちに十字架で敗れ、(カルバリーでの不可逆的敗北ののち)サタンはキリストの民との戦いを始めました。この戦いはキリスト教史の大半を通じて激しく続き(黙12:6、14〜16)、最後まで(同12:17)、つまりサタンがもう一度敗れる時(今回はイエスの再臨)まで続くでしょう。
「終わりまで、あなたがたと共にいる」
黙示録は、教会史のかなりの部分において神の民が遭遇する迫害を予告しました。黙示録12:6(黙12:14も参照)の預言的1260日は、教会に対する迫害が続く1260年を指し示しています。
「ネロのもとで、パウロが殉教したころに始まったこのような迫害は、その激しさに多少の差はあったが、数世紀間続いた。キリスト者は、極悪非道な犯罪を犯したものとして偽って訴えられ、飢饉、疫病、地震などの災害の原因であるとされた。彼らが、一般社会の憎悪と嫌疑の的となると、密告者たちは利益のために、罪のない者を裏切った。彼らは、ローマ帝国の反逆者、宗教の敵、社会の害毒であると非難された。数多くの者が円形劇場で、野獣の餌食になり、生きながら火で焼かれた」(『希望への光』1606ページ、『各時代の大争闘』上巻31ページ)。
一方、「女」(教会)は荒れ野へ逃げ込みました(黙12:6)。彼女には鷲のような翼が二つあると、記されています。これは、助けの得られる場所に飛び去る様子の描写です。女は荒れ野で養われ、蛇、つまりサタンは、彼女のところへ行けません(同12:14)。神は、大きな迫害の間でさえ、常に残りの民を保護してこられましたが、終末時代にも同様になさるでしょう。
終わりの時の危機との関連で、キリストは御自分の民に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:20)とおっしゃいました。キリストに従う者たちが大勢殉教の死を遂げたにもかかわらず、私たちはこのすばらしい約束を、いかに理解したらよいのでしょうか(ロマ8:31〜39、マタ10:28参照)。
いかなるもの(迫害、飢え、死)も、私たちを神の愛から引き離すことはできません。現在であれ、終末時代であれ、キリストが私たちとともにおられるというのは、痛み、苦しみ、試練、あるいは死が私たちを襲わないという意味ではありません。この世の人生において、私たちはそのような適用の除外を約束されていないのです。その意味は、イエスと、イエスが私たちのために成し遂げてくださったことによって、私たちが希望と約束を持って生きられるということです。その希望と約束とは、神がこのような試練の中でもともにいてくださるというもの、また私たちには新しい天と地における永遠の命が約束されているというものです。地上でどのようなことを経験しようと、私たちはパウロのように、「今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(IIテモ4:8)と確信していられるという希望を持って生きることができます。「主が来られるのをひたすら待ち望む」私たちは、このような希望と約束を自分のものとして要求できるのです。
律法と福音
セブンスデー・アドベンチストという名前には、私たちが支持することの多くが含まれています。「セブンスデー」という部分は第七日安息日をあらわし、それは、私たちが十戒のその一つの掟だけでなく、十の掟すべてを信じているということを暗に指し示しています。「アドベンチスト」の部分は、私たちがイエスの再臨、つまりイエスが初臨の際に贖いの死によって成し遂げてくださったことのゆえにのみ存在しうる真理を信じていることを指し示しています。このようにセブンスデー・アドベンチストという私たちの名前は、非常に重要で分かちがたい現代の真理の二つの構成要素(律法と福音)を示しているのです。
問2
次の聖句は、律法と福音がいかに密接に結びついているかを、どのように示していますか。
・エレミヤ44:23
・ローマ3:20〜26
・ローマ7:7
福音とは良い知らせです。すなわち、私たちは神の律法を破ることで罪を犯しましたが、キリストが私たちのために十字架で成し遂げてくださったことを信じることで、神の律法を破ったことに対する罪を赦されるという良い知らせです。また私たちには、その律法を十全かつ完全に守る力も与えられています。
ですから、終わりの時という背景の中で、大争闘が特に激しいときに、神の民がとても具体的に描かれているのも驚くに当たりません。
問3
黙示録14:12を読んでください。この聖句は、律法と福音のつながりをいかにあらわしていますか。
さらなる研究
「造られた者がすべて、神に対する愛の忠誠を了承しているうちは、神の造られた全宇宙に完全な調和があった。創造主のみこころをなすことが、天の軍勢の喜びであった。神の栄光を反映することと神への賛美が、彼らの楽しみであった。そして、彼らが神を最高に愛していた間は、互いの間の愛も信頼と無我の精神に満ちていた。そこには、天の調和を破るものは何1つなかった。しかし、この幸福な状態に変化が起こった。神が被造物にお与えになった自由を悪用したものがあった。罪は、キリストの次に位し、最大の栄誉を神から受け……た者から始まった」(『希望への光』14ページ、『人類のあけぼの』上巻3、4ページ)。
エレン・G・ホワイトの「愛の忠誠」という言葉に注目してください。この力強く意味深い言葉は、愛が忠誠や忠実さにつながるという事実を指し示しています。自分の伴侶を愛する者は、忠誠によって愛をあらわすでしょう。それが、これらの天の被造物にとっての方法でしたし、神との関係における現在の私たちにとっての方法でもあるべきです。
*本記事は、『終末時代への備え』からの抜粋です。