ダニエルと終末時代【終末時代への備え】#2

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今回の記事のテーマ

主は古代イスラエルのためにすばらしい計画を持っておられました。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出19:6)。この聖なる国民、この祭司の王国は、ヤハウェが唯一の神であることをこの世に伝える証人になるはずでした(イザ43:10、12)。しかし残念なことに、この民は神から与えられた聖なる召しに応えなかったのです。最終的には、捕囚としてバビロンへ連れ去られることにさえなりました。

大変興味深いことに、捕囚という災難にもかかわらず、神は個々のユダヤ人を御自分のあかし人として用いることがおできになりました。言い換えれば、神はダニエルと彼の3人の友だちによって、イスラエルやユダによって果たせなかったことを、ある程度まで実現なさろうとしたのです。ある意味で、この人たちは、一つの民としてのイスラエルがなるべきだった、あるいはなすべきだったことの実例でした。

確かに、彼らの物語は、終わりの時から遠く離れた時代と場所で繰り広げられています。しかしそれでも、この人たちの中に私たちの模範となる特徴や特性を見いだすことができます。私たちは、バビロンの王宮のその異邦人たちのように、神を知らない世界に神をあかししなさいと召されるとともに、終末時代に生きているからです。私たちは彼らの物語から何を学べるでしょうか。

ごく小さなことに忠実であれ

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(ルカ16:10)。

イエスのこの言葉に目を向けてください。妥協すること、「ごく小さな事に不忠実」になることは、実に簡単です。問題は、「ごく小さな事」それ自体が重要だということではありません。そうではありません。だから、「ごく小さな事」なのです。私たちのほとんどが自分の体験やほかの人の実例から(あるいは、その両方から)知っているように、問題は、最初の妥協が次の妥協につながり、次の妥協はさらに次の妥協につながり、やがて私たちが「大きな事にも不忠実」になってしまうことです。

このような考えを念頭に置きつつ、ダニエル1章の物語を取り上げます。それは、バビロンで捕囚となった4人のユダヤ人青年の最初の体験談です。

ダニエル1章を読んでください。ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの取った立場は、古代イスラエルが諸国の民に対して示すべきだった姿を、反映していました(申4:6〜8、ゼカ8:23も参照)。聖書の記事は、彼らが食べたものと、彼らが「知恵と理解力」(ダニ1:20)においてだれよりも「十倍も優れていた」(同)ことを直接結びつけてはいませんが、そこには明らかにつながりがあります。またこの章は、神が彼らに知識と知恵をお与えになった、とも述べています。つまり、バビロンの汚れた食べ物を拒否することで彼らが主に忠実であったので、主は彼らとともに働くことがおできになったということです。青年たちは服従し、神は彼らの服従を祝福なさいました。この4人の青年たちのように、もし古代イスラエルが全体として聖書の教えに勤勉かつ忠実に従っていたなら、神はこれと同じことをイスラエルにもなさらなかったでしょうか。もちろん、そうされたはずです。そして、もし私たちが忠実であるなら、今日、終わりの時にいる私たちにも、神はそうしてくださるでしょう。

ダニエルの謙遜

ダニエル2章は、世界中で何千年にもわたって、無数の人々が聖書の神を信じるようになる手助けをしてきました。この章は、神の存在だけでなく、神の予知をも裏づける非常に合理的な証拠を提供しています。まさにこの章は、神の予知が神の実在の証拠であるということの啓示なのです。

問1 
ダニエル2章を読んでください。この章は、神の存在を裏づけるそのような確証をいかに提供していますか。また、この書に描かれたとおりの今日のヨーロッパに目を向けてください(ダニ2:40〜43)。およそ2600年前に生きていた人間が、神の啓示以外のものによって、その状況をこれほど正確に述べることができたでしょうか。

ダニエルは、公然と恥じることなく、自分に啓示されたことのゆえに神をほめたたえました。ダニエルは、王の夢を知るだけでなく、それを解釈する能力の源として、すでに認められていた彼の知恵と理解力をいとも簡単に自慢しえたことでしょう。しかし、彼ははるかに分別がありました。彼と仲間がささげた祈りは(ダニ2:17〜23)、彼らが全面的に神に頼っていたことを示しています。さもなければ、彼らはほかの賢者たちと一緒に死んでいたでしょう。

のちにダニエルは、雇われ知者、祈祷師、占い師が王の夢を言い当てられなかったことを王に思い出させています。それとは対照的に、天の神は、唯一の真の神であられるがゆえに、秘密を明らかにすることがおできになるのです。

このように、謙遜と神に頼ることによって、ダニエルは力強い証人になることができました。当時、ダニエルが謙遜を示したのなら、今日、私たちはどれほどもっと謙遜を示すべきでしょうか。何しろ私たちには、ダニエルが知りえなかった救済計画の啓示があるからです。もし私たちを謙遜にさせ続けるものがあるとしたら、それは、イエスが十字架で成し遂げてくださったことに関する知識です。

金の像

聖書を学ぶ者たちは、ダニエル3章と黙示録13章の間につながりがあることを昔から気づいていました。前者は、ドラの平野における3人のヘブライ人の物語であり、後者は、神の民が過去において遭遇し、また終わりの時に遭遇するであろう迫害を描いています。

ダニエル3:1〜6と黙示録13:11〜15を読み比べると共通点があります。いずれの場合も、礼拝の問題が中心ですが、両方とも強制された礼拝について述べています。つまり、主導権を握る政治的勢力が、主にのみささげられるべき礼拝を強要するのです。

問2
ダニエル3:13〜18を読んでください。私たちが終わりの時に何に遭遇するかということだけでなく、いかにそれらに立ち向かうべきかということも理解するうえで助けとなるこの物語から、私たちは何を学べるでしょうか。

地上最強の指導者であったネブカドネツァルは、この3人と彼らの神をあざけって、「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」(ダニ3:15)と言いました。しかし彼は、神がどのようなお方であるのかを、間もなく自分で気づかざるをえませんでした。というのも、のちにこう宣言しているからです。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた」(同3:28)。

間違いなく、王はこのような奇跡を見たあと、3人が仕える神には何か特別なところがあると確信したのです。

しかし、これらの青年たちが炎の中から救い出されなかったとしたらどうでしょうか。彼らが自覚したことは、十分にありうることでした(ダニ3:18)。王の命令に逆らうことが焼き殺されることを意味するとしても、なぜ彼らは逆らうことで正しい行動をしたのでしょうか。この物語は、結果にかかわらず、自ら信じることを支持する彼らの信仰と意志を力強くあかししています。

異邦人の回心

ダニエル3章は、ネブカドネツァルが真の神の存在と力を認めたところで終わっています。しかし、神と神の力を知ることは、救いのために不可欠だとイエスが言われた生まれ変わりの経験(ヨハ3:7参照)をすることと同じではありません。確かに、ダニエル4:30に描かれている人は、回心した魂とは程遠いものでした(ヨハ15:5、使徒17:28、ダニ5:23も参照)。

しかしこの章が終わるまでに、ネブカドネツァルは、たとえつらい経験であったとしても、あらゆる真の力は神の内にあり、神なくして自分は何者でもない、と知りました。

「かつての高慢な王は、謙遜な神の子となった。暴君的で専制的な王が、賢明で恵み深い王になった。天の神に反抗して神をののしった王が、今はいと高き神の力を認めた。そして熱心に主を恐れて、国民の幸福を追求するようになったのである。ネブカデネザルは、王の王、主の主であられる神の譴責を受けて、ついにすべての王が学ばなければならない教訓を学んだ。それは、真に偉大であるということは、真にいつくしみ深くあるということである。彼は主が生ける神であることを認めて、『そこでわれネブカデネザルは今、天の王をほめたたえ、かつあがめたてまつる。そのみわざはことごとく真実で、その道は正しく高ぶり歩む者を低くされる』と言った」(『希望への光』581ページ、『国と指導者』下巻128、129ページ)。

問3 
ダニエル4:32(口語訳4:35)を読んでください。ネブカドネツァルは、神に関するどのような真理をここで表明していますか。

ダニエル4章は、1人の異教徒が「ユダヤ人の」神の権威、支配、力を認めるところで終わっています。ある意味で、この場面は初代教会で起こったことの先触れでした。初代教会は、ユダヤ人のあかしと神の力によって、異邦人が主に関する真理を知り、その真理をこの世に宣べ伝え始めたからです。

ダニエルの忠実さ

問4 
ダニエル6章を読み、次の質問に答えてください。

①ダニエル6:5、6(口語訳6:4、5)は、ダニエルの品性について、どのようなことを明らかにしていますか。私たちがいかに見られるべきかということに関して、これらの聖句からどのような教訓を得ることができますか。

②黙示録に描かれている終末の諸事件と結びつくどのような共通点を、この章の中に見いだすことができますか(黙13:4、8、11〜17参照)。

③この状況におけるダニエルの立場になって考えてください。祈らないために、彼はどのような言い訳や論拠を用いることができたでしょうか。言い換えれば、彼は祈らないことをどのように正当化し、獅子の洞窟に投げ込まれるという厳しい試練を避けることができたでしょうか。

④ダニエルは必ずしも祈る必要がなかったにもかかわらず、なぜいつものように祈り続けたのだと、あなたは思いますか。

⑤ダレイオス王は、ダニエルが獅子の洞窟に投げ込まれる前にもかかわらず、ダニエルの信じる神の力について多少知っていました。それに関して、王は何と言いましたか(ダニ6:17〔口語訳6:16〕)。ダニエルは、自分が信じ、仕える神について、王にあかしをしていました。王のどの言葉が、そのことを証明していますか。

さらなる研究

「この世界の歴史の終末が近づくにつれて、ダニエルが記した預言はわれわれが住んでいる時代そのものに関するものであるから、特別に注意を払わなければならない。それとともに、新約聖書の最後の書の教えを結びつけなければならない。サタンは、ダニエル書とヨハネが書いた黙示録の預言的部分は、理解することができないと多くの人々に思い込ませている。しかし、これらの預言を研究する者には特別の祝福が与えられると、明らかに約束されているのである。終わりの時に封が開かれるダニエルの預言に関して、『賢い者は悟るでしょう』と語られたのである(同12:10)。そして各時代にわたる神の民の指針として、キリストがそのしもべヨハネにお与えになった啓示については、『この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである』との約束が与えられているのである(黙示録1:3)」(『希望への光』591ページ、『国と指導者』下巻156、157ページ)。  私たちはダニエル書を、国々の盛衰、裁き(ダニ7:22、26、8:14)、悩みの時における神の民の解放(同12:1)との関連で考えがちですが、今週見たように、ダニエル書は私たちに、試練と迫害がいつ襲ってくるにしても、それらに対して個人個人が備えるとはどういうことかの実例も示しています。その意味において、これらの物語は終わりの時の極めて重要なメッセージを私たちに伝えているのです。詰まるところ、「獣の刻印」や「悩みの時」やこれから起きる迫害について知ることがいかに役立つとしても、もし私たちが必要とする神との体験を経ていないなら、このような知識はみな、私たちを罪に定めるだけでしょう。何よりも私たちに必要なのは、ダニエルや(ネブカドネツァルを含む)ほかの人たちが体験した「新たに生まれること」なのです。

*本記事は、『終末時代への備え』からの抜粋です。

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『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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