天と地を創造された神を礼拝せよ【終末時代への備え】#8

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今回の記事のテーマ

私たちアドベンチストは、「いま持っている真理」(IIペト1:12、口語訳)〔しばしば「現代の真理」と訳される〕という聖書の考えを信じています。それはつまり、長年にわたって主からますます与えられる光によって、真理が必要なときに、神がそれを人間に示されるという考えです。創世記3:15の最初の福音の約束は、女の子孫を通して希望がもたらされることを、罪を犯した夫婦に明らかにしました。この福音の約束のさらなる啓示がアブラハムへの約束であり、「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」(創18:18)というものです。そして、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである」(マコ10:45)と宣言されたイエスの到来は、言うまでもなく、この福音の真理のさらに大きな啓示です。

私たちは今日、黙示録14:6〜12の三天使の使命が、キリストの再臨と私たちクリスチャンのあらゆる希望の成就に先立つ終わりの時に生きる者たちにとっての「いま持っている真理」であると信じています。

私たちは今回、第一天使のメッセージに特に焦点を合わせます。なぜなら、終末の危機のただ中で忠実であろうとする者たちにとって極めて重要な真理が、そこには含まれているからです。

福音の普遍性

黙示録14:6、マタイ24:14、28:19を読んでください。これらの聖句は、教会としての私たちの目的にとって、伝道やあかしがどれほど重要であるかを理解するうえで助けとなります。ある意味で、第一天使のメッセージは、終わりの時という背景の中で与えられた大宣教命令(マタ28:19)だと言えるかもしれません。確かに、それは「いま持っている真理」です。

これら三つの聖句がすべて、「全世界」と「あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族」への伝道に重きを置いていることに注目してください。言い換えれば、このメッセージは範囲が普遍的です。すべての人がそれを聞く必要があります。

問1 
ガラテヤ3:22を読んでください。全世界が福音を耳にする必要があります。この聖句は、私たちがその理由を理解するうえで助けとなるどのようなことを述べていますか。

罪の普遍性が、私たちの使命と召しの普遍性を説明します。「あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族」が悪事を働き、神の律法を犯し、「罪の支配下に閉じ込められ」てきました。エデンにおけるアダムの堕罪は、全人類に影響を及ぼしました。影響を受けなかった国民、種族、民族はありません。私たちはみな、罪の直接的な報いを受けます。そして、もし治療法が提供されなければ、私たちはだれもが最終的な結果、すなわち永遠の死に直面するでしょう。

言うまでもなく、その治療法は提供されました。それは、罪の問題の唯一の解決策であられるイエスの生涯、死、復活、そして天の聖所における彼の奉仕です。神がイエス・キリストによって提供された大いなる希望を、すべての人が知る必要があります。だからこそ、アドベンチストは全世界に出て行って、イエスのメッセージをまだ耳にしていない人たちにそれを届けようとしているのです。

十字架上の犯罪人と「永遠の福音」

黙示録14:6において、この世に宣べ伝えるメッセージは「永遠の福音」です。それは、何の希望もないこの世に生きる人々への希望のメッセージです。

問2 
ルカ23:32〜43を読んでください。この物語は、すべての罪人にとっての「永遠の福音」の大いなる希望を、いかに明らかにしていますか。

エレン・G・ホワイトは、この犯罪人について次のように書いています。「この男は常習犯ではなかった。……彼は、罪の自覚をおしころそうとして、ますます罪の深みにとびこみ、ついに捕らえられて犯罪者としてさばかれ、十字架の死を宣告されたのである」(『希望への光』1072ページ、『各時代の希望』下巻268ページ)。

しかし、彼にどんなことが起きたでしょうか。十字架にかけられたとき、この犯罪者はイエスの正体を垣間見て、叫びました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)。

そして、イエスはどのように応じられたでしょうか。「友よ、私はあなたを助けてあげたいが、あなたはますます罪の深みに飛び込むことによって罪の自覚を押し殺すべきではなかった」とおっしゃいましたか。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタ5:20)とイエスはかつてなさった説教から引用なさいましたか。形はどうであれ、イエスは犯罪者の過ちを指摘なさいましたか。

いいえ。イエスは、欠陥だらけの品性を持ったこの犯罪者、義の道において何もささげるものがなく、さっきまでののしっていたこの強盗をご覧になりました(マタ27:44)。イエスは彼を新しい人としてご覧になって、(ほぼ)このようなことを言われたのです。「私は今ここで言おう。私はあなたに、今ここで確約しよう。あなたの罪、悪事、過ちは赦される。だから、『あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』」(ルカ23:43)。

これが、第一天使の使命の基礎である「永遠の福音」です。この真理がなければ、律法、安息日、死者の状態などについて私たちが教えるほかのことは、いずれも重要ではありません。「永遠の福音」がその根底になければ、こういった教えは何の役に立つでしょうか。

神を畏れ、その栄光をたたえよ

全世界に向けての「永遠の福音」の宣布について述べたあと、第一天使の使命は、このメッセージをさらに詳しく説明します。私たちは「永遠の福音」を宣べ伝えるとき、現代に対するこの福音のメッセージの一部である真理を含めなければなりません。言い換えれば、終わりの時に対する「いま持っている真理」は、黙示録14:7も含むということです。

黙示録14:7を読んでください。神を畏れることと、その栄光をたたえることとは、無関係な概念ではありません。もし私たちが聖書的な意味で真に神を畏れるなら、私たちは神の栄光をたたえるでしょう。一方は他方に直結しています。

問3 
次の聖句を読んでください(創22:12、出20:20、ヨブ1:9、コヘ12:13、マタ5:16)。「神を畏れ(る)」とはどういうことか、それは神をたたえることといかに関係しているのかを理解するうえで、いかにこれらの聖句は助けとなりますか。

上記の聖句では、神を畏れることが神に服従することと結びつけられており、私たちが神に服従し、正しいことを行うとき、私たちは神をたたえるのです。神を畏れるとは、神に畏怖の念を抱くこと、神を崇敬することだとしばしば言われますが、それはもっと深まるべきです。私たちは神を畏れるように言われています。私たちは堕落しており、罪人であり、死に値する存在です。時として、自分の行為の悪意や、その行為に対して公正で義なる神の御手からもたらされるべきものを衝撃的に自覚したことのない人がいるでしょうか。これが神の畏れです。そしてこれが、まず赦しを求めて私たちをキリストの十字架へと駆り立て、次に私たちをその悪—もし十字架がなければ、私たちの魂を失わせることになる悪(マタ10:28参照)—から清める神の力を求めるように駆り立てる畏れなのです。

神の裁きの時

第一天使の使命において、神を畏れることと、その栄光をたたえることは、裁きと結びついています(黙14:7)。もし聖書が何らかの教えについて明確であるとしたら、それは明らかに、神が正義と裁きの神であられるという点です。いつの日か、この世に欠けている裁きと正義が、確かにもたらされます。

人々は神を畏れる必要があります。それゆえに、「永遠の福音」には裁きの現実が含まれます。これら二つの要素は、どのような関係にあるのでしょうか。もし福音が「良い知らせ」を意味するのなら、私たちはみな罪人であり、神の律法を犯してきましたが、裁きの日がやって来るとき、十字架上のあの犯罪者のように、自らの罪と律法違反に見合った罰を受けることがないということです。

問4 
次の聖句を読み、「自分の功績を拠り所にすることは、どれくらい役に立つだろうか」と自問してください(マタ12:36、コヘ12:14、ロマ2:6、Iコリ4:5)。

私たちの髪の毛の数を知っておられる神が、この世を裁かれます。しかし、まさにそれだからこそ、「永遠の福音」は良い知らせなのです。裁きはやって来ますが、イエスの忠実な弟子たち、主イエスの名によって洗われ、聖なる者とされ、義とされている者たちは(Iコリ6:11)、罪に定められることがありません。なぜなら、イエス・キリストが彼らの義であり、彼らがその裁きを通過できるようにさせるのはキリストの義だからです。

「人間はこのような告発に自分で対処することができません。罪に汚れた服に身を包み、自分の罪を認め、人間は神の前に立ちます。しかし、私たちの擁護者なるイエスが、悔い改めと信仰によって自分の魂を彼に預けてきたすべての人たちのために、効果的な嘆願をしてくださる。イエスは彼らの言い分を申し立て、カルバリーの力強い証拠によって訴える者を打ち負かします。十字架の死に至るまでイエスが神の律法を完全に守られたことが、天と地の一切の権力を彼に与えたので、イエスは罪深い人間のために憐れみと和解を父なる神にお求めになります」(『教会への証』第5巻471ページ、英文)。

天と地を造られた方を礼拝せよ

問5 
黙示録14:6、7を読み直してください。第一天使の使命全体の中には、どのような具体的要素がありますか。それらはいかに関連し合っていますか。

福音、この世に告げ知らせよという命令、神を畏れ、その栄光をたたえよという命令には、創造主として神を礼拝せよという命令が伴っています。それもそのはずです。「いま持っている真理」のほかのすべての側面(永遠の福音、告げ知らせよという命令、裁き)は、私たちの創造主としての神を離れてどんな意味があるでしょうか。これらの真理も、ほかのあらゆる真理も、主がすべてのものを創造されたという基本的な真理から生じるのです。創造主として主を礼拝することによって、私たちは基本に立ち返っています。人間とは何なのか、生きているとはどういうことなのか、地上のほかの生き物と違って神にかたどって造られるとはどういう意味なのか、といった基本に立ち返っているのです。創造主としての主を礼拝することで、私たちは、自分が存在するために、また未来の希望のために、主に依存していることを自覚します。だから、第七日安息日を守ることは、とても重要です。それは、神だけが私たちの創造主であり、私たちは神だけを礼拝するということの特別な承認です。つまり、福音や裁きとともに、創造主として主を礼拝せよという命令が、ここでは強調されています。

黙示録14:8〜11を読んでください。この聖句は、創造主として主を礼拝することの重要性について述べています。終末の諸事件が繰り広げられるとき、創造主ではなく、獣とその像を拝むようにという圧力が世界中にかかるでしょう。獣とその像を拝む者たちの運命に関する恐ろしい警告を考えるなら、私たちは、人間の礼拝を受けるに値する唯一の創造主として神を礼拝することが強調されるわけを、もっとよく理解できます。終末の危機の中で、この真理はかつてないほど重要になるでしょう。

さらなる研究

聖書の研究者たちは、黙示録14:7の「天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい」という命令と、出エジプト記20:11の第4条との間につながりがあることを昔から気づいていました。安息日は、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造(れらた)」(出20:11)という事実を指し示しているからです。言葉遣いは非常に似ていますが、黙示録の聖句には変更点が一つあります。そこでは、主を「水の源」を造られたお方と指摘しているのです。

神学者ジョン・ボルドウィンは、こう論じています。「『水の源』という語句の裏に神の意図があるとすれば、なぜイエスは天使に、出エジプト記20:11で列挙されている類似したものに変更を加えさせられたのだろうか。なぜ天使は、木とか、鳥とか、魚とか、山とか、何かほかの種類の被造物ではなく、『水の源』と言ったのだろうか。

神の裁きという特別な時の到来に関する神聖な告知という状況で『水の源』に言及したのは、たぶん読者の注意を、神の裁きの前の時代に向けさせようとしてのことだろう。……恐らく神は、『水の源』という言葉によって洪水をほのめかすことで、御自分が永遠に誠実で恵み深い神であるとともに、確かに裁きの神でもあるという真理(いずれも創世記の洪水物語の中で裏づけられていること)を強調しようと意図しておられるのだろう。もしそうであれば、『水の源』という語句によってもたらされる洪水という含意が持つ個人的かつ霊的な意味は、黙示録14章の第一天使によって今や告げられた個人個人の神の裁きの過程が、新たに終末時代に由々しくも到来したことを、読者に真剣に受け止めさせようとすることなのかもしれない」(『創造、大災害、カルバリー—地球規模の洪水は、なぜ贖いの教理にとって不可欠なのか』27ページ、英文)。

*本記事は、『終末時代への備え』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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