愛された福音書【ヨハネによる福音書の解説】#4

目次

御霊は主イエスに取って代わられる(ヨハネによる福音書13章31節〜16章33節)

主イエスが弟子ひとりびとりの足を全て洗い終えられてからは、彼らが横になっていたその部屋全体に十字架の影が入り込み始めました。主イエスは本当に彼らから離れ去って行こうとしておられるということを弟子たちは気づき始めておりました。ヨハネによる福音書一三~一六章には、主の御臨在を実際の目で見れない状況でも、どのように生きるかについて、主が弟子たちに語られたことの記録です。主がその時に言われたことは、直弟子たちとさえ交わることができずに生きねばならない第二世代のキリスト者たちにとっても助けになる御教えでした。

ヨハネによる福音書のこの部分には、世界の音楽のあらゆる音色が満ち満ちて溢れ出てくるような豊かさがありますが、その思想の流れの全てを把握することは困難です。ここはあたかも、主イエスの偉大なる御言葉の全てをヨハネは自分の背負い籠に入れて運び歩き、それからそれらの御言葉を全て彼の書いた福音書の中に投入し、求められる場合にはいつでもその中から必要な思想を引き出せるようにしているかのごときです。勿論主イエスの説教はヨハネが記録して私たちのために残してくれているものより遥かに長いものであったに違いありません。たとえそこから流れ出る思想を完全に把握し、従うことは困難であるにせよ、ヨハネは、彼のでき得る限りを尽くして、主の与えられた御教えを保存しようと決心したようです。

甘美な悲しみ?

「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(ヨハネ一六ノ七)と言われました。新国際訳の聖書によれば、「わたしが去っていくのは、あなたがたの益のためだ」(新共同訳も同じ意味です。訳者注)ということになります。弟子たちには信じ難いことであったに違いありません。自分が愛している誰かを失うということの中に何か益となるものを見ることは困難です。自分の大切な一部となっていたものが、切り裂かれ、達し得ない所に持って行かれてしまった場合、どのようにしてそれが益であり得るのでしょうか。シェークスピアは、「別れは甘美な悲しみ」と言いました。私は悲しみは知っておりますが、しかし、甘美ということについてはそれ程定かではありません。

数年前、私と彼女とは、苦くも甘美な関係を持ったことがあります。最大に見積もって、それははなはだ良かったのです。私たちには共通のことがたくさんありました。しかし、私たちの違いのためにしばしば互いに関係の調和を欠きました。私たちは長時間かけて話し合いました。私たちの持つ標準や味わいは同じでしたが、た多くの困難もありました。彼女は気長な人でした。しかし、私は彼女の生き方を赦せるほど人間的に成熟してはおりませんでした。自分の描いている女性として彼女を作り上げるのに、懸命に努めました。彼女もそれに応えようと努力しました。しかし、私が彼女を変えるのに成功すればするほど、変わっていく彼女の姿を好きになれませんでした。

その夏、私たちは別れることにし、普通の友人関係になることを決心しました。しかしそれもうまくいきませんでした。共にいることも耐え難かったのですが、離れていることもできなかったのです。そこである日、問題を解決するために、彼女は私のところにやって来ました。

「私、家に帰ることにしました。そこからそれぞれもう一度始めてみましょう」と彼女は言いました。その家とは、約五千キロも離れた田舎です。

「そんなのは駄目だよ」と私は答えます。「それは余りに離れすぎで、君なしでは私は狂ってしまう。もう少し互いに工夫してみようよ。きっと、良い道があると思う」

「私には良い道があるとは思えない。私たち、もう二年間も努力してきたのに、うまくいかなかったじゃない!」と彼女は言います。

「そんなこと言わないで、もう一度試してみようよ。もし君が行ってしまえば、私の人生が駄目になってしまう」と私は言います。

「そんなことはないと思う」と言い、それから「私が去ることはあなたのためになると思う」と彼女は言いました。

私には確信がありませんでした。

一週間後、空港のターミナルで、私たちは互いに沈黙したまま立っておりました。言い残すことは何もなかったのです。全ては語り尽くされ、全ての叫びは尽き果て、疲れきって空っぽになってしまっておりました。彼女は乗務員に搭乗券を渡し、それから搭乗口へと入って行きました。彼女が視界から消え去った時、彼女の言葉が耳元に何度となく響き続けました。「私が去ることはあなたのためになると思う」

私は二度と彼女を見ることはありませんでした。

天来の御愛

主イエスは去って行こうとしておられました。弟子たちは見捨てられると感じています。主なしで、どのように生きていけるだろうか。しかし主は明瞭に、御自分が御父の御許に行かれることは彼らの益となるのだと言明されました(ヨハネ一六ノ七)。御父と共なる主の御臨在は、彼らの愛にも(一三ノ三四、三五)、彼らの祈りにも(一四ノ一三、一四)、彼らの服従にも(一四ノ一五、二一)、御約束の御霊を通し(一四ノ一六、一七)、力を与えることとなるであろうとの言明です。

人間の愛はともすると、何か自分を引き付ける対象物とか、見返りに提供してくれる何かを有している人々に焦点が向いて行く傾向があります。それは、美しいもの、富めるもの、心を引く印象的なもの、また力強いものなどに向いて行くのです。しかし、主イエスの弟子たちの愛は、これらとは別な性質のものであるべきです。彼らは互いに愛すべきであり、それは主が彼らを愛されたようにです(一三ノ三四、三五)。人々は通常、好都合な場合でなければ助けないし、傷つくような場合には与えることはありません。またやり返すことなしで、あざけりや非難に直面しようとはしません。主が彼らを愛されたように、弟子たちが愛する時、人々は何か特別なことがそこに起こっていると感じ取るようになるのです。

それでは、どのようにして人はこの愛を学ぶのでしょうか。他の人々を愛することにおいて、私たちが表現する方法は、私たち自身が体験したような愛です。私たちが受けた愛が、虐待や統制されたものであれば、私たちの愛の傾向は、虐待的、統制的に他の人を愛する傾向となります。私たちが主イエスの御愛を体験した度合いに応じて、他の人々を真に愛することができるようになるのです。大いに愛された人は多く愛せるのです。

ヨハネによる福音書一三章から一六章に見られる主イエスの別離に際しての教えにおいて、御自分と弟子たちとの関係のモデルとして、主は御自身と御父との関係とを示されました。父なる御神が御自分を愛されたように、主は弟子たちを愛されたのです(一五ノ九)。主が御父の愛の命令に従われたように、弟子たちも主の愛で愛するという命令に従うべきなのです(一五ノ一〇)。同様に未信者たちと弟子たちの関係は、この世が主イエスに対して持っている関係と平行しております(一五ノ一八)。この世の弟子たちへの憎しみは、主への憎しみに端を発して大きくなって行きます(一五ノ二二~二五)。世の価値観はしばしば御神の価値観と正反対です。それ故、世の支配にとって不都合である者たちに対し非寛容な世界では、主の弟子たちはしばしばその居場所がないと感じることになります。

しかし、弟子たちにとっての憎しみや迫害といったマイナスの経験は(一五ノ一八~二五、一六ノ一~四)、主が御父の御許に行かれ、世に御自身の霊を送られることからもたらされるもろもろの祝福により、相殺されることになります。

主イエスは「さようなら」と言われる

主は弟子たちに「さようなら」と言われるのですが、弟子たちとのこの別離は、決して主の御働きの終わりを意味しないことを、弟子たちには知って欲しいと願われます。二つの代理が主の現臨の置き換えとなるのです。主は引き続き、御霊を通し、御自身並びに御父を彼らに啓示し続けられます。しかし、それが全てではありません。御霊によってぶどうの木に接合された枝として、弟子たちひとりびとりは世に在って、主の居られた立場を取ることになるでしょう。彼らの言葉や書き物を通して、彼らは主をして、新しい世代の人々にとっても現臨となるようにするのです。この考え方に関して、特に注目に値することは、今日の我々の世界においても、信じる者たちのその言葉や業は最も明瞭な、しかも唯一の、多くの人々がいつでも見れる、主を描き出している絵画でもあるという点です。

主が去られることが、何故弟子たちにとって益となったのでしょうか。主イエスは次のような幾つかの理由を示しておられます。

主は御霊を遣わされるのですが、この御霊は、主が従わねばならなかった人間の限界に縛られる必要がない御方です。御霊を通し、主の御働きの、あらゆる祝福が彼らのものとなり続けます(ヨハネ一四ノ一六、一七、二六、二七、一六ノ七~一五を参照のこと。これらの聖句については後程もう少し詳しく触れてみることにします)。

御聖霊の影響下での、弟子たちの努力を通し、主イエスの御働きが全世界に広がり、全ての人々に対し、全ての場所で影響力を及ぼすこととなります(一四ノ一二)。

加えて、主の御父の御許における御執り成しの御約束は、弟子たちの祈りをして、新しい高みへと力づけることとなるでしょう(一四ノ一三、一四)。御聖霊の御業は弟子たちの人生の中で、主の愛を実体験させることとなり、これが世の人々に確証を与える力となります(一五ノ一二~一五、一三ノ三四、三五)。彼らの主に対する愛並びに互いに対する愛が深められるにつれ、愛の戒めに従う力を得ることとなります(一四ノ一五、二一)。御旨に高度に従い行き得た時、たとえ主が彼らの視界から去った悲しみの内にあっても大いなる喜びをもたらすことになります(一五ノ一〇、一一、一六ノ二〇~二二)。主イエスの不在と戦う彼らの経験は、第二世代キリスト者たちのため、しっかりとした土台を提供し得るようにさせるのです。ぶどうの木に接合された枝のように、彼らは豊かな実を実らせることとなるのです(一五ノ一~八)。

主が去って行かれることは彼らの益になるという主の御言葉を受け止めることは、極めて困難であったには違いないとはいえ、時間の経過と経験の積み重ねは、その御言葉が真実であることを証明してきております。あの別離の若い女性と私自身の人生とをより良いものにするためと言って、彼女が家に行ってしまった時がそうでありましたようにです。彼女は幸せな結婚をされ、また自分の職業においても、今日非常な成功を収めているし、私とて、彼女が去って以来、豊かに祝福されて今日に至っております。彼女は私たちの関係の困難に際し、その責任は何らないのに、それにもかかわらず、彼女がとったその無私の決断と行為とは両者にとって祝福となりました。恐らくシェークスピアが「別離は甘美な悲しみ」と言った時、結局それは正しかったのでしょう。

代替え

バスターはなんといっても普通の猫でしたが、私たち家族はこよなく彼を愛しておりました。特別な品種でもありませんし、その毛の色は一般的に言って、奇妙と思えるようなトラ猫です。しかし、彼は猫族たちが人を楽しませるようなあの二つの特性を兼ね備えておりました。第一に彼は、まさしく猫でした。彼の支配地(私と隣人の庭の両方を闊歩していた)にあっては、彼が外に出て来ますと、その地域にいる全てのねずみも、シマリスも、普通のリスたちも、モグラも、鳥たちも皆、とりわけ警戒心を示します。この強力な狩人は殊更に優越を誇示するかのようにして、彼の領土を徘徊しておりました。彼の猫特有のおどけたしぐさは、時には何時間も私の子供たちを楽しませたものです。そして一方、これとは反対に、彼が子供たちと共にいる時は、彼はあくまでも優しく、あたかも彼の全遺伝子組成には唯の一個も暴力の染色体がないかのように、愛情あふれる存在でした。従って、彼はとても愛されたのです。

バスターは十二時間以上我が家を空けたことはありませんでした(しかし、例外はありました。祖母の家に連れて行った時は、時を忘れるかのようにしてゆったりとしておりました。これは単なる私の推測ですが、祖母の家では、彼は子供時代の懐かしい寝そべりでも思い起こすのかもしれません)。

しかし、ある時になって彼は消えたのです。七二時間もの間、消息が全く不明です。一日たった頃からずっと、私たちの家族は皆で心配やら恐れが募ってゆくのを抑えることができませんでした。三日たって、家族全員特別な祈りの時を持ちました。私は今でも、その時の家内の祈りを耳にすることができます。「主よ、たとい彼がどこかで死んでいるにせよ、どうぞ連れ戻してください。そうすれば、何が起こったかを知ることができますし、知りたいのです。もし御旨なら、どうぞあなたの御使いを遣わされて、彼を連れ戻せるようにしてください。私共は彼に何が起こっているのかを知りたいのです」

家内の祈りは危険な程に効果的です。次の朝、彼女は窓辺で、霊的時間を過ごしておりました。その時突然、彼女は大声を張り上げました、「あれはバスターだ! あれはバスターだ! 彼が戻ってきた! 彼は庭にいる!」私たちは全員いろんな格好のまま、裸は裸のまま、着ている途中の者はそのままで、庭に飛び出して行きました。さまよっていた愛しいバスターに挨拶するために。彼は明らかに疲れきった様子で、庭の一番端の隅っこに横たわっておりました。脇腹に大きな穴が開いていてハエや蛆虫が一杯に群がっておりました。喜びと涙とが入り混じる中で、家内の祈りに答えられたのであることを私たちは気づきました。バスターは「さようなら」を言うために家に帰ってきたのでした。

彼の状況に落胆しながらも、優しく抱いて家に運び込み、それからすぐさま獣医に電話をし、病院に連れて行きました。薬効があってか、一時は急速に回復の兆しがありましたが、再び逆戻りの状況となってしまったので、この勇敢な私たちの愛猫に最後の別れの挨拶をするために、家族全員でその病院に行きました。彼が私たちを見た時、私たちに猫らしい挨拶をしようとして、苦闘して前足を動かそうとする素振りを見せました。しかし、それから床に倒れるように伏せてしまいました。息をすることも目を開けておくのも困難な様子でした。私たち皆は、これが最後だと思いました。悲しみの余りの泣き声と溢れる涙とをもって私たち家族五人は、私たちの彼に対する最後の愛を示しました。動物病院を後にして、太陽が燦々と輝いている戸外に出ました。しかし、その日は何と暗く思えたことでしょうか。

バスターが死んだという知らせが病院からあった時、家内はすぐさま子供たちに向かって言いました。「今私たちがしなければならないことはわかってるつもりよ。あなた方には、何か愛玩動物が必要なの。今すぐペット・ショップに行ってバスターの代わりになるものを見つけましょう」 十代になっていた子供が言いました。「ママ、それは無理よ! バスターに代われる猫などいるはずない!」

しかし家内は、自分の決めた目的を躊躇なく実行に移しました。数時間後に我が家には、スヌーパー(今まで見た中でも最も詮索好きな猫)がやって来て、家のあちこちを探索しておりました。彼はバスター同様、血統書付きの猫ではありません。彼は亀の甲のような斑点と、とりわけふかふかした毛を持つ猫でした。彼は優雅で、しかし余り言うことを聞かないタイプの猫でした(何故人間というものは、食卓の上や調理台や食器戸棚を自分たちだけで使うべきだとするのだろうかと考えるような気質の猫)。彼、スヌーパーはバスターの代わりとなったでしょうか。そのような面とそうでない面とがありました。愛するものを失った時、それは決して代わりのものでは補い得ない何かが失われるものです。しかし別な面でスヌーパーは、バスターがそうであったように、我が家にあっては特別な存在となりました。私たちの心の中で独特の位置を占めるようになっております(確かに、一つの出来事のみが私たちに完全をもたらすでしょう。それはバスターもスヌーパーも両方共居るようになることです。恐らく主が御再臨なさる時にそれが……)。

御聖霊を紹介する

ヨハネによる福音書には、十一箇所で、直接間接に御聖霊の御性質や御働きに関する言及があります。その内の五つは、本書の全般にあちらこちらに散見します。もう一箇所は、主の復活後、弟子たちへの御自身の顕現に関係して用いられております。他の五つはヨハネ一三章から一六章の別離の説教の中に登場します。

最初の部分の五つの場合は、御聖霊の厳密な御性質についての言及はほとんどなく、ただ通りすがりのようにして御霊のことが述べられているだけです。あたかも、著者ヨハネは、この部分では読者の心にいわば種まきをしておいて、後半の主イエスの別離の説教を読み進む中で、豊かな芽生えを見るようにと意図していたかのごとくです。これらの最初の部分から私たちが学び知る事柄は、バプテスマのヨハネが主をキリストと認識し得たのは御聖霊によるものであったこと(一ノ三二、三三)、御霊は、人が御神の国に入るのに欠くべからざる役割を果たされる御方であること(三ノ五、六)、礼拝は特定の場所や神殿に結び付けられることはなく、また特定の民族にも限られるのではなく、御霊とその御働きによって変えられた新生の真心とによるものであること(四ノ二三、二四)、主の御言葉を通し、御霊はどんな場所でもどんな背景のどんな人々にも有効に御働きになられるのであること(六ノ六三)、十字架という光を通してのみ御霊のお働きの厳密な御性質がわかり得るのであること(七ノ三九)などです。この福音書の終わりの部分では主イエスは弟子たちに「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(二〇ノ二二)と。この聖句は、ヨハネ七章三九節での主の御約束が、主イエスの十字架上の「栄光」の後、直ちに成就し始めたのであることを示しております。

すでに述べましたように、御聖霊に関する重要な説教は、主イエスの別離の説教の中心にまとめられて登場してまいります(ヨハネ一四ノ一六、一七、二六、一五ノ二六、一六ノ七~一一、一三~一五)。主は御聖霊に特別な呼称を与えられたことをヨハネは伝えております。英語でしばしば、「パラクレート」(ギリシア語の音訳的英訳。訳者注)と訳出されているギリシア語の名詞を主は用いられたのです。この言葉は通常、「慰め主」とか「弁護者」(英語ではその他、助け主とかカウンセラー。訳者注)と訳出されております。

「パラクレート」とは誰かを助けるために傍らに呼び寄せられた人を指します。ですから法廷で被告に代わって弁護する弁護士をも表せる言葉です。ですから、「弁護者」とは、弟子たちが主イエスのことについて証言する時傍らに在って助けを与える弁護者としての御聖霊の役割(一五ノ二六)を表すのに用いられているわけですが、従ってこの用語は高度に法的概念を有しております。

「慰め主」(慰めのため傍らに立つように召された者)としての御霊の御存在という考えも、主の別離の説教には見られないわけではありません。主の別離の後、もし御聖霊が遣わされることがないなら、弟子たちは孤児のようになってしまったでありましょう(一四ノ一八)。主を見られなくなった悲しみと戦う弟子たちを助けるため、御霊は来られるのです(一六ノ六、七)。

主イエスが御霊を送られるにあたっての目的は二つあります。第一の目的は、主が「彼らと共にいつまでもいる」ためです。言い換えると、主は弟子たちのため、永遠に御神の御臨在を彼らが感じ取れるよう前もって用意されたのです。第二の目的は、御聖霊は「別の弁護者」と呼ばれていることからして、弟子たちにとっては主が元来の「弁護者」でありました。主が御霊を「別の弁護者」と言われる時、それは主が天に帰られ、すなわち弟子たちから結果的に見えなくなられるその間中、御聖霊が主の役割に取って代わられるということを意味しております。

ヨハネによる福音書の研究の結果、御聖霊の御働きは非常に重要であることは明らかです。しかし、御霊に対する興味がもしも、私たちの注目を主から引き離すならそれは健全ではありません。何故なら御聖霊は御自分に注目を引くために来られたのではありませんでした。すなわち御霊は、人間をして主を崇め賞賛させるためにこそ来られたのです(一六ノ一三)。御霊はこの地上における主の代理者あるいは大使なのです。御霊に耳を傾ける時、私たちは、主イエスに耳を傾けているのです(一四ノ一六、一七、二六、一五ノ二六、一六ノ七~一一、一三~一五)。

御聖霊が主イエスの置き換えであると言われるのは以上のような意味においてです。御霊は弟子たちにとっても世の人々に対しても、キリストを引き継いだ御方であり、キリストの代理者であります(一四ノ一六、一七)。肉において最早不可能になった主イエスが直接教えられるという御業を、主に代わって、御霊はどにいても、それをなすことになるのです(一四ノ二六、一六ノ一三)。主が最早できなくなった証しを、主に代わって御霊がなすことになるのです(一五ノ二六)。御霊を通し、主はこの地上で引き続き栄光を御受けになるのです(一六ノ一四)。

一方主の御光によって、その暗い面が曝された人たち全ての人々に、主イエスが審判と罪責の念を常にもたらしましたように、御霊も同様に、世に対する働きをなし、罪責の念を与え、義を提供し、来るべき審判についての警告を与えます(一六ノ八~一一)。この世は主を拒絶しましたし、今日とても同様です(一五ノ一八、二〇)。世が絶えず反逆するにもかかわらず、御霊は罪を自覚させる働きを継続し、第二世代のキリスト者たちは、御霊の御声を通して、主の御声を聞き続けるのです。

他の何にもまして、常に現臨し有効な働きをなさる御聖霊は、たとえ私たちが主をこの目で見ることも触れることもできなくても、私たちの人生の中で、主の御臨在を現実のものとなさせます(一六ノ一三~一五)。御霊は主との関係に入った者たちの内面で、現実的な、超自然の御働きをなし、彼ら自身をして御霊のお導きと慰めとに身を委ねさせるのです。実に、主が去って行かれたことは、私たちの益となったのです。

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