主の復活の力(ヨハネによる福音書20章1節〜21章25節)
「私は、まだ信じられない」と、トマスは宿でその苦衷を妻に打ち明けます。
「あんなことは絶対にあるべきではなかったんだよ」
「しかし、あなたはなぜ逃げたの? 逃げる以外に何かできることはなかったの?」
「また思い出させるのかい。結局、私はだまされて来たんだよ。それも三年以上も自分の人生をかけて付き従ってきたんだ。それがこんなことになってしまったら、誰だって、どうしたらよいかわらなくなってしまうだろうよ。だから、磔はりつけにされているあの人を見るのは、私には耐え難かったんだ」
こんな同じ繰言を、トマスはもう二十回以上も語ったでしょうか!
「だけど、あの人はあなたを必要としていたんでしょ!」と彼の妻。そして矢継ぎ早に言い続けます。
「私は、あの人が群衆を見回しているのを見ましたよ。誰かお友だちの顔を。そう、誰であっても、誰か心にかけてくれる人をきっと探しているようでしたよ。あなたはそこにおりましたか。いなかったですよね。十二人のお弟子さんたちの中で、誰がそこにいましたか。誰もいませんでしたよね」
「君はまたまた大げさなことを言っている。君は自分で言っていたではないか。ヨハネがその足元まで兵士に頼んで行かせてもらっていたと」
再びトマスの悲しみは怒りへと変わって行きます。こんなことがもう何回となく繰り返しております。
「ああ、そうだったわね。ヨハネさんが確かに数分間だけあの十字架の足元に行っていたわ。しかし、それはただ、あの人の母親をそこへ連れて行っただけのことよ。彼の顔を見たらわかると思うけど、できれば別なところに身を置きたかったんですよ、きっと。あそこではなく別な場所にね」
「それでその勇敢な君、一体君はそこで何をしたというのかね」
「兵隊たちにとがめられないように、注意しながら、できるだけ側近くに行ってみようと努力してみたわ。しかし、イエスはほとんど私を知らないはずだし、一体そういう状況でどんな助けになることを語れるというの。それに、私は話し上手でもないし」
「君はまた、無駄口をたたいている。君はいつもいい仕事をしているよ。いつも言葉の攻撃で私を打ちのめしている。ほっといてくれ! 外で少し空気吸ってくる」
「また逃げるんですか?」
今や彼女は流暢です。戸口の方まで身を半分だけ乗り出すように追いかけて来て、追い討ちをかけるようにして言います。「あなたは、イエスは逃げるように教えられたと考えているんでしょう。あなたの仲間たち皆がそうしたように」
トマスは耳を両手でふさぎながら、大股で宿を出て行き、女性のいわゆる「良識」なるものから再び、逃避を試みました。それは、太陽の光が燦々と降り注いでいる月曜の昼下がりのことでした。これよりたった三日前にイエスは死なれ、葬られたのです。昨日イエスのその墓で、奇妙なことがあったといううわさが広がっておりましたが、トマスはそんなうわさに耳を傾けるつもりも無論ありません。ふと正気に戻った瞬間には、そうだ、ガリラヤにもう一度戻って、何か漁業の働き口でも見つけなければなるまいなどと、ひとり思い巡らしている自分がありました。なんであれ、食べてゆかねばならないわけだからと。
三百メートルも行かないうち、トマスは、ヨハネがこちらに向かってやってくるのを見ました。梃子でもへこたれないすごくいいやつ、ヨハネ。奴は切り替えが早いな。今はもう全くもって元気一杯になっているように見える! 金曜日以来彼も耐え難い苦しみを味わってきているはずなのに。木曜の夜のあの晩、過越しの食卓で、彼は主イエスの一番近くに座った男。弟子たちのうち唯一、十字架の足元にいた男。キリストに一番愛されていると口癖のように言っていた男。このヨハネの言い方からすれば、主イエスの死は、一つの祝福として考えてみなければならないということなのだが。今トマスが最も会ってみたいと思っていたのはこのヨハネでした。しかし、この索漠とした状況。友を避けて逃げ惑い、妻からも軽んじられて、こんな状態で彼に会ってみたところで一体それが何になろう!
「トマスさん。会えて本当に良かった。とても嬉しいです。信じられないでしょうが、私たちは主イエスにお目にかかったのですよ! 昨夜、主と最後の食事をしたまさにあの部屋に、主イエスが入ってこられたんですよ。そして、『あなたがたに平和があるように』と言われたんですよ。私は一瞬疑いました。すると主は手の釘跡を見せ、また脇腹の傷をも見せられました! それはまさに、トマスさん、まぎれもなく主でありました! 主は生きておられるんですよ!」
ヨハネはいつもながら、興奮を全身にみなぎらせて、もう制止しきれないといった状況です。しかし、トマスの表情は冷静でほとんど変わりません。
「しっかりしなさい、ヨハネ」と落ち着いた声でトマスは言いました。「今まで君はずっと休むことなく語り続けてきているようだ。私にはそんな話を聞く余裕はないよ」
「ですが、トマスさん。これは本当の話なんですよ!」トマスのためを思って、少し調子を落として語れるようにと努めながらも、ヨハネは熱心に応答します。「私は主を見たのです、昨夜。私たちは主の御声を聞いたんです。私たちの目の前で食事さえもされたんですよ!」
「だが、君は主に触ってみたかい?」とトマスは言い返します。
「どうして私がそんなことを! あなただって、主の身体中に触るなどという振る舞いはなさらないでしょう!」
「ヨハネ、よーく聞きなさい。私は自分の目で、主の手にあの傷跡を見、その脇腹に自分の手を差し入れて確かめるまでは、信じない」
疑うトマス
ヨハネによる福音書二〇章に見る「疑うトマス」についての話は、四福音書の中でもユニークです。本書の最初の方で触れましたように、使徒ヨハネは二つの世代を対照的に浮き彫りにして見せるため、この物語を記しました。第一世代の人々は、人として歩まれた主イエスに、直接お目にかかることができましたし、主にお目にかかることができた他の人々をも知っておりました。ですから第一世代の人々は、主に直接出会ったり、その御声を直接耳にし得たり、また主に触れ得たことに、その信仰の土台を置くことができたのです。それに対し第二世代の人々は、誰もそのような経験を持ち得ないのです。彼らの信仰は、第一世代の人々が書き残した主イエスについての諸々の証言を基にして築かねばならなかったのです。彼らは一度も主を肉眼では見たことがありません。直接御声を聞いたこともありません。主に触れることもまた御手によって直接なされたとてつもない奇跡を目撃するということも皆無の世代の人々です。
最初誰でも、第二世代の人々は非常に不利な条件下にあるように思えることでしょう。しかし、使徒ヨハネは、この福音書を用いて、第二世代の人々は、実は、大変有利な条件下にあるのだと指摘するのです。第二世代の彼らは主を見れないし、触れ得ないので、彼らの信仰はそのような体験に依存しないのです。彼らの信仰は日常の揺れ動く出来事に従属しないのです。彼らは主の奇跡の持つ霊的意味の重要性を第一世代の人々程には看過しないで済むように思われます。
このお話の中で、トマスは第一世代の信仰者を代表しております(二〇ノ二九~三一を参照)。信じるためには、彼は主に触ってみるということが必要でした。彼は、その信仰を持続させるためには奇跡を必要としておりました。結果として彼は、第二世代の人々の信仰について主が宣言された祝福を見失うところでした(二〇ノ二九)。主の御言葉は、主に直接触れるのと優るとも劣らぬ程に有効であり、御聖霊の御臨在をいただけることは、主の肉体的現臨をいただくより遥かに良いこと(一六ノ七)、主が去られた後では、主御自身が成されたことよりも更に大いなることが弟子たちによって成されることになる(一四ノ一二)といった、ヨハネによる福音書に見る主の御教えは、トマスにとっては真に理解に苦しむ内容の教説であったに違いありません。それにも拘らずこの物語は、御神の御憐れみをも表示しております。トマスの信じることの困難さにもかかわらず、主は彼を見捨てられません。むしろ主は、彼が必要としていた証拠を提供されたのでした(二〇ノ二四~二八)。
主の復活の御力
主の復活は全歴史の出来事の中でも最も驚嘆すべき出来事でした。私共、今の世代の驚くべき科学や技術革新にもかかわらず、私たちは、今もって、どのようにして死んだ人間を生き返らせ得るのか、その糸口さえ見いだしてはおりません。もし人間を死から復活させ得るような力を持っている人があれば、それがたとえどんな人であろうと、人類が必要としているものは何であっても、提供し得る力を持っているに違いありません。それ故、キリスト者信仰の中心には、主イエスが死から復活されたのだとという証しが据えられているわけです。その復活を与えられた御力は、それ以来ずっと、キリスト者たちの歩みの中での御神の力強い御働きの根拠となっております(コリント二・五ノ一四~一七)。復活を与えられた御力こそは、今日のキリスト者人生の内に見られる無限の御力を計る基礎です。
それでは一体何故、この「無限の御力」が、今日多くの教会の中であまり見られないのでしょうか。何故にこの世俗社会の中で御神の力強い御手を見るのが非常に困難なのでしょうか。それは簡単に言えば、私たちが忘れがちであるからです。御神が成された驚くべき事柄を忘れた時はいつでも、イスラエル人たちは信仰の力を失い、御神の御臨在感を喪失しました。過去において御神が何をなしてくださったかを思い起こした時にはいつでも、それらの過去のもろもろの御業の御力が彼らの歩みの中に再現される経験をしたのです。実際、旧約時代の霊的生活の肝要な部分では、彼らは、歴史の中での御神の力強い御業を繰り返し思い起こして見ております(申命記六ノ二〇~二四、二六ノ一~一二、詩編六六ノ一~六、七八ノ一~五五、一〇五~一〇七編などを参照)。
歴代誌下の第二〇章には、イスラエルが三つの国の連合軍によって攻められようとしていた時のことが記されております。事は非常に暗澹たる状況に見えます。ヨシャファト王は民に共に祈るよう呼びかけます。もしも、私が王であれば、御神が今すぐ何かしてくださるように懇願し、(馬がいななくように)嘆願したでありましょう。しかし、ヨシャファト王は、御神が過去に一体どんなことをイスラエルのために成されたかを語ります(歴代誌下二〇ノ五~一二)。王がそうした時、御神の強力な御力が解き放たれます。実に見事な成り行きですが、聖歌隊が対峙しただけで、連合軍は滅ぼされて行くように御神は取り計らわれたのです(歴代誌下二〇ノ一三~二五)。ヨシャファト王が、御神がどのようにして出エジプトの時イスラエル民族を奴隷から解放されたのかを御神に念を押しました時、出エジプトの時の御力が再び解き放たれたのです。
旧約時代に真実であったことは新約時代にも真実であるのです。御神の最も力強い御働きは、御神が主の十字架において成され、またその復活において成された事柄です。力あるキリスト者の歩みの秘訣は、キリストの出来事を常に繰り返し語り続けることにあります。主イエスについて語るということは、むなしい繰言ではありません。自分たちのためにキリストは何をなされたかを他の人々に語ると、それを語る全ての人々に復活の御力が解き放たれるのです。
ですから、自分たちの信仰を語り、証しすること、それはキリスト者の経験の中でも極めて本質的な部分を占めているのです。御神の御力について何も語られていないところでは、何の力の現れもありません。しかし、御神がなされたことを語る時、それは、教会にリバイバルと改革をもたらします。復活の御力は、形式化された形だけの宗教を、生きた力に満ちた宗教へと変えるのです!
今日の世代の人々は、冷たく、命のない、形式的で、規則尽くめだけの宗教に少しも関心を示しません。何故そうなのでしょうか。そこは退屈で、生命の躍動感がありません。それは気力を削ぎ、精神を萎えさせるのです。その矯正手段は、御神がなしてこられたことを思い起こし、またそれを繰り返し語ることを通し、御神の生きた活動的御力の一翼を担うことです。旧約時代に御神がなされたことや、十字架で成されたこと、そして今に至るまでなして来られ、また自分自身の経験の中でなしていただいたことなどを思い起こしては語るのです。真のキリスト者人生は決して退屈でも、死んだようなものでもありません。真のキリスト者人生には、畏怖を抱かせるような御力と興奮で満たされているのです。より小さなことで自己満足し我慢することはまさに無意味なのです。
本福音書の結びから
第二一章は本福音書の結びとなっております。この結びの中心的出来事は、再度主イエスは弟子たちが必要としているものを満たすのに、遠隔操作でもって働き得る御自分の御力を示そうとしておられ、それを尋常ならざる魚獲りにおいて示しておられるという点です。主は弟子たちのため朝食さえも用意しておられます。この状況の中で簡略にではありますが、ペトロとの間の真に興味深い会話が収録されております。この会話の中で主は、たとえその弟子たる歩みが御神の理想から外れるようなことがあっても、御自身に従って来る者たちを、喜んで受け入れようとしておられる御自身の御姿をも表示しておられます。
主イエスはペトロに三度、御自分との関係の深さについて尋ねておられます。疑いもなくこの三度の質問は、ヨハネ一八章一五~一八節と二五~二七節とに記録されているペトロが主との関係を三度否定したことに関係していると考えられます。主は意図的に三度も問われたのです。一番最初に主は、「この人たち(すなわち他の弟子たち)以上にわたしを愛しているか」と尋ねられます。ペトロはあまりにも威張って、彼の主に対する忠誠心は、他の弟子たちのそれに比し抜きん出ていることを宣言しておりましたので(マタイ二六ノ三三)、主はこの点でペトロの今の考えを聞き出して、他の弟子たちにも聞かせておく必要があったと考えられたようです。その問いに、ペトロが率直に答えるのを躊躇している時、主イエスは彼の沈黙を告白として受容し、この点については更なる追及をしておられません。何が大事かと言えば、それは私たち自身と主イエスとの関係の深さであり、それは決して他の人々との比較における関係の深さの度合いではないのです。
一五節から一七節の部分では、三度の質問と返答、そしてそれに対する応答とが繰り返し描写されております。これは彼にとっては予期しない突然のことであるばかりではなく、主のなされようからすると少々手荒な仕打ちのようにさえ見えます。その狙われた効果といえば、痛みが伴うことにはなりますが、ペトロの内面奥深くまで探りをいれることでした。ペトロの自己過信や独断性は徐々に削り取られて行き、遂には自分の内には何もなくなり、ただ主が、自分の心を全て知っておられることと、また主は御判断において公平であられるとの、主のその確かさだけに依拠する者となるようにと、彼は変えられて行ったのです。
「苦しみなしでは得ることもない」が、霊的成長の法則であるように思われます。霊的に抜きん出て成長を遂げる人々は、通常非常な苦しみをこうむった人々です。そこにはその人々をして、飛躍的な霊的成長を遂げさせてくれるような、何か特別な痛みや損失や貧困や心の苦悩があったのです。愛情が深くても、外科医は患者の身体にメスを入れますが、それは癒すためであり、それと同様です。主イエスは、ただ表面的で、よく考えもせずに出される軽い返答には満足なさいません。御自身を愛する者たちの奥深い真の気持ちや動機に注意を払うようにとメスを深部に入れられるのです。しかしその過程にはしばしば代価を要求されることとなるのです。
この場の前後関係を見ると、あの三重の対話は、他の幾人かの弟子たちと朝食を摂っていた場でなされたものであり、弟子たちの面前でなされた会話であるように思われるのですが、二〇節を見ると、主イエスとペトロだけが湖岸を歩いているのが暗示されております。しかし更に、エレン・ホワイトの『各時代の希望』によりますと(下巻三五六ページ参照。訳者注)、三回目の質問にペトロが答えた後、二人は湖岸へ向かったとあり、その後の会話は、歩きながら道すがら交わされたこととなります。もし、そうであるなら、一五~一七節に記録されている三度の質問、返答、応答の取り交わしは、まさに他の弟子たちも聞いているところでなされたことになります。他の弟子たちも、あの大祭司の庭におけるペトロの否認のことをよく知っておりましたし、そのために失っていた信用失墜の回復が必要でしたし、生じていた相互不信が払拭されねばなりませんでした。真に新しい出発をするためには、公に知られている罪は、公に告白される必要があったのです。
霊的につまずいた時、何をすべきか
ペトロの場合のように、主イエスとのあなたの関係は上ったり下ったりする傾向があります。あなたはとてつもない喜びと霊的力強さを感じる時があるかと思えば、しかしそれからややあっては、古い罪に陥り、ペトロがそうであったように、果たして主はこんな自分をお受け入れくださるか否かと疑いを抱き始めるようになるようなこともあるかもしれません。そのような時、サタンは、あなたの顔に向けてその罪を投げつけ続けて、キリストへの信仰を閉ざさせようと努めるでしょう。
私たちが堕落してしまった時、主イエスは私たちにどのようなことをなさせるでしょうか。主との喜びの関係を十全に回復するための方法は一体どのようなものでしょうか。
①御神とはどのような御方かを知るようになさい。
一体、御神とはどのような御方でしょうか。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ二九ノ一一)。御神は私たちとは異なり、他の者たちの悪を思い巡らして座っておられるような御方ではありません。御神の御計画は私たちを栄えさせる御計画であり、滅ぼす計画ではありません。御神は私たちの味方です。
私たちは、このような御神をエレミヤ書の中に見いだします。御自分の不忠実な民を救出し、民の家郷に連れ帰られる御計画を七十年前に御神は立てておられました。私たちはまた、歴史上で最大の罪の一つを犯したダビデへの驚嘆すべき御赦しの中にこの御神を見ます。放ほう蕩とう息子を温かく迎える父親の内にこの御神を見ます。ニコデモからサマリアの女に至るまで、最も忠実な教会員から最もあばずれの罪人に至るまで、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、富める者であろうが貧しい者であろうが、男であろうが女であろうが、全ての罪人をことごとく歓迎して、招かれる御神を私たちは見ます。
罪に陥った時、私たちは、御神は罪人を愛しておられるのであることを思い起こさねばなりません。御神は罪人を赦されます。御神は罪人を受け入れてくださいます。時にはそれを求める前からです。御神は罪人に新しい生き方をお与えくださいます。示されているメッセージは、罪がどうでもよいということではありません。そうではなく、たとえどんな罪を犯したとしても、あなたは、確かに今から出発できるということなのです。驚くべき聖句、テモテへの手紙一・一章一五、一六節に注目してみてください。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは(まさにその理由の故なのだが)、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」(カッコ内は著者が強調のため挿入)
あなたは自分をひどい罪人と考えておられるでしょうか。パウロは自分を最たる罪人、全くの最悪の罪人であると言っております。そのことが御神の恵みや憐れみに近づかせる主イエスの手段を喪失させましたか。全く正反対です。彼が主からの憐れみを受けたのは「まさにその理由の故で」あったのです。御神の御恵みは、どれ程深いかを私たちに示すため、その生きた実例としてパウロを取り上げ選ばれたというのです。あなたが、御神の最も偉大な憐れみを求めることができるのは、まさに、自分は最たる罪人であると感じる、その時なのです。あなたが御神を必要とすればする程、ますます御神はその無限の忍耐と御憐れみを通し、あなたのことを生きた実例とするように、強力な準備をなされるのです。あなたが関わろうとしている御神とはそのような御方なのです!
②自分自身について真実を告げなさい。
聖書はこのことを告白と呼びます。告白とは単純にいって、事実に向き合うことです。そしてこの事実について御神に対し正直であるということです。告白するとはあなたの取った行動に対し責任を取ろうとするということです。あなたは自分の心痛をなだめ、だます環境下にあったかもしれないし、あなたはこのようななだめの環境下につまずいたままであったかもしれません。しかし告白では言い訳をしません。あなたは自分の目で真実を見据え、そして言い聞かせるのです、「私は失敗した。私は迂闊なことを選んでしまった。私は心惹かれて罪を犯してしまった。誘惑に遭う場に自分を置くように選択してしまったのだ。主よ、私はあなたに対する関係に焦点を合わせていなかったのです」
告白するということは、暗い部分を光にさらすということです。
「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハネ三ノ二〇、二一)
私たちの暗い部分を光にさらし出すことは非常な苦痛となります。私たちの自己評価低下への恐れの思いが反抗して、自分の真の思いに服従しないように働くかもしれません。しかし、もしも私たちの自己評価が十字架で持たせていただいている価値にその基礎を置いているなら、そしてもし、私たちが私たちを扱われる御神の御性質に気づいているなら、告白をもって前進することができます。何故なら、そうしないということは、自分自身をして、ペトロのあの後悔や、自責の念や、関係の喪失から来る苦しみに取り残されることになり、それ以外の何ものでもない状況に留め置くことになるだけなのでありますから!
③赦しを懇願しなさい。
それは簡単なことです。何週間も自分がいかに申し訳なく思っているかを公に示そうとして、悔い改めの苦しみを受け続ける必要はありません。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(ヨハネ一・一ノ九)。御神は、決して私たちの犯した罪を私たちの顔に投げつけることはなさいません。それをするのはサタンです。御神は、喜んで赦す前にたくさんの条件を積み重ねるようなことは決してなさいません。それらのもろもろの条件は、主イエス・キリストにおいて、すでに満たされております。「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです」(コリント二・一ノ二〇)
自分の個人的経験からして、赦しということは、他人を赦すことであっても、はたまた自分を赦すことであっても、私たちの人生における最も困難な事柄の一つであることを私は知っております。私は自分を傷つけるたくさんのことをなした上司のことを思い出します。この人を赦さねばならないことを私は知っておりました。私は赦したいと願いました。私は自分に幾度となく私は彼を赦していると言い聞かせました。しかしながら、この人が周りにいる時にはいつでも、私の胃袋は激しく逆流するのです。これを克服し、その面前でも圧力を全く感じなくなるのに、実に数年かかりました。
良い知らせは、御神はそのような御方ではないということです。主イエスをこの世に送られるにおいて、御自身の心はすでに私たちの方に向きを定めておられることを示されたのです。御神を恐れる理由は全くありません。御神の胃液が私たちを見て逆流するなどということはありません。御神は私たちを愛され喜んで赦されるのです。私たちがなさねばならぬ全てといえば、赦されることを喜ぶことです。そうであるなら、これは本当に難しいことでしょうか。確かに難しいことかもしれません。しかし、もし私たちが、ヨハネによる福音書の真理が私たちの心に浸透して行くのを赦すなら、徐々にではありますが、私たちは自分のもろもろの罪を告白することの確信を得、御神がすでに用意しておられる赦しを求めるようになって行きます。何と恵み深い御神であられることでしょうか。
④永久にその罪を捨て去るように計画しなさい。
使徒パウロは書いております。「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ローマ一三ノ一四)。罪がなおもあなたにとって、時として楽しみとなるような場合、一体どのようにしたら罪を棄てる計画が実現するのでしょうか。あなたがなさねばならないことは二つです。第一は罪を犯し続ける結果がどうなるかを書き出してみることです。例えば、性的罪の結果は、霊的優柔不断や隠し立て、主の愛顧や御臨在感の喪失、罪責感や恥辱を内包します。そして、これらはあなた自身の自己価値感を低下させ、後悔の念と、今も今後もあなたの結婚関係に種々の困難をもたらすことになります。試みがやって来る時、常にこの一連のリストを読んでみるのです。そして自分自身に、ほんのちょっとのこの快楽が、自分にこれら全ての不幸をもたらしても、それをなす価値が果たしてあるのか否かを問うのです。それはしばしば長い道程ではありますが、このようにしてみることで、あなたにとって罪はまことに忌まわしいものであるとする方向へと一歩前進させることができます。
なすべき第二のことは、自分の生活の仕方を整理し直して、更に悪行に陥る機会を最小限にするように努めてみることです。もしもあなたが、飲酒をやめたいと思えば、酒場には近づかないようにしたり、アルコールを売っている店を避けたり、飲み友だちとの交わりの時間を可能な限り最小限にするなどを計るのです。もしもあなたが性的問題で苦闘しているなら、自分の周りから、全ての誘惑を避け得るよう生活態度を整え、また考えや行いについて、あなたに確かな助言を与えてくれそうな信頼できる友人を探し求めるのです。
御神との平和、そして主イエスの御旨に完全におゆだねする歩みからもたらされる感情と比肩し得る素敵な感情なるものは他には全くありません。あなたの良心がきれいになり、あなたと御神との間、そしてあなたと他のどんな人々との間にも妨げるものが何もなくなった時に訪れる喜び!そのような喜びは他に存在しません。
あなたは格好だけの生き方をし、それをキリスト教と呼ぶこともできます。しかし、どうしてあなたは真実の生き方よりも劣等な生き方で満足してよいでしょうか。
真実な生き方を超えた素晴しい人生はあり得ないのです。そしてこのような生き方をこそ、あなたは愛された弟子によるこの福音書の中に見いだすようになることでしょう!
この記事は、ジョン・ポーリン(Jonathan k. Paulien)著、我妻清三訳『ヨハネー愛された福音書』からの抜粋です。
著者紹介
ジョン・ポーリーン博士
執筆当時アンドリュース神学院における新約聖書釈義の教授(2024年10月29日現在ロマリンダ大学教授)。7冊の著書、並びに100以上の雑誌記事や学術上の論文その他の出版物もある。ポーリーン教授は特にヨハネの手によるものと考えられている福音書や、書簡、黙示録などの研究の専門家である。仕事に一息をいれている時には、パメラ夫人並びに3人の子供たちと共にあることを喜びとしている家庭人でもある。
翻訳者紹介
我妻清三(わがつませいぞう)
1938年1月1日、宮城県生まれ。東北大学工学部、日本三育学院神学科卒。米国アンドリュース大学大学院(宗教学修士)、同神学院(神学修士、実践神学博士)修了。北海道静内、山形、木更津、芦屋、サンフランシスコ、刈谷、広島、茂原、光風台等で20余年の教会牧師。日本神学教育連合会・東北アジア神学校連合会幹事歴任。1990年来13年間三育学院短大・カレッジ神学科で教鞭。2003年4月退官時、教授・神学科長。牧師。結婚・家族関係カウンセラー。