この終わりの時【神は愛である—ヨハネの手紙】#5
ある者たちはあらゆる偽りを教えることによって人々を欺こうとしますが、真のクリスチャンは、広範囲に及ぶ背信が終わりの近い証拠であることを認めて、神に忠実に従います。
すぐそこに
サッカーの試合が大詰めを迎えています。どちらのチームも総力をあげて敵陣に攻め入り、決定的なゴールを決めようとしています。自転車競技が最終段階を迎えようとしています。競技者たちはフィニッシュを目指して全速力で走ります。マラソン・レースがもうすぐ終わりです。勝利のテープを目指して、最後の力をふりしぼって走ります。
これらは、長年にわたって苦しい練習に耐えてきた人々がよく戦い、勝利をつかんだ光景です。勝利者はみな「最後まで耐え忍んだ」人々です。
私たちもそれぞれのレースに参加するように求められています。走るときには、目指す目標地点に絶えず目を注ぐ必要があります。目前の賞をのがすことは愚かで無益なことです。ヨハネは各人に対して、今が「終わりの時」であることに心をとめるように教えています。終わりの近い今、途中であきらめたり、道をそれたりすることのないように、私たちに訴えています。
終わりが近づいている今、私たちもパウロのように次のように言いたいものです。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」(Ⅱテモ4:7)。
反キリストと終わりの時(ヨハネの手紙一2章18節、19節)
反キリストの出現によってです。欺きと反逆の声が次第に高まっているという事実が、「終わりの時」の到来を告げています。ヨハネはキリスト再臨の時を特定していませんが、イエスが明らかにされたのと同じしるしによって、時が切迫していることを示しています。「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである」(マタイ24 : 24)。
反キリストとは、サタンに欺かれて彼に従う者や、故意に自分のヨハネの言っている反キリストかつては教会に属していたのに、今は自分自身の独自の道を歩んでいる者たちのことでした。彼らは偽キリストであり、キリストの敵でした。
ヨハネの時代の反キリストたちが信奉していた教えは、今日でもしばしば見られるもので、サタンはそれらを用いて今日の教会を攻撃します。残念なことに、現代の多くの人々が聖書的なキリスト教を捨てて、サタンの偽りの教えを受け入れています。彼らは誠実であるかもしれませんが、誠実な分、誤っています。誠実だから正しい方向に進んでいると考えるかもしれませんが、誠実であれば、目指すべき目的に到達するという保証にはなりません。
世の終わりが近づくと、福音に対する敵意も強まります。終わりの時の究極的な反キリストは、ダニエル書と黙示録の預言の中に明示されています(ダニ8:25、11:42~45、黙示13:16、17、16: 13、14参照)。
非聖書的な教えに基づく宗教的な連合体が起こり、キリスト教を自称しますが、世俗の権力を支持して、忠実な神の民を迫害します。背信的なクリスチャンが異教徒と手を結び、心霊術の力によってイエス.キリストの力に取って代わろうとします。彼らは一般に受け入れられている非聖書的な教えを受け入れ、聖書の真理に忠実に従おうとする者たちを激しく迫害します。主にしっかりとつながっているときにのみ、私たちはサタンの偽りのわなから逃れることができます。
聖霊によって油を注がれる(ヨハネの手紙一2章20節、21節、26節、27節)
「聖なる方から油を注がれている」(Iヨハ2:20)という聖句は、私たちが善を知るのは神秘的な印象を受けることによるという意味であると解釈する人たちがいます。
「神の御言葉に啓示された明白な真理の証拠から心をそらせる傾向を持つようなものを、私は恐れる。私はそれを恐れる。私はそれを恐れる。私たちは自分の心を理性の範囲内におかなければならない。敵がやってきて、すべてのものを混乱させることのないためである」(『セレクテッド・メッセージズ』第2巻43ページ)。
ヨハネが後で( Iヨハ4 : 1 ) 霊を「確かめなさい」と言っているのはそのためです。聖霊が語っておられることはいつでも、聖書に当たることによって確認することができます。私たちは聖書によって、自分が受けている印象が聖霊から出たものかどうかをはっきりと知ることができます。「聖霊が心に働くときも、神の言葉によってテストしなければなりません。聖書に霊感を与えたみ霊は、常に聖書へと導かれるのです」(『セレクテッド・メッセージ」1・44ページ) 。
聖書の証言に照らして彼らの言っていることと生き方とを調べなさい。これが、「だれからも教えを受ける必要がありません」(Iヨハ2:27)というヨハネの言葉の意味です。では、なぜヨハネは彼らに手紙を書いたのでしょうか。彼は、自分の書いていることが霊感を受けた真理であることを知っていました。しかし、全面的に信用する教師に対して絶対的な信頼を寄せるという、一般的な傾向からは距離を置こうと考えました。
パウロはコリントのクリスチャンに厳しく言っています。「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると……知らされました。あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』「わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」(Iコリ1:11、12)。それから、こう言っています。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」。そのようなことはありません。キリストとの交わりを続け、共に神の御言葉を調べることは、真理を明らかにする助けに関しては、次のように言われています。「あなたがたはその実で彼らを見分ける」(マタ7:20)。
キリストを否定する(ヨハネの手紙一2章22節、23節)
人々は聖書の原則に反する生き方によってキリストを拒むことがあります。キリストを無視することもあります。キリストの教えをはっきりと否定することもあります。クリスチャンがキリストを知っていると言いながら、キリストの力によって罪人から神の友に生まれ変わろうとしないことによって、キリストを否定することがあります。「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」(Iヨハ2:22)。
ヨハネはなぜこのように書かねばならなかったのでしょうか。それは、一部の信者が古いギリシアの思想、つまり物質世界が本質的に悪であるということを信じていたからです。彼らは、イエスが人性をとられた本当の人間であることを受け入れることができなかったのです。彼らは、神が至高の存在者であるゆえに、人間の姿をとられるはずがないと考えました。そこで彼らは、イエスがただ現実に存在するように見えただけ(仮現論)、あるいはキリストがイエスのバプテスマにおいて突如、全くの人間イエスの上に下られたと教えました。そのほかにも色々な方法によって、神が現実に人性をとられたという真理を否定しました。
しかし、受肉は福音にとって不可欠のものでした。イエスを神以下の存在と考えることは、イエスが正しく神を私たちに表すことができなかったという意味になります。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハ14:9)というイエスの言葉も無効になります。十字架上のイエスの死において、神についての答えは疑わしくなります。神だけがすべての人間の罪のための正当な処罰を受けることができ(Iペト2:24)、神だけが救い、神だけが復活することができます。キリストは神であって、権威と権力において父なる神と同等です(コロ2:9)。
そのとき、「御子を信じる者は御父をも知っていることに気づくのです」(Iヨハ2:23、フィリップス訳)。
「もし父なる神が、人類がながめることのできるように、自らを低くして、その栄光をおおい、この世に来て、私たちのうちに住まれたとしても、キリストの生涯についての歴史は変わっていなかったであろう。……イエスの一つ一つの行為のうちに、イエスの教えの一つ一つの教訓のうちに、私たちは神を見、聞き、認めるべきである。見るところにおいて、聞くところにおいて、事実上、それは父なる神の声であり、動きである」(『神を知るために」338ページ)。
キリストの内にとどまることは永遠の命(ヨハネの手紙一2章24節、25節)
内住する聖霊と交わることが、キリストの内に住むということです。それによって、私たちはキリストの御心を行うのです。この段落全体に用いられている「とどまる」という言葉は、「定住する家庭をつくる、永続的な住まいを持つ」という意味です。クリスチャンはイエス・キリストの内に永続的な家庭をつくるべきであって、彼を一時的な「仮住まい」として用いるべきではありません。ニュースなどで、「定住地」を持たない人々のことを耳にすることがあります。彼らは家を持っていません。定まった住所を持たない放浪者、滞在者です。言い換えるなら、彼らは所属する場を持ちません。何かに帰属することは人間にとって欠かせないことです。人間はみな家庭と呼べるもの、真の帰属を感じる場を求めています。家族の愛、帰属感を求めています。私たちは特定の場所、特定の国に住んでいます。このようなキリストとの関係を、ヨハネは私たちに望んでいます。キリストの内にあって、私たちは真に帰属しているのです。
パウロは、「わたしたちの本国は天にあります」と言っています(フィリ3:20)。これも同じ思想です。私たちはこの世に満足していてはなりません。「この世のものではない」真の故郷、天国を絶えず求めていなければなりません。それゆえに、クリスチャンはキリストの内にとどまり、キリストと共に歩み、救いを完成するために来られるキリストの再臨を待ち望んでいるのです。キリストの約束しておられる輝かしい将来に、キリストと共に真に「くつろぐ」ためです。
聖霊が私たちの心に絶えず臨在されるということは、父なる神と御子が臨在されるということです(ヨハ14: 18、23)。神が聖霊によって私たちの心に臨在されるということは、すなわち永遠の命の賜物を与えられているということです。「キリストがわれわれのうちに住まれるのは、みたまを通してであり、神のみたまが信仰によって心に受け入れられるときに、それは永遠のいのちの始まりである」(「各時代の希望』中巻136ページ)。
もしこれがあまり好きでない人と永遠に住むということであれば、望ましいことと言えないかもしれません。しかし、私たちはキリストによって神を知っているので、愛する主と共に永遠の命にあずかることを心から確信することができます。
イエスの言葉を思い出してください。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハ17:3)。
イエスを迎える準備(ヨハネの手紙一2章28節、29節)
イエスの再臨を悪夢のように考えることから、再臨に対する「備え」をしている場合があります。悪い結果を恐れるために、自ら備えをしていることになります。しかし、私たちはイエスの再臨を恐れるのではなく、熱心に待ち望むべきなのです。私たちは不安と恐れではなく、期待と喜びをもって明るく生きるべきです。
私たちは「御子の内にいつもとどま」るときに(Iヨハ2:28)、この経験にあずかることができます。ヨハネは賞を目前にしてあきらめてはならないと励ましています。ある自転車レースにおいて、一人の選手が先にある困難や危険を思って、失望のあまり道ばたに座りこんでしまいました。これを見た競技役員は驚いてしまいました。コーナーを曲がったすぐ先にゴール地点があったからです。
私たちは人生のレースを途中であきらめたり、やめたりしないで、最後まで続けるように求められています。状況は厳しく思われるかもしれません。困難に直面することでしょう。反対や試練にあうことでしょう。しかし、あきらめてはなりません、とヨハネは言います。イエスが来られるからです。確信をもってイエスをお迎えしましょう。信仰がないからといって失望するには及びません。ヨハネはここで一種の語呂合わせを用いて、真理を教えているように思われます。イエスが現れる(パルーシア)ときにあなたに必要なのは、確信(パレーシア)です。
「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです」(Iヨハ2:29)。
言い換えるなら、聖霊によって生まれている人は、正しい行いをする力を持つということです。ヨハネは、「義を行う者は、御子と同じように、正しい人です」というヨハネ1・3:7の思想を拡大しています。義を行う者は新たに生まれた者です(Iヨハ2:29)。この人は内住する聖霊の力によって、イエスの正しい品性を反映します(ガラ2:20)。このことは良い行いとして現されます(エフェ2:8~10比較)。
まとめ
終わりが近づくにつれて、教理と実践をめぐる分裂は広がるでしょうが、真のクリスチャンはイエスにある真理に固く立ちます。キリストの完全な神性を否定することは、多くの偽りの中でも中心的なものですが、そのような教えに従うことは、私たちの神に対する誤解を意味します。重要なことは、「固く立って」、私たちの主また救い主であるイエス・キリストの、間近な再臨を待ち望むことです。