神は愛である【ヨハネの手紙解説#5~8】

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互いに愛する【神は愛である—ヨハネの手紙】#7

愛は言葉や主張によってのみ表されるものではありません。それは私たちの実際の行いによって証明・実証されます。神の愛は行いにおいて表されました。これは私たちにもあてはまります。

教会における愛

「私はもう教会で愛について聞くのがいやになった」。長く教会に来ているある信者がこのように言いました。「どこの教会に行っても同じだ。彼らと同じことをしていてはだめだ」。それから、彼は自分がどのようにしてアドベンチスト教会に来るようになったかを話し始めました。

「ある教会に行ったら、彼らは神の愛を説いていた。そこで別の教会に行ったら、彼らも神の愛を説いていた。そこでまた別の教会に行ったら、彼らもまた神の愛を説いていた。最後に、私はアドベンチスト教会に行った。彼らは神の愛を説いていなかったので、私はそこに加わることにしたのだ」。

この話を聞いて、どう思いますか。

もちろん、28の教理も大切です。預言も大切です。SDAのどの教えも大切です。しかし、パウロもはっきりと言っているように、「愛がなければ、無に等しい」のです(Iコリ13:2)。愛のないクリスチャンほど、神を誤解させるものはありません。イエスの次の言葉は今日の私たちにも言われています。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハ13:35)。

初めから(ヨハネの手紙一3章11節、12節)

キリストのような宗教の起源・基礎は何ですか。

Iヨハ3:11、12

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハ13:34、35)。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハ15:12)。イエスの言葉は、「互いに愛し合うこと」(Iヨハ3: 11)というひと言に要約されています。あるべき愛がはっきり定義されています―キリストが愛されるように、私たちも愛さなければなりません。その愛の結果が明示されています。―もしあなたがたが愛するなら、すべての人があなたがたをキリストの弟子と認めるでしょう。この愛の教えの起源が明らかにされています。―これが初めにあなたがたに確信を与えた真の教えです。

ウェストコットはヨハネ1・3:11を解説して次のように述べています。「言葉はその言おうとすることの内容と共に、その目標や目的をも伝える。キリストの生涯と働きの根本的な宣言は、この目的に向けられている。すなわち、真の愛は人間に自己犠牲を促すということである」(B・F・ウェストコット『聖ヨハネの手紙』110ページ) 。

イエスが私たちに「互いに愛し合いなさい」と命令されたのはなぜですか。

エレン・ホワイトは次のように明言しています。「神は愛の奉仕だけを望まれる。愛を命令することはできない。暴力や権威によって愛を手に入れることはできない。愛は愛によってのみめざめさせられる」(『各時代の希望』上巻4ページ)。もし愛が命令することのできないものだとすれば、イエスが愛するように命令されるのはなぜでしょうか。明らかに、それはイエスが私たちに最も望まれることだからです。つまり、愛することの重要性のゆえに、たとえそれが命令し、要求し、強要することのできないものであるとわかっていても、イエスは愛するように命令されるのです。愛は愛によってのみ目ざめさせられるものであるゆえに、神は「まずわたしたちを愛し」(1ヨハ4:19)、それによって私たちから愛の応答を引き出そうとされるのです。神が最も望まれることは、ご自分の愛する子らが自発的に神を愛し、敬い、信頼するようになることです。これは、神がご自身をありのままに啓示することによってのみなされます。「神は愛だからです」(Iヨハ4:8)。威厳は恐れを生じさせ、権威は驚きを引き出すかもしれませんが、神は権力や権限によってではなく、愛に満ちた聖霊の影響力によって働かれます(ゼカ4:6参照)。

霊的命と霊的死(ヨハネの手紙一3章13節~15節)

他人を憎む者が「死にとどまったまま」( I ヨハ3 : 1 4 ) なのはなぜですか。

Iヨハ3:14、15

人はみな愛されたいと望みます。しかし、この罪の世に生きている限り、私たちはつねに受け入れられるとは限りません。「だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません」(Iヨハ3:13―マル13:13、ヨハ15:18、19参照)。

クリスチャン同士で憎み合うことが、彼らのあかしの効力を無にすることになるのはなぜですか。

Iヨハ2:9〜11

「[Iヨハ1:5~10、2:9~11引用〕ヨハネが述べているよりも鋭く、はっきりした描写はほかにない。これらのことは私たちに対して書かれている。それらはセブンスデー・アドベンチストの諸教会にあてはまる。ある者たちは、『私は兄弟を憎んでいない。私はそれほど悪くはない』と言うかもしれない。しかし、彼らは自分自身の心をほとんど理解していない。もし兄弟の考えが自分たちの考えと少しでも対立するものなら、彼らは兄弟に対する自分たちの思いを神に対する熱意であると考える。全く愛に似つかわしくない思いが表面に出てくる。彼らは兄弟と和合しようとは思わない。友になるくらいなら敵になるほうがましと考える。しかし、兄弟は人々に対する神からの使命、つまり彼らがこの時代に必要としている光を与えられているかもしれないのである」(『原稿集』第16巻104ページ) 。

「自分が死から命へと移った」ことの証拠は何ですか。

Iヨハ3:14

「ひどい憎しみがあるということが、人が神の家族に属していないことのしるしであるように、兄弟愛のあることは、人が神の家族に属していること、つまり人が新生によって『死から命へと移って』いることの確かなしるしである(ヨハ5:24比較)。……愛は新しい生き方の最高の表れである。したがって、愛を表さない者は、自分が新しい生活に入っていないことを表している。彼は『死にとどまったまま』である」(F・F・ブルース『ヨハネの手紙」95、96ページ)。

行い(ヨハネの手紙一3章16節―18節)

キリストのような愛はどんな結果をもたらしますか。

Iヨハ3:16~18

キリストはその愛ゆえに、この世に来て、宣教といやしの働きをし、死に、復活し、昇天し、天で奉仕し、再び来ると約束されました。愛は結果を伴います。ヨハネが許すことのできなかったのは、「私は愛のあるクリスチャンです」と言いながら、行いの重要さを認めず、生活において全く反対のことをしている人たちでした。このような人は今日でも教会にいます。

ある教会に、生活のしかたに関して厳しい規則を作っている人たちがいました。彼らは偽善者ではなく、説くことを実際に行っていました。それでいて、彼らには愛というものが全くありませんでした。彼らの宗教は厳格で愛のない宗教で、説いていたのは厳格で愛のない神でした。彼らには喜びというものがありませんでした。

キリストは私たちの実践すべき慈愛について何と教えられましたか。

マル5:42、ルカ12:23、ヨハ13:35

イエスは全的な自己犠牲を賞賛されました。私たちの最高の幸福は人々と神に献身するときに与えられます。イエスはレプトン(レプタ)銅貨2枚をささげた貧しい婦人について言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」(ルカ21:3、4)。

もしキリストが私たちのためにご自分の命を捨てられたとすれば、私たちには自己犠牲的な愛を拒否する権利はありません。

人間は口では何とでも言えるものです。クリスチャンも同じです。ヨハネは言っています。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(Iヨハ3: 18)。

「キリストの宗教は口先以上のものである。キリストの義は、純粋で無我の動機から出た、正しい行為と良いわざで成り立っている」(『教会へのあかし』第3巻522ページ)。

「真理の理論を信じ、キリストに信仰の告白をし、イエスが詐欺師ではないことや、聖書の宗教は巧妙に考案された作り話ではないことを信じるだけでは十分でない」(『患難から栄光へ」下巻266ページ)。

神への信頼(ヨハネの手紙一3章19節、20節)

これらの聖句はクリスチャンの経験をひと言で描写しています。何年か前、ある若者たちのグループが同世代の人々に神をあかししようと考えました。彼らは、わたしは羊の門、ただ一つの道であるというイエスの言葉に基づいて、「ザ・ゲート」(門)という標語を作りました。それはまた神への信頼を表す言葉でもありました。

私たちはどうしたら平安と確信を与えられますか。

Iヨハ3:19、20

答えは明らかです。「行いをもって誠実に愛し合」てです。「これによって、わたしたちは自分が真理に明らかです。|行いをもって誠実に愛し合」うことによってです。「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」(Iヨハ3: 19、20)。

私たちはよく自責の念にかられることがあります。しかし、イエスが姦通の場で捕らえられた女に言われたときのように、神は私たちに言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。……これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハ8: 11)。私たちは、自分のしたことに悩み、そのことについて祈ることをためらうときでも、神がすべてをご存じで、私たちの心よりも大きいお方であることを覚えるべきです。私たちがゆるしを求めない場合を除いて、神にはゆるすことのおできにならないことは何ひとつありません。私たちが神を困惑させるということはありません。神の力によって、行いをもって誠実に愛し合うことができるということを知れば、私たちは神の御前で安心できます。

良心は私たちに罪を悟らせてくれる大きな助けです。しかし、それにもできないことは何ですか。

Iヨハ3:19、20、ヘブ9:14

「たとえ私たちの良心が私たちを責めようとも、神は良心よりも偉大なお方です」(1ヨハ3:20、新英語聖書)。良心に「間違っている!罪だ!罪人だ!」と責められると、苦しいものです。良心は痛みを伝える神経のようなものです。ひとたび苦痛を感じたなら、「よし、わかった。もう十分だ」と言いたくなるところです。しかし、痛みは止まってはくれません。両親も同じです。良心のもたらす警告の信号を受け取ったなら、先に進む必要があります。良心に責められてばかりいると、霊的に失望してしまいます。しかし、神は私たちの良心より偉大です。私たちは神に対して責任を負います。神はゆるし、いやしてくださる神であって、私たちをご自分の真実な友としてくださいます。

愛による確信(ヨハネの手紙一3章21節〜24節)

私たちは何に確信を置くべきですか。

神に「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです」(Iヨハ3:22)。
イエス・キリストに「その徒とは、神の子イエス・キリストの名を信じ……〔る〕ことです」(23節)。
愛に「この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(23節)。

神が私たちを愛し、私たちが神を愛するゆえに、私たちは神の御心に従って生きることに心からの確信を抱くことができます。ヨハネもあとで言っているように、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」(Iヨハ5: 14)。

このことは私たちのとるべき態度について何を教えているでしょうか。私たちは、自分が愛されず評価されないと、すぐに不平をこぼしがちですが、では、私たちはどれだけ周囲の人々を愛し、評価しているでしょうか。教会は「お世辞社会」ではありませんが、互いにキリストのような愛を表すことによって、分裂の原因となるささいな問題の多くが解決されるのです。

私たちが心に責められるのはなぜですか。

ヨブ9:20、ロマ7:23

「感情が知性を圧倒するとき、私たちは心に責められる。私たちは自分の知っていることに従ってではなく、自分の感じるところに基づいて、状況に対処する。……心に責められるとき、私たちは知性を追い出して、感情の支配に従う。このようなとき、私たちは第1 に、『神は、わたしたちの心よりも大き』いこと、第2に、神が『すべてをご存じ』(20節)であることを覚えるべきである。私たちが単に自分の感じることによってでなく、神の言われることによって生きるべきであるのはこのためである」(ロイ・マセソン『神の家族を愛する」112、113ページ)。

感情はクリスチャンの生活において助けにもなれば障害にもなります。私たちが「絶頂期」にあるときには、賛美と喜びの思いで満たされ、わくわくするような神の臨在感で心が高揚します。しかし、「低迷期」になると、否定的な感情が霊的失望と落胆をもたらします。私たちは詩編の中のダビデのように、自分の知っていることが真実であることを「思い起こし」、どんなに失望を感じるときにも、神に信頼する必要があります。

まとめ

クリスチャンの愛は言葉をはるかに超えたものです。それは行いに表されるべきものです。行いに表されたこの愛はあまり歓迎されず、クリスチャンは憎まれることさえあるかもしれません。内的な自責の念もまた失望をもたらすことがあります。しかし、クリスチャンは人間の心よりも偉大な神に確信を置きます。

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