神は愛である【ヨハネの手紙解説#5~8】

目次

神の子ら【神は愛である—ヨハネの手紙】#6

神は私たちをご自分の子と呼んでくださるだけではありません。神は私たちを本当にご自分の子としてくださいます。神のまことの子らは神の品性を反映します。

大いなる愛

愛される資格のない者さえ、神は愛してくださいます。神の愛はそれほどすばらしいものです。「神がまずわたしたちを愛してくださった」(Iヨハ4: 19)ということは、多くの人々にとって信じがたいことです。

ある年輩の男性が牧師に言いました。「こんなに色々なことをしてきた私のような者でも、神は本当に愛してくださるのでしょうか」。

牧師が聖書の約束について話しましたが、その男性はやはり信じることができませんでした。「先生は私が何をしてきたか知らないのです。神は決して私のような者を受け入れてくださらないでしょう。神は決して私のような者を愛してくださらないでしょう」。

牧師は言いました。「確かに、私はあなたが何をしてきたか知りません。しかし、神はご存じです。神はそれでもあなたを愛しておられます」。

人生の大半を無為に過ごし、疲れ切ったこの男性を変えたのはこのひと言でした。

神はまず私たちを愛し、次にその愛を私たちに納得させられます。それから、恐れを取り除くこの完全な愛を宣べ伝えるように求められます。自分の恐れる人を愛することができないからです。これは弱々しい愛ではなく、強い愛です。あなたのためにカルバリーに向かい、ご自分の子としてあなたを救うほどの強い愛です。あなたは何と応答しますか。

実質的な神の子ら(ヨハネの手紙一3章1節)

私たちが神の子とされるのは何によってですか。

Iヨハ3 1、ヨハ1:12(ロマ8:15、ガラ4:6比較)

献身した信者は名目的にも実質的にも神の子です。私たちは、神の愛に応答し、悔い改め、聖霊の働きによって造り変えられることによって、真に神の子となります。「帰与された義」と「分与された義」という神学用語は、救いの過程をあいまいにし、前者を名目、後者を実質に分けてしまう恐れがあります。ヨハネは義を区分していません。彼はただ、神が私たちをご自分の子らと呼び、本当にそのように見なし、そのように扱ってくださると言っているだけです。

神のゆるしは反逆者をひとまとめにして「無罪」を宣告するようなものではありません。天国は、赦免された犯罪人ではなく、造り変えられた神の子ら、神に完全に受け入れられた者たちの集まるところです。

「救いの計画は単なる違反の刑罰から逃れる道ではない。むしろ、罪人はそれによって自分の罪をゆるされ、ついには天国に受け入れられるのである。彼はゆるされ、束縛から解放されながら、なお疑いの目で見られ、友情と信頼から締め出された、赦免された犯罪者ではなく、子として歓迎され、完全な信頼を回復する」(「レビュー・アンド・ヘラルド」1886年9月21日)。

神の子であるのに、自分の生活が良くならないとすれば、その理由は何でしょうか。

ガラ5:17、18、1コリ9:27、ロマ7:25

神の子らといえども、なおサタンによって支配される堕落した性質を持っています。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊」によって、「罪と死との法則から……解放」されるときに初めて(ロマ8:2)、私たちはまことの神の子らとして生きることができます。

「健康と富の福音」を説く者たちは、私たちの神との関係が物質的な豊かさや奇跡的ないやしという明らかな「祝福」によって証明されると信じさせようとします。このような哲学は珍しいものではありません。ファリサイ人もヨブの「慰問者」たちも、同じような考えを持っていました。実際のところ、クリスチャンになれば、必ず事業が成功し、完全に健康になり、世的な意味での幸福が約束されるというものではありません。

御子に似た者となる(ヨハネの手紙一3章2節、3節)

まことの神の子らは将来どうなりますか。

I ヨハ3:2(ロマ8:29、Ⅱペト1:4比較)

愛する主と共に永遠に生きる―これは心おどる聖書の約束です。私たちがどのようになるのかは正確には示されていませんが、「御子に似た者となる」という驚くべき真理が与えられています。

これは何を意味するのでしょうか。私たちはどのようにして神に似た者となるのでしょうか。ペトロは、私たちが「神の性質にあずかる者」となると言っています(Ⅱペテ1:4、口語訳)。神の子らとして、私たちは品性において神に似た者となります。すなわち、神の御心に従い、神の正しいとされることを行うようになります。

次の聖句に重要な手がかりが与えられています。「御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(Iヨハ3:2)。「見る」は人を変える言葉です。それは視覚だけでなく、啓発と理解をも意味します。私たちはひとたび神をありのままに見始めるとき、霊的に、道徳的に、行動的に神に似た者に変化し始めます。この過程は、私たちが神に近づくときに始まります。私たちは罪に勝利し、恵みによってイエスの品性を反映する者となるべきです。しかし、この霊的成長はイエスの来られるときまで続きます。

ヨハネによれば、この「祝福に満ちた希望」は信者をどのような者にしますか。

Iヨハ3:3

まことの信者は豊かに提供されているキリストの力によって自分を清めます。神の性質と品性を反映する者となるためです。ここで注意すべきことは、それが一回きりの行為ではないということです。それは継続的な過程です。この継続性ということを考えると、信者がイエスの来られる前に不完全で堕落した性質を脱ぎ捨てているという見解は誤りであることになります。この見解によれば、もはや成長する必要のない聖潔の段階にまで到達することができます。しかし、聖書ははっきりと教えています。罪に勝利する者たちにとってさえ、霊的な成長はイエスの来られるときまで続きます。パウロは、自分が霊的に最終的な目標に到達したのではなく、なお努力し続けているのであると言っています(フィリ3:12〜14)。

罪と律法(ヨハネの手紙一3章4節〜6節)

罪はどのように定義されていますか。

Iヨハ3:4

「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです」(Iヨハ3:4)。罪とは、不法の態度・行為、また法を超え、法に反することです。人間は生まれつき不法な行為を行う性質を持っています。この「不法」な態度は、神と神の正しい律法に対するルシファーの反逆から来ています(『思いわずらってはいけません」143ページ参照)。

神はご自分とその支配に対する私たちの不法な態度をどのように扱われますか。

Iヨハ3:5

イエスが来られたのは私たちの罪を除くため(Iヨハ3:5)、また私たちを彼への愛と信頼に導くことによって、私たちをゆるし、ご自分の姿に回復するためでした。

「イエスは、『わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう』と言われた。……キリストは十字架の上で彼の愛を示すことによって罪人を引き寄せられる。これは罪人の心を和らげ、心に感銘を与え、魂に悔恨と悔い改めを起こさせる」(『レビュー・アンド・ヘラルド」1890年4月1日)。

神の救いはどんな結果をもたらしますか。

Iヨハ3:6

問題は、ヨハネが一つの罪について述べているのか、習慣的な罪について述べているのかということではありません。すべての罪は悪魔から出るものです(Iヨハ3:8)。聖霊によって私たちの心を支配していただく限り、私たちは罪を犯すことから守られます。「故意に罪を犯していながら、いやされることは可能だろうか―否である。真の信仰者は次のように言う。私は罪を犯したが、イエスは私の罪をゆるしてくださった。今後、私はイエスの力によって誘惑に抵抗しよう。『御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます』。彼は魂に内住する原則によって誘惑に勝利する。『御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません』。神は、キリストにある魂を、その魂が誘惑のもとにあるときに、守る力を持っておられる」(『神の息子・娘たち」297ページ)。自分の罪深い性質の欲するところに従っていながら、自分がイエスと一つであると言うことはできません。ヨハネが言っていることは、クリスチャンが決して罪を犯さないということではなく、むしろ罪がクリスチャンを神から引き離すものであるという認識をいつも持つべきであるということです。全く罪を犯さない努力はすべきですが、「たとえ罪を犯しても」(Iヨハ2:1)、クリスチャンには天の弁護者キリストがおられます。

悪魔の偽りを滅ぼす(ヨハネの手紙一3章7節、8節)

信者がイエスと同じように正しいのはどんな意味においてですか。

Iヨハ3:7

義を行う者(Iヨハ3:7)は、聖霊から生まれています(Iヨハ2:29)。キリストの義は二つの意味において帰せられます。

(1)キリストの義は法的に信者のものと認められます(ロマ4:6~8、23~25)。

(2)キリストの義は、人のどんな働きがなくても信じる者に与えられるという意味で、帰せられます(ロマ4:11、6: 18、8:9、10)。「キリストの御名に対する信仰を通して、キリストは私たちにご自分の義を帰せられ、それが私たちの生活の中で生きた原則となる」(「キリストを知るために」302ページ)。

罪深いことを行うなら、あなたはだれの側に立つことになりますか。

Iヨハ3:8

一つの罪であれ、習慣的な罪であれ、すべての罪は悪魔から出たものです。罪を犯すことによって、私たちはサタンに味方し、サタンの偽りの働きに加わることになります。神に信頼せず、神の変化といやしの力に頼らないことになります。私たちはサタンに従うことも神に従うこともできます――これが大争闘における論争の中心です。悪魔の道を選ぶことは、神に完全に信頼しないことであり、ある意味において神と神の名声を傷つけることです。私たちは、「天使にも人にも、見せ物」となっているのです(Iコリ4:9)。罪を犯すとき、私たちは「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する」のです(ヘブ6:6)。そのようにする限り、キリストは私たちの心を変えて、悔い改めを与えることがおできになりません。

ヨハネはイエスの初臨の理由として何をあげていますか。

Iヨハ3:8

イエスはサタンによってこうむった傷をいやすために来られました。それは次の方法によってなされました。

(1)すべての人の罪のために刑罰を受けることによって(1ヨハ2:2、1ペト2:24、Ⅱコリ5:21)。

(2)罪深い人間のうちに神のかたちを回復する権利を得ることによって(ヨハ14: 18~21、Ⅱコリ3: 18)。

(3)信者が罪を犯さないで生きる方法を自ら示すことによって(Iペト2:21~23)。

(4)神についての誤った考えを正し、サタンの偽りの支配を終わらせることによって(Iヨハ4:8、9)。

「イエスがカルバリーで死なれたとき、人々と天使はサタンの悪意と堕落した世界のための神の愛を見た」(『レビュー・アンド・ヘラルド』1892年7月12日)。

子は親に似る(ヨハネの手紙一3章9節、10節)

「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」(Iヨハ3:9) というヨハネの言葉は、何を意味しますか。

多くの解釈者は、動詞の「罪を犯す」(ギリシア語、ポイエイ)が現在時制なので、この聖句は「神から生まれた人は皆、罪を犯し続けません」と訳されるべきであると主張します。実際には、ギリシア語の現在時制は必ずしも継続的行為を表すとは限りません(「不定現在は、進行していると否とにかかわらず、行為を単なる一つの出来事あるいは現在の事実として提示する」―ジェームズ・A・ブルックス、カールトン・L・ウインベリー『新約聖書ギリシア語の統語法』81ページ)。(使徒16: 18、マル2:5参照)

一つの罪でも法に背くことです(1ヨハ3:4)。御子の内にいつもいる人は法に背くことをしません(6節)。どのような罪であれ、罪はすべて悪魔から出たものです(8節)。ヨハネ1 ・3:9の意味は、「神の性質」が聖霊の支配的な臨在によって私たちのうちに「宿っている」限り、私たちは故意に神の戒めを破ることがないということです。

神の子と悪魔の子の違いは何ですか。

I ヨハ3:10

「正しい生活(ギリシア語では「義」)をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です」(Iヨハ3:10)。もし自分の生活において神の特性を表さないなら、私たちは本当の神の子ではありません。私たちは神の方法に従って考え、行動しなければなりません。

自分の兄弟を愛さないなら、それによってどの父に属するかがわかります。イエスはファリサイ人に言われました。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であ」る(ヨハ8:44)。自分は真の神に従い、すべての教理に従っていると口で言うことができても、もしあなたのうちに愛がないなら、あなたは神の子ではありません。

自分が「知識」によって救われているので、ほかの人に対してクリスチャンの愛を示す必要はないと考えることは誤りです。どんな特別な情報も人を救うことはありません。(教会員であることを含めて)何か特別な集団の一員になることは、救いを保証するものではありません。救いは知識や宗教的な形式によるものではなく、むしろ神のいやしのゆるしと罪からの救いを受け入れるという、神との個人的な経験によるものです。このことが人の品性を変えて、神に似た者とします。これ以外に方法はありません。

まとめ

神の救いの恵みのゆえに、私たちは名目だけでなく実質においても神の子です。「御子に似た者となる」という約束が与えられています。私たちはイエスの来られるその大いなる日を待ち望んでいます。そのときまで、私たちは罪から遠ざかり、神の御心に従って正しい生活を送り、父なる神をはっきりとあかしする必要があります。

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