【エズラ記とネヘミヤ記】神の召し【解説】#3

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神はそれぞれの人を特定の働きに召されるのでしょうか。特定の仕事をさせるのに、ある人をほかの人よりもふさわしいとするような基準があるのでしょうか。そのような基準は、神の目と人の目とでは異なって見えるのでしょうか。たぶんたいていの人は、「そう思う」と(特に二つ目と三つ目の問いに対して)答えることでしょう。特定の働きのために、教育や経験を通して、神が私たちを備えさせるときもあれば、私たちが協力的で謙虚であるというだけの理由で、奉仕をするようにと神から選ばれるときもあります。しかし、私たちの人生における神の召しが何であるかを知ることは、必ずしも容易ではありません。それにもかかわらず、聖書は、特定の任務のために神がお選びになった人々の物語であふれています。

興味深いことに、エズラとネヘミヤは、神によって一つの特定の働きに召されました。それは廃墟と化したものを再建することでした。しかし、この場合の再建には、さまざまな働きが含まれていました。彼らは、イスラエルの人々をエルサレムへ連れ戻し、神殿と町を再建しなければなりませんでした。それに加えて、彼らは神について人々を教え、何にもまして、神との献身的な関係へ彼らを引き戻さなければならなかったのです。まさに神からの召しです。しかも、それは重要な召しでした。

エズラとネヘミヤの召し

エズラはさまざまな理由によって選ばれたと、私たちは言うことができます。①彼は自ら進んで行こうとしました。②彼は指導者でした。③彼は熟練した書記官であり、教師でした。ほかにも理由を見いだすことができます。しかし、なぜエズラにこの任務が与えられたのかをたぶん最もよく説明している聖句が一つあります。

問1

エズラ7:10は、エズラについて何と述べていますか。どのようにエズラは「主の律法」を研究し、それを実行することに「専念した」のでしょうか。

「専念した」に相当するヘブライ語は「クン」です。この言葉は、「心構えができている、定まっている、確固としている、確固たるものになる、安定している、確実である」などと訳すことができます。それゆえ、この聖句の真の意味は、エズラが神を見いだそうと決心した、あるいは心に定めたということです。

エルサレムに到着したあと、エズラは神に献身するとはどういうことかを実践し、エルサレムで神の言葉を13年間教えました。しかしその後、城壁が完成すると、人々は集会を招集しました。だれかから強いられたわけでなく、自ら望んでのことでした。エズラから聞き続けていた神の言葉が彼らに根づいていたのです。

問2

なぜネヘミヤは選ばれたのですか。ネヘミヤ1:1~11を読んでください。

ネヘミヤは神と同胞に対して深い思いを持っていました。彼は、エルサレムでの働きが中断していると知ったとき、思い悩みました。ネヘミヤはこの働きに対して情熱があり、エズラと同様、自ら志願しました。神は彼らの祈りと願いに応えられました。時として私たちは、もし自分が何かに関心を持つと、それは神からのものではないに違いない、なぜなら神は私たちがやりたくない難しい仕事だけをお与えになるからだ、といった考えを抱きます。しかし、もし私たちが神とともに歩んでいるなら、私たちが情熱を持つ何かをしたいという願いが、しばしば神から与えられるのです。神は、私たちが神のためにすることに対して関心を持ってほしいと望んでおられます。

預言のタイミング

私たちは今期の第一課で、神がゼルバベル(紀元前538年頃)とエズラ(同457年)を特別な働きにどう召されたのかを学びました。第二課では、ネヘミヤ(同444年)に対する神の召しについて考えました。私たちは、これらの召命が神の予知と調和してなされたことを認識する必要があります。例えば、ゼルバベルは神によって心を動かされ、エレミヤが預言していた70年間の捕囚の終わりに呼応する形で特別な働きを行いました。

問3

エズラは何年に働きに召されましたか。それはアルタクセルクセス王が命令を出したのと同じ年でした。預言において、その年はいかに重要ですか。ダニエル9:24~27を調べてください。

ダニエル9:25は、「エルサレム復興と再建についての/御言葉が出されてから/油注がれた君の到来まで/七週あり、また、六十二週あ(る)」と述べています。この預言の最後の週については、27節で言及されています。1週間は7日ですから、預言的1週間は7年に相当します(民14:34、エゼ4:5、6)。それゆえ、この預言は70週、つまり490年について述べているのです。答えるべき質問は、この70週の預言の開始日はいつなのかということです。この聖句は、70週が、エルサレムを復興、再建するための命令が出された時からであると述べています。

ユダの人々の復興に関して出された命令は、合計3回あります。キュロス、ダレイオス、アルタクセルクセスの3人全員が、復興のための命令を出しました。しかし、アルタクセルクセスの命令だけがエルサレムの町そのものへの配慮を含んでおり、この命令だけが神の介入に対して神をほめたたえることに関連づけられています(エズ7:27、28)。

私たちは、70週の預言の始まりを紀元前457年、つまりエズラ7:7~26で言及されているように、アルタクセルクセスⅠ世の第七年からであるとみなします。加えて、紀元前457年はダニエル8:14の2300日の預言の始まりでもあるので(あしたの研究を参照)、この命令はこれら二つの預言の起算点としての役割を果たしています。70週は西暦34年で終わりますが、その年は、福音の宣布が広がり、異邦人にも達した(初代教会の迫害とステファノの殉教によって特徴づけられた)時です。最後の週の半ばは西暦31年で、それはイエスが十字架で亡くなられた時です。

70週と2300日

ダニエル9:24の「(七十週が)定められている」という言葉は、文字どおりには、「(七十週が)切り取られている」という意味です。「定められている」と訳されているこの言葉は、聖書のほかの箇所には用いられていませんが、ユダヤ人の文献の中には見いだされ、より長い何かから「切り取る」ことを意味します。ダニエル8章は2300年の預言を提示しており、その起算点が8章の中では与えられていないので、論理的には、次の章(ダニエル9章)で490年が「定められている」もの、つまり「切り取られている」ものとして語られるとき、それは前の章で言及された預言的2300年から「切り取られている」ということになります。結局のところ、この期間(490年)は、いったいほかの何(より長い別の時間の預言)から「切り取られ」うるでしょうか。

問4

ダニエル8章を読んでください。幻の一部で説明されなかったのはどの部分ですか(特に、ダニ8:14、26、27参照)。

ダニエル9:24~27の70週の預言とダニエル8:14の2300の夕と朝がなぜ同類なのかという理由は、いろいろあります。①いずれも時間に関する預言であること。②「幻」「理解」という特有の用語が両者を結びつけていること(ダニ8:26、27、9:23参照)。③いずれの預言もガブリエルによって説明されたということ(ダニ8:16、9:21参照)。④ダニエル8章で、唯一説明されなかった預言の部分は、ダニエル8:14の2300の夕と朝(時として、「日」とも訳される)に関する幻であること。⑤ダニエル8章には幻とそのあとに部分的な説明が含まれていますが、ダニエル9章には一つの説明しか含んでおらず、それがダニエル8章で説明されなかった唯一の部分―ダニエル8:14の2300日の預言、ダニエルの理解できなかった幻の部分(ダニ8:27参照)―であること。

エズラ記で私たちに与えられている情報は、ダニエル書における預言の予告の欠けていた部分(つまり、私たちのためのキリストの奉仕と働きの極めて重要な側面に関する預言的時間を歴史的にいつから数え始めるのかという点)を埋めてくれるのです。

神の選び

何かをさせるために神が私たちを選ばれることに関しては、語るべきことがたくさんあります。選びとは何かということについて、多くの人が異なる考えを持っています。聖書は、私たちの選びについて何と述べているでしょうか。

問5

ローマ8:28、29を読んでください。神は私たちを何に召されるのですか。何のために、神は私たちを選ばれるのですか。

この箇所は、神が御子の姿に似たものにしようとあらかじめ人間を定められた、とはっきり述べています。私たちが救われるか滅びるかを神があらかじめ定められたとか、このことに関して私たちには選択の余地がないとか、述べているのではありません。言い換えれば、選びの目的は、私たちを変えることです。私たちは神の子を反映するように変えられねばなりません。この変化は、次の節(ロマ8:30)で約束されています。著者であるパウロはその節の中で、神は召し出した者たちを義とし(義認し)、栄光を与えて(聖化して)くださる、と述べています。それゆえ、私たちは自分を変えるために放って置かれることはなく、むしろ神が御力によってこの変化を成し遂げると約束しておられるのです。

問6

ローマ9章を読んでください。この章には、どのような神の選び、召しが記されていますか。

パウロはローマ9章において、特定の任務への神の選びについて論じています。イスラエルの人々は、神に関する良い知らせをこの世に伝えるために選ばれました。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ロマ9:13)という言葉は、神がこの兄弟の一方だけを愛されたことを意味する、とよく誤解されています。しかし、この箇所の文脈においてパウロが言っているのは、選ばれたのはヤコブであってエサウではなかったということです。何のためにヤコブは選ばれたのでしょうか。イスラエル民族の父となるためです。それゆえ、神がなさる選び(選択)には二種類あります。第一に、神は私たち1人ひとりを救いのために選び、私たちがイエスの姿に変えられるようにと望んでおられます。第二に、神はさまざまな人を特定の任務のために選ばれるのです。

私たちの責任

もし私たちが神に召されるとしても、私たちにはその召しを受け入れるか、拒絶するか、選択の自由があります。それは、神が私たち全員に提供してくださる救いを受け入れるか、拒絶するかの選択の自由を私たちが持っているのと同じです。神は私たちに特定の立場をお与えになるかもしれませんが、私たちは神の命令に従わないことを選択できます。確かに神は、御自分に似るようにと私たちを召されるのと同じくらい、神のために特定の任務をしてほしいと私たちに望んでおられます。特定の任務への神の選びは、私たちの救済計画の一部なのです。神が私たちを召してさせようとすることを実行することによって、私たちは自分の生活の中で、神が与えてくださった救いの現実を生きるのです。

サウル王は王の地位を与えられました。残念ながら、彼は自分に与えられた任務にもかかわらず、神に心を完全にはささげませんでした。だれかが神にとって特別なことをするように召されたからといって、それだけで彼が神を受け入れるとは限りません。私たちの自由意志は決定要因であり続け、もし私たちが神の導きに従わなければ、私たちはすべてを失いうるのです。

問7

出エジプト記3章と4章を読んでください。主が任務のためにだれかを召されるとき、どんなことが起こるのかについて、二つの章は何を教えていますか。

私たちの返事は、文句を言わずに行ったエズラやネヘミヤのようにもなりえますし、反論や言い訳をしたモーセのようにもなりえます。モーセは最終的に行きましたが、抜け出そうとしなかったわけではありません。彼は拒絶し、自分は力不足で、何者でもなく、要職に就いているわけでもない、と主張しました。だから、どうしてファラオが自分の言葉に耳を傾けるでしょうか、と。モーセはまた、ユダヤ人が彼を信じなかったり、彼の言葉を聞かなかったり、この働きが無に帰すことも心配しました。加えて彼は、自分には資格がなく、必要とされる能力も備えていない、と不平をこぼしたのです―「わたしは口が重く、舌の重い者なのです」(出4:10)。最後には、だれかほかの人を遣わしてください、とあからさまに神に頼みました。それにもかかわらず、モーセの物語を読むとき、彼が、欠点はあるものの、強力な指導者になったことを私たちは知るのです。モーセは、主が彼を召してさせようとした任務を忠実に行った人でした。

さらなる研究

70週の預言とその歴史的成就に関しては、『国と指導者』第58章の後半部分(70週の預言に関するチャートのある箇所)を読んでください。

「キリストの来臨、キリストが聖霊によってあぶらをそそがれること、キリストの死、異邦人に福音が伝えられることなどについて、その時期がはっきり示されていた。こうした預言をさとり、それがイエスの使命の中に成就されているのを認めることは、ユダヤ民族の特権であった。キリストは弟子たちに、預言の研究が重要であることを強調された。イエスは、彼らの時代についてダニエルに与えられた預言にふれ、『読者よ、悟れ』と言われた(マタイ24:15)。復活後キリストは、『聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを』弟子たちに説明された(ルカ24:27)。救い主は、すべての預言者たちを通してお語りになっていた。『彼ら……のうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした』のであった(Ⅰペテロ1:11)」(『希望への光』783ページ、『各時代の希望』上巻288ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2019年4期『エズラ記とネヘミヤ記─忠実な指導者を通して神がなしうること』からの抜粋です。

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