第九章 神の僕
イザヤ書四〇~六六章は、慰めと救い、そしてイスラエルとユダの残りの民のためだけでなく、全世界のために神が計画しておられる将来についての栄光の預言で構成されています。そして、イザヤ書のこの後半の章は、次のような三つの部分に分けられます。①メド・ペルシャ帝国の将来の指導者キュロスによる解放についての神の予告(イザヤ四〇~四八章)、②主の「僕」の苦悩に関する描写(イザヤ四九~五七章)、③神の民と地上の全国民のために世界を回復させるという神の約束(イザヤ五八~六六章)。このうち最初の二つの部分は「神に逆らう者に平和はない」という言葉で終わっており(イザヤ四八ノ二二、五七ノ二一)、三番目の部分は、悪人の消滅で終わっています。
前章では、神の慰めの約束を大まかに見てきましたが、この章では、約束を成し遂げるために神が用いられる二人の僕について主に見ていきたいと思います。まず四一章に、キュロスについての記述が出てきます。「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ」(イザヤ四一ノ八、四四ノ一~八)と表される僕として言及されており、さらに、諸国の光(イザヤ四二章)となり、イスラエルを立て直す(イザヤ四九章)僕として表されています。私たちは、この順序で、これらの描写について詳しく見ていきます。(一〇章では、イザヤ書五〇、五二、五三章の苦悩の僕について詳しく学びます。)
これらすべての約束は預言ですが、預言の成就はただそのようになるということだけではありません。これは神のもう一つの創造の働きなのです。神は、様々な場面の背後で、預言を成就するために、促しや回避あるいは調整といったことに働いています。また、神は、神の命令を行うよう召した者たちが応じない場合、別な人を捜し求めます。サタンが、神の計画を妨げようとするならば、神はそれを退けるか、あるいは悪魔の障壁をすり抜ける手段を見いだします。創造主が出来事や命を起こす方法に、私たちは驚嘆させられます。しかも、終わることのない悪の抵抗にもかかわらず、神がそのご計画を実現に至らせために発揮する計り知れない力はもっと偉大なのです。
キュロス、私の僕
ほとんどの聖書の読者は、キュロスに関する記述を、将来を予見する神の力の顕著な事例として理解しています。しかし、イザヤ書においてメド・ペルシャの支配者は、実は神の創造力の実例として紹介されています。これは聖書において、この神を唯一の真の神と認めるイスラエルの神の創造力なのです。
イザヤ四〇~四五章は、神が実在しておりその民を助けることができるという確証と慰めを与える遠大な詩によって構成されています。主は、贖い主であり復興者でもあります。そして預言者は、この神と他の国々の神々と比較して、後者を偶像以外の何物でもないと呼んでいます。しかしヤハウェは、真の神です。
イスラエルとの約束を神が本当に果たすことをイザヤが明言した重要な理由の一つは、神が将来を知っておられるということでした。イザヤ四一ノ二一~二三において、神は、偽りの神々に自ら本物であることを証明するよう挑んでいます。「訴え出て、争うがよい、と主は言われる。お前たちの論拠を示せ、とヤコブの王は言われる。起こるべきことをわたしたちに示し、告げてみよ。初めにあったことを告げてみよ。我々はそれを心に留めよう。あるいは、来るべきことを聞かせてみよ。未来のことを悟るとしよう。将来にかかわるしるしは何か、告げてみよ。お前たちが神であることを悟るとしよう」
イザヤ四四ノ六、七では、主はこう断言しています。「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。だれか、わたしに並ぶ者がいるなら声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。(偽りの神々あるいは偶像よ)わたしがとこしえの民としるしを定めた日から来るべきことにいたるまでを告げてみよ」
興味深いことに、古代の人々は将来を予見しうる能力を持っているものとして彼らの神々をつねに思い描いていたわけではありませんでした。「未来は、運命、すなわち物事の行く末を支配している非人格的な力の手の内にある。知恵の神、エンキは、魔術師の帽子をかぶっており、人間の魔術師のように、運命を予見し支配しようと試みたことを表した。運命は、板の上に書かれており、その板を支配した者が、この世界の運命を支配するのである。もしその板が悪者の手にわたるならば、世界に混乱が生じる。……いずれにせよ、将来を予言するということは、神の性質にはない。神々が未来を支配することを望んだとしても、むしろそれは単に願望にすぎないのである」1
しかし、真の神は、将来何が起きるかを予見することができます。未来は、先を見通せない非人格的な運命の手の中にあるわけではありません。しかし、イザヤは、この能力だけを独立して論じているわけではありません。預言者は、未来に関する神の知識を、神の力のより大きな特徴である創造する力と関連付けて提示しています。
イザヤ四〇ノ一二~一四で、神は次のように問いかけています。「手のひらにすくって海を量り 手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし 山々を秤にかけ 丘を天秤にかける者があろうか。主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え 知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか」。この聖句は、神の創造する力をヨブに印象づけようとして神がつむじ風の中から語ったことと同じです(ヨブ三八~四一章)。
イザヤ四〇ノ一八~二〇では、偶像は人間が作り出したものに過ぎないと退けています(預言者は、四四ノ九~二〇でまたこのテーマに戻っています)。しかし、神は初めから存在しており、地球を含めてこの物質的宇宙を創造しただけでなく、この世界の出来事をも支配しておられます(イザヤ四〇ノ二二~二四)。神が許されると物事は生じます。「お前たちはわたしを誰に似せ 誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる」(二五節)。また主は、その創造する力を指してご自身の質問に答えています。「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ」(二六節)。「主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主」(二八節)。唯一の真の神は、永遠なる方であり、人類の歴史も含めてすべての存在の創造主です。
神は、イザヤ四一ノ二で次のように問いかけながらキュロスの紹介を始めています。「東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き 国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か」。これもまた神のなされることです。キュロスは、彼の父カンビュセス一世より王位を引き継いだ紀元前五五八年あるいは五五九年に権力の座につき、ペルシャの王となりました。一方、紀元前五五六年頃バビロンの王ナボニダスは、メディアとの間で一世紀以上も維持してきた条約を破棄し、キュロスと新たな条約を結ぶよう促す夢を見ました。
このため、メディアと連合を組んだ臣下の王たちは、彼らの大君主に不満を抱くようになりました。その不満を利用して、キュロスは、メディア帝国に反旗を翻しました(奇妙なことに、メディアは彼自身の祖父であるアステャゲスが治めていました)。そして、紀元前五五〇年に、その首都エクバタナを征服しました。こうして、彼は、現在のイラクからアルメニアにまで広がる帝国の支配を手中に収めました。その後の四年間に、彼はアナトリア人の王国であるリディアとイオニアを打ち破りました。そして、紀元前五三九年に、バビロンを占領したことにより、エジプト以外の古代中近東全域を彼の支配下におきました。古代の資料は、帝国内の様々な宗教や民族を慎重に扱う熟練した外交官として彼を描いています。またキュロスは、ユダから追放された者たちのエルサレム帰還と神殿の再建を許可する政策も打ち出しています。
二五節に、主はこう明言しています。「わたしは北から人を奮い立たせ、彼は来る。彼は日の昇るところからわたしの名を呼ぶ」。神は、「初めからこれを告げ わたしたちに悟らせ、前もって示し そのとおりだと言わせた」(二六節)。
名指しでキュロスについて言及しているこれらの聖句全体を通じて、神は繰り返し創造主という主題に触れています。「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ 地とそこに生ずるものを繰り広げ その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる」(イザヤ四二ノ五)。
主は、神の民イスラエルのために働くことを約束しました。しかし、偶像は、贖うことも復興することもできません。それどころか、イザヤがこれまで強調してきたように、創造することもできないばかりか、偶像が存在するためには人間を必要とします(イザヤ四〇ノ一八~二〇、四四ノ九~二〇)。しかし、イスラエルの神は、創造することができます。「主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。……主は天をベールのように広げ、天幕のように張り その上に御座を置かれる。主は諸侯を無に等しいものとし 地を治める者をうつろなものとされる」(イザヤ四〇ノ二二、二三)。ここで神はさらに発展させて、その創造する力を政治的あるいはその他の出来事を支配する能力と関連づけています。「主は、とこしえにいます神」。さらに続けて「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」(二八節)です。
神は天を創っただけでなく、その下で起こる出来事の創造主でもあります。これは、イザヤ書において新しい概念ではありません。先に、アッシリアの将来について神はこのように述べました。「わたしが計ることは必ず成り わたしが定めることは必ず実現する」(イザヤ一四ノ二四)。「万軍の主が定められれば 誰がそれをとどめえよう。その御手が伸ばされれば 誰が引き戻しえよう」(二七節)。預言の示す歴史は、天を広げるのと同様に、神の創造の業です。ちょうどこの世界を造ったように、神は人間の歴史をも創造します。「わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか」(イザヤ四三ノ一三)。その創造する力により、神はいつわりの預言を封じるだけでなく(イザヤ四四ノ二五)、「僕の言葉を成就させ 使者の計画を実現させ」ます(二六節)。この計画には、「わたしの牧者 わたしの望みを成就させる者」(二八節)であるキュロスも含まれています。
キュロスが行うすべてのことは、神の創造的活動によってのみ成し遂げられます。主は、ペルシャの指導者の手を取り、他の国々に勝利する力を与えられます(イザヤ四五ノ一)。キュロスが障害を乗り越えるよう主が前を進まれるので、人間の指導者は、神の民のためにしてほしいと神が望まれることを行います(二~四節)。イスラエルの神はキュロスを備え(五節)、ペルシャ人が神の計画を成し遂げるよう軍を発動させます。では、光と闇とすべてとを創られた(六、七節)創造主であるヤハウェは、どのようにこのことを行うのでしょうか。神はキュロスを奮い立たせ、「正義によって……その行く道をすべてまっすぐに」されます(一三節)。なぜならヤハウェは、「天を創造し」た方であり(この方こそ神です!)、「地を形づくり 造り上げて、固く据えられた方 混沌として創造されたのではなく 人の住む所として形づくられた方 主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない」(一八節)と言われる方だからです。
歴史は、受動的なものではありません
しかしこのことは、神が約束されたことが簡単に自然に起こるということを意味しているわけではありません。また、自動的に展開していく歴史を、神が受身になって見つめているのでもありません。私たちは、神が認め、自由意志を与えられた被造物の世界に属しています。不幸なことに、人類はその自由意志を神にはむかうことに用いました。サタンが天における神のみ座を奪おうとしたために、創造主は、悪魔または惑わす者の長となった存在を追放しなければならなくなりました(黙示録一二ノ七~九)。そして、サタンは、彼の反逆に加わるよう人類をそそのかしました。彼と他の堕落天使たち、そして罪深い人間は、人類を贖い地球を回復する神のご計画と争っています。彼らは、神の導きに抵抗することができます。なぜなら、主はだれに対しても強要しないからです。主は決して専制的な力によって支配しません。むしろ、愛によってのみ支配します。主は、すべての者がただ自由意志によって主の導きを受け入れることを望んでいます。
エデンの園において、最初の人類の夫婦は、神に従うかどうかを選ばなければなりませんでした(創世記三章)。彼らが禁じられた果実を食べた後も、神は、人類の堕落した状態にもかかわらず、人類に大きな自由を認めました。それぞれが、神を受け入れるかどうかを決断し、人生における神の働きに加わるか、あるいはそれを妨げるかを選ばなければなりませんでした。
私たちは、聖書に描かれている歴史を通してこの事実を知ることができます。約束の地においてヨシュアがイスラエルの部族を神との契約の更新に導いたとき、彼は、贖い主への再献身をイスラエルの民に求めました(ヨシュア二四ノ一四)。そして、こう付け加えました。「もし主に仕えたくないというならば、川(ユーフラテス川)の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」(一五節)
何世紀もの後、エリヤはイスラエルに次のように求めました。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」(列王記上一八ノ二一)
それぞれ人は、自分で決断しなければなりません。神は、心の扉の前に立っておられ、静かにドアを叩いておられます。しかし、各自が戸を開いて神を招き入れなければなりません(黙示録三ノ二〇)。
これと同じ原則で、主はその計画完成のための働きに人間の参加も含めています。私たちも、特別な方法で神に仕えるか、あるいは抵抗するか、もしくは拒否するかを選ぶことができます。私たちがする決断のあるものは、良くも悪くもないかもしれません。例えば、仕事や職業訓練の選択や、持っている霊の賜物のある一つを選んで用いることに専念するといったことです。
またある決断は、彼らの人生に対する神の計画と導きを拒絶することを意味しているかもしれません。また私たちは、神に仕えることをまったく拒否することもできます。この場合、私たちが担うはずだった役割のために、神は他の者を招くでしょう。そして、私たちが行う方法とは異なる方法でそれを成し遂げます。神は、人間の新しい状況に応じて、計画を適用するのです。
人間の自由意志という制約の中で働かれる神の原則は預言にも及びます。聖書のほとんどの預言は本質的に条件付きです。預言者エレミヤを通して、神は、明確に次のように述べられました。「あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す」(エレミヤ一八ノ七~一〇)
ヨナ書は、実際にあった条件付預言の典型的な例を提供しています。神は、イスラエルの預言者によってアッシリアの首都ニネベを滅ぼすと明言しました(ヨナ一ノ一、二、三ノ一~五)。しかし、この町の人が悔い改めると(ヨナ三ノ五~九)、神は思い返して、町をお赦しになりました(一〇節)。
エゼキエル一八ノ二一~二四でも、個人的レベルで同じ原則が適用されています。イザヤ書を見ると、イスラエルと他の国民が預言の成就に必要な条件を満たすことを拒否したために、預言の多くの部分を神が望まれる方法で成し遂げることができませんでした。2
神の約束と計画を成し遂げるために、常に神は新しい計画を立て、それを適応しています。また、不測の事態に対処するために備えています。神の隙を突くものはなにもありません。反逆あるいは無関心が神の働きの通路の一つを遮断しても、神は他の道を切り開きます。同様に、だれかの誤った選択の結果を阻止したり妨げたりします。サムエル記上一九ノ一八~二四は、ダビデを処刑するために捕らえ連れてくるようサウル王がどのように三度も兵隊を送ったかを語っています。その度ごとに聖霊が介入し、兵士たちは、その使命を果たすことができませんでした。ついに、死に物狂いになってサウル自身がダビデを追いかけました。そして、彼自身が預言の「熱狂」のとりこになっていることに気づくことになります。サウルの注意を引くことを望み、神はサウルにその力をお示しになりました。悲しむべきことに、王は神の導きを拒否し、ダビデの命を狙い続けました。しかし、神は人間の応答に対応し、神の目的を変えることはありませんでした。
すべての被造物にお与えになった自由という制限の中で神が働く時、神はすべての新しい状況に対して適切に対応します。だれかが神の意図したことを行わなかったり、サタンとその悪の軍勢が、ある神のシナリオを壊そうと試みるかもしれません。また悪魔は、神の民の中に不和の種をまいたり、神の僕と戦い迫害するために、人間の代理者や政府を悪用するかもしれません。しかし、神を止めることはできません。神は予定外の事態に対し、新しい計画を立てます。最初に選んだ者が神の招待を拒むとき、他の者が神の導きに応えるのです。
ペルシャの君との格闘
時として、神は、その目的を果たすために即座に別の方法を取られます。しかし、神が造られた者たちの強い抵抗があったとしても、最初のシナリオを完成するために強く働かれる場合があります。後者の実例を、神が使命を果たす者としてキュロスを用いる場合に特に見ることができます。ダニエル書一〇章において、「ペルシャの国の君が、二一日の間わたしの前に立ちふさがった」(ダニエル一〇ノ一三、口語訳)ことを、天使は預言者に語っています。このため、「天使長のひとりミカエル」が天使を助けに来ました。神は、恐らく人間と超自然的存在の両者から激しい抵抗に遭っていました。全能の神は、被造物のいかなる抵抗も即座に制圧することができたはずです。しかし、神はそうすることを選びませんでした。その代わりに、神は人間が織り成す出来事の中で働かれることを決心しました。そのために、神の命じられたことを人間が自分自身の動機や傾向また願望から行うことを許しました。神は、人間それぞれが自由意志をもって決断することを期待しています。このため、神は、可能な限りいつでも人を確信させて導くことを望んでいるのです。
イスラエルの神は、キュロスに対する神の計画の打開策を設けました。天使は、無事にダニエルのもとに来てそのことを話しました。しかし、抵抗は終わったわけではありませんでした。ダニエルのもとを去る前に、天使はこう述べました。「わたしは、今帰っていって、ペルシャの君と戦おうとしているのです。彼との戦いがすむと、ギリシヤの君があらわれるでしょう」(二〇節、口語訳)。またミカエルも、預言の成就を阻止しようとして争っている者たちと戦い続けなければなりませんでした(二一節)。
繰り返し見てきたように、人間の出来事と歴史における神の活動は、事物や命を生じさせることと同じように神の創造の力の現れなのです。預言はそれ自体で成るわけではありません。創造主がそうなるように導くのです。神は、預言が成就するよう絶えず戦っておられます。多くのクリスチャンは、神の最も偉大な力は将来を見通す能力だと考えてきました。しかし、どんなことであれ将来起こることを見通すことと、神の介入にいらだち、自由意志によって反抗しうる世界でそれを実現することとでは、どちらがより偉大な力だと言えるでしょうか。
またあるクリスチャンは、預言が予想する事柄の方に心を奪われて、それを実現する方を忘れてしまいます。預言は避けられないことについての説明ではなく、力強い神がその意図したことを成し遂げるという物語なのです。何か運命づけられることがあるとすれば、それは神の介入によって神が成就することを保証しておられるからなのです。
ある著者が次のように述べました。「人間の歴史の記録によると、ある民族の成長や帝国の勃興と没落といったことは、人間の力と意志によるもののように思われる。また出来事を形作っているものは、大部分において、人の力や野心や気まぐれによって決定されているように見える。しかし、神の言葉によると、幕は脇に引き寄せられて、人間の関心や力や熱意によるあらゆる行動とまた対抗する活動の背後に、あるいはそれらを通して憐れみ深い方の働きを見ることができます」。3
預言者イザヤによると、将来に関する私たちの確信は、神の予見する能力にあるのではなく、究極的に神が創造主であり創造に現された力によるのです。預言が成就するのは、神が真の神だからです。偶像は何もできません。しかし、イスラエルの神は創造主なのです。だからこそ預言者は、キュロスを予見することができ、神は神の僕を登場させると完全に信じることができました。
「背く者よ、反省せよ
思い起こし、力を出せ。
思い起こせ、初めからのことを。
わたしは神、ほかにはいない。
わたしは神であり、わたしのような者はいない。
わたしは初めから既に、先のことを告げ
まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。
わたしの計画は必ず成り
わたしは望むことをすべて実行する。
東から猛禽を呼び出し
遠い国からわたしの計画に従う者を呼ぶ。
わたしは語ったことを必ず実現させ
形づくったことを必ず完成させる」
(イザヤ四六ノ八~一一)。
神は意図した未来を創造されます。ただ何もしないでそれを待っているわけではありません。預言に注目するあまり、それを実現される神を見失うようなことがあってはいけません。
私の僕 イスラエル
イザヤ書は、複数の意味で僕のイメージを用いています。しかし、それらは、人間的また一般的な特徴から、それ以上のものへと進展しているように見えます。さらにイザヤは、集団としての僕だけでなく、個人としての僕について述べています(イザヤ四一ノ八~一〇、四二ノ一~九、一八~二二、四三ノ一〇、四四ノ一~五、二一~二八、四五ノ四、四八ノ二〇~二二)。
最初の僕についての聖句は、宇宙的裁判の審理の場面で始まっています。神のみが将来を予見することができるゆえに、ご自分こそ唯一の神であることを示すため、神はパレスチナ沿岸の諸国民を召集しています(イザヤ四一ノ一)。新しい勢力が、地平線のかなたから現れます。これに抵抗することができるでしょうか。沿岸の諸国民よ、互いにそして偶像より励ましを得なさい(五~七節)。しかし、同時にイスラエルの民も関心の対象となっています。主は彼らを見捨てるでしょうか。彼らはどうすべきなのでしょうか。
神はイスラエルに語り、アブラハムの時代より(八、九節)、神が彼らを神の僕(八節)として選んできたことを明言します。神は彼らを見捨てませんでした(九節)。むしろ、「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神」(一〇節)。主は力を与え、彼らを助けます(一〇、一三節)。彼らの敵は、面目を失って消え去っていきます。彼らが虫けらのように力も価値もないものと感じたとしても(一四節)、神は彼らを打穀機とします(一五節)。
打穀機は、石あるいは鉄の歯をはめ込んだ重い木の板からなる農機具で、ふるいにかける前の籾殻と穀粒を分離するために、ロバや他の牽引する動物がそれを付けて収穫した大麦や小麦の上を引きまわります。つまりイスラエルは、最後の収穫のために地球を備えさせる神の働き人となりえたということになります(一五、一六節)。ここでは、神の僕は、神が委託しこの地上で神の僕として活動するために力を与えた人間のグループを意味しています。イザヤ四四ノ二一において神は、彼らが神の僕であり彼らのことを忘れてはいないことを神の民に思い起こさせています。とにかく、神は彼らを贖い出し、彼らの罪を雲のごとく消し去りました(二二節)。しかし、彼らはこの役割を彼ら自身の選択によって受け入れなければならないのです。
異邦人への光
「僕」という比喩的表現が意味することは、イザヤ四二章から変化し始めます。この部分全体にわたって、イスラエルの復興と世界の変革へと導く出来事を引き起こす、政治的な僕キュロスについて論じています。しかし、主はさらに、霊的な働き人を必要としています。神は、神の霊によってこの第二の僕に力を与えて、この僕により不義の世界に正義をもたらそうとしていました(イザヤ四二ノ一)。多くの注解者は、傷ついた葦を折ることなく、油が切れて暗くなっていく灯心を消さないこの僕の優しさを強調しています(三節)。しかし、この聖句がさらに暗示することは、この僕は折れた葦を直し、油を注いで満たすことができるということです。
しかも、この僕は難しい使命を果たす力を持っています(四節)。また彼は、「諸国の光」(六節)です。この僕は、全世界の救いを担う神の働き人となります。彼は、捕囚となった民だけでなく異邦人をも贖うことになっていました。神の僕は、異教徒のために彼らの神である偶像がなしえないことを成し遂げることができます。彼の使命は、アブラハムとその子孫の使命と同じです(創世記一二ノ三、一八ノ一八、二二ノ一八、二六ノ四)。この僕の記述は、神の民が贖われ約束の地に回復されるという文脈の中にあります。しかし、記述中の表現は、人間以上の存在であることを描き出しています。イザヤ四二章において、その使命は、まさに神の力を必要とするものです(一、六節)。これらの聖句は、新約聖書が新しいイスラエルと呼ぶ、人間を超えた方であるイエスを預言しています。4イエスは、イザヤのこの聖句を自分に適用しうるあらゆる正当性を持っていました(ルカ四ノ一六~二一)。
主は、そのような僕を呼び起こすだけでなく、与えられた使命を僕が果たせるように保証しました。また全宇宙の創造主であり、命を支える者であることを示しました(五節)。この驚くべき約束によって賛美の歌が湧き起こります(一〇~二〇節)。
イスラエルの復興者
イザヤ四九章の僕に関する聖句を見ると、視点が一群の人々からある個人へと移っています。この僕もまたイスラエルと呼ばれていますが(イザヤ四九ノ三)、彼の役割は、神のもとにもどる人々としてイスラエルを導くということも含んでいます(五、六節)。そのために、神が選ばれた使命者とは、人々全体を指すのではありえません。「第一に、この僕と呼ばれるイスラエル(イザヤ四九ノ三)を、民族としてのイスラエルと区別しなければなりません。というのも、人々を連れ戻すことが僕の役目だからです。民族自体が、罪から救うそれ自身の救い主にはなりえません。第二に、この僕は、唯一の真のイスラエルです。なぜなら、イスラエルがなすはずだったこと、すなわち全世界より民を集めるということを彼が行おうとしていたからです(イザヤ二ノ二~四)」5
神はこの僕を彼が生まれる前から呼んでいました(四九ノ一)。しかし、この僕は自分の使命が失敗に終わったかのように感じます(四節)。それでも、イザヤ四二章にあるように、僕は全世界の救いと光の源となることになっていました(六節)。「この職務は、いかなる預言者あるいは単なる人間がなしえることを超えて行われます」6
七節では、僕が「支配者らの僕」と表現されていますが、主は、栄誉を受けるに値する者と見なしています。フィリピ二ノ五~一一において、パウロも、尊敬と栄誉を受ける僕あるいは奴隷という比喩的表現をしています。民は僕を拒否するかもしれませんが、支配者は、彼を敬い服従します。イザヤ五二ノ一三において、このテーマはさらに発展しています。主の僕として彼は、新しい出エジプトにおいて、神の民をあらゆる流浪の場所から故郷へ導くことになります(イザヤ四九ノ一〇~一二)。この中のイザヤ四九ノ八~一〇は、イザヤ四二ノ六、七と同調しています。
支配者たちがひれ伏すこの僕は、イザヤ書前半で描かれていたダビデのような王でなければなりません。彼は義の王です。イザヤは異邦人も理解できる比喩的な表現を再び用いています。「アッシリア文学において、王の正義の統治は、繁栄、熱心な礼拝、歓喜、捕虜の解放、病人の癒し、油注ぎ、また貧しい者への食物や衣服の供給といったことに特徴づけられています。同じような要素が、ヤハウェによる民の回復において計画されており、これらの要素が、メシアの特徴となっています」。7
神がその僕を通してなされるすべてのことを預言者が見て、なぜこのように賛美したかを私たちは理解することができます。「天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め その貧しい人々を憐れんでくださった」(イザヤ四九ノ一三)。
僕の姿は人間よりもさらに大いなる者となっていきます。地上の者としてのイメージがはがされ、神性が垣間見られるようになります。さらに、苦悩の僕を描く五〇、五二、五三章において、もっと全体的にその宇宙的性質が明らかになります。
参考文献
1. J.H.Walton, V.H.Matthews, and M.W.Chavalas , 「The IVP Bible Background Commentary, Old testament」 p.628
2. 条件付預言の概念、特にイスラエルに関して過去の議論を深く学びたい場合は、Seventh-day Adventist Bible Commentary(Review and Herald 1977)vol.4, pp.25-38 『旧約聖書の預言におけるイスラエルの役割』を参照。
3. エレン・G・ホワイト「教育」福音社
4. Jon Paulien 「The Deep Things of God」cha p.8
5. J.A.Motyer, 「Isaiah: An Introduction and Commentary 」 p.310, 311.
6. 同 p.311
7. J.H.Walton, V.H.Matthews, and M.W.Chavalas, p.632