イザヤ書における神と救い【イザヤ書解説ー悲しみの人#4】

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第一〇章 謎に満ちた僕

神は御自分の民に彼らを回復させるであろうと保証していました。神は彼らのために計画された輝かしい将来について語っています(イザヤ四九ノ八~二六)。けれども彼らはまだ捨てられているように感じているのです。彼らの状態は改善されたように思われません。主は彼らの失望を知ってそして慰めます。けれども最初に、神が尋ねます。私は本当にあなたがたを見捨てましたか? その証拠はどこにありますか? 私にそれを見せてください、と神は要請します。「お前たちの母親を追い出したときの わたしの離縁状はどれか。お前たちを売り渡した時の債権者はc誰か」(イザヤ五〇ノ一)。託宣者は、ユダとイスラエルの以前の民族を母親として、そして亡命者を彼女の子供たちとして示しています。古代の世界では、借金や他の負債を払うことができない人々は奴隷として売られてしまうのでした。絶望的な家族が生き残るためには、彼らのメンバーの何人かを奴隷の身分に売らなければならないかもしれません。神は御自分の民にそのようなことをしたでしょうか?

主は彼らを拒絶しませんでした、と主が宣言します。それどころかその逆なのです。実際には主はこの宇宙の婚姻の関係で被害をこうむっている側なのです。主の民は主から顔をそむけました。イスラエルは彼ら自身の罪(一節)のために追放されているのです。彼らは主の召し(二節)に応えなかったのでした。しかし彼らの未来については、「わたしの手が短すぎて贖うことができずわたしには救い出す力がないというのか」(二節)であったのでした。イスラエルはずっと奴隷として売られていたのかもしれません、しかし神は彼らを買い戻すお金を持っています。確かに、地球、その上に生きている生物、そしてその上の大空(二、三節)に劇的なことをすることができる神は、御自分の民を救う力を持っています。

清廉潔白な僕

突然新しい声が託宣に入ります。誰かが一人称で話をし始めます。神はこの特別な人に「疲れた」人たちを支える力を与えました(四節)。それはイザヤ四〇ノ二八、二九で、神は「疲れた者に力」を与えるであろうと聖句に宣言されているのと同じ言葉です。この神の代理人は、たとえそれが彼に迫害・虐待を被らせようとも(六節)、彼に与えられた使命を受け入れます(五節)。古代の人々(そして今日の中東での彼らの子孫)は、侮辱あるいは恥や不名誉をもたらすであろうどんなものにも特に敏感でした。けれども神の代理人はこのような関心事を無視します。主が彼と一緒であるという認識は、彼に巡ってくるいかなるものにも直面することができるようにします(七節)。彼には彼を圧倒する何物もないでしょう。八節で預言者は法律用語を使います。「僕」は法廷に立っています。けれども彼は、彼に対するすべての告訴罪状が虚偽であると証明されるであろうことを確信しています。「誰がわたしと共に争ってくれるのか われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか わたしに向かって来るがよい」(八節)。神の代理人は神に完全な信頼を持っています。

明らかに「僕」はイスラエル以上の方です。神の民は、「僕」のように無垢ではありません。実際、彼らは自らの罪のために奴隷として売られたのでした。「四〇~五五章の中での会話体の部分をより大きい文脈で見るとき、そこには僕の国民であるイスラエルから、今国民の本当の使命を具体化する苦しめる個人としてのイスラエルへの明らかな変移が見られます」1

ある現代の聖書解説者は、ここに記述されている「僕」としてある特定の歴史的な人々をそれに当てようと試みました。2そのような人々は地上で神のご計画の実現を手伝っている神の代理者の中にいたかもしれません。しかし聖句での「僕」という言葉はどんな特定の人間をも越えた意味を持っています。「僕」は彼らのすべてを結合した者より以上の方です。我々がずっと見ているように、「僕」はただの人間たちをはるかにしのぎます。初期のバビロンの国王の像のように、ここの「僕」はその姿をそれ自身を越えて宇宙のレベルを指し示します。イザヤ書は、人間の状況などはただの表面的なものにしかすぎない全宇宙的な戦いに読者を導き続けます。人間の王が戦争をするとき、それは超自然的な支配者の間での究極の対立を反映しているのです。

「僕」は宇宙法廷の聴聞が、彼が無罪であることを証明するであろうことを確信しています。なぜならば、絶対的に公正な、そして真実な裁判官である主が、超自然的な宇宙法廷の全ての者に、主の「僕」が彼に対してなされるすべての告訴に関して無罪であることを明らかにするからです(九節)。どんな非難も、真実そのものである彼に立ち向かうことができません。託宣は再び展望を変えます。もう「僕」はこれ以上語りません……今や彼は「僕」として語られているのです。聖書が今尋ねます。

「お前たちのうちにいるであろうか

主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。3

闇の中を歩くときも、光のないときも

主の御名に信頼し、その神を支えとする者が」

(一〇節)。

チルドスは、ここに「正しく主を恐れる誰に対してでも挑戦がなされています、それは全く『僕』のように、暗闇の道を歩くことがあったとしても神を信頼するという、『僕』のメッセージと一体となることです」4と提案します。全体としてイスラエルと異なり、「僕」は、たとえ彼が神はどのようにご自分の民を贖うご計画を働かれるかをすべて詳しく知らなくても、喜んで神と神の力を信頼することをいといません。さらに彼の信仰によって、彼は偉大なことを達成します。「僕」は、イスラエルを含めて、すべての国に光となるでしょう。けれども自分自身の光を作ろうと試みる人たちは、ただ失望と神からの厳しい罰に直面するでしょう(一一節)。

苦難の僕

イスラエルの復興についてのさらに輝かしい約束の後で(イザヤ五一ノ一~五二ノ一二)、預言者は再び神の特別な「僕」についてのテーマに戻ります(イザヤ五二ノ一三~五三ノ一二)。ここでイザヤは「僕」の苦難とそれがイスラエルとすべての国民両方に何を意味するかに焦点を合わせます。

イザヤ五二ノ一三は「僕」が栄え、高く上げられ、あがめられるであろうと宣言します。しかし、一四節と一五節で突然の移行をします。彼の顔立ちは今や「人とは見えず」そこなわれます(一四節)。国民を驚かす何かが起きました(一五節)。加えるに、特別なグループが「僕」の体験の重要性を理解し始めます。「だれも物語らなかったことを見 一度も聞かされなかったことを悟ったからだ」(一五節)という言葉が「お前の聞いていたこと、そのすべての事を見よ。自分でもそれを告げうるではないか。これから起こる新しいことを知らせよう 隠されていたこと、お前の知らぬことを」(イザヤ四八ノ六)という聖句にこだまします。イザヤ五三ノ一~一二でそのグループは、「僕」が体験したことの意味について彼らの理解が深まったことを告白します。5

イザヤ五三ノ一の話し手は、「僕」が「主の御腕」であることを、彼らに神々しく開示しています。それでも彼「僕」は本当に人間であります(二、三節)。彼が主の「前に」大きく育ったのですから、彼は主とは別であります。そして彼は、多くの解説者が議論するような、イスラエル共同体やあるいは忠実なる残りの民ではなく、一人の具体的な特定の人物です。6「この(「僕」という)言葉は、回りくどい方法で本文の明白な意味を捻じ曲げないかぎり、比喩的に国民とは表現することはできません」7

「僕」は彼が持っていたその感覚を持ち合わせなかった人たちによって、避けられ、そして誤解されました。

「見るべき面影はなく

輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し8

わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」

(二、三節)。

ヨハネは後に、この拒絶の預言がイエスの体験によって成就されていると述べました(ヨハネ一ノ一〇、一一)。

傍観者には、この「僕」は神によって刑罰を受けているように思われました。けれども彼がその苦しみを耐え忍んだのは、自分のなしたことによってではなく、他の人の罪のためでした。

「彼が担ったのはわたしたちの病

彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに9

わたしたちは思っていた

神の手にかかり、うたれたから

彼は苦しんでいるのだ、と」(四節)。

逆説的に、「僕」は苦しみますが、しかし彼は高貴な方なのです。実際、イザヤ五二ノ一は神ご自身の超越性を反映する比喩で、彼について語っています。10それはどのようなことでしょうか? それは預言者の言葉の聞き手の大部分には、ほとんど意味をなさなかったでしょう。我々がヨブ記で見るように、古代のイスラエルでは、繁栄を神の賛意、貧困と苦しみは神の不快と同等に扱いました。イザヤはこの苦しめられている「僕」がなぜ高貴な方であり得たかを説明しなければなりません。

「彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった」(五節)。

聖書は「砕かれた」という言葉を、哀歌三ノ三四に「踏みにじる」とあるように、死に至って終わる苦しみを表現するのに用いています。神の代理人が受けた罰は、「わたしたちに平和」を与え、そして彼が耐え忍んだ傷によって「わたしたちはいやされた」のです(イザヤ五三ノ五)。「わたしたちは羊の群れ」のように神の羊飼いから離れて迷いました。「わたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた」のでした(六節)。そうです。「僕」は苦しめられました。そしてなお、神は彼を苦しめました……しかしそれは神が「わたしたちの」罪を彼の上に置くことができるようになされたことでした。彼は「わたしたちの」益のために苦しみました。そして本当の意味でイザヤは、「僕」がなしたことは神御自身が同じようになさったことであるのを見るのです。「多くの痛みを負う人」は、人類すべての苦しみと重荷を解放するために、彼らの悲しみをすべて背負ったのです。

「僕」は虐げられそして悩まされました。けれども、彼は抗議したり、あるいは弁護したりはしませんでした。彼は「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった」(七節)。彼が受けた仕打ちは正義の明らかな倒錯を表していました、そして彼は「命ある者の地から絶たれた」のでした(八節)。「絶たれた」というヘブライ語は、列王記上三ノ二五のように、「切り落とされる」意味も持っています。彼は受けた苦しみに加えて、彼が体験していたことに対する人間の理解が完全に欠如しているという痛みを経験しました。ただ啓示を通してだけ、人類は彼の使命への洞察を得ることができるのでしょう。

「僕」は神の民に逆らったこともなく、また彼の心が虚偽に満たされたこともありませんでした。それでも、彼の敵は「その墓は神に逆らう者と共にされ」て、それによって「僕」に対する彼らの悪意を表明したのでした(イザヤ五三ノ九)。それでも彼に起こったすべてのことは神の意志でした、なぜなら彼の命は罪のための捧げられる犠牲であったからです。レビ記四ノ一~六ノ六は「僕」の死が反映されている贖罪の犠牲を記述しています。モティヤーが述べるには、その犠牲は「要件を十分満たした犠牲と呼ぶことができる。ここでその犠牲という言葉は、「僕」がわれわれの犯した罪を担い、われわれを罪から解放したことを確実にしたことに強調点を置くよりも、むしろ「僕」がなしたことが、彼がなさなければならなかったことと正確に同等であったという意味で使われている」11我々が贖いの本当の意味をすべて理解できないにもかかわらず、この苦しめる「僕」は人類を救うためにすべての必要条件を満たしました。

神の僕は死んで、そして葬られます。しかし彼は最後には生きているのです――「彼は自らの償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る」(イザヤ五三ノ一〇)。「僕」がなしたことは神の意志に従ったことでしたので、それは意味と重要性を持つでしょう。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」(一一節)。彼は単に、彼の犠牲を受け入れる神の民の人々の状況を変えるだけではなく、彼らの罪を清めるのです。彼らはもはや、主がイザヤ書一章で立ち向かった邪悪な人たちではないのであります。

「僕」の死は彼の存在の終わりではありませんでした。彼は驚くべき勝利を勝ち取って、そしてその報酬を受けるでしょう。

「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし

彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」

(イザヤ五三ノ一二)

苦難が「僕」に大いなる勝利をもたらしました。一二節には彼の宇宙的な成功と称揚が四つの事実に基づいて見られます。

①「彼は……自らをなげうち、死んで」――彼は死に至るまで自ら進んで苦しみました。

②「彼は……罪人のひとりに数えられた」――彼は救いを必要とした人たちと同一視されました。

③「彼は……多くの人の過ちを担い」――彼は失われた人類のための有効な代理人でした。彼の生命と死は、罪深い人類を救うためになされる必要があった全てのことを達成する力を持っていました。

④「彼は……執り成しをした」――彼は救うことを望んだ人たちのために仲裁して、そして調停しました。

このようにして、「死んだ方(イザヤ五三章九節)は生き返り(一〇節)、罪に定められた方(八節)は義とされ(一一節)、無力であった方(七節)が勝利者(一二節)」12となったのです。

身代わりの王

「僕」が成就するであろうことの完全な意味は、十字架の時まで明らかにされないでしょうが、その一方では、預言者の時代にイザヤ書を読んだ異邦人は苦難の「僕」の体験が示唆したことの意味をとらえていました。もう一度神は、神の民を越えて啓示するであろうことを比喩的に語っていました。

アッシリア人は、苦難の僕の意味についてある洞察を与える一つの習慣を持っていました。前に述べたとおり、占星術はメソポタミアにおいて栄えていました。人々は人間は運命の定めによってコントロールされていると信じました。しかし星々やいろいろな天体は、人間に起こるかもしれないことの手がかりを与えるでしょう。星占いの卦やあるいは日食月食のような天文現象が、国王の命に脅威を与えると示された時、王の助言者は「身代わりの王の儀式」と呼ばれる儀式の実施を提案するのでした。アッシリア人は、害悪は一人の人からもう一人の人へ移されることができると信じました。彼らは危険が恐らく降りかかるであろう期間中、国王をほかの誰かで置き換えるのです。その考えは、脅威が本当の支配者の代わりに代理人を打つであろうということでした。

王の代理に選ばれる個人は、あまり重要でないと見なされる人物でしょう。その人は精神的に、あるいは身体的に害を受け、損なわれさえするかもしれません。彼は多分およそ一〇〇日間、形式的な王権を行使するでしょう。その期間中、本物の国王は隔離されていて、そして種々の清めの儀式を行なうでしょう。けれども最後には、代理の王は死に処せられ、そして悪魔払いの儀式とともに国葬を与えられるでしょう。代理王に対する死刑執行は、実際の一人の支配者に対しての脅威を帳消しにすることであると考えられました。13

「苦難の僕」はただ一人の個人だけを救ったのではありません。「僕」がなしたことの結果を受け入れるであろうすべての人々を救ったのでした。彼は社会から拒絶された人以上の方でした――彼は「主の御腕」でした。けれどもこのアッシリアの習慣は少なくとも、異邦人(そしてこの実例を知っていたイスラエルの人々)が、神の民以外の人たちをも救いたいという神の願望を認識するのを助けるでしょう。

前の「僕」についての聖句と同じように、彼の犠牲を通して達成された救いにあずかるようにという招待がそれに続きます。イザヤ五四ノ一~五五ノ一三は最初にシオンの「不妊の女たち」、それから救い主の饗宴に出席することを望むすべての人に語ります。イザヤ五四章と五五章は慰めのメッセージが全世界的な祝福の中に広がっていくのを描写するイザヤ四〇ノ一~四二ノ一七に対応します。キリストは後に、救い主の饗宴の主題を(彼が比喩的に苦難の僕としてなしたように)彼御自身に適用するのであります(マタイ二二ノ一~一四、ルカ一四ノ一五~二四)。

参考文献

1.        B.S.Childs, ISaiah, p.395.

2.        たとえば、John D.W.Watts, 「Isaiah34-36」 p.199-204を参照。

3.        モティヤーは「主」と「僕」が互いに並列していることを指摘して、「『主』を敬うことは、『僕』に従うことである」と示唆している。

4.        Childs, p.396.

5.        「この新しい〔文学的な〕部分とそれに先行する神の語りかけとの間の連結は洗練された巧みな交差対句法で作られている。見ることの比喩(イザヤ52:15bとイザヤ53:1b)、聞くことの段階化(イザヤ52:15bとイザヤ53:1a)、そしてイザヤ52:15bのイスラエルのグループとイザヤ53:1ffの告白している声との間の連続性の確認。”」(Childs, p.413)。

6.        特有なユダヤ人についての解釈はI.W.Slotki, 「Isaiah」 p.260.と「The Jewish Bible」, pp.890-892を参照

7.        Childs, p.414

8.        この節は、「われわれから顔を隠す者」とも翻訳される。「メシア(救い主)は人間を拒むという意味では顔を隠すことはなかった、しかし、彼は地上での人間としての一生の間(その神性を)覆っていた」(ピリピ2:5.8)。

9.        聖書の世界では、病は神の罰と考えられていた。

10.      Gerald T.Shepherd, 「Isaiah」, The HarperCollins Bible Commentary, ed.James L.Mays (San Francisco: Harpersanfrancisco, 2000), p.527.

11.      Motyer, p.338

12.      同

13.      Walton, 「Matthews, and Chavalas」, pp.633, 634

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