安息日とは?何曜日なの?安息日はユダヤ教だけ!?

その2 使徒以後の教父たちも日曜日を復活の記念として守っていたことが歴史的に証明されている。

使徒時代後に書かれた歴史的文献から、使徒時代とそれ以後の教会が日曜日を復活の日として守っていたことが証明されているのではありませんか?

聖書の中に週の「初めの日」が復活の記念として聖なる日に定められていると考えている人が少なくないようです。

さらに使徒をはじめそれ以後の初代教会、教父たちも日曜日を復活の記念として守っていたことが歴史的文書から裏付けられていると考えている人も多いのです。

しかし、それらの文書に当たって調べてみると意外な事実が浮かび上がってきます。

初のプロテスタント学者としてローマにある教皇庁立のグレゴリアン大学を最優秀の成績で卒業したサムエル・バキオキ博士は、同大学出版所から『安息日から日曜日へ』という研究書を出しました。

この本は初期のキリスト教会における日曜遵守の歴史を歴史資料に基づき検証したものです。それではその資料をもとに日曜遵守の起こりを調べてみたいと思います。

主の復活が週の「初めの日」に起きたことは間違いありませんが、聖書ではその日が「復活の日」と呼ばれたことは一度もありませんし、また復活と聖餐式を結びつけた例もありません。

聖餐式は不特定の日に持たれていたようです(Iコリント11:18,20,27,28,33,34)。それに聖餐式は復活ではなく、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」ために執り行われたのです(26節)。

パウロが割礼をクリスチャンとなることや、救いの条件にしようとしたユダヤ人クリスチャンと戦ったことから、使徒たちがユダヤ教の伝統に否定的であったかのように考えがちですが、事実は違います。

エルサレム会議において取り決められた異邦人の改宗者も避けるべきものとして、「不品行と絞め殺した物と血」が挙げられていますし、その理由として「それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです」と言っています(使徒15:19〜21)。

紀元58年から60年ごろもパウロは「種無しパンの祝い」を祝うことや、最後にエルサレムを訪れた時も五旬節を共に祝うことを気にかけていました(同20:6,16)。

エルサレムの指導者であった主の兄弟であるヤコブも、エルサレムの幾万といる「律法に熱心な」ユダヤ人クリスチャンからパウロがユダヤの慣習を否定しているという「根も葉もない」ことで疑われず、「律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかる」よう神殿で清めの儀式にあずかるようにアドバイスをしています(使徒21:20〜26)。

このような聖書の伝統に対する意識で信仰生活をしていた当時のクリスチャンにとって、重要な週毎の安息日が廃されて、その代わりとして新しい聖日が定められるなどということは想像もできないことであったに違いありません。

ある学者は紀元70年のエルサレムの滅亡、神殿の崩壊がパレスチナのクリスチャンが安息日から離れるきっかけになったのではないかと考えています。

確かにエルサレムの神殿の崩壊はユダヤ人クリスチャンにとってユダヤ教との関係において決定的な影響を与えたに違いありません。しかし歴史家のエウセビオス(紀元260〜340年)とエピファニオス(315〜403年)は、エルサレムの初代教会直系の子孫であるクリスチャンたちが、エルサレムの滅亡後も数世紀にわたっていまだに安息日を守っていると証言しています。

これは安息日がエルサレム教会の礼拝の日であり、エルサレムの滅亡が安息日から日曜礼拝のきっかけとはならなかったことの有力な証拠です。

皇帝ハドリアヌスが紀元135年にエルサレムを攻め、ユダヤ人とユダヤ人クリスチャンを追放し、安息日遵守と割礼を禁じました。皇帝の勅令により、外国人と異邦人クリスチャンだけが居住を許されたのです。このことはエルサレムの異邦人クリスチャンに大きな影響を与えたに違いありません。

しかし仮にこの小さな異邦人クリスチャンのグループが安息日に対して否定的になったとしてもその影響力はもはや弱いものでした。

ユダヤ教とはっきりと決別し、日曜の礼拝を世界に広めていくとすれば、異邦人からの改宗者によって構成されていた帝国の首都ローマの教会が日曜礼拝の誕生の地と考えるのが妥当だと思われます。ローマの宗教的、社会的、政治的な状況はその仮説の正しさを実証しています。

日曜日をクリスチャンの礼拝の日とすることは、エルサレムでなくローマで始まったという証拠はあるのですか?

異邦人から改宗したクリスチャンが主力だったローマの教会(ローマ11〜13章)においては、ギリシャ、小アジアの東方教会にはなかったユダヤ教、ユダヤ人との分離の意識が強くありました。

皇帝ネロ(統治54〜68年)が放火の責任をクリスチャンのせいにし、エルサレムの反乱、バルコクバの反乱(132〜135年)ではそれぞれ60万人のユダヤ人が殺されています。諸皇帝はユダヤ人に重税をかけて差別しましたし、セネカ(紀元65没)をはじめ多くの1、2世紀のローマの著述家たちがユダヤ人やその文化、特に安息日遵守と割礼を下劣な迷信として、非難、嘲笑しています。頃を同じくしてクリスチャンによる反ユダヤ文書が数多く出されており、それらの文書もローマの著述家たちと同じようにユダヤ人の習慣である割礼、安息日遵守を非難しています。

安息日非難の文書は各地の教父によって書かれていますが、クリスチャンを安息日から引き離し、日曜日のみを遵守させようとする文書の最も早い時期のものは2世紀半ばの殉教者ユスティアノスによるものです。彼はその反ユダヤ文書『トリュフォンとの対話』の中で安息日はユダヤ人のためだけのものであり、また『第一弁証論』の中で自分たちが初めの日に集うのはそれが「創造の初めの日」だからであり、同じ日に「救い主イエス・キリストが死から甦られたからだ」と述べています。

彼の安息日に対する否定的な考えは、東方教会などからの反対にもかかわらずローマの教会が他の教会にも押しつけようとした安息日の断食の導入に表されています。

このことは教父ヒュッポリタスや数名の教皇、アウグスティヌスなどの歴史資料によっても裏付けられています。教皇シルベスターはこの断食はキリストの死に対する悲しみを表すためのみならず、ユダヤ人と彼らの安息日のご馳走に対する侮蔑を示すためだと言っています。

数人の教父たちは、安息日の断食は、結果としてローマにおいては安息日の聖餐式を除外するように作用し、さらに一切の集会を禁止するようになっていったと証言しています。

このことはクリスチャンから安息日に対する尊崇の思いを奪い、日曜日を断食の安息日から解放される喜びの日として守る強化につながったのでした。

安息日の断食がいつごろに確立されたかははっきりしませんが、ヒュッポリタスは202年から234年の間に、「キリストが言われていない安息日の断食」についてローマで記しています。

教皇イノセント一世(401〜417年)は金曜日と土曜日に聖餐式を行わない伝統を確立しました。

教父ソクラテスは439年頃、ローマにおいて「ほとんどすべての世界の教会において毎安息日に聖餐を祝うが、ローマとアレキサンドリアのクリスチャンだけは古い伝統に基づき、これをやめている」と報告しています。

ソゾメンは440年ごろ、宗教的な集いに関して「コンスタンチノープルとほとんどすべての場所で人々は安息日と週の初めの日に共に集っている」が、このような「習慣はローマとアレキサンドリアにおいては守れたことがない」と言及しています。ローマとアレキサンドリアの教会が特に反ユダヤ色が強かったのです。

以上歴史資料から見てきたように礼拝の日が変えられてきた背景には、ローマ帝国の反ユダヤ政策がクリスチャンをしてユダヤ的なものから縁を切るようにしむけさせ、帝国の首都ローマではその傾向が顕著であったことがわかります。

ほとんどが異邦人からの改宗者によって占められていたローマの教会は、帝国内でしばしば反乱を起こすユダヤ人、ユダヤ教と自分たちを区別したいという意識があり、日曜遵守の採用と安息日毎の断食の推進により、安息日の地位を低めることにおいて先導的役割を担うことになったのでした。

主の復活の日と聖日礼拝を結びつけた記述が聖書にないとなると、安息日に代わる日としてなぜ日曜日が礼拝の日に選ばれたのですか?

ローマ帝国内で差別を受けがちなユダヤ人やユダヤ教のシンボルである安息日と違う日を選ぶとすれば、次の3つの理由から日曜日が最適であったことがわかります。

1)1世紀にはローマ帝国において天体による曜日の呼び方が広まり、週の初めの日が太陽の日、すなわち日曜日にされたことにより、週の最後の日、土星の日の安息日に優る印象があること。

2)2世紀から帝国内において、太陽や皇帝を太陽神として崇拝する考えが日曜礼拝の普及に貢献したこと。

3)初期のキリスト教の文書や絵画にキリストを「義の太陽」として描くことが一般的になっていったことが挙げられます。

すでに聖書から使徒たちには日曜日に復活を祝う考えのなかったことを示しましたが、日曜礼拝が始まったころに生存していたユスティノスもバルナバスも、日曜礼拝の第一の理由として復活よりも創造の初めの日であったことを第一に挙げていることは注目に値します。

ユスティノスの他にエウセビオスもヒエロニムスも「初めの日」に光が創造されたことを日曜日遵守の理由として挙げています。

光が創造された週の初めの日のほうが最後の日の七日目(安息日)より優れていると議論しています。

また反ユダヤ文書である『バルナバスの手紙』や『トリフォンとの対話』には日曜日を「第八日」と呼んでいますが、数字の7で表される安息日に対抗して、新しい時代の始まりとして8という数字を使用しています。

当時のキリスト教会が第七日安息日に対抗する礼拝の日を求めていったとき、サンデー(太陽の日)を選んだ背景には、ローマに存在していた太陽に対する信仰との強い結びつきがあったとされています。

そして、そのことを示す最も良い例証は、太陽神の誕生日とされた冬至の12月25日がキリストの誕生日とされたことです。

結論として言えることは、日曜日の聖日礼拝という習慣はキリストや使徒たちの権威に基づくものではなく、エルサレムの教会より、政治的、社会的、宗教的にユダヤ人と彼らの安息日との分離を明確にする必要に迫られ、異邦人改宗者の多かったローマから、しかも2世紀になってから始まったと思われるということです。

コンスタンチヌス大帝の改宗によりキリスト教が国教となり、彼が発布した日曜休業令によって日曜遵守(312年)は決定的なものになりますが、それ以後もローマ以外の地では第七日安息日が単独で、あるいは日曜礼拝と平行して守られていたことが歴史的に裏付けられています。

380年ごろに書かれたいわゆる『聖使徒の制定文(ConstitutionsoftheHolyApostlesⅦ.23)』には「安息日と主の日の祭りを守るように、なぜなら前者は創造の記念であり、後者は復活の記念だからである」と記されています。

4世紀後半、さらに5世紀になってもまだ創造の記念としての安息日は遵守されていたのです。また、中世のワルド派が第七日安息日を守っていたことは良く知られています。

以上第七日安息日を聖日として遵守する根拠を聖書と初代教会の歴史から見てきましたが、その後キリスト教信仰の中心的な教えであるキリストの復活と贖いの完成の記念として「週の初めの日」を聖日とする信仰が世界的に広まっていきました。

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