安息日とは?何曜日なの?安息日はユダヤ教だけ!?

その4 クリスチャンは「恵みの下」にあり、「律法の下」にないのですから、もはや律法に縛られる必要はないのであって(ローマ6:14)、安息日や律法にこだわるSDA教会は「キリストから離れ、恵みから落ちて」(ガラテヤ5:4)しまっている。

ガラテヤ5章4節には「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」とありますが、安息日遵守にこだわるのはキリストの恵みによる救いを否定する律法主義ではないでしょうか?

律法と恵み、律法と福音の関係について誤解と混乱が見られます。パウロの書簡には律法に関して一見否定的に思える聖句が多くありますが、律法の何を否定しているかを見分けることが重要です。

十戒をはじめ聖書の律法を定めたのは神ご自身であり、それは人間の神と人に対するあり方を示す指針です。律法そのものは人間を変え、救ってはくれませんが、人間に「罪の意識を生じ」させ、救い主のもとに私たちを「養育係」として導いてくれます(ローマ3:20,ガラテヤ3:24)。

律法が罪の自覚を生じさせるからといって、律法が悪いのではなく、それに従い得ない人間に問題があるのです。「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう」(ローマ7:7)。律法は清い神の義の品性の写しであり、鏡のように人間の罪の姿を映し出すのです。「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」(ローマ7:12)。「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです」(ルカ16:17)。制定しておきながら後から廃止しなければならないような律法を与えたとしたら、それは立法者の責任です。義の標準としての律法は変わることも廃ることもありません。

聖書の中で律法が否定的に扱われるところは、みな人間が律法を救いの手段として、行いによって自分を救おうとすることに対してです。人間は誰ひとりとして自分の行いによって神の前に義を主張できる者はなく、律法の行いによって救いを獲得しようとすることは、恵みによる赦しと救いを否定することになるからです。

パウロはそのことについて、「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。

これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」(ガラテヤ2:16)と述べています。

プロテスタント信仰の基本原理である信仰による義認について、パウロはさらにローマ3章で、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。‥‥人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(24,28節)と明確に述べています。

こと救いに関しては二者択一、律法の行いによる義か、信仰による義か、二つに一つです。

キリストの恵みによって救われることを願うなら、律法の行いによる義は否定されなければなりません。パウロが律法を攻撃しているときは、いつもこの救いの方法としての律法です。

神がお定めになった律法そのものを否定したり、攻撃したことは一度もありません。同じ3章の続きでパウロは、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

かえって、律法を確立することになるのです」(31節)と述べている通りです。そうでなければ無律法主義に陥ってしまいます。

大切なのは動機です。律法に従い、それを主からの力をいただいて守ろうとすることが律法主義なのではありません。

自分の力でそれをなし、それを救いの根拠にしようとすることが律法主義なのです。

安息日遵守であろうが、日曜遵守であろうが、それによって救いを得ようとするなら律法主義となるのです。

聖書には「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にある」(ローマ6:14)とありますし、「キリストが律法を終わらせられた」(10:4)ともあります。恵みのもとにあるクリスチャンは律法から解放されているのではないのですか?

この聖句も今まで学んできたように、クリスチャンは律法の何の下になく、律法の何が終わったのかを前後関係から明らかにすることが大切です。

ロ−マ9章30節からパウロは救いの方法としての律法について論じています。「義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。

しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです」(30〜32節)。さらに続けて「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです」(10:3)と、イスラエルが救いの方法として自分の律法の行いによる義により頼み、神の義すなわち救い主の贖いに対する信仰による義を拒んだことを指摘しています。そこでパウロは4節に、「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」口語訳)と、救いの方法としての律法の終結を宣言したのです。

ローマ8章1節には、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」とありますが、「律法の下にない」というのは、違反者を罪に定める律法の刑罰と断罪の下にないと解することができます。

律法が悪いのではなく、律法に従わない罪、従い得ない罪人とその心が問題なのです。キリストによる解放は、律法に従うことからの解放ではなく、一つは律法の裁き、断罪からの解放です。これはイエス・キリストが第二のアダム、人間として罪のない生涯を送り、しかも罪人として、私たちに代わって律法が要求する罪の価の死を十字架で払ってくださったからです。

8章2節からパウロは解放の意味を明らかにしています。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分のみ子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」(2,3節)。

このようにして律法が要求する罪の刑罰はキリストの犠牲によって満たされ、赦しの道が罪人に開かれたのです。

しかしキリストの救いはそれで終わりではないのです。罪の赦しにとどまらず、律法に調和しない人間の罪の心が変えられて、罪そのものから解放され、救われてはじめて救いが達成されるのではないでしょうか。

すなわち神の律法に従おうとしない罪の思い、反抗心からの解放です。キリストの恵みの霊の働きによる生まれ変わり、新生体験による解放です。その解放と救いの目的についてパウロは4節に「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」と言っています。6、7節には「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」と言っています。

この神に対して反抗し、律法に服従しようとしない肉の思い、罪の心が変えられていく過程が聖化です。キリストの恵みに応えようとする者は、このお方を心の王座にお迎えし、内住するキリストの御霊によって新しいいのちを生きることを願い求めるのです。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」(11節)。

キリストは「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」(ヨハネ15:10)と言われましたが、クリスチャンが安息日をはじめ神の律法に従うのは、救われるためではなく、すでに無条件のキリストの恵みによって救われた者として、その愛に対する応答としてなのです。

安息日を守ることが救いの条件でないとすれば、それを守る意味をどのように考えているのですか?

日本人が週休を享受できるようになってからまだ100年も経っていませんが、聖書の民は数千年も前から、使用人も含めて毎週休みの日が与えられていたというのはすばらしいことです。

これは人間のみならず動物の健康のためでもあり、まさしく愛の律法だったのです(出エジプト23:12)。律法の目的が、人間を守り祝福を与えるためであるということは十戒のすべての条文に言えることですが、第5条から第10条までは、聖書の神を信じなくてもこれらを守ろうとしている人は多くいます。

しかし第4条に示された週の第七日を覚え、この日を聖とするのは、人間が神によって造られたものであることを認め、この日を創造主としての神の主権を認めるしるしの日とするからです。

申命記5章の十戒は、安息日を守る理由を、「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである」と述べています。

奴隷であったイスラエルが強大なエジプトのパロの力から解放されたのは、ひとえに神の介入と救いの力によるものでした。神の民にとって安息日は創造の記念日であると同時に、救いと解放の記念日でもあったのです。

新約聖書においてはへブル人への手紙3、4章が、安息日と福音、行いによらない信仰による義との関係について教えてくれています。金曜日の夕方、創造の業を終えられた主は「非常に良かった」と言われて7日目に休まれ、人間をその休みへと招いてくださいました。

アダムとエバのために備えられた園において二人が神と共に最初に過ごした1日は安息日でした。彼らの生活は自分たちに課せられた義務や課題から始まったのではなく、すでに用意し完成された神の業を喜び祝うことから始まっています。

人間は自分の業による何の功績もなしに、神と共に創造を祝い、休むことが許されたのです。

このようなわけで、私たちは安息日に休むことによって自分の功績や業を脇に置いて、神がすでに成し遂げられた業を感謝して受け入れる以外にないことを表すのです。

カール・バルトは著書『創造論』の中で、「安息日が禁じていることは、働きではなく働きへの信頼である」。また安息日がめざしているのは、「この完全な明け渡しと降伏である」と述べています。

イスラエルはその不信仰のゆえに神の安息にあずかることができませんでした(3:19)。へブル人への手紙の著者は福音を聞いたクリスチャンたちが、信仰を正しく働かせて、安息にあずかり損なうことがないように呼びかけています(4:1〜3)。

イスラエルのある者たちが安息にあずかることができなかったのは、自分の業に頼り、神の約束に全的に信仰によって信頼しようとしなかったからです。

金曜日の夕方創造の業を完成し、「非常に良かった」と言われて安息日に休まれたこのお方が、同じ金曜日の夕に贖いの業を成し遂げられ、「完了した」と言われて安息日に墓に休まれたのです。

そういうわけで、安息日は創造の記念日であると同時に、キリストの贖いの業によって、人類が罪と死の奴隷から解放された記念日でもあるのです。創造も、贖いも、100%神の業であり、私たち人間はそこに何も自分の業を付け加えることはできません。ただ感謝して神の恵みの業を受け入れるのです。

「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです」(4:9,10)。

安息日に私たちが仕事を休むということは、自分の業を放棄して、神が備えてくださっている贖いと安息を信仰によって受け入れることを意味します。

安息日にクリスチャンが味わう安息と平安は、この神の贖いの業に信仰を持って全く委ね、安んじることから来る安らぎと平安です。

安息日遵守は律法主義的な業のように思われがちですが、安息日こそこのように自分の行いによる救いを放棄した「信仰による義」の象徴なのです。

ユダヤ教思想家のヘッシェルは、「安息日は週日のためにあるのではない。週日が安息日のためにあるのだ。安息日は生存という山の峠ではなく、頂上である。‥‥安息日は人類が神の宝庫から受けとったものの中でもっとも貴重な贈り物である」と言っていますが、私たちセブンスデー・アドベンチストは、創造と贖いの記念日としての聖書の第七日安息日を、そのような神からの貴重な贈り物として大切に守っていきたいと願っています。

なぜならこの日には他のどの日によっても代えがたい豊かな福音の真理が内包されているからです。

安息日について、もっと学びたい方はこちらもチェック!

*本記事は、白石尚『そこが知りたいSDA57のQ&A』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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