安息日とは?何曜日なの?安息日はユダヤ教だけ!?

その3 安息日などの律法は十字架によって廃されたのであって、クリスチャンは守る必要がないことを聖書もはっきり示している。

コロサイ人への手紙2章には、「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。‥‥こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです(13,14,16,17節)」と書かれているのではありませんか?

パウロがここで扱ったのは、通常のクリスチャンではなく、異教の禁欲的、神秘的宗教の影響を受けたカルトであることを前後関係から理解することが重要です。

この偽教師たちが、様々な異教の戒律を教会員に強制し、あたかもそれが救いに必要なものであるかのように教え、キリストによる救いの確信を損なおうとしたのです。この教えの特徴は、「むなしい、だましごとの哲学」に基づく、「この世の幼稚な教え(口語訳「世を支配する諸霊」)」(8,20節)に対する恐れでした。

彼らは自分たちで作った規則で、「肉体の苦行」を伴う、「すがるな。味わうな。さわるな」(21,23節)というような禁欲的な定めで教会員を縛ろうとしました。また「御使い礼拝をしようとする者」や、幻を見たと主張する者もあったようです(18節)。

これに対してパウロは、キリストこそ「すべての支配と権威のかしら」(10節)であり、キリストにあって「すべての罪を赦し」「ともに生かしてくださ」るという救いの確信を与えようとしています(13節)。

このようにコロサイ人への手紙2章を注意深く学んでみると、コロサイのクリスチャンは、ユダヤ教から改宗した律法主義的なクリスチャンとはかなり違ったグループであることがわかります。

十字架に釘づけされ、取り除かれた「私たちを責め立てている債務証書」(14節)とは何でしょうか。

もしこれが安息日を含む道徳律としますと、別な問題が新たに生じてきます。それはイスラエルにこの律法を示し、与えたのは他ならぬ神ご自身だからです。この「証書」という言葉は聖書に1度しか出てきませんが、これは当時のユダヤ教の文献などから、罪の記録簿、罪の負債の証書であることが明らかになっています。

イエス・キリストはその負債を十字架の犠牲の死によって払い、債務証書を取りのけてくださったのです。私たちが訴えられ、不利になるのは、罪を犯すからであって、それを定めた律法に問題があるのではありません。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が、罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)と言われているのは、キリストが「肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」(3,4節)。罪の重荷から解放するために、律法そのものを破棄して自責の念を取り除いたのでは、一切の規範がなくなってしまうことになります。

重要なことは、ここでは契約や律法のことが議論されているのではないということです。律法という言葉もコロサイ人への手紙には1度も出てきません。

コロサイ2章16節の安息日とは何のことを言っているのでしょうか?

影に過ぎない「祭りや新月や安息日のことについて、だれにも‥‥批評させてはなりません」とパウロは言っていますが、彼が問題にしたのは、祭日や儀式そのものではなく、それらをキリストとの結びつき(6,19節)より重要視してその守り方を批評してくる異端偽教師たち(禁欲的グノーシス)の態度でした。『使徒の働き』やパウロの書簡を見ますと、パウロは、安息日、ユダヤの祭りを継続して守っていたことが書かれています。それらのことについて異端的な「天使礼拝におぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない」(口語訳18節)、とやかく言わせてはならないと述べています。

ここでの安息日は年毎のユダヤの祭りの安息日を指すという考えもありますが、それは「祭、新月、安息日」すなわち「年、月、日」という表現を、ガラテヤ4章10節の「日と月と季節と年とを守」るという表現と比較してみても妥当ではないと思われます。年毎の祭りの安息日は、「祭り」という言葉の中にすでに含まれていると考えられ、これはやはり週毎の安息日と考えるべきでしょう。

またここで安息日と訳されているギリシャ語の複数形の「サバトン」はいつも週毎の安息日を示し、年毎の安息日には必ず別の表現が用いられています。またこのサバトンという言葉は、半「週」の間(ダニエル9:27)、「週」の初めの日(マルコ16:2)のように「週」と訳すことができます。

いずれにしてもコロサイ2章においては、古い契約における礼典律、道徳律の問題ではなく、禁欲的な異教の影響を受けた異端の問題を扱っているという点が重要です。

「すがるな、味わうな、さわるな」などという戒律や、体の苦行を伴うものもモーセの律法にはありませんし、「祭りや新月や安息日」と記されているものも、旧約の礼典律と違った、年、月、週毎の儀式である可能性も否めません。偽教師たちの定めた戒律などは、影のような、「何のききめもない」(コロサイ2:23)ものであり、本体であるキリストに結びついている者には、異端の教えの批評など意に介することはないというのがパウロの勧告です。

ローマ14章5節には「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい」とあります。「日」にこだわることはないのではありませんか?

この聖句が、聖書が第七日安息日を神が聖別し、祝福をもって聖日としたことを否定する聖句として使われることがあります。しかし、前後関係を調べてみますと、この聖句も第七日安息日の否定を支持するものでないことは明らかです。

ここでは、食べ物のこと、肉食、菜食のこと、特定の日を尊ぶこと、飲酒のことなどが取り上げられていますが、これらはモーセの律法の礼典律や道徳律(第七安息日)を取り上げているのではありません。

「弱い人は野菜よりほかには食べません」(2節)とか「肉を食べず、ぶどう酒を飲まず」(21節)といった表現がありますが、モーセの律法には菜食、禁酒の戒めはありません。パウロはこの当時存在していた様々な慣習について言及しているわけですが、問題は、気にしなくてよいことを気にしている弱い人、またそれを軽蔑する人がいたことです。

食べる人は食べない人を見下し、食べない人は食べる人を裁いていたのです。パウロは信仰の本質に関係ないことで気に病んだり、互いを裁き合うのをやめるようにと訴えています(13節)。彼は何かを追求するとするなら、「平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」(19節)と訴えています。

6節には「日を守る人は、主のために守っています」とありますが、パウロは彼らを弱い人とは考えていなかったと思われます。なぜならパウロは特定の日を重んじ、安息日は会堂で過ごすようにしていましたし(使徒13:14,42,17:2,18:4)、五旬祭はぜひエルサレムで過ごしたいと旅を急いだことが記されています(使徒20:16)。

そしてそういう自分を強い者、「力のある者」の一人とみなしています(ローマ15:1)。重要なことは何に基づいて、どのような動機からそのことをしているかであり、それぞれ神の御前に良心に従って歩み、人を裁かないことです。

ガラテヤ4章9〜11節でパウロは、「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています」と述べています。日を守ること、たとえば安息日を守ることにこだわることは、福音による自由を棄てることにはなりませんか?

ここでもコロサイ2章と同じように、順序は逆ですが、人々が守っていた日、月、年について述べられています。

第七日安息日を守る必要はないと主張する人々は、このガラテヤ4章を用いて、安息日遵守にこだわることは、律法の行いによる義に逆戻りしたガラテヤ人と同じ過ちを犯すことになると言います。

彼らはガラテヤ人の問題は、福音を聞いて信じたから救われたのに、依然として律法の行いに頼ろうとすることにあるのだから、ガラテヤ人の守ろうとしている日は主として第七日安息日のことを指すのだと解釈します。

しかし、彼らはそこでコロサイの場合と同じ釈義上の誤りを犯すことになります。なぜなら彼らが逆戻りしてしまった4章9節の頼りにならない「幼稚な教え」(口語訳「支配する諸霊」)というのは、コロサイ2章と同じ異教の神々による教えとその霊だからです。

多くの学者が「支配する諸霊」とは森羅万象を支配する、地、水、空気、火、星々などの霊であると指摘しています。ガラテヤ人が守っていた日、月、季節、年も異教の暦によるもので、モーセの律法の安息日や祭りとは別のものです。

パウロは、彼らがなぜ神を知りながら、諸霊の下に逆戻りして、もう一度奴隷のように仕えようとしているのかいぶかっていますが、彼らが守っていた日、月、季節、年などは、ユダヤの礼典律ではありえません。なぜなら改信前の彼らは「本来は神でない神々の奴隷」(ガラテヤ4:8)だったわけで、モーセの律法など知りようがなかったはずだからです。

以上パウロが、第七日安息日はもはやクリスチャンが守る必要のないものであり、むしろ安息日遵守は福音を否定する行いであるといわれる聖句を調べてきました。

これらに共通して言えることは、一見第七日安息日を守ることを否定していると思われる聖句も実はそうではなく、禁欲的な当時の異教の教えに影響を受けた偽教師とパウロとの戦いであったことがわかります。ユダヤの祭りや儀式、そして第七日安息日が争点になっていたのではなかったのです。

パウロをはじめ改宗した異邦人たちも、パウロの指導のもとではユダヤの宗教暦に切り替えていたことが想像されます。

コリント人への手紙の中でも、パウロは日曜日を当時一般に用いられた「太陽の日」という言い方に変えてユダヤ式に「週の初めの日」(カタミヤンサバトン)と呼んでいます(Ⅰコリント16:2)。

またパウロは「真実なパンで、祭りをしようではありませんか」(Ⅰコリント5:8)と呼びかけていますが、ユダヤの宗教暦をパウロが日頃教えていなければこれらの勧めはコリントの教会員には意味をなさなかったことでしょう。

最も重要で明らかな点は、もしパウロが第七日安息日を否定し、週の初めの日に変えようとしたのであれば、これは割礼のような一生に一度のことではなく毎週のことですから、大論争になっていたはずです。ところが新約聖書がその種の論争について全く沈黙を守っていることは、その変更がなかった何よりの証拠であると思われます。

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