忘れられない記憶
わたしには忘れることのできない一つの痛い記憶があります。
数年前の7月頭のこと、夕飯の支度中に包丁で左手の人差し指をかなり深く切ってしまったことがありました。
外出先から足早に戻り、オンライン会議をわずか30分前に控えていたため、気持ちが焦っていたのだと思います。
あの痛みはもちろん忘れませんが、焦りに任せて不注意に包丁を扱ってしまった自分への憤りはもっと忘れることはないでしょう。
その翌日のことです。雨の降る中、信徒の家を借りて、聖書研究を行う家庭集会のために外出しました。
この機会を利用しようと思っていた私は銀行にも寄ることができたらと思い、いつもと違うルートを使って最寄り駅を目指します。その途中に大きな駐車場を持つレストランがあり、僅かでも時間を稼ごうと思った私は遠慮なく駐車場を横切ることにしました。
しかし連日の雨でそこは湖のようになっており、そうとは知らずに駐車場へと踏み入れた私の足は、靴下までずぶ濡れになってしまいました。
このままではとても家庭集会には行けないので一旦家へと戻ることになり、結果として最寄り駅に着くまで倍の時間を要したことは言うまでもありません。
なぜ、急ぐのか
どうして人は急ぐとろくなことにならないのでしょうか。一体、私たちは何に対してそんなに急いでいるのでしょうか。
仕事、学校、試験にサークル、アルバイトや恋人など、人は日々様々なことにエネルギーを注ぎながら生活しています。
急がば回れという言葉があります。
これは「急ぐときには,危険な近道より,遠くても安全な本道を通るほうが結局早い。安全で,着実な方法をとれといういましめ。」という意味です。
多くの場合、人は少しでも時間を稼ごうとする傾向があります。そして成果を得ることに急ぐあまり、かえって効率を落としてしまうのです。
しかし、いくら時間を稼ぐことができたとしても、翌日にはまた新たな時間を追い、成果を掴むまで不安を抱えつつ生活してしまうのです。こうして、この世界はいつしかスピード重視の世界となってしまいました。
聖書の中の詩篇には次のような言葉があります。
「力を捨てよ、知れ わたしは神。」詩篇46編11節(新共同訳)
「聴くドラマ聖書」ではここ詩篇46編11節の冒頭を「やめよ。知れ。わたしこそ神。」と訳しています。
わたしたち人間を造られた神様は、わたしたちが焦りを感じたり、また憤ったりした時に一旦落ち着くよう強く勧めておられます。それはわたしたちの人生を導かれる神様の声を祈りのうちに聞くためでもあります。
わたしは外出する前、玄関で立ち止まって短く祈るようにしています。不思議なことに、そのように一度立ち止まってみると、忘れ物などの不備に気づけることが多くあります。
急いでいる時こそ立ち止まり、目の前の損得や時間稼ぎのために焦ることのないよう祈り、毎日落ち着いて行動できるような存在になりたいと思います。