【ガラテヤの信徒への手紙】信仰のみによる義認【2章解説】#4

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前回触れたように、ペトロが唱えていた信仰と彼が見せた行動との不一致に対して、パウロはアンティオキアで公然とペトロに立ち向かいました。かつて異教徒だった人たちともはや一緒に食事をしないというペトロの決定は、ひいき目に見ても彼らが二流のクリスチャンであることを意味していました。ペトロの行動は、彼らが心から神の家族の一員になり、食卓を囲む交わりという祝福を享受したいのなら、まず割礼の儀式を受けなければならないとほのめかしていたのです。

あの緊迫した状況で、パウロはペトロに向かって実際に何と言ったのでしょうか。今週の研究では、続いて起こったことの要約らしきものを学びます。この聖書の箇所(ガラ2:15〜21)は、新約聖書の中で最も凝縮された文言をいくつか含んでおり、極めて重要です。なぜなら、福音とガラテヤ書の残りの部分を理解するうえで基礎となるいくつかの語句が、ここで初めて登場するからです。鍵となるそのような語句には、「義認」「義」「律法の実行」「信仰」、また単に「信仰」だけでなく、「イエス・キリストへの信仰」という言葉も含まれます。

パウロはどういう意味でこれらの言葉を使っているのでしょうか。これらの言葉は、救済計画について何を教えているのでしょうか。

「義認」の問題

パウロはガラテヤ2:15において、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」と書いています。パウロの言葉は、彼らの背景の中で理解する必要があります。パウロは仲間のユダヤ人クリスチャンを彼の側に引き入れようとして、彼らが同意するだろうこと——ユダヤ人と異邦人の文化的な違い——から語り始めます。ユダヤ人は神に選ばれた民であり、神の律法を託されており、神との契約関係による恩恵を享受していました。しかし、異邦人は罪人でした。神の律法は彼らの行動を拘束せず、彼らは約束を含む契約と無関係でした(エフェ2:12、ロマ2:14)。異邦人は明らかに「罪人」でしたが、パウロは16節においてユダヤ人クリスチャンに警告します。人はだれも「律法の実行」によって義とされるのではないのだから、ユダヤ人の霊的特権が彼らを神に受け入れやすくするわけでもない、と。

ガラテヤ2:16、17において、パウロは「義とされる(義とする)」という言葉を4回用いています。「義とする(justify)」という動詞は、パウロにとって鍵となる言葉でした(出23:7、申25:1参照)。この言葉は新約聖書に39回登場しますが、そのうちの27回は、パウロの手紙の中においてです。ガラテヤ書では、2:16、17での4回を含め、計8回用いられています。「義認(justification)」は、法廷で用いられる法律用語です。それは、ある人が告訴内容に対して無実だと宣言されるときに、裁判官が宣告する判決のことで、「有罪宣告」の反対です。そのうえ、「正しい(just)」と「正義の(righteous)」という言葉は同じギリシア語から派生しているので、「義とされる(to be justified)」というのは、その人が「義(righteous)」とみなされるということも意味します。それゆえ、義認には単なる許しや赦し以上の意味が含まれています。それは、人が義であるという積極的な宣言なのです。

しかし、ユダヤ人信者のある者たちにとって、義認は関係的なものでもありました。それは、彼らと神との関係、あるいは彼らと神の契約との関係を中心に展開するものでした。「義とされる」というのは、人が神の契約の共同体、アダムの家族の忠実な一員だとみなされることも意味したのです。

律法の実行

パウロはガラテヤ2:16において、人は「律法の実行」によっては義とされない、と三度言っています。次の聖句は理解する上で助けとなります(ガラ2:17、3:2、5、10、ロマ3:20、28)。まず、「律法の実行」という言葉を理解する前に、私たちはパウロが「律法」という言葉で何を意味していたのかを理解する必要があります。律法という言葉(ギリシア語で「ノモス」)は、パウロの手紙の中に121回出てきます。この言葉は、御自分の民に対する神の御心、モーセ五書、旧約聖書全体、一般的な原則など、さまざまなものを指すことができます。しかしパウロのおもな使い方は、モーセを通して神の民に与えられた戒め全体を指しています。

それゆえ、「律法の実行」という言葉には、道徳律であろうと礼典律であろうと、モーセを通して神から与えられた戒めの中にあるすべての要求を含んでいるようです。パウロの論点は、どれほど熱心に神の律法に従おうとしても、私たちの服従は、神が私たちを義としてくださるには十分ではない、神の前に私たちが義と宣告されるには十分ではないということです。なぜなら、神の律法は思いと行動において絶対的な——時折ではなく、常に、また戒めの一部に対してではなく、すべてに対して——忠実さを要求するからです。

「律法の実行」という言葉は、旧約聖書にも、またパウロの書簡以外の新約聖書にも見られませんが、その意味の驚くべき確認が1947年になされました。それは、イエスの在世当時に生きていたエッセネ派というユダヤ人グループによる一群の写本、「死海写本」の発見によってでした。ヘブライ語で書かれてはいるものの、巻物の一つにこれとまったく同じ言葉が含まれていたのです。その巻物の題は「ミクツァト・マアセー・ハ・トーラー」で、「律法の実行の重要性」と訳すことができます。この巻物は、聖書の律法に基づいて、聖なるものが汚れるのを防ぐことに関連した多くの問題を説明しており、その中には、ユダヤ人を異邦人と区別することについての問題もいくつか含まれています。著者は最後に、もしこれらの「律法の実行」に従うなら、神の前に「あなたは義とみなされるだろう」と書いています。パウロと違い、この著者が読者に提供しているのは、信仰に基づく義ではなく、行いに基づく義なのです。

私たちの義認の根拠

「キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(フィリ3:9)。

ユダヤ人クリスチャンたちがイエスへの信仰は重要でないと言っていたわけではありません。彼らはみな、イエスを信じる者たちでした。しかし彼らの行動は、信仰だけでは十分でないと感じていたことがわかります。あたかも私たちの服従が義認の行為に何かを付け加えるかのように、信仰は服従によって補われなければならないと、彼らは感じていたのです。義認とは信仰と行いの両方によるものだと、彼らは主張したでしょう。パウロが「キリストへの信仰」と「律法の実行」を繰り返し対比していることは、彼がこの「両方」的な考え方に強く反対していたことを示しています。信仰、しかも信仰のみが、義認の根拠なのです。

パウロにとって、信仰は単なる抽象的な概念ではなく、イエスと密接に結びついたものでした。実のところ、ガラテヤ2:16で「キリストへの信仰」と二度訳されている言葉は、どんな訳語が意味するよりもはるかに豊かな意味を持っているのです。原語のギリシア語を文字どおりに訳すと、この言葉は「キリストの信仰」または「キリストの忠実さ」となります。この文字どおりの訳は、私たちの「律法の実行」と、私たちの代わりに成し遂げられた「キリストの業(実行)」、つまりキリストが御自分の忠実さ(従って「イエスの忠実さ」)によって私たちのためになしてくださった業とを明確に対比していることがわかります。あたかも信仰それ自体が称賛に値するかのように、信仰が義認を増し加えたりしないということを覚えておくのは重要です。むしろ信仰とは、私たちがキリストと、私たちのためのキリストの業をつかむための手段です。私たちが義とされるのは、私たちの信仰に基づいてではなく、私たちのためのキリストの忠実さに基づいてであり、私たちは信仰によってその忠実さを自分のものとして求めるのです。

キリストは、すべての人がなしえなかったことをなさいました。つまり彼だけが、あらゆることにおいて神に忠実だったのです。私たちの希望は、私たちの忠実さの中にではなく、キリストの忠実さの中にあります。これは、数ある真理の中でも、宗教改革に火をつけた大いなる重要な真理であり、何世紀も前にマルティン・ルターが説き始めたときと同様、今日でも依然として重要な真理です。

初期のシリア語訳のガラテヤ2:16は、パウロの意味をよく伝えています。「それゆえに私たちは、人が義とされるのは律法の行いによってではなく、メシアなるイエスの信仰によってであることを知り、私たちは彼を、メシアなるイエスを信じます。律法の行いによってではなく、彼の信仰、救い主の信仰によって義とされるためです」

ローマ3:22、26、ガラテヤ3:22、エフェソ3:12、フィリピ3:9を読んでください。これらの聖句は私たちのためのキリストの忠実さ、神に対する彼の完全な服従が私たちの救いの唯一の根拠であるという驚くべき真理を理解するうえで助けとなります。

信仰による従順

パウロは、信仰が間違いなくクリスチャン人生の土台であると明確にしています。信仰は、私たちがキリストによって持っている約束をつかむための手段です。しかし、信仰とはいったい何でしょうか。信仰には何が関係するのでしょうか。

次の聖句は信仰の源について教えています(創15:5、6、ヨハ3:14〜16、IIコリ5:14、15、ガラ5:6)。純粋な聖書的な信仰は、常に神への応答です。信仰は、神が要求しておられるからという理由で、ある日、人が持とうと決心する一種の感情や態度ではありません。それどころか、真の信仰は、神の憐れみに対する感謝の気持ちと愛に感動した心の中から生まれます。そのようなわけで、聖書が信仰について語るとき、信仰の主導権は常に神が握っておられるのです。例えばアブラハムの場合、信仰は、神が彼になさった驚くべき約束への応答です(創15:5、6)。一方、新約聖書の中ではパウロが、信仰とは究極的に、キリストが私たちのために十字架で成し遂げてくださったことへの理解に根差している、と述べています。

もし信仰が神への応答であるなら、その応答にはどのようなことが含まれるでしょうか。次の聖句は信仰の性質について述べています(ヨハ8:32、36、使徒10:43、ロマ1:5、8、6:17、ヤコ2:19)。多くの人は、信仰を「信じること」と定義していますが、この定義には問題があります。なぜなら、ギリシア語で「信仰」に相当する言葉は、「信じる」という動詞の名詞形にすぎないからです。言葉の一つの形をほかの形の定義に用いることは、「信仰とは信仰を持つこと」と言っているようなものです。これでは何も説明していません。

聖書を詳しく調べると、信仰には神に関する知識だけでなく、その知識の精神的同意、または受容が含まれていることが明らかになります。これは、なぜ正確な神のイメージを持つことが重要であるかの一つの理由です。神の御品性に対する歪んだ考えは、信仰を持つことを実際に難しくします。しかし、福音に対する知的な同意だけでは、十分と言えません。なぜなら、その意味では「悪霊どももそう信じて(いる)」(ヤコ2:19)からです。真の信仰は人の生き方にも影響を及ぼします。パウロはローマ1:5で、「信仰による従順」について書いています。彼は、従順が信仰と同じだと言っているのではありません。彼が言っているのは、真の信仰は人の心だけでなく、人生全体に影響するということです。単なる規則のリストとは対照的に、信仰には私たちの主、救い主なるイエス・キリストに対する献身が含まれています。信仰とは、私たちが何を信じるかということと同じくらいに、私たちが何をし、いかに生き、だれを信頼するかということなのです。

信仰は罪を助長するか

パウロに対するおもな非難の一つは、信仰のみによる義認という彼の福音が罪を犯すように人々を促した、というものでした(ロマ3:8、6:1)。非難した人たちは、もし人々が神から与えられた律法を守る必要がないのなら、なぜ自分の生き方を気にかけなければならないのだろうか、と論じたに違いありません。ルターもまた、同様の攻撃に直面しました。

信仰のみによる義認という教理が罪深い行為を助長するという非難に対して、パウロは応じました(ガラ2:17、18)。パウロは敵の攻撃に、可能な限り強い言葉で応じています——「決してそうではない」。人はキリストのもとに来てから罪に陥る可能性がありますが、その責任はキリストにはまったくありません。もし私たちが律法を破るなら、私たち自身が律法の違反者です。

問1

パウロは、彼とイエス・キリストの結びつきをどう表現していますか。この答えは、敵が唱えた異議にどう反論していますか(ガラ2:19〜21)。

パウロは、敵の論法は単純に不合理だと気づいています。信仰によってキリストを受け入れることは、ささいなことではありません。それは、ある人の生き方に真の変化がないにもかかわらず、神がその人を義とみなされるというような、天の「ごっこ遊び」ではないのです。それどころか、信仰によってキリストを受け入れるというのは、極めて根本的なことです。それにはキリストとの完全な結びつき、キリストの死と復活による結びつきが伴います。霊的に言えば、私たちはキリストとともに十字架につけられ、利己主義に根差した私たちの古い、罪深い生き方は終わったと、パウロは述べています(ロマ6:5〜14)。私たちは根本的に過去と決別したのです。すべては新しいのです(IIコリ5:17)。私たちはまた、キリストにある新しい命に復活させられました。復活されたキリストが私たちの中に生き、日々私たちを彼に似た者としてくださいます。それゆえ、キリストへの信仰は、罪のための口実などではなく、律法に基づく宗教の中に見いだされるよりも、ずっと深くて豊かなキリストとの関係への招きなのです。

さらなる研究

「信仰による義認についての誤った考えを抱くことの危険性が、再三私に示されてきました。この点に関して人々の考えを混乱させるために、サタンが特別な方法で働くであろうことが何年にもわたって示されました。神の律法は、たいていの場合、カインの供え物と同様、イエス・キリスト、およびキリストの律法との関係を十分に理解しないままに論じられ、会衆に提示されてきました。多くの人が救いについての雑多で混乱した考えのために信仰から遠ざけられてきたことが私に示されました。なぜなら、牧師たちが誤った方法で人々の心に働きかけてきたからです。何年にもわたって私の心に迫ってきた問題は、キリストによって着せられた義ということです。……堕落した人が自分の最高の行いによって救いに値する人間になるのは不可能であるという事柄ほど、熱心に熟考され、何度も繰り返され、すべての人の知性に堅く確立されなければならないことは他にありません。救いは、イエス・キリストへの信仰によってのみ与えられるのです」(『信仰と行い』16、17ページ、一部改訳)。

「律法は義を要求するが、罪人はこの義を律法に対して負っている。しかも、彼はこれを返すことができない。罪人が義に達することのできる唯一の方法は、信仰によってである。信仰によって、彼はキリストの功績を神のもとに持ってゆくことができ、主は御子の服従をその罪人の服従と見なしてくださる。キリストの義は、人の失敗の代わりに受け取られ、神は、悔いて信じる者を受け入れ、赦し、義とみなし、あたかもその人が義人であるかのように扱い、御子を愛するように彼を愛される」(『セレクテッド・メッセージ』第1巻367ページ、英文)。

まとめ

アンティオキアにおけるペトロの行動は、まず割礼を受けなければ異邦人が本当のクリスチャンにはなれないことを示唆していました。パウロはそのような考えの誤りを指摘しました。神はだれをも、その人の行動に基づいて義と宣言することがおできになりません。なぜなら、最高の人間でさえ完全ではないからです。罪人が神の目に義とされうるのは、神がキリストによって私たちのために成し遂げられたものを受け取ることによってのみです。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年3期『ガラテヤの信徒への手紙における福音』からの抜粋です。

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