この記事のテーマ
アダムとエバが罪を犯した直後に、神は彼らにひとりの「子孫」を約束されました。それは、彼らを敵から救い、失われた嗣業を回復し、創造された目的を成就する子です(創3:15)。この子が彼らの身代わりとなることによって彼らの代表者となり、最終的に蛇を滅ぼすことによって彼らを救い出します。
「アダムとエバが初めてこの約束をきいた時、彼らはそれがすぐに成就されるものと期待した。彼らは最初に生まれたむすこをよろこんで歓迎し、その子が救い主であるようにと望んだ。しかし約束の成就は遅れた」(『希望への光』682 ページ、『各時代の希望』上巻21ページ)。この約束は後に、アブラハムにも確認されます。神は、彼に「子孫」が与えられ、その子孫から生まれる子によって地上のすべての国民が祝福されることを誓っています(創22:16〜18、ガラ3:16)。更に神はダビデに同じように誓われます。神はダビデに、彼の子が神によって公認され、神ご自身の子となり、地上のすべての王たちを治める義なる王の地位に就かれることを約束しています(サム下7:12〜14、詩編89:28〜30 〔口語訳89:27〜29〕)。しかし、アダムもエバも、そしてアブラハムもダビデも、神ご自身が贖いの子であるということは、想像もしていなかったことでしょう。
終わりの時代に
ヘブライ人への手紙の最初の段落から、パウロは自分が「終わりの時代」に生きていると信じていたことがわかります。聖書はやがて来るべき時代について、意味の異なる二つの表現をしています。預言者たちは一般的に、その時代について「終わりの日」または「後の日」という表現を用いました(申4:30、31、エレ23:20)。預言者ダニエルは、地上の歴史の最終時代について、「終わりの時」という表現を用いています(ダニ8:17、ダニ12:4)。
問1
民数記24:14〜19 とイザヤ2:2、3 を読んでください。神は「後の日」に神の民のために何をすると約束しておられますか。
何人もの旧約の預言者たちが、「後の日」に神は、神の民の敵を滅ぼす王を興し(民24:14〜19)、諸国の人々の関心をイスラエルに引きつけると預言しました(イザ2:2、3)。パウロは、これらの預言がイエスにおいて成就したと言っています。彼はサタンを撃ち破り、すべての国々をご自身に引き寄せました(コロ2:15、ヨハ12:32)。この意味において、「終わりの日」はその時、すなわちイエスが神の約束を成就した時に始まったのです。
私たちの霊的父祖は信仰を抱いて死にました。彼らはそれらの約束を「はるかに」見て喜びの声を上げましたが、手に入れることはありませんでした。一方、私たちはすでにイエスにおいてそれらの約束の成就を見ています。
神の約束とイエスについて少し考えてみましょう。天の父は神の子らを復活させると約束されました(1テサ4:15、16)。この約束がすばらしいのは、神がイエスの復活と共に神の子らの復活も始められたことです(1コリ15:20、マタ27:51〜53)。天の父はまた新しい創造を約束されました(イザ65:17)。私たちの内に新しい霊的生命を創造することによって、神はその約束を成就されます(2コリ5:17、ガラ6:15)。神は最終的な王国の樹立を約束されました(ダニ2:44)。神は私たちをサタンの力から解放し、イエスを私たちの王として任命することによって、その王国を樹立されたのです(マタ12:28〜30、ルカ10:18〜20)。しかしこれは始まりにすぎませんでした。天の父はイエスの初臨によって始められたことを、イエスの再臨によって完成してくださるのです。過去において神が成就された約束を見てください。それはまだ成就していない神の約束を信じるためにどのような助けとなりますか。
御子を通して語られる神
問2
ヘブライ1:1〜4 を読んでください。これらの聖句の中心にはどのような思想がありますか。
ヘブライ1:1〜4は、原語のギリシア語では一つの文章であり、新約聖書全体を通して最も美しい修辞表現であると考えられてきました。そのおもな主張は、神は御子を通してお語りになるということです。紀元1世紀のユダヤ人たちは長い間、神の御言葉を聞いていませんでした。書かれた神の御言葉に表された最後の啓示は、4世紀前の預言者マラキ、エズラとネヘミヤの働きを通してのものでした。そして今、神はイエスを通して彼らに再び語っておられたのです。
イエスを通した神の啓示は、それまでの預言者たちによる啓示に勝るものでした。なぜならイエスは神のより偉大な啓示の手段であったからです。イエスは神であり、天地を創造し、宇宙を治めておられるお方です。パウロにとってイエスの神性は疑問の余地のないものであり、事実でした。パウロにとって旧約聖書は神の御言葉そのものでした。過去に語っておられた同じ神が、今もなお語り続けています。旧約聖書は神の御心である真の知識を伝えていました。
しかしながらその完全な理解は、地上においでになった御子によってのみ可能でした。ジグソーパズルの箱に印刷されている完成図が、すべてのピースの正しい位置を見つける鍵となるように、パウロは御子における父なる神の啓示が旧約聖書の真の広さを理解する鍵であると考えました。イエスは旧約聖書に実に多くの光を当てました。
一方、イエスは、私たちの代表であり、救い主になるために来られました。私たちの代わりに戦い、蛇を打ち負かします。同様に、イエスはヘブライ人への手紙において、「救いの創始者」、「指揮官」、「先駆者」(ヘブ2:10、6:20)です。私たちのために戦い、私たちを代表しています。私たちの代表者であるイエスを高めてその右の座に着かせた神は、同じように私たちもイエスと共に神の御座に着くことを望まれます(黙3:21)。イエスを通して語られた神のメッセージには、イエスが語られたことだけでなく、父なる神がイエスを通してイエスのためにされたことをも含んでいます。それはすべて、私たちの現在の、そして永遠の利益のためなのです。
神の栄光の輝きなるイエス
問3
ヘブライ1:2〜4 を読んでください。この聖句は私たちにイエスについて更にどのようなことを語っていますか。
「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって」という部分に注目してみましょう(ヘブ1:3)。
問4
出エジプト記24:16、17、詩編4:7 (口語訳4:6)、36:10 (口語訳36:9)、89:16 (口語訳89:15)を読んでください。これらの聖句は神の栄光についてどのように語っていますか。
旧約聖書において神の栄光は、神の民の目に見える形での神の臨在を指しています(出16:7、24:16、17、レビ9:23、民14:10)。しばしば光や輝きを伴いました。
聖書は、イエスが神の栄光を現すために地上に来た光であると告げます(ヘブ1:3、ヨハ1:6〜9、14〜18、2コリ4:6)。たとえば変貌の山でのイエスを思い出してください。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタ17:2)とあります。
太陽がその光の輝きによって認識されるように、神はイエスによって知られるのです。私たちにとって神とイエスは一つです。光とその輝きに違いがないのと同様に、神の栄光は光そのものですから、神とイエスの間にも実際の存在としては何の違いもありません。
ヘブライ人への手紙は、イエスが「神の本質の完全な現れ」であるとも言っています(ヘブ1:3)。この比喩は、その存在と本質において両者の完全な一致を示すものです。人類も神の御像(みかたち)を反映してはいますが、その本質を現してはいません(創1:26)。しかしながら、御子は父なる神の本質を共有しています。イエスが「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われたのも不思議ではありません(ヨハ14:9)。
神は御子を通して宇宙を創造された
ヘブライ人への手紙は、神がイエス「を通して」、またはイエス「によって」世界を創造されたこと、その力ある御言葉によってこの世界が支えられていることを認めています。
問5
イザヤ44:24、45:18、ネヘミヤ9:6 を読んでください。旧約聖書では主「のみ」が世界を創造されたことを認め、神が「唯一」の神であると宣言しています。私たちはこれを、新約聖書が、神はイエス〔御子〕「によって」世界を創造されたと述べていることと、どのように調和させることができるでしょうか。
「イエスは、神が世界を創造するために用いた道具だった」とする考えもありますが、それは不可能です。第一にパウロが言っているのは、イエスは世界の創造主であって、創造の援助者ではないということです。ヘブライ1:10は、イエスが天地の創造主であると述べ、パウロはまた、イエスを詩編102:26〜28(口語訳102:25〜27)が言うところの創造主なる主(ヤハウェの神)に当てはめています。第二に、〔英文の〕ヘブライ2:10は、父なる神「によって」世界〔すべてのもの〕は創造されたと述べます(英文ではイエスに関してヘブライ1:2 にまったく同じ表現が用いられています)。父なる神が創造し、イエスが創造したのです(ヘブ1:2、10、2:10)。父なる神と御子の間には、その目的と行動において完全な同意があります。それは三位一体の神秘です。イエスが創造し、父なる神が創造しましたが、創造主は唯一です。すなわち、イエスは神であることを意味しています。
一方、ヘブライ4:13は、イエスは裁き主でもあると述べます。彼の統治と裁きの権威は、彼がすべてのものを創造し、全宇宙を保持しておられるという事実に由来しています(イザ44:24〜28)。
ヘブライ1:3とコロサイ1:17は、イエスが宇宙を支えておられることを認めています。この保持という行為には指導や統治も含まれます。ギリシア語の「フェロン」(持続させる、維持する)という言葉は、船を風で操ること(使徒27:15、17)、あるいは神が預言者を導くこと(2ペトロ1:21)にも用いられます。このように、真の意味でイエスは、私たちを創造しただけでなく、私たちを支えています。呼吸の一息一息、心拍の一つひとつ、一瞬一瞬の私たちの存在は、すべて存在するものの源であるイエスの内に見いだされるのです。
私は今日、あなたを産んだ
ヘブライ1:5は父なる神がイエスに語った言葉を次のように記録しています。「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」。イエスが産まれたというのは何を意味し、それはいつ起きたのでしょうか。多くの人々が信じるように、イエスは過去のある時、何らかの方法で神によって創造されたのでしょうか。
問6
ヘブライ1:5、サムエル記下7:12 〜14、詩編2:7、ルカ1:31、32を読んでください。ここでパウロは、神がダビデにされたどのような約束をイエスに当てはめていますか。
イエスは、ダビデの子孫である「約束の王」として神に「公認された」という意味において、生まれました。統治者が神によって公認されるという考えは、古代ギリシア・ローマの世界や東洋では一般的なことでした。そうすることによって、統治者には正当性とその領土における権威が与えられました。
神はダビデに、彼の子孫が諸国民の正当な統治者になると約束されました。神はダビデの子孫を神の子として「公認」し、このような過程を通してダビデの子孫である王は、神の被後見人、神の相続人となるのです。神は彼の敵を撃ち破り、彼の嗣業として国々を彼にお与えになります(詩編89:28〔口語訳89:27〕、2:7、8)。
ローマ1:3、4、使徒言行録13:32、33では、イエスが神の子として公に宣言されています。イエスのバプテスマや変貌は、神がイエスを神の子として公にお認めになり、宣言された時でした(マタ3:17、17:5)。
しかし、新約聖書によれば、イエスは彼が復活し、神の右の座に着かれたときに「力ある神の子」になったとあります(ロマ1:4)。その時、神がダビデにされた、彼の子孫が神の子として認められ、国々に及ぶ彼の統治は永遠に確立されるとの約束が成就しました(サム下7:12〜14)。このように、カエサル(ローマの象徴)が正統な「神の子」ではなく、国々の統治者でもなく、イエス・キリストがその座に着かれたのです。イエスが「産まれた」とは、イエスによる諸国の統治の始まりを意味するものであって、彼の存在の始まりを意味するものではありません。なぜならイエスは常に存在されたからです。イエスが存在されなかったときは、ひと時もありません。なぜなら彼は神だからです。
事実、ヘブライ7:3は、イエスについて、「生涯の初めもなく、命の終わりもなく」と記しています(ヘブ13:8と比較)。なぜなら彼は永遠だからです。ですから、神の「独り子」というイエスの表現は、キリストの神性について述べているのではなく、すべての契約の約束を成就されたキリストとして、人類救済の計画における彼の役割について述べているのです。
さらなる研究
神の子として地上においでになったイエスは、同時にいくつかの役目を果たされました。第一は、天から来られた神の子として、私たちに父なる神を示されました。イエスはその行動と言葉を通して私たちに、父なる神が実際にどのようなお方なのか、なぜ神は、私たちが信頼し、従うに値するお方なのかを示されました。
イエスはまた、ダビデ、アブラハム、アダムに約束された子孫、すなわち彼によって敵を撃ち破り、世界を治めると約束された王としておいでになりました。こうして、イエスはアダムに代わって、人類の頭(かしら)となり、神が彼らに与えた本来の目的を果たすためにおいでになったのです(創1:26〜28、詩編8:4〜9〔口語訳8:3〜8〕)。イエスは、神が常にこの世に望まれた義なる支配者としておいでになったのでした。
「ヨルダン川で、イエスに『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』と言われたことばは、全人類を含んでいる(マタイ3:17)。神はわれわれの代表者としてのイエスに語られた。どんなに罪や欠点をもっていても、われわれは無価値なものとして捨てられることはない。『神は愛するみ子によってわたしたちを受け入れてくださった』(エペソ1:6・英語訳聖書)。キリストの上にくだった栄光は、われわれに対する神の愛の保証である。……開かれた門から救い主の頭上にさした光が、試みに抵抗するために助けを祈るとき、われわれの上にさすのである。イエスに語られたみ声が、信じている一人ひとりに向かって『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』と言われるのである」(『希望への光』718ページ、『各時代の希望』上巻118、119ページ)。
*本記事は、『終わりの時代に生きる─ヘブライ人への手紙』からの抜粋です。