【ヘブライ人への手紙】私たちの忠実な兄弟イエス【解説】#4

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ヘブライ1章は、神の御子としてのイエスは、天使たちを治める者であり、同時に「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(ヘブ1:3)であると述べます。ヘブライ2章では、イエスは人の子として生まれ、わずかの間、天使たちよりも低い者とされ、死ぬべき体に至るまで人間のもつ弱さのすべてを身に負われた方として描かれます(同2:7)。

ヘブライ1章では、父なる神は、イエスを「わたしの子」(ヘブ1:5)と呼び、2章では、イエスが人類を御自分の「兄弟たち」(同2:12)とお呼びになります。ヘブライ1章では、父なる神が、御子の神としての主権を宣言し(ヘブ1:8 〜12)、2章では、御子が父なる神への忠誠を表明します(同2:13)。

ヘブライ1章では、イエスは天の君主、天地万物の創造者であり保持者として、また天の主権者として描かれますが、2章では、同じイエスが人類の代表として、すなわち憐れみ深い、忠実な大祭司として描かれます。

まとめると、ヘブライ人への手紙は、永遠の創造主なる神という御子の本質を宣言すると同時に、憐れみ深い、忠実な人類の兄弟としてのイエスをも描いているのです(ヘブ1:1〜4)。

贖い主なる兄弟

問1 
レビ記25:25〜27、47〜49 を読んでください。誰が貧しさのために財産や自由を失った人を買い戻すことができましたか。

モーセの律法は、もし人が貧しさのために財産や、自分自身さえも売らなければならなかった場合、50年ごとのヨベルの年には、その人の財産と自由の回復を規定していました。このヨベルの年は、いわば「大」安息年であり、負債は赦され、財産は戻され、捕われの身は自由にされました。50年は、待つ身には長い期間でしたので、モーセの律法は、最も近しい親戚が彼の支払いを代わることで、彼の捕囚の期間を短くできることも定めていました。

最も近しい親戚はまた、殺人事件の際に正義が行われることを保証する人でもありました。彼は、彼の近親の者を殺した者を捜し出して罰する血の復讐をすることができました(民35:9〜15)。

問2 
ヘブライ2:14〜16 を読んでください。この聖句には、イエスと私たちをどのように描かれていますか。

この聖句は、私たちを悪魔の奴隷として、イエスを私たちの贖い主として描いています。アダムが罪を犯し、人類がサタンの支配下に置かれた結果、私たちは罪に抵抗する力を失いました(ロマ7:14〜24)。更に、私たちの罪には、罰として死が要求されましたが、私たちには支払うことができませんでした(ロマ6:23)。私たちの状況は明らかに絶望的でした。

しかしながら、イエスは私たちを「兄弟」と呼ぶことを恥とせず、人間の性質を取り、血と肉の体を備え、私たちの最も近しい親戚になることによって私たちを買い戻してくださったのです(ヘブ2:11)。

イエスは逆説的に、人性を取り、私たちを贖うことによって、その神性を現わされました。旧約聖書において、イスラエルの真の贖い主、最も近しい親戚はヤハウェの神です(詩編19:15〔口語訳19:14〕、イザ41:14、43:14、44:22、エレ31:11、ホセ13:14)。

彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせず

ヘブライ人への手紙は、イエスが私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされなかったと述べています(ヘブ2:11)。神と共におられたイエスが、神の家族のひとりとなって私たちを贖ってくださいました。この一体感は、ヘブライ人への手紙の読者〔信者〕たちが、共同体の中で受けた公の恥とは対照的です(同10:33)。

問3 
ヘブライ11:24〜26 を読んでください。モーセの決心は、イエスが私たちのためにされた決心をどのように表しているでしょうか。

モーセにとって、「ファラオの王女の子」と呼ばれることは何を意味したでしょうか。彼は当時最強の帝国の権力者でした。彼は行政的、軍事的に最高の訓練を受けた傑出した人物でした。ステファノは、モーセを「すばらしい話や行いをする者」(使徒7:22)と評し、エレン・G・ホワイトも、彼は「軍隊の指導者としての能力を発揮してエジプト軍の中で名声を博し……、王は、娘の養子を次の王位継承者に指名し(た)」(『希望への光』124、123ページ、『人類のあけぼの』上巻279ページ参照)と述べています。しかし、モーセはこれらすべての特権を捨て、教育も権力もない奴隷の民、イスラエル人のひとりと見られることを選んだのでした。

マタイ10:32、33、2テモテ1:8、12、ヘブライ13:12〜15を読むと、ヘブライ人への手紙の読者〔信者〕たちも迫害と拒絶に遭い、多くの者たちはイエスを恥じるようになり、ある者たちは、その行動によって主に栄光を帰す代わりに、イエスを「侮辱する者」(ヘブ6:6)となっていたことがわかります。ですからパウロは読者たちに、絶えず「公に言い表している」信仰を「しっかり保」つよう勧めたのです(同4:14、10:23)。

神は私たちに、イエスを私たちの神であり兄弟として理解するように望んでおられます。私たちの贖い主であるイエスは、私たちの負債を払い、道を示し、私たちの兄弟として、私たちを「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」(ロマ8:29)。

私たちのように血と肉を備えられ

ヘブライ人への手紙は、イエスが人間の性質を取られたので、私たちの代表となり、私たちのために死ぬことができたのだと述べています(ヘブ2:9、14〜16、10:5〜10)。これこそ、私たちの救いの計画の基礎であり、ここにのみ、私たちの永遠の命の希望があるのです。

問4 
マタイ16:17、ガラテヤ1:16、1 コリント15:50、エフェソ6:12 を読んでください。人間の性質の欠陥について、これらの聖句と「血肉」という表現との間にはどのような関係がありますか。

「血肉」という表現は、人間の状態の弱さ(エフェ6:12)、理解の欠如(マタ16:17、ガラ1:16)、死への従属(1コリ15:50)を強調するものです。ヘブライ人への手紙の、イエスは「すべての点で」兄弟たちと同じようになられた(ヘブ2:17)との表現は、イエスが完全に人間であったことを意味しています。イエスは単に「人間のよう」であったのではありません。真に人間となったのです。

しかしながら、ヘブライ人への手紙は、イエスは「罪に関しては」私たちとは異なっていたと言います。イエスはどんな罪も犯されませんでした(ヘブ4:15)。イエスの人性は「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され」ていました(同7:26)。人の罪への傾向は、まさに人の性質そのものです。私たちは「肉の人であり、罪に売り渡されて」(ロマ7:14、15〜20参照)おり、私たちの善い行いさえも高慢やその他の罪深い動機に汚染されています。しかし、イエスのご性質は罪によって損なわれていません。もしイエスが私たちのようであったなら、彼にも救い主が必要でした。しかしイエスは、救い主としておいでになり、私たちのために御自身を、「きずのない」犠牲として献げられたのです(ヘブ7:26〜28、9:14)。

そうすることによって、イエスは、悪の力を滅ぼし、私たちの赦しと、神との和解を可能にされました(ヘブ2:14〜17)。イエスはまた、私たちの心に律法を書き記すことによって新しい契約の約束を成就し、私たちに義なる人生を生きる力を与えました(同8:10)。こうしてイエスは敵を撃ち破り、私たちを自由にされたので、私たちは今、「生ける神を礼拝する」(同9:14)ことができます。一方、サタンは最後の裁きにおいて最終的に滅ぼされます(黙20:1〜3、10)。

苦しみを通して完全な者とされる

問5 
ヘブライ2:10、17、18 とヘブライ5:8、9 を読んでください。イエスの人生において、苦しみはどのような役割を果たしたでしょうか。

使徒は、神がイエスを「苦しみを通して完全な者とされた」と言っています。この表現は驚きです。彼は同時に、イエスは「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」であって(ヘブ1:3)、罪もしみも汚れもない聖なるお方であると述べています(同4:15、7:26〜28、9:14、10:5〜10)。これは、イエスにはいかなる道徳的、倫理的不完全もなかったことを意味します。

しかしながらヘブライ人への手紙は、イエスが「完全な者とされた」のは、私たちを救うために必要な過程であり、そのためにイエスは苦しまれたと述べています。

1)イエスは私たちの救いの創始者となるために、苦しみを通して「完全な者とされ」ました(ヘブ2:10)。私たちを救うための法的手段として、父なる神はイエスの十字架の死という犠牲を必要とされました。それはイエスのみが完全な犠牲の献げ物になることができるからでした。イエスは神として私たちを裁くことができると同時に、その犠牲によって私たちを救うことができるのです。

2)イエスは苦しみを通して従順を学ばれました(ヘブ5:8)が、それは二つの意味で必要でした。第一に、彼の犠牲が受け入れられるために、彼の従順が必要でした(同9:14、10:5〜10)。第二に、彼は苦しみによって、私たちの模範になることができました(同5:9)。イエスは従順を経験したことがなかったので、従順を「学ばれ」たのです。神として誰に対して従う必要があるのでしょうか。永遠の子、神と共におられるお方、全宇宙の支配者として彼は服従される立場でした。ですから、不従順だったイエスが従順になったのではなく、主権によって支配する者から服従し従順な者になったのです。高められた神の子が従順な人の子となられたのです。

3)苦しみは、イエスが憐み深い、忠実な大祭司であることを明らかにしました(ヘブ2:17、18)。苦しみがイエスを憐れみ深くしたのではなく、憐れみのゆえに彼は自ら、私たちを救うために十字架で死ぬことを志願されました(同10:5〜10、ロマ5:7、8と比較)。苦しみを通してイエスの兄弟愛の真実が表現され、明らかにされたのです。

型としての兄弟

イエスが人性を取り、私たちの間で生きたもう一つの理由は、私たちの模範となるためでした。神の前に正しい生き方を示す唯一の型となったのです。

問6 
ヘブライ12:1〜4 を読んでください。パウロによれば、私たちはクリスチャンとして人生という競走をどのように走るべきでしょうか。

ここでパウロは信仰の勇者のリストの頂点にイエスの名を挙げ、彼を「信仰の創始者また完成者」と呼びます。ギリシア語の「創始者」を意味する「アルケーゴス」は「先駆者」と訳すこともできます。信仰者たちの先頭を走ったイエスは、まさに先駆者と言えるでしょう。事実、ヘブライ6:20はイエスを「先駆者」と呼んでいます。「完成者」という言葉は、可能な限り最も純粋な神への信仰を示したイエスにふさわしいものです。パウロはイエスを、人生という競走を立派に完走した最初のランナーであり、信仰によって生きることを成し遂げた方として描いているのです。

ヘブライ2:13には、「また、『わたしは神に信頼します』と言い、更にまた、『ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます』と言われます」とあります。イザヤ8:17、18が引用されて、イエスが「わたしは神に信頼します」と言ったことが言及されています。

イザヤはこれを北イスラエルとシリアの脅威を前に語りました(イザ7:1、2)。彼の信仰はアハズ王の信仰の欠如とは対照的です(王下16:5〜18)。神はアハズに、神を信頼し、神に救いのしるしを求めるよう勧告します(イザ7:1〜11)。神はすでにアハズを、ダビデの子、神の子として救うと約束しておられました。恵みに富む神は、アハズにしるしをもってその約束を確かなものにするように申し出ます。しかし、アハズはしるしを求めず、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに使者を送り、「わたしはあなたの僕、あなたの子です」(王下16:7)と言わせます。彼は神の子となるよりも、ティグラト・ピレセルの「子」となることを選んだのでした。

しかしながら、イエスは彼の信頼を神に置き、敵を彼の足の下に置くとの神の約束を信じました(ヘブ1:13、10:12、13)。神は私たちにも同じ約束をお与えになりました。私たちにも今、イエスと同じように神を信じることが求められているのです(ロマ16:20)。

さらなる研究

「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(ヘブ2:13)というイエスの言葉は、父なる神に向かって兄弟について語ったものです。パトリック・グレイは、兄弟たちの保護者としてのイエスが描かれていると言います。当時ローマには父親が死んだ場合、「トゥテラ・インプベルム」と呼ばれる制度がありました。「しばしば年長の兄弟である後見人は、幼い子どもたちが成年に達するまで、彼らの養育と遺産管理の責任を負った。こうして、年長の兄弟には、年少の兄弟姉妹に対する肉親としての養育義務が発生するのである」(『神への畏敬─ヘブライ人への手紙と古代ギリシア・ローマの迷信批評』126ページ、英文)。この文章は、ヘブライ人への手紙が、なぜ私たちの身分に関して、イエスが兄弟であると同時に神の子どもであることに言及しているのかを説明しています。イエスは、私たちの年長の兄弟として私たちの後見人、保証人、そして保護者となられたのです。

「キリストが人性を取り、人間の代表として地上に来られたのは、サタンとの争闘において、神に創造された者として人は、父なる神と御子とのつながりの中で、神のすべての要求に従うことができることを示すためであった」(『セレクテッド・メッセージ』第1巻253ページ、英文)。

「その生活と教訓を通して、キリストは、神にみなもとがある無我の奉仕について完全な実例をお与えになった。神はご自分のために生活されない。世界を創造することによって、また万物をささえることによって、神はたえずほかのもののために奉仕しておられる。『天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる』(マタイ5:45)。この奉仕の理想を、神はみ子に託されたのである。イエスが人類のかしらに立つために与えられたのは、奉仕することがどういうことであるかをご自分の模範によって教えるためであった」(『希望への光』1016ページ、『各時代の希望』下巻125、126ページ)。

*本記事は、『終わりの時代に生きる─ヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

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