この記事は、ローマの信徒への手紙の概要と解説の記事です。
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パウロとローマ【ローマの信徒への手紙の特徴と作者】
「ローマの信徒への手紙」を読むとひるんでしまうと考える人が多くいます。この書はパウロ書簡の中でも最も長い手紙であって、深い神学的洞察と、義認(justification)、贖罪(redemption)、罪の償い(expiation)など、重要な神学用語に満ちあふれており、また、難解な概念、例えば、「神の怒り」などに触れています。最も勤勉に聖書を研究する人でさえおびえてしまうほどです。何しろペトロでさえ、パウロは理解しにくいことを書いていると言いました(二ペトロ3章16節)。ある人々が四福音書の教えにすがり、「ローマの信徒への手紙」のような書は学者にまかせておきたいと思ったとしても驚くことはありません。
しかしながら、「ローマの信徒への手紙」は学者のためではなく、一世紀のローマの教会にいる普通のクリスチャンのために書かれました。この書を最初に見聞きしたクリスチャンは、一言一句熟考し、神学的概念を逐一分析する特権にあずかることはありませんでした。実際、彼らにはこの本を読む特権はまったくありませんでした。ただそれについて聞くという状況だったのです。パウロはこの手紙を書くと、使者を遣わしてローマに送らなければなりませんでした。パウロは、「途中、印刷チェーン店のキンコーズに立ち寄って、教会員全員分のコピーをしてください」と使者に言うことはできませんでした。それどころか、一枚一枚手で書く必要がありました。最初にこの手紙を見聞きした人々は、おそらく安息日の礼拝時間にそれが朗読されるのを聞いていました。その点を考えると、パウロがどのようにこの手紙を理解してもらおうとしていたかということに、私の推測とは違った光をあてることができます。
誰かの朗読を聞いている場合、細かい点まで分析するのは無理です。むしろ精神活動は全体的な意味をとらえ、基本的なメッセージを統合しようとします。言い換えると、個々の木ではなく、森全体はどうなっているのかを把握しようとします。分析が悪いというのではなく、全体のメッセージを理解するよりも過度の分析に走る傾向があるかもしれないということです。
あなたが一世紀にローマで生活しているクリスチャンであると想像してみてください。そこには教会堂はなく、安息日の朝毎に、あなたは他のクリスチャンと一緒にプリスカとアキラの家に集まり、礼拝します。この書簡の終わりの方でパウロが挨拶しているように、当時は家で礼拝していたからです。「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です」(ローマ16章3~5節)。
あなたはパウロに会ったこともなく、プリスカとアキラがパウロについて話しているのを聞いているだけです。使徒言行録18章1節から4節に書かれているように、彼らは数年前、コリントにいた時、パウロに会いました。「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた」
あなたは、プリスカとアキラがパウロと天幕を造った話や、彼の説教を聞いたという話を耳にしたとします。二人には、彼の伝道について語りたい素晴らしい話が山ほどありました。来週、そのパウロの手紙が聞けるとなれば、あなたは興奮しませんか。安息日の朝、この家の教会に来て、あなたは耳を澄まし、心待ちにしていることでしょう。プリスカとアキラの旧友が、ローマのあなたの教会に伝えなければならないメッセージとは何でしょうか。なぜあなたたちのために書いているのでしょう。そもそも、パウロはここに来たことがありませんが、たいてい、彼が基礎を築いた教会か、少なくとも訪問したことがある教会に宛てて手紙を書いています。
プリスカとアキラの小さな邸宅にあるアトリウム(中庭付き中央大広間)にあなたがやってくると、たぶんフェベという名の女性の使者(ローマ16章1、2節)が、一時間かそこらでその手紙を一気に朗読してくれます。あなたはこの手紙から何を汲み取るでしょうか。
実際にこんなことをしてみてはいかがでしょうか。一世紀の家にいるつもりになって、その手紙に耳を傾けるのです。CDかテープに録音された聖書をお持ちでしたら、「ローマの信徒への手紙」を聞いてみてください。お持ちでなければ、現代語訳のそれを朗読することで、一世紀のローマの信者が経験した、読んで聞くという体験にあずかることができます。そしてしばらく時間を取り、パウロのこの手紙を音読することで浮かび上がってきた印象を書き出してみてください。
きっといくつかの主要なテーマが浮かんでくることでしょう。あるテーマは、パウロが救いに関してユダヤ人も異邦人も差別なく見ようとしている、というものです。彼は両者の敵意を終わらせたいと望み、キリストにあって一致すべきだということを示そうとしています。また、キリストにあって神に信頼する者であれば誰でも救われる、という考えも外せないでしょう。さらにまた、パウロにとって「信仰」と「恵み」という言葉は大切なものである、という見解もたぶんお持ちになると思います。パウロは「ローマの信徒への手紙」において、「恵み」という言葉を24回、「信仰」という言葉を40回使用しています。そしてあなたは、救いは賜物として神から与えられるものであって、自画自賛するような自分の行いを通して与えられるものではないと、パウロが言っていることに気づくでしょう。そして最後に、すべてのクリスチャンはお互いを受け入れて平和に過ごすべきであって、お互いをさげすんだり、裁いたり、小さなことで言い争うべきでないと、パウロが考えていることにきっと気づくはずです。
こういったテーマがあなたのリストに並びましたか。他にどのようなテーマがありましたか。こういったテーマを共に探求していきたいと思います。
パウロの状況と計画【ローマの信徒への手紙の時代背景】
パウロは訪問したこともない教会に、なぜこの手紙を書き送ったのでしょうか。この手紙はすべてパウロの将来の計画に関係しており、幸いにも、彼はそれらの計画を「ローマの信徒への手紙」そのものの中で述べています。第三回伝道旅行中、コリントにおける三ヶ月の滞在が終わる時期に、パウロは「ローマの信徒への手紙」を執筆しました。それは「使徒言行録」の記事と比べることでわかります。使徒言行録一九章二一節の説明から、パウロがマケドニア、ギリシア、エルサレム、それからローマに行く計画を立てていたことが読み取れます。使徒言行録20章1節から3節の記事からは、パウロがマケドニアに行き、それから三ヶ月間コリント(ギリシアの町)に滞在し、さらにマケドニア経由でエルサレムに向かったことがわかります。
ローマの信徒への手紙15章25、26節によると、パウロが「ローマの信徒への手紙」を書いた時、既にマケドニアでの滞在を終え、ギリシアを出発しようとしていました。パウロはコリントか、あるいはコリントの郊外にある海港ケンクレアイから書き送ったようです。ケンクレアイには、ローマにその手紙を持って行った女性フェベの家があったからです。パウロが「ローマの信徒への手紙」を書いていた時期と状況は、「使徒言行録」に記録されている第三回伝道旅行の状況と合致しています。
パウロは彼の計画をローマの信徒への手紙15章で述べています。パウロはローマの教会を訪問したいと願っていましたが、実のところ、そのことを一章で次のように述べています。「あなたがたにぜひ会いたいのは、〝霊〟の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」(1章11~13節)。
パウロはローマの信徒への手紙15章において、ローマに行って信者に会いたいと思っているが、ローマが最終目的地ではない、ということを明らかにした時、この訪問の願いをふくらませました。ローマを訪問した後、スペインに行きたいと望んだのです。パウロがスペイン(イスパニア)に特に興味があったのは、彼の知る限り、福音が未だそこには伝えられておらず、そのような場所へ福音を伝えたいと思ったからでした。彼は次のように語っています。
「また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。「彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです」(ローマ15章19~24節)
他人の築いた土台の上に建てる必要を感じることなく、パウロは小アジアを伝道し、今や福音をスペインまで伝えたいと思っていました。しかしそうした働きのためにパウロには前進基地が必要であって、その点、ローマは理想的でした。そこでパウロは、この胸が高鳴るような新しい伝道に備えるため、ローマにしばらく滞在し、クリスチャンの助けを得、それからスペインに向かうことにしました。しかしパウロはローマやスペインに向かう前に、別の中継地点を計画していました。パウロはまずエルサレムを訪問しようとしたのです。
エルサレムですって? ギリシアからローマへ行く途中にあるわけではありません。ギリシアから見たら、エルサレムとローマはまるで正反対の方向にあります。都市間の空路での距離を調べると以下の通りです。コリントからローマまでは1040キロ、コリントからエルサレムまでは1280キロ、エルサレムからローマまでは2320キロです。
そこでコリントからエルサレム経由でローマまで空路で行くと、合計3600キロになります。しかもパウロは空の旅をしていたわけではなく、徒歩旅行をし、荒れ狂う海路で危険な船旅をしていました。彼はローマに行きたいと思っているのに、どうしてわざわざ3600キロの旅に向かうというのでしょうか。
その答えは、彼にとって極めて神学的かつ実際的な重要性のある誓いの中に見いだされます。彼はその誓いについて、ローマの信徒への手紙15章25節から27節で述べています。「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」
ユダヤ人と異邦人については次で詳しく論じますが、今は以下の点を述べるだけで充分だと思います。ユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つであることを覚えてほしいために、パウロは、エルサレムにいる貧しいユダヤ人のクリスチャンに渡す献金を異邦人の信者から募っていた、ということです。この誓いはパウロにとって重要なものだったので、彼は喜んで数ヶ月を余計にかけ、命を懸けてでもそれを果たそうとしたのでした。
そのようにしてパウロはギリシアにいて、エルサレム、ローマ、それからスペインに向かう計画を明らかにすることになりました。パウロにとってエルサレムへの旅は大切ではありますが、恐れも抱いていました。ローマの信徒への手紙一五章三一節で述べているように、パウロはエルサレムにいる不信のユダヤ人を心配し、命が守られることを願っていました。また、エルサレムにいるユダヤ人のクリスチャンは、パウロが異邦人の信者から集めた贈り物を受け取らないかもしれない、という懸念も彼にはありました。
パウロの執筆理由と目的
こうして計画を立て、心配もしていたパウロを考えていくことで、彼がローマの人たちに手紙を書きたいと思った理由を知ることができるようになります。パウロはローマへの訪問準備を進め、同様にスペインへの訪問準備も進めたいと願っていました。そこでパウロはローマにいる人たちにいくつかの方法を用いて自己紹介をしました。異邦人への使徒としてパウロが説教していたメッセージの概要を伝えました。またローマにいる知人との関係を築きあげていきました。ローマに行ったことのないパウロですが、プリスカとアキラに加えて、他の場所で出会った多くの人がその後ローマに移っていました。一世紀の世界では、実にすべての道がローマに通じていて、他の地に住んでいた多くの人々や、少なくともあちこちを訪問した人々が最終的にローマに行き着くというのは、珍しいことではありませんでした。
しかしパウロの願いは、ローマにいる人々に自己紹介をするにとどまりません。パウロは耳にしていたローマの教会内での問題を憂慮していました。教会員たちは重要でない問題を議論し、お互いに批判し合う関係にありました。パウロは、ローマの教会が彼のスペイン伝道を強力に支援してくれるとしたら、教会が一つにまとまっていなければならないことを知っていました。ですからパウロは教会員を一致させようとしたのです。その証拠に、通常深い神学だと思われている「ローマの信徒への手紙」の最初の部分全体を使って、彼は実際的な諸問題を扱う──扱っているのは手紙の終わりの部分ですが──下準備をしています。信仰を通して恵みによって救われるという神学的メッセージは、すべての人を同じ立場に置き、キリストとクリスチャン全員の善意において一つになるという実際的なメッセージを伝える下準備になっているのです。そのような善意こそ、パウロがローマの教会に築こうとしていたものでした。
パウロはまたエルサレム訪問のために必要なローマの人たちの祈りと実際的な支援を得るために書きました。不信のユダヤ人がパウロの命を奪うことのないように、パウロが異邦人から得た贈り物をユダヤ人のクリスチャンが受け入れてくれるように祈ってほしい、と求めています。パウロは、ローマのクリスチャンの中には遠方のエルサレムに対して影響力をまだ持っている人がおり、彼のために口添えをしてくれるかもしれないと思ったのでしょう。こうしてパウロは、自分の使命を念頭に置きつつ、訪問したことのないローマのクリスチャンに大胆にも書き送ったのでした。
しかし、パウロが計画したように事態の好転は見られませんでした。エルサレム旅行についての心配が現実のものになったのです。不信のユダヤ人たちが、ユダヤ人にのみ許可されていた神殿の境内に一人の異邦人を連れ込んだかどでパウロを偽って訴え、パウロの命を取り去ろうとしました(使徒言行録21章27~40節)。神殿の境内を見下ろすアントニアの要塞に駐屯していたローマの兵士に救出されなかったら、パウロはユダヤ人によってその場で殺されていたかもしれません。パウロは捕縛され、イスラエル西岸のカイサリアで2年間にわたって監禁され、裁判を待ちました。しかし総督フェリクスがパウロの同胞のクリスチャンから賄賂をもらえるのではないかと期待し、パウロの審理をしないままにしておきました。
2年後、ローマ市民であるパウロはローマ皇帝に上訴しました。彼の上訴は認められ、ローマに囚人として送られました。この旅でもう1年延び、ローマ到着まで3年かかったことになります。ローマでは2年間の自宅軟禁となり、審理を待ちました。ルカの「使徒言行録」の物語はここで終わっており、この先、パウロにどんなことが起きたかは不明です。たぶん彼がスペインに行くことはなかったでしょう。
エルサレムの聖徒たちは持参した贈り物を受け取らないかもしれないという、パウロのもう一つの心配が的中したかどうかもわかりません。ルカはパウロのエルサレム旅行と彼の逮捕については語っていますが、彼がエルサレムに行く唯一の理由だった贈り物については何一つ述べていません。パウロにとって重要である贈り物について沈黙しているというのは不思議なことです。
ローマの教会の歴史
導入的な内容を持つ本章において、もう一つの疑問が残っています。パウロはローマに行ったことがないのに、どのようにして教会がそこで生まれたのでしょうか。答えようがありません。新約聖書は沈黙しています。エルサレムでのペンテコステの日に改宗したユダヤ人の何人かがローマに福音をもたらしたということも考えられますが、それは単なる憶測で、実際にはわかりません。
紀元49年頃までにローマにクリスチャンがいたということは、わかっています。聖書と世俗の歴史がそのように伝えています。既に指摘したことですが、使徒言行録(18章1~3節)によると、プリスカとアキラはローマに滞在していましたが、クラウディウス皇帝がユダヤ人をローマから追放した時、ローマを去らなければなりませんでした。彼らはギリシアに向かい、そこでパウロと出会い、一緒に働きました。パウロが「ローマの信徒への手紙」を書く時までに、彼らはローマに戻っていました。
世俗の歴史家スエトニウス(69~140年)の説明では、クラウディウス皇帝がユダヤ人をローマから追放したのは、「クレスタス」という名前の人が継続的に騒動を引き起こしていたためでした[i]。「クレスタス」は「キリスト」のラテン語つづりです。スエトニウスが状況をはっきり理解していなかった可能性が十分にあります。おそらくは、クリスチャンでないユダヤ人と、プリスカとアキラのようなユダヤ人のクリスチャンとが、キリストについての公の論争に巻き込まれたのでしょう。そして、歴代の皇帝たちは事を荒立てるのを好まなかったので、クラウディウス皇帝も──クリスチャンであれ、非クリスチャンであれ──全ユダヤ人をローマから追放したのです。後にネロが皇帝になった時、ユダヤ人のローマへの帰還を許可しました。たぶんそういうわけでプリスカとアキラはローマに戻ってきたと考えられます。
こういった出来事からローマにおける緊張関係は説明がつくと思います。ユダヤ人のクリスチャンがローマで教会を始め、それを導いていた時に、他のすべてのユダヤ人と一緒にローマから追放されたとしたら、いったいどんなことが起きたでしょうか。想像してみてください。教会はたぶん、主として異邦人のクリスチャンが指導する異邦人クリスチャンの教会になったことでしょう(パウロが「ローマの信徒への手紙」を書いた時、一一章に見られるように、教会の大多数は異邦人のクリスチャンでした)。そして、元々のユダヤ人のクリスチャン指導者たちがローマに帰還した時、彼らと、教会の指導者になっていた異邦人のクリスチャンとの間に、緊張関係が生じたと思われます。
次の章で、ユダヤ人と異邦人の問題に入り、「ローマの信徒への手紙」においてパウロがどのようにその問題に取り組んでいるかを考えていきます。
ユダヤ人と異邦人
地域、時代を問わず、世界はある程度双方の敵意を持つ対立構造の中に置かれているように見えます。白人対黒人、若者対高齢者、資本主義対共産主義、東洋対西洋、同性愛者対非同性愛者、クリスチャン対イスラム教徒、イスラエル人対パレスチナ人、共和党対民主党──このリストにはさらに多くの追加ができると思います。人々はいつでも人間世界を異なったグループに分け、自分たちのグループをえり好みしているように思います。
パウロは幼い頃から一世紀の世界で育っていたので、ユダヤ人と異邦人の区分けを熟知していましたが、両者の敵意は際立ったものでした。ですからパウロは晩年、ユダヤ人と異邦人の間にある「中垣」、すなわち「敵意という隔ての壁」(エフェソ2章14節)について語ることになりました。そのような壁の存在を裏付ける一世紀に使用された言い回しを探すのは大変なことではありません。
『ミシュナ』は190年頃に書かれたものですが、数世紀以上にわたってラビたちが口頭で伝承してきた伝統を記載しています。その『ミシュナ』における異邦人はまったく不適正な姿で表現されています。例えば、「ギッティン」2章5節を読むと、「聾唖者、精神薄弱者、未成年者、盲人、あるいは異邦人を除くすべての者は、離婚訴状を提出する資格がある」とあります[ii]。ユダヤ人に不潔であると思われていた異邦人が一緒にユダヤ人と食事することは許されていませんでした。このことは、新約聖書それ自体の中に見いだせます。ペトロはコルネリウスと彼の家の者たちの前で、「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」(使徒言行録10章28節)と述べています。実際、ユダヤ人の中には、彼らの食物規定が、異邦人のような汚れた人々と交際してはならないことを思い出せるものだ、と解釈する人たちもいました[iii]。
その一方、異邦人の書き物には反ユダヤ的な表現とうわさがたくさん含まれています。ローマの歴史家タキトゥス(55~120年)の教えるところによれば、ユダヤ人は体をひどく損なう病気にかかったために、エジプトから追い出された(出エジプトの時)ということです。タキトゥスによると、彼の時代(1世紀末)にユダヤ人は、他のすべての人々が極めて異常で、いまわしく、堕落していると思っていたあらゆることを教え、実行していたといいます[iv]。『アピオンへの反論』という著書においてヨセフスは、反ユダヤ作家のアピオンが広めた「ユダヤ人はいまわしい慣行を行っている」といううわさを一掃しようとしました。最も悪意に満ちたうわさの一つは、毎年、贖罪の日にユダヤ人は豪勢なごちそうで太らせた異邦人を誘拐し、次の日にささげて食べているといううわさです。
そのような敵意はどこにでも見られるものではありませんでした。実際には多くのユダヤ人と異邦人が互いに善意の心をかよわせて共存していました。ところが表面下では、うわさやあてつけによって煽られてしまう疑いの底流が流れていたのです。パウロはユダヤ人と異邦人の世界にまたがって、このような中で大人になっていきました。
パウロの異邦人世界への伝道
パウロはもちろんユダヤ人でした。生涯、彼はユダヤ人であると自認していました。青年時代のある時、エルサレムに学びに行き、ファリサイ人からユダヤ教の厳しい薫陶を受けました。パウロはイエスを自らの救い主、主なる神、救世主として受け入れたずっとあとでさえ、自分がユダヤ人であることを表明しています。フィリピの信徒への手紙3章5、6節において彼が明言する血統に注目してください。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」
ローマの信徒への手紙9章1節から4節においてパウロは、回心後もイスラエルの民が自分にとってどんなに大切であるかを力説しています。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です」
さらに、ローマの信徒への手紙11章1節においてパウロは、自分自身がユダヤ人であると断言することによって、神がイスラエルの民を退けられたのかどうかという自らの問いかけに答えています。「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」。ですからパウロがユダヤ人であることについては、いささかの疑問もありえません。
その一方、パウロは少なくとも片足を異邦人世界に置いて成長した人でした。彼はキリキア州にある異邦人の町タルソスで生まれました(使徒言行録21章39節、22章3節)。その町には円形競技場があって、あらゆるギリシアのスポーツが行われ、パウロはその世界に慣れ親しんでいたと思われます。イエスは種まきに出かける農夫や網を持った漁師についての話をなさいましたが、パウロは拳闘や陸上競技についての比喩を用いているからです(一コリント9章24~27節、フィリピ3章13、14節)。パウロがいつ、どのようにしてローマ市民になったかは知るすべもありませんが、彼がローマ市民であるという事実を誇りにしていたことは、「使徒言行録」からうかがえます(16章37節、22章25~29節)。パウロは自分を虐待した当局者たちに、彼らが虐待したのはローマ市民であることを知らせて楽しんでいるように見えるのです。
神は、ユダヤ人と異邦人の両者の壁を取り除き、一つにするために、二つの世界を熟知しているこの熱心な人物をご自分の器としてお選びになりました。この選びは実際ダマスコ途上のパウロの身に起こりました。私たちは普通、これをパウロのキリスト教への回心である考えますが、これは異邦人への使徒になるという彼の召命あるいは任命以上のことを意味するのです。この物語は極めて重要なので、使徒言行録9章、22章、26章において3度語られており、異邦人に対するパウロの使命がそれぞれの箇所で強調されています。使徒言行録9章15、16節において、アナニアはパウロについてのうわさを聞いていたにもかかわらず、パウロの所に行って会うように命じられます。神はこう命じておられます。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」。使徒言行録22章21節において、主はパウロにこう語っておられます。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」。さらに、使徒言行録26章17、18節では、「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」と、主は断言しておられます。
「ガラテヤの信徒への手紙」と「ローマの信徒への手紙」において、パウロは自分自身を異邦人への使徒だと見なしています(ガラテヤ1章16節、2章2節、ローマ11章13節、15章16節)。パウロに与えられた特別の使命は、異邦人に福音を告げ知らせ、ユダヤ人と異邦人を一つにすることでした。この働きへの取り組み方は多面的で、福音宣伝的な側面もあれば、行政的な側面、神学的な側面もありました。
パウロの働きのこれらの側面を一つ一つ検討する前に、彼の使徒職の概念について一つ確認しておきたいと思います。使徒言行録1章21節によると、使徒はイエスとともにいた者で、イエスの復活を目撃した者でなければなりませんでした。パウロの敵対者たちにとって、彼の過去の歩みを指摘することで彼の使徒職の信用を傷つけるのは、造作ないことだったでしょう。彼はイエスの昇天後かなりたった時点でもクリスチャンを迫害していました。そんな彼が、どうして使徒であるための規準を満たすことができるのだろうか、という指摘です。
パウロの答えは、復活されたイエスがダマスコ途上で彼に現れ、特別な目的を持った使徒──異邦人への使徒──として彼を任命なさったのだ、ということでした。パウロは、この顕現がふさわしい時に起こったのではなく、自分が「月足らずで生まれた」(一コリント15章8節)者(原語は未熟児を指すことも、過熟児を指すこともあります)であることを認めています。しかしパウロの任命が他の使徒の任命と同じ時期になされなかったとしても、彼に現れたキリストは、他の使徒が共に過ごしたキリストに劣らずリアルなものだったのです。コリントの信徒への手紙一・15章3~8節において彼が記していることに注目してください。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」
福音宣伝者としての使徒パウロ
パウロの異邦人への使徒職の一番明確な証拠は、異邦人の間での福音宣伝でした。彼は小アジアとヨーロッパを旅行し、多くの町で福音を説教し、しばしばむち打たれ、投獄の憂き目に遭いました。実際、彼はこう言っています。「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(ローマ15章19節)。
パウロの福音伝道については、伝道旅行を概観している「使徒言行録」と、さまざまな会衆への説教と手紙を通じての継続的接触について記述している「パウロ書簡」とから知ることができます。パウロは福音の説教者であると同時に牧師でした。ですから、彼の改宗者たちがどのように神と共に歩み、成長しているかを知りたいと願っていたのです。
パウロがある町に入ると、最初の改宗者は「神を畏れる者たち」と呼ばれるグループからよく出ました。彼らは、一神教であり、高い倫理的理想を持つユダヤ教に魅了されていた異邦人たちで、ただし、実際にはユダヤ教に改宗していませんでした。この人たちは異教の宗教に満足することがなく、福音を受け入れるにふさわしかったのです(例/使徒言行録17章4節)。異邦人に対するパウロの働きの中で福音宣伝の側面は最も明らかなものですから、最小限の注意を払うだけで十分でしょう。
行政家としての使徒パウロ
パウロは異邦人への行政的な使徒でした。これは世俗の行政という意味ではなく、教会の組織化における働きのプロセスを指します。パウロは説教によって異邦人に福音を伝えるだけでなく、教会を組織するプロセスにおいて異邦人を組み入れるために働きました。紀元四九年頃にエルサレムで開かれた教会の会議に参加したのは、そのための一つの方法でした。
この会議についての記事は二つあります。ルカが記した使徒言行録15章とパウロが記したガラテヤの信徒への手紙2章です。二つの記事の中で二、三の要素は関連がないように見えますが、基本的な論点と決定事項は両者においてはっきりしています。あるクリスチャンたちがアンティオキアに来て、無割礼の異邦人に洗礼を施すパウロの仕方に意義を申し立てたことから、論争が始まりました(使徒言行録15章1節、ガラテヤ2章4節)。使徒たちが、割礼を要求しないで異邦人に洗礼を施すパウロの仕方を支持している点で、二つの記事は一致しています。「ガラテヤの信徒への手紙」においてパウロは、彼とバルナバが、異邦人クリスチャンがどのような姿であるかを示すために、一つの証拠として、無割礼のクリスチャンであるテトスを実際に連れて行ったことを書き加えています。テトスは割礼を受けるように強いられませんでした。
この会議は初代教会に重要な衝撃を与えることになり、その結論についてはパウロの参加が大切な意味を持ちました。実際の論争点は、人々はクリスチャンになる前にユダヤ人になる必要があるかどうかという点でした。言うなれば、クリスチャンの信仰はすべての人に開かれているのか、それともユダヤ人にのみ開かれているのかということです。教会においてパウロに反対する人たちは、異邦人はユダヤ人になってから教会に加わることができると考えていました。ですから、もしパウロに反対する彼らが勝っていれば、福音はユダヤ人だけのものになっていたでしょう。要するに、異邦人はキリストの体の一部となる前に、ユダヤ教に改宗しなければならなくなっただろうということです。
しかし、ユダヤ人と異邦人が教会内で一緒になる道をパウロが開こうとしたのは、教会会議への参加を通してだけではありませんでした。エルサレムにいる貧しい聖徒のためにパウロが異邦人から集めた献金は、ユダヤ人と異邦人が共にキリストにあって一致するための行政的な、すなわち実践的な試みであったわけです。パウロによると、エルサレム会議でこれをするように求められたのですが(ガラテヤ2章10節)、パウロ自身もそうすることを切に望んでいました。
献金の神学的根拠は次の説明の中に見ることができます。「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ15章26、27節)。
福音の霊的な祝福はユダヤ人と共に始まりました。ユダヤ人のクリスチャンを含めて、エルサレムにいるユダヤ人は貧しかったのですが、ローマ帝国の諸都市でパウロの説教を聞いた異邦人ははるかに裕福でした。相互に祝福を分かち合う今回のことは、異邦人とユダヤ人がキリストにあって新しく一致する目に見える象徴であり、これはパウロにとって大切なことでした。実際、コリントの信徒への手紙二・8章と9章で、パウロはコリントの信徒にこのために寄付をするよう促し、コリントからローマではなく、反対方向のエルサレムまではるばる旅をして貧しい聖徒たちに自ら献金を持って行きました。
パウロは、キリスト教が二つの共同体、ユダヤ人クリスチャンの教会と異邦人クリスチャンの教会に容易に二分されてしまうことを知っていました。教会が一つになり、ユダヤ人と異邦人が平和に共存することを神は願っておられると、パウロは確信していたので、異邦人への使徒として行政的に働いたのでした。
神学者としての異邦人への使徒パウロ
第三の側面として、パウロはすべての人の救済、すなわちユダヤ人と異邦人双方の救済のメッセージを熟考する神学者として働きました。このシリーズの後半で、信仰による義、すなわち信仰を通しての恵みによる救いについてのパウロの教えを探求します。私たちはたいてい、「どうしたら私は救われるのだろうか」という本質的な問題を心に抱きつつ、この教義を個人の救いに関係するものとして考えます。しかし、パウロにとってこれは議論の中の極めて重要な一部分ではあっても、信仰による救いの教義に関するすべてではありません。パウロはより広い問題、すなわち、どのようして神はユダヤ人と異邦人の両者を救うことがおできになるのだろうか、という問題に関心を寄せているのです。信仰による義の教義は全人類を同じ立場に置くので、すべての人は平等に神の恵みにあずかることができます。
すべての者は罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、同時に、神の恵みによって召しを受けています。もし救いが、人間の努力や功績に基づくものではなく、神の恵みに基づくものであるなら、神の救いはすべての人に提供されていることになります。「ローマの信徒への手紙」において最も重要な神学用語は、「すべての」という言葉であり、この書の命題となる文が1章16節なのです。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。福音はすべての人のためのもの、つまりユダヤ人のためのものでもあり、異邦人のためのものでもあるのです。すべての人のための福音というメッセージの普遍性を背景にして、パウロの神学思想が形作られています。個人の救いの問題だけを考えていると、パウロのメッセージの真の中心を誤解してしまいます。律法の行いから離れて信仰を通して恵みによって神が救いをお与えになる、という事実は「すべての人を憐れむ」(ローマ11章32節)ことが神の御目的であることを意味しているのです。
パウロ神学というのは、クリスチャンの行為や伝道戦略に対して実際的な意味を持っています。個人の行為に関して言うと、もし神の御目的がすべての人を憐れむことであれば、クリスチャンはすべての人と平和に暮らし、憐れみ深い生活を送るべきです(ローマ12章18節)。クリスチャンは特定の慣習や規準について同意できない時でさえ、お互いに相手を受け入れるべきです(ローマ15章7節)。神の恵みは、私たちの恵み深さの模範なのです。
伝道戦略に関して言うと、何とかして何人かを救うために、すべての人に対してすべてのものになることが、パウロ神学の意味するところです(一コリント9章19~23章)。パウロは、実際には律法のもとに留まろうとしませんでしたが、ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。彼はキリストの律法に従っている自分をいつも意識していましたが、異邦人に対しては異邦人のようになりました。このことのゆえに、パウロは一貫していないと考える人がいるかもしれませんが、彼の見かけ上の一貫性のなさは、すべての人のために働かなければならないという原則に対する、より開かれた忠誠心の一部なのです。ですから、例えば、エルサレム会議においてパウロは、テトスに割礼を要求した人たちに少しも譲歩することはありませんでした(ガラテヤ2章1~5節)。しかし、テモテが第二次伝道旅行の開始時期にパウロに合流した時は、ユダヤ人たちのつまずきの石にならないよう、パウロはテモテに割礼を受けさせました(使徒言行録16章1~3節)。このような異なる決定には一貫性がないように見えるかもしれませんが、いずれの決定も、「すべての人のための憐れみ」というパウロのメッセージ全体に根ざしているのです。こういうわけで私たちは、一つの主要な焦点を伴った多面的な働きをパウロの中に見ることができます。ユダヤ人と異邦人の両者を新しい共同体に導き入れること、それは神の新しい御計画でした。この共同体において、彼らの間にある敵意の壁はすべて取り壊され、両者は神の平和な共同体において共存できるようになるのです。
この記事は、ジョン・ブラント(村山晴穂・訳)『信仰による従順──信じる者すべてに救いをもたらす神の力』からの抜粋です。