真の偉大さ【ヨハネによる福音書13章1節〜30節、17章1節〜26節】
それはある二階座敷での出来事でした。部屋の片隅には小さなテーブルがあって、その上には水が一杯入っている水差しと石の手桶とタオルとが置いてありました。一つだけ不備なものがありました。それはそのグループの足を洗ってくれる僕がいなかったのです。弟子たちは皆、誰もそんなことにはかかわりがないかのように振舞っています。「今日は天気が良かった」とか、「昨日はテイベリゥスの株価が下落したのを知っているか」「そんなことは時々あるよ」などと。
時間が経過しても誰も隅の机のところに行く者はおりません。問題は必ずしも、汚れた足に触れるということにあったのではありません。足を洗う業は奴隷の働きであったからでした。従って足を洗うという働きは、偉大になろうとしている者たちのする仕事ではないと考えたのです。弟子たち全ては偉くなりたかったのです。その故にこそ彼らはイエスと共に歩むことを選んで今日まで来たのではなかったか。間もなく主イエスはご自身を王であると宣言し、ローマ人たちを駆逐し、その時には弟子たちの内の誰かが激しい競争の勝者となり、主の右の座に着くことになるであろう。従って誰であってもタオルと石桶とを取って足洗いの役をする者は、その競争からの脱落者となります。それ故、自分を駄目人間と認めるより、汚れた足のままで座している方が良いと弟子たちそれぞれが考えたのです!
「弟子たちはそれぞれ誇りを傷つけられたという思いに負けて、だれもしもべの役割を果たすまいと決心していた。……真の偉大さは愛の奉仕、真の謙遜にあるということを、キリストはどうやってお示しになることができるだろう。……主はご自分の神性を十分に意識しておられた。しかし主は、王冠と王衣を脱いで、しもべの姿をとられたのであった」(『各時代の希望』下巻一一八、一一九ページ)
真の偉大さとは何でしょうか。それは部屋の片隅に自ら歩いて行って、タオルと水を入れた石の桶を取り、それからペトロのような気の変わりやすい弟子やユダのような裏切る弟子たちの足をも洗われるため跪かれる宇宙の王の姿にこそ見られます。真の偉大さは、大言壮語したり、自己顕示したりする必要はありません。真の偉大さ、それはむしろ自己抑制的であり、かつ奴隷の役割をも果たすのです。それはたとえ他の人々から嘲笑されようとも、また軽蔑されることになろうとも、必要があればそれをなすのです。
真の偉大さとは、主イエスと同じ生き方をするということを意味します。主は「神の身分でありながら、僕の身分」になられるようなヘリくだりをなされたのです(フィリピ二ノ五~八)。真の偉大さは、「相手を自分よりも優れた者」と考えることを意味します(同二ノ三)。真の偉大さは、奉仕と謙遜の道の中で主にお従いすることを意味します。言い換えれば主御自身が据えられた歩みです。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」(ヨハネ一二ノ二六)
あの夜、もしもあなたや私があの二階座敷にいたとしたら、弟子たちとは異なる行動をとったでしょうか。もしも、どんな状況であれ、私たちの心に最初によぎる思いが自己への関心の何かであるなら、私たちは間違いなく誤った偉大さを追い求めていることになります。もしも、私たちがどんな状況下でもその最初の反応が、小うるさく小言を言って困らせたり、人を小バカにしたり、批判やつぶやきであるなら、私たちは謙遜とは正反対の方向にあることを表しております。人を見下す時はこう言います。「私はあなたよりましだ」と。反対に他の人を自分より優れた者と考える時は、他の人々を高め、勇気付け、賞賛いたします。バスケットボールやホッケー競技では、真に偉大な選手とは、最大得点者ではなく、自分の周りのあらゆる選手をよりよく活躍できるようにするプレーヤーです。
一体どのようにしたら、私たちは真の偉大さへと成長することができるのでしょうか。どのようにしたら奉仕の生活を愛するようになるのでしょうか。それは謙遜になろうと努めることによってではありません。そうするなら、しばしばもっと事態は悪くなります。キリストのような生き方を啓発させる鍵は、主イエスに焦点を合わせることです(フィリピ二ノ五)。キリストの御許でむしゃむしゃ食べ(ヨハネ六章)、その御言葉(ヨハネ六ノ六三)や主の示された実例(ヨハネ一三ノ一二~一七)に思いを集中して行くにつれ、次第に主の栄光の似像に変えられていくのです(コリント二・三ノ一八)。見上げ続けることによって私たちは変えられていくのです。
偉大さへのもう一つの道
『各時代の希望』の中でエレン・ホワイトは、主の十字架が近づいて来た時の、イスカリオテのユダの感情や動機のもろもろのことを吟味して見せてくれております。彼女は次のように描写しております。
「新しい王国で高い地位につけるという見込みから、ユダはキリストの御業を支持するようになったのだ。……ユダは、キリストがエルサレムで王として統治されるという考えを絶えず表明していた。……キリストを無理やりに押し立てて王にしようとする計画に乗り出したのは彼だった。……自分は新しい王国でキリストに次ぐ最高の位を獲得するであろう(とユダは期待した)」(下巻二一八~二二二ページ)
キリストが足洗いの御奉仕で示された偉大さとは全く異なる別な偉大さへの道をユダは選択いたしました。あの時点でユダ自身はキリストよりも賢明であると考えていたのです。確かに誰にとっても偉大さは権力や富や他の人々からの賞賛に由来するとしていたのは明らかでした。そして、ユダのその緻密な論理的行動はただ彼を破滅へと導いただけでありました。
彼は、誰もが偉大な人としての行為をなすことができ、また誰もが自分より偉大な人としてみなされねばならないということに気づくのに失敗しました。人には人生という機会が与えられていて、お金も他のもろもろのものをも自由に支配できます。そうした中で、しもべの役割を果たし、他人がなすべきであった屈辱的と思われる仕事をなすには真の偉大さが問われます。他者を第一とし、常に自分よりも他者が優れているとする道こそが、真の偉大さの歩みの姿なのです。
あなたのために主は祈られる
第一次湾岸戦争が始まる前のこと、アメリカの特殊部隊の三人の兵士たちが、情報収集のため夜イラクに向けて一六〇マイル(約二五〇キロ)程のところに空輸されました。朝が来る前に彼らは塹壕を掘り、それに潜り込んでその穴の上にカモフラージュとして草を被せて潜みました。昼の間中そこに隠れていて、夜になったら穴を出て、目的地に向かうのです。
朝がやってきて間もなく、兵士の一人が外側はどんな様子なのかを知りたくなりました。そこでカモフラージュをほんの少しだけ持ち上げて外を見ようとしたのです。と、その時なんと! およそ七歳位のイラク人少女の目と彼の視線とが合ってしまいました。彼は一瞬にして悟りました。もしこの少女を穴に引きずり込んだら、悲鳴を上げられてしまうだろうし、任務を遂行するためには、直ちに、その場で少女の息の根を止め死体を穴に引きずり込むより他に道はないと。しかし、その兵士にはそれができませんでした。そこで彼はその女の子に、身振り手振りでお父さんやその他誰にもこのことを話さないようにと告げ示し、その少女を去らせました。しかし去ったその少女は全てを家族に話したのです。直ちにその塹壕は数百人のイラク兵士によって囲まれてしまいました。銃弾が飛び交い、更に重兵器をも運び込まれつつありました。
アメリカ兵たちは直ちにサウジアラビアの基地に緊急の無線連絡をしました。「助けを乞う。緊急事態! 助けを!」ブラックホーク・ヘリコプターが直ちに発進いたしました。一六〇マイルを一時間以内で飛んで来ました。レーダーの視界を避けるため地面すれすれを飛びながら。実際、パイロットは余りにも低く飛行しなければならなかったので、砂漠を横断しているラクダの隊列を迂回して途方もなく遠回りして進まねばならなかったのですが。かくしてヘリがその場に到着した時、塹壕の周りを旋回しながら何回か機銃掃射をし着地します。直ちに、三人の兵士が飛び乗ると、ディズニー映画さながらの飛行でサウジアラビアの基地に戻ります。誰も怪我をせずに。
この話は軍の指揮統率下の通信連絡網の持つ驚くべき力を良く物語っていると思います。第一次湾岸戦争時の連合軍とイラク軍との間の著しい違いは、時に臨んでの通信能力の差でありました。
私がこの話を最初に聞いた時、この中に何か霊的教訓はないだろうかと自らに問うてみたのを思い出します。確かにあると私は思います。新約聖書では、キリスト者の人生はしばしば戦争にたとえられております。クリスチャンの戦争における指揮統率とは何でしょうか。ハルマゲドンという歴史上の最後の大いなる戦いに勝利するその鍵とは一体何でしょうか(黙示録一六ノ一四~一六)。
聖書によれば、この戦いは、軍事的戦いというよりは、むしろ霊的戦いです(黙示録一六ノ一四~一六を参照)。霊的戦いであれば、銃や戦車や戦闘機等とは関わりがありません。その戦いでは、「神の知識に逆らう」あらゆる論議や見せかけだけの高慢を打ち倒し、かつ「あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ」て行かねばならないのです(コリント二・一〇ノ五)。
キリスト者の戦いは、心に対する戦いです。ですから、私は自分に問います。もしもキリスト者の人生が心に対する戦いであり、戦いということがキリスト者の人生を象徴するのに適当な隠喩語であるとするならば、キリスト者の人生に関しどんなことを湾岸戦争から学び取れるのであろうか。勝敗を致命的に決定づけた要素は何であったのか。私は、その答えをヨハネによる福音書一七章に見ることができると思うのです。
弟子たちとの別れの集いを閉じるに際し、主は三つの部分から成る執り成しの祈りを捧げておられます。第一部で主は御自分のために祈っておられます(一七ノ一~五)。次いで主は弟子たちに焦点を戻されて、御自身が現臨不可となった時の支援の必要を祈られました。そして第三部では、第二世代信徒のために祈り始められます。この信徒たちは主イエスによる直接のお働きというよりも弟子たちの言葉を通じて信仰を持つであろう人々です(二〇節以降)。
ここで興味深いことは、御自分の名によって祈りなさい(一四ノ一四)と弟子たちに言われた御方が、弟子たちのために祈っておられるという点です。祈りは単に被造物と創造主との間の通信手段ではありません。実に三位一体の神の間の通信手段でもあるのです(一四ノ一六)。
後世代の御自身の民のために主が捧げられた祈りにおいては、他の何にも優って、その焦点は彼らが一つになること、しかも主と御父との間にあるような一致で彩られるような関係となるようにです(一七ノ二一、二二)。それ故、主イエスによるあの執り成しの祈りは、三位の御神の間にいつも存在している通信網のようなものです。それは、巨大な通信網の中で、御神との関係の中にある全ての人々を結びつけるのです。湾岸戦争時の指揮統制が成否を分けたように、地上での御神の御働きを成し遂げるために、祈りはまさに肝要事なのです。
地上における主イエスの御働きの中で示されたあらゆる力ある御業にもかかわらず、主はなおも、他者のための祈りが重要であるとしておられます。ある意味では他者のための執り成しの祈りは、それなしでは決して起こることのなかったもろもろの事柄を成就するのです。
他者のための祈りの力と危険
執り成しの祈りに関し、私は以下の三つのことを学んできています。第一は、それは有効であること。二つ目は、それは危険でもあること。そして三つ目は、それは私たちのためには極めて良いことであるということです。
①執り成しの祈りは効果的である。オーストラリアを訪問していた時、ある牧師夫妻が癒しの祈りを依頼してこられました。それに対し私は言いました。「賜物に関していえば、癒しの賜物は、私には最も与えられているとは思えない賜物の一つです。しかし、もしもあなたがどうしてもそうしてくださいといわれるのなら、喜んでそうしてみましょう。もしお差支えなければ、教区長にもご一緒していただきたいと思うのですがよろしいでしょうか。彼は敬虔な人で、かつ祈りの人でもありますから」
私たちは教会の後方にある部屋に入って行きました。その時の講習会のもう一人の講師は、ローランド・ヘグスタッドでありましたので、彼に言いました。「私たちが祈っている間は、君が御用を務めていてください。戻ってきたら私の部分を担当しますから」と。
その祈りの部屋を出て講習会の講壇に上って着座した時、歌の時間になって、彼ローランドが私に身を傾けてきて、「後ろの部屋で何があったのか」と聞いてきました。「なぜ?」と私。すると彼は「私の生涯で、さっき話をしていたときに感じたような主の御力を一度も感じたことがなかったものだから。あたかも後ろの部屋から放射線のようなものが注がれてくるのを感じたものだから」と言いました。
私は後になって、自宅に帰ってからわかったことですが、彼の異常な突発的エネルギーは必ずしも後方の部屋での私たちの祈りの結果ではなく、私の妻がまさに同じ時刻に私のために祈っていたということなのです。世界の反対側にいる時であっても、私のために祈ってくれていた時、過去にそれを感じ取るような場に、しばしば出くわしております(六年後、祈りを依頼された牧師夫妻に再び会う機会があり、そのために祈った致命的な病から今はすっかり解放されていて、その跡形もなくなっていたことがわかり、御名を賛美したことを報告しておきます)。
私が出席した一五〇人位の会衆の教会で、安息日毎に、互いに証しと祈りの時間を持っておりました。誰にも告げることなしに、友人の一人が、祈りのノートをつけ始めておりました。ある安息日のこと、この人は会衆の中、立ち上がって言いました。「私たちが祈る時、この教会で一体何が起こっていくのか、皆さんはおわかりでしょうか。私は一年にわたる祈りを追跡して調べた結果、今年は実に祈りの八〇パーセントが御神にお聞き届けいただいております! 臨床的見地からいたしますと(この人は心理学者であった)、これは大変な事実です。祈りはまさに重要です」。執り成しの祈りはまさに有効なのです。
御神は私たちが祈り求める前から、私たちの問題が何であるかを御存知であられます。そうであるなら、何のために、執り成しの祈りを捧げるべきなのでしょうか。
私にはよくわかりません。しかし、はっきりしているのは、それが有効であるということです。私はダニエル書の記録、すなわち、ダニエルによるもろもろの執り成しの祈りは、一国をも左右していた現実があったという記述を思い浮かべます。何故そうなったのか知る由もありませんが、そうなったのです。他者のための祈りは間違いなく有効なのです。
②執り成しの祈りは危険です。ベトナム戦争の時、米軍は、通常約十二人から編成されている重武装の兵士たちと武器を持っていない一人の通信兵からなる分隊を前線に送り出しています。この十三人目の人物は衛生兵ではありません。彼は重い無線装置を背負っている無線通信士でした。ベトコンたちはどの兵士に焦点を合わせるでしょうか。最大の重火砲を持っている者にでしょうか。そうではありません。常に無線通信士である兵士を狙うのです。何故でしょうか。それは、この兵士こそは鍵を握っている人だからです。彼がひと声、連絡を発し、あるいは打電することによって、戦闘を一変させることができるからです。彼は空爆を要請することができますし、砲兵隊による集中砲火をも呼び込むことができます。短い言葉でもって、十二人の小隊を一万二千人の大部隊へとも変え得るのです。通信士は、大事な時に大事な所に、必要不可欠な人数の軍隊を送り込まれるようにさせることができるからなのです。
無線通信士はまた、情報収集の働きもできます。彼は敵の信号を読み取ることができます。彼はどこに敵がいるかがわかります。どれ程の強敵か、またどんな種類の攻撃かなどをキャッチして、司令部に通報することができます。ベトナム戦争では無線通信士は鍵を握る兵士であり、それをベトコンは良く知っておりました。ですから、無線機器を持ち運ぶのは危険極まりなかったのです。
キリスト者の指揮統制下における大事な要素は執り成しの祈りです。この種の祈りが特別に力を発揮しますので、サタンはしばしばこの祈りの人をいろんな方法を使って攻撃します。このような御神の民が、その祈りをやめるように、彼はあらゆる努力を払うのです。祈り以外の他の何かで忙しくさせます。もしそれが有効でなければ、彼は恐れさせたり病に伏させたりします。しかしたとえ他者のために祈るその人が、このような危険にさらされているとしても、このような執り成しの祈りにおける恵みは、当面する危険を補って遥かに余りあるのです。
③執り成しの祈りは私共のために良い。私共が好きでもない人々のために祈る時、彼らに対する私共の姿勢を変化させます。誰かのために祈り、しかもその人に対し強い不快感を持続するのは難しいことです。本性的に好まぬ人のために祈る時、私共は敵のためにさえ祈られた主イエスのようになっていきます。主イエスは私共のために祈っておられますので(ヨハネ一七章)、私共も互いに祈り合うべきなのです。
私共が誰か他の人のために祈る時、私共はしばしば、親切を受けます。誰かがキリストの御許に来られるように、そして赦しの確証を得られるようにと祈る時、私共はしばしば自分の罪が赦されているとの確信に導かれます。私共を傷つける人々のため、私共が祈ると、私たちが誰かを傷つけた時、それからの赦しを経験いたします。他人のために祈る時、私たち自身が祝福されるのです。そのような祈りの過程で、私たちは主が他の人々にどのような関心を抱いておられるかを一層認識し、それによってより深い主との関係を築いていけるようになるのです。
そして他の人々のための祈りの中で最も重要な点は、祈りによってこの世界に変化をもたらしているということを知るにつれ、それは私たちに大変な達成感を与えてくれるということです。私たちの存在を通してこの世界が少しでもより良い場となっていくことを知ること程、私共の心に満足感を与えるものはないのです。そして他人のための執り成しの祈りは、恐らくこの世界に良い変化をもたらす最も強力な手段であります。
他者のためにどのように執り成しの祈りをするか
もしもあなたが私のようであれば、他人のための祈りは、ある意味で上ったり下ったりの経験です。祈りを日常生活の付け足しのようにして、最後のそして、ほんのちょっとだけしか時間を取らないようにしている常習的習慣を変え得る何か良い方法はないでしょうか。そこでここに二、三の実際的な提案をしたいと思います。
何よりもまず、祈りのため定期的な時間、できれば毎日同じ時間帯を聖別してみることです。それは習慣を形成する助けとなります。第二は祈りのリストを書いてみることです。そうです、よくわかってます。あなたは過去に何度か試みられました。しかし私は思うのですが、私たちの祈りのリストは、時々長過ぎます。祈るべき人々の名がリストに一杯あり過ぎて祈りきれず、その結果、やがて必要以上の労力となってしまうように思えます。
もっと短いリストを作るよう提案したいと思います。リストの最初には、あなたが知っているうちで最も望みのない部類の人のことを書きます。その人は誰ですか。私の意味していることはわかるでしょうか。あなたがどんなに努力しても悪態をつく人、望みのない人、不可能の状態にある人がその人です。あなたが過去になしたどんなことも、助けになってはいないように思える人です。このような、あなたを最大限悩ます人をリストの最上段に置くのです。このようにしてあなたは、あなたにとって難しい人のための祈りの仕方を学ぶことにもなります。(あなた自身が誰かの祈りのリストのトップにあるかもしれません!)。あなたを悩ます人のために祈り始めると、驚くべきことが起こり始めます。その人に対するあなたの感情がまず変化し始めます。その人の内にあなたはもろもろの可能性を見始めるのです。
これらの最も難しい人と共に、二、三の可能性のある人々の名前をリストの次に載せるのです。そうすればすぐにその結果を見ることができるでしょうし、また、そのもろもろの結果は勇気を与えるものとなるでしょう。リストはできるだけ少なく保てるように努めなさい。主があなたの心に削除を印象付けられる時、その人をリストからはずし、他の人の名を加えなさい。
三番目は、私共の大部分は、ある種の責任感なしでは、人生においてほとんどごくわずかしか何かを成し遂げ得ません。そのためには、私たち全ては、頑固な程の友人を持てたら良いと思います。その人は私共のもろもろの約束事や決定に対し、常に傾聴する価値のある意見を言ってくれる友人です。私が言う頑固なほどの友人とは、私が最善であるように挑戦することにためらわない人物のことです。たとえば、その友人に自分は七時から七時一五分まで毎朝執り成しの祈りをしようとしていると語ったとします。次の朝七時一七分には電話が鳴ります。その電話はその友人からのもので、「やってみたか?」と聞いてくる。この友人はたとえあなたが聞きたくないような時でも、あなたが聞く必要のあることをあなたに直言してくれるような友人なのです。
執り成しの祈りはキリスト者の戦いにおいて勝利者となるための鍵です。恐らく御神は、あなたを主の指揮統制組織において、鍵となる祈りの人となるようにと召しておられるかもしれません。
ヨハネによる福音書の一三章から一七章において、真の偉大さのエッセンスを見いだします。それは自己から目を離し、他の人々への奉仕に生きる道です。この種の奉仕には、足洗い(一三ノ一~一七)のような日常の業と共に、執り成しの祈りのような深い霊的奉仕のような両方の働きを含んでおります。第四福音書の示す興味深い真理は、主イエスは、御神とはどのような御方かを示す最大の啓示者であられるということです。そして主が表された御神は、仕えられるためではなく、仕えるために存在しておられるというのです(マタイ二〇ノ二八、マルコ一〇ノ四五を参照)。そして主は私たちをして御自身が私たちを扱われたように他者を扱うようにと召しておられるのです(ヨハネ一三ノ一五)。