マルコ【イエス・キリストの福音】#3

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第7章 力と性と富(マルコ9章14節~10章31節)

何年か前、『権力者たち』という表題の一冊の本を読んだことがあります。作者の名も遠くどこかへ行ってしまいましたが、ただ良く覚えておりますことは一連の登場人物たちで、その中には将軍あり、国家の長たる者たちありといろいろですが、ページをめくる毎に、彼らの支配権への貪欲さ、その策謀、無慈悲さ、残酷な姿などが次々と描かれていたことです。そしてその中でも一人の人物にとりわけ目が留まりました。

1930年代におけるスペインでのこと、軍人たちの間に反乱が頻発していた時代がありました。彼らは支給されていた食事に不満があり謀反を起こしておりました。手に負えなくなったとき、その兵站地の司令官は、権力の階段を明らかに昇りつつある一人の人物、すなわち、フランコ少佐に鎮圧を依頼します。彼はすぐさま食堂に現れ、大またに闊歩し、兵隊たちに整列を命じ調査を始めます。

「諸君。何の問題か?」とほえるような大声で問います。

手にトレイを持っていた一人の兵が進み出て言います。「閣下、この食事をご覧ください。これは、豚の食事にもならないくらいです」と。そして、そのトレイを前に突き出して見せようとした時、誤って汁がこぼれ、見事に糊のきいている軍服に少しふりかかってしまいます。

すぐ傍に立っていた兵隊たちは一瞬息を呑み、息が止まります。

しかし、フランコは何事もなかったかのように平然と、すぐに食事の改善を命じます。まもなくして兵隊たちは、良い食事をすることができ、その食堂にはフランコをたたえる声が満ち溢れてゆきます。しかし、食事が終った後、行軍広場に整列するようにとの命令を出します。

パリッとした軍服に着なおしたフランコは、整列して不動の起立をしている軍人たちの間を行ったり来たりします。彼は一人の男の顔を捜しています。軍服を汚した兵隊の顔をです。

ついに彼はその男を認識します。そして言います。

「その兵。前へ!」

それから、別の三人の兵にそれぞれ命じます。

「君、自分の銃を持って前へ!」

「君、自分の銃を持って前へ!」

「君、自分の銃を持って前へ!」

そして、

「撃て!」

力ある者。銃の力を有する者。個性的人物。誇り高き者。その力はフランコをしてスペインの最高位にまで上り詰めさせ、そして彼はその後何年もの間、誰も拮抗できない独裁者として国を治めたのです。

わたしが読んだその本には、この世界の、いわゆる偉大な指導者たちについての物語、フランコにまつわると同様の物語を次々に記述しておりました。しかし、確かに、ナポレオンやシャーレマン(カール一世)、そしてフランコなどについての記述はあるにもかかわらず、その著者は、あらゆる者たちの中での最大の御方の名を書き損じておりました。その名は、イエス・キリスト。

この御方は軍隊を指揮することはありませんでしたし、戦場で勝利を勝ち得たこともありませんでした。しかし、この御方は、この地球上での数え切れない何百万もの者たちに影響を与えてこられ、今なおそれが続いております。この御方の御言葉で、人々は戦いに出て行きました。しかし、戦車や迫撃砲とか、あるいはミサイルや手榴弾によってではありません。主イエスの御名によって、そして、その御力によって、ナポレオンやフランコたちの戦いと同様、どの瞬間も現実的で、どの瞬間も命に関わるような戦いを彼らは戦って来ました。

あなたは力が必要ですか? わたしはそのあなたに勝利者中の勝利者、王たちの中の最大の王、そして、主と呼ばれる存在たちの中のまさに主であられる御方を、ご紹介いたしましょう。

この御方は、優しさとその親切なもろもろの御業とによって、この世界を御自身に勝ち取られた人物です。この御方は、敵に対し大砲を打ち込むためといって、天使や人を送られるようなことはいたしません。そうではなく、自ら先頭きって前線に立たれ、御自身の尊い命を全人類に与えるため、わたしどもが当然受けるべきであった死の刑罰をカルバリーの十字架上で率先して受け、死んでくださった御方です。

力ということについて、この御方はどのように語っておられるでしょうか? 本章で取り上げている聖句の中には、今日の人間生活で主要な役割を果たしている二つの分野である性と富に関することと共に、この力ということについても驚嘆すべき内容で言及されております。

そして、この御方の力は革命的です。すなわち、このメシアは過激で急進的なのです。

そのもろもろのお言葉は革命的です。

そのもろもろの行為は革命的です。

ナザレの主イエスは、この世が考え、語り、そして行っていることを、真っ逆さまにしているのです。そしてこの御方に従おうとしているわたしたちは、この御方が、わたしたちを真っ逆さまにされるのを許さなければならないし、この御方をして、わたしたちを用いてこの世を真っ逆さまになさるのを見なければならないのです。

原始宗教を研究している学者たちは、石器時代の崇拝は、「マナ」すなわち、力がその中心であったと言っております。彼らは、作物を成長させたり、女性たちが子を産むようになる命の力を求めました。迷信とは、実際は人の関心や繁栄のため、そのために効果があると見なされている言葉や行為や儀式を用いて、わたしたちの周りに横たわっているその「マナ」である命の力を操ろうとする試みです。

キリスト教も、力に関するものです。「わたしは福音を恥としない」(ローマ1の16)と使徒パウロは言いましたが、それは「信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(同)と。ここには、力が言及されております。しかし、それは、「神の」力です。政治的活動とか策謀、あるいはまた逸り立つ野心とか一途な残酷性の力ではありません。わたしたちに必要なのは、人間の力ではなく、実に「神の」力です。

人間の力は、実際は御神の御力の中にこそあるのです。キリスト教が教える逆説が、パウロに対する御神からの次の言葉の中に見られます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント二 12の9)。ですから人間の側からすると、「わたしは弱いときにこそ強いからです」(10節)となるのです。

天の門は、自分の無力を感じ、それを認めている者に開かれております。山上の垂訓の中で主イエスは、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5の3)と言われました。この聖句の意味を曲げないで別な言いかえをすれば、次のようになると思います。「力に飢え渇いてない人々は幸いです。天国はその人たちのものです」と。エレン・ホワイトの記事の中には、わたしがこよなく気に入っている次のような文があります。「受けるに値する者ではないのに受けることに同意し、そのような御愛には決して応え得る者ではないと感じながらも、疑いも不信も片方において、あたかも子供のようにして、イエスの足許に来る者にとっては、永遠の御愛がもたらすあらゆる宝は、無償で提供されている永遠の賜物です」①

今日のわたしたちも同様ですが、主イエスの御弟子たちは、この真理をなかなか学び取ることができませんでした。マルコによる福音書9章には、彼らが道々議論している姿が描かれていて、その主題は、誰が一番偉いか!ということであったとあります。ああ、なんと心の目が鈍かったことか! 彼らの真ん中に最大の偉い方がおられるのに、いったいどのようにしたら、その御方から目を離して、あえて自分たち同士で比べ合おうとするようなことになるのでしょうか?

主イエスは、彼らだけを連れ出し、座らせられました。そして言われます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9の35)と。それから一人の子供を選び、彼を弟子たちの真ん中に立たせられ、それから彼を腕に抱き上げて言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)

主は御自分を力のない、無力な者と同一視されました。一人の子供を取り上げてそうなさったのです。そうです。子供は、御自身がこの地上でお過ごしになられた時代の社会の中では最も無力な存在であったといえましょう。いずこにても、主イエスは御自身を、目の見えない者、耳の聞こえない者、あるいは中風の者や無能な者と同等であるといたしました。婦人たち、一流ではない市民たちと同じ目線に立たれました。重い皮膚病の人たち、社会から投げ捨てられていた人々たち、サマリア人や他の異邦人たち、そして選民の範囲外にいる人々と同類であるとされたのです。

言葉と行為とにより、主イエスは、当時の社会が作り上げたピラミッド形の上下関係を逆立ちさせたのです。そのピラミッドは、今日も同様ですが、力に基づいておりました。人類は、自分より下にいる者たちを踏みつけながら、苦闘し、汗を流し、頂上を目指して、高く高く上ろうと努力してまいりました。しかし、主イエスは、そのピラミッドを取り上げ、それを逆さまにしたのです。他の人々を踏みつけ、見下し、上に上るのではなく、また力のない者たちの肩を踏み台にして立ち上り、少しでも成功の道をと求めるのではなく、むしろ反対に全世界の、それも無力な者たちの重荷を御自分の肩に担われたのです。

主イエスの、力に関する明晰な御教えにもかかわらず、弟子たちは、それを理解することができませんでした。マルコ10章にゼベダイの子たちであるヤコブとヨハネの出来事を見ます。彼らは、来るべき主イエスの御国で、主イエスの王座の左右の席を与えてくださるようにと、他の弟子たちを出し抜いて、主に願い出たのです。主は再び、他の弟子たちと共に、彼らを正そうとされます。主は言われます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(42~44節)と。

それから、主イエスは、失われたこの地球に来られた使命を要約した御言葉でもって、その論議を閉じられます。すなわち、キリスト教の中で古典的に言い古されてきている御言葉を語られたのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)と。

恐らくは、主イエスがカルバリーの十字架の上で御自分の命を与えられるのを見た後になって初めて、御弟子たちは、力に関して教えられた主イエスの革命的な意味づけを理解し始めたのです。その時になって初めて、彼らはその意味を把握するに至ったのです。

しばしば教会は、主イエスのこの御教えを片方に追いやって来ております。力に飢え渇いている風習や慣行が教会の中にも入り込んできていて、教会を世俗化させ、陰謀や虚栄心によって損なわれた政治的機関にしてしまうことが起こり得ます。今日キリスト者たちは、仲間内の市場争いにおいては、主イエスの御教えに従っていては反対に失敗に導かれるとして、しばしば、宗教的考え方ではなく事務的考え方を据えております。

しかし、一方では何世紀にもわたって、現代においても、主イエスの御言葉を真剣に取り上げている男女がいます。主イエスの生きた御臨在が彼らの人生を変えています。彼らは、すべての人を御神の子たちとして価値があると考えています。この世が無視し卑しんでいる人々を、彼らは受け入れます。主イエスの御名により、そして主イエスの恵みによって、愛の奉仕において、貧しい人々、飢えている人々、落ちぶれている人々、無力な人々、すなわちこれらの、力のない人々に手を差し伸べているのです。そして、彼らはこの世界を変革しているのです。

わたしがジョディと再び出会ったのは、ある海岸に小旅行した時のことです。そこには過去に時々、休暇で出掛けたことがあるのです。彼女とその夫のマイクに出会って、彼らが所有していた海辺のアパートを借りたり、彼らが買った二連の小舟で一緒に海に行ったりしました。

そんな時から、ある日突然前触れもなく、彼らの人生が変わりました。マイクが脳溢血で倒れ、心も身体も、もはや働かなくなったのです。彼は自分の体の必要についてはすべて、人手を借りなければならなくなったのです。表面は前と変わらないようですが、しかしわたしたちが知っているマイクはどこかに行ってしまいました。

ある安息日のこと、教会で不意に彼女と出会うまでは、その家族の消息がわかりませんでした。彼女は老けたように見えましたが、しかしその目は、なおも命とエネルギーに満ち満ちておりました。

ためらいがちながら、マイクのことを聞いてみました。すると彼女は言いました。

「彼はまだ生きています。わたしは彼を海辺の家に連れていっております」と。

「彼は歩けるようになったんですか? 自分で?」

「いいえ、彼はベットに寝たきりです。彼を動かすため、車椅子で外に連れ出してやる以外はね。今はチューブで食事を摂らねばならないんです。それに彼は失禁をします」

「マイクはあなたのことわかりますか? わかっているという何らかのサインがありますか?」

「いいえ。時々何かを話すのですが、それは何を話しているのか……。それは何がなんだかわからない言葉なのです。あの脳溢血が彼の頭の機能をすべてなくしてしまったのです」

「ジョディ。何年になりますか?」

「約年です。マイクが倒れたのは51歳の時でしたし、そしてまもなく65歳の誕生日を迎えることになりますから。彼はわたしより長生きするかもしれませんね!」

と、その最後の言葉は笑いながら、ジョディは付け加えておりました。

わたしはジョディが、14年もの長い間、彼女を誰であるかをも認識しないまま、そして感謝の応答もできないまま横たわっているその伴侶を世話し続けてきたことを考えてみました。わたしはまた、彼女にとっては他の道もあったに違いないし、今もあるということを考えてみました。しかし、ジョディは全的愛の道、全的奉仕の道を選択したのです。

世はジョディを拍手喝采するかもしれません。しかし、再起不能と思われるような人を助けるためといって一生を棒に振る愚か者として棄て去るかもしれませんし、多くの人々は、彼女の生き方への疑念で首を横に振るかもしれません。しかし、主イエスを理解している人々は、ジョディの選択の真価を認め、彼女の選んだ道を評価します。ガリラヤ湖の岸辺を歩んでおられた時と同様、現代の人々にとっても、主イエスは真実な御方であることを示しながら、ジョディは真に、主イエスの御足の跡を踏み従って歩んでいるのです。

ファリサイ人たちは、主イエスにわなを仕掛けて、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか?」と、公衆の面前で問うたことをマルコは記しております。その質問は、あたかも銃火器に砲弾を装填したようなものでした。なぜなら、ガリラヤの領主ヘロデ・アンテパスが、自分の妻を離縁し、自分の兄弟フィリポの妻であったヘロディアを迎えて結婚したばかりでありましたから。

この出来事に関係して、バプテスマのヨハネは、悲しい結果を招いたのでした。悔い改めを迫るこの恐れを知らない説教者は、アンテパス並びに、自分の夫を離縁してアンテパスに走ったヘロディヤとの結婚を糾弾するにおいて、歯に衣を着せることはなかったのです。領主の離婚・結婚は、領民を怒らせた公の醜聞でした。しかし、誰もが密かに語っていたその中傷を声にしたことにより、バプテスマのヨハネは、命の代価を払う結果となったのです。

今やファリサイ人たちは、主イエスをわなで捕らえようとしておりました。もしも、主が「もちろん、離縁することは認められている」と答えられたなら、主イエスは、一般民衆の感情に逆らうことになります。しかし、彼らは恐らくこちらの答えを期待していたに違いありませんが、もしも主イエスが、「この結婚は恥ずべきことであり、嫌悪すべきことである」と答えられたとするなら、その言葉はアンテパスに伝えられ、その結果アンテパスは、直ちに主イエスを獄に捕らえることとなったでしょう。

しかし主イエスは、肯定か否定かの答え方はなされませんでした。代わりに、その議論を原理・原点に戻し、それによって、主は、そのファリサイ人たちの質問に対し、全く新しい革命的な光を投じられたのです。

「わたしたちが今取り上げている聖句の中で、イエスに突きつけられていた質問を十分に理解するためには、まずもっと古く遡って、そのことを問題とされていた状況の、前後関係を見ることから始めてみなければなりません。古代のユダヤ主義の中では、離縁は夫だけによるもので夫の専権でありました。妻は、法的には夫の財産であり、従って、結婚を終らせる何の権利もなかったのです。その上、夫には離縁によって自分の結婚を終焉とする自由があるのかどうかについてはいかなる疑念も存在しなかったのです。そして唯一の疑問といえば、それは自分の妻を離縁するに際し、適当な離縁状を妻に渡すことについてであり、古代からのラビの伝承に反映されていたのはこの点に関してだけであります。古代のラビたちの思想には主要な二つの学派があって、いかなる理由づけが離縁の正当な理由となるのかに関し、その二つの学派の間には意見の相違がありました。一つの学派では離縁の唯一の正当性は妻の側の性的不貞だけであるとし、もう一方の学派は、単にもし夫が彼女に飽きを感じたなら離縁することができると主張しました。そして後者の考え方が、当時は一般的でありました。それはその方が、夫にとってはより好都合であったからです」②

夫と妻ではそれぞれ、その取り組む土俵が異なっていたことに留意せねばなりません。ユダヤの律法は婦人を家財とか人ではなく物とし、彼らの夫は気に入らなくなれば、これを棄て去ることができるとしていたのです。

悲しむべきことには、今日でも多くの社会で、同様の婦人観が広く見られます。西洋のような、法律で婦人の地位が擁護され文明化されているといわれている世界でさえも、時に、現実からは程遠い姿が見られます。あらゆる面で平等とするアメリカ社会、しかしハリウッドを始めとし、女性たちを、好色な男性たちの性の対象としてだけの役割に追いやっている向きもあります。後でいとも簡単にこれを棄ててしまう現状があります。

主はしかし、わたしどもを御神の元来の御目的へと連れ戻そうとされます。主は創世記の御言葉(1の26、27)を引用され、御神は御自身の似像にかたどって、男と女とに創造されたのであることを指摘されます。男女は互いに御神の印を担っているのです。どちらか一方の性が他方に優越しているのではなく、相互依存関係であり、平等的存在なのです。次いで主は、エデンの園で与えられた結婚関係に対する御神の意図を示されます。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である」(マルコ10の7、8・創世記2の24)と。「一体となる」という規定は、男であれ女であれ、結婚関係を安易に解消することを許すようないかなる見方をも無効であるといたしております。

モーセの律法の下で、ユダヤ人の夫は、これを法廷に持ち出すこともなく、簡単に自分の妻を離縁することができました。しかし主イエスは、このような条項を退けられます。すなわち主は言われます、これらのモーセによる条項は、単に堕落した人類への便宜のためであったのだと。主イエスが思い起こさせておられたことは、かつてユダヤ人の思索には前例が無かったように思われるような、過激な問題の取り組みでありました。

御自身に耳を傾けている人々に、エデンにおける男女の関係の理想像を示しながら、主イエスは更に論を進められます。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる」(10の11)と。ハルタドはこの「妻に対して」という点について、次のように指摘しております。「このような考え方は、ユダヤ人社会では明らかに全く見られなかった事柄で、すなわち、その社会では10、姦通と言ってもそれは、男性に対して行った悪としての違反のみが考えられたのであり、たとえば、その男性の娘を誘惑し堕落させたとか、夫と妻との間の性的専権を侵害したこととか、それらにより、男性に与えた罪のみが問われたのです」③

こうした中で、主イエスは、結婚関係における女性の重要性を強調されたのです。1世紀のユダヤ人たちに対して過激であった主イエスの御教えは、現代にも心を引かずにはおかない力でもって語っております。しいたげられている婦人たち、暴力を振るわれている婦人たち、無視され棄てられている婦人たち、このような婦人たちに対する犯罪の中での嘆願祈祷の長さは、もはや神のみが知っておられる域にまで達しております。

ただ主イエスのみが、わたしどもの時代のぞっとするような事態への答えを有しておられます。政治家たちも社会活動家も懸命に努力を続けております。わたしは彼らの尽力に拍手喝采を送ります。しかし、残忍なしいたげに見られる問題は、究極的には心の問題です。そしてただ主イエスのみが、この心を変えることができるのです。しかし、この変化が起こるのは、ただわたしたちが主イエスの似像にわたし自身を変えていただくように願い、この御方に自らの身をゆだねるときにのみ、実現可能な主の御業であり、そのようになされることになるのです。

一人の男性が主イエスの御許に走り寄って来てその御前にひざまずいたとマルコは記述しております(17節)。マタイもルカも、共にこの出来事を書いており、これらの記録から、もう少し詳しいことがわかるのですが、彼は青年(マタイ19の20)であり、また議員、そして民の指導者の一人でした(ルカ18の18)。

それは悲しい物語です。そして、マルコによる福音書でその詳細を見て行きますとますます心が刺されます。それはマルコだけが記録しているのですが、「イエスは彼を見つめ、慈しんで」(10の21)おられたからです。主イエスと個人的にお目にかかった人々はほとんどがその終わりが好結果となっているのですが、彼の場合はそうではありませんでした。

彼がどのように成り得たかということを考えてみるとき、胸を突き刺されるような痛みを感ぜずに、この物語を読むことはできません。この青年には、エネルギーも熱心さも、反応の敏感さも、畏敬の念も、宗教上の献身度の高さも抜群なものがありました。彼は初代教会の中で柱となる素質を持っておりましたし、霊感を受けて聖書として残されるような福音書や書簡を書くように導かれたかもしれません。

しかしこのようなことはどれ一つとして彼に対しては起こることはなかったのです。主イエスの御言葉は彼の急所をついたので、骨身にしみるようにして「気を落とし、悲しみながら立ち去った」(22節)のです。

主が語られた御言葉は、彼にとってはあまりにも過激であるように思われました。それは今でも急進的で、今日の多くの人々にとってはあまりにも革命的です。

通常わたしたちは、主イエスが彼に語られた、所有のすべてを売り払い、貧しい人たちに施し、それからわたしに従って来なさいとのお言葉に焦点を合わせています。しかし、これを語られる以前に、主は、この青年の歩みを留めさせ、そして彼の霊的貧しさを指摘されたある事を語っておられます。

その青年は、劇的で鳴り物入りのような様子で、主に近づいてきました。彼は走り寄り、ひざまずき、それから質問したのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)と。

しかし、主イエスはそのような派手な振る舞いを無視されるようにして、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか? 神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18節)と応じられます。

それは柔らかい御言葉ではありましたが、叱責以外の何ものでもない譴責でありました。ただ御神だけが、真に善であられます。この青年は、主イエスを人間以上の、すなわち神であられると認めて主をほめたたえようとしていたのでしょうか? しかし、彼のへつらいの言葉は、彼がひざまずいた目の前の神であり同時に人であられる御方を表すにはあまりにも欠落した内容であったのです。

そして、主イエスの柔らかい譴責には、大事な指摘が付加されておりました。その青年は、今日も同様の傾向がありますが、当時の社会がしていたように、人々を善人と悪人とに分けて考えておりました。しかし主イエスにとって、その区別は人為的なものでしかありません。といいますのは、善人であれ悪人であれ、すべての人々は、失われている羊であり、それを訪ね出して救うためにこそ、主はこの世に来られたからです。問題となっていたことは、そして今でも問題となっていることは、その人がファリサイ人であるか徴税人であるか、ニコデモであるかマグダラのマリアであるかどうかということではありません。社会のどんな階層の人であろうと、人は御神と神の御国すなわち御神の支配とを必要としているのだということを主イエスは語っておられたのです。しかしそれ以上に、主イエスはすでに神の御国を開始しておられたのです。その御国では「善人」と「悪人」の区別はありません。なぜなら、わたしたちはすべては、「悪人」だからです。そして、わたしたちすべての者たちは、恵みによって救われるのです。

この若者のもろもろの優れた資質にもかかわらず、彼は神の御国の資質からははるかに遠いのです。人々は彼を善い人というかもしれません。そして疑いもなく、律法を守るための彼のその几帳面な努力の故、しばしば、彼は人々の賞賛の声を耳にしてきましたし、おそらくは、そうした経験が、彼の主に対する出だしの「善い」という言葉を彼に思い描かせ語らせていたに違いありません。

一人の善人からもう一人の善人へ。善なる青年から善なる先生へ。彼はどれほど自分はよく知っていると考えていたことでしょう。しかし、実際は何と無知に等しいことでありましたでしょうか!

人の心を読まれる主イエスは、義を求めてなした彼のあらゆる努力が不十分であったことをさらけ出すことが、彼の心を変え、彼をして神の御国に至らせ、永遠の命という神の賜物を得させることとなるのだ、ということを理解しておられました。しかし、その神の賜物を得るためには彼はまず、すべてを捨てなければならないのです。

「あなたに欠けているものが一つある!」と主は言われました。更に、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)と。

この青年は人生の十字路にやってきておりました。彼は未来に向かって伸びている、不確かで奇妙な形の一本の路を見やりました。それは富が買い与えることのできる安全性や特権などはない道ですが、イエスの御臨在という唯一つの要素によって明るくされていた路でした。それからもう一つの路の方を見てみました。それは彼がよく知っていてこれまで愛し親しんできた道の延長です。すなわち、安全と快適さとが保障されている路です。

悲しみながら彼はイエスの御許を去って行きました。そしてこの去り行く一歩は、彼をして真の人生への第一歩を踏み出すことを不可能にしたのです。

ここで、この物語が意図していたことについて、もう少しはっきりさせておきたいと思います。主イエスはここで理想の人生としての清貧の生活を説いておられたわけでも、また富の再分配のための社会計画を導入しようとしておられたわけでもありません。

要点はこうです。すなわち、主イエスの召命はわたしどものすべてを求められるということです。主は、それがたとえ多かろうと少なかろうと、わたしどものあらゆることの全的献身を求めておられるということです。さもなければ全くお求めになられないかのどちらかです。

中核となるこの考えを認識いたしますと、一方では、主の御言葉は、主に従う者たちの人生における、所有の問題に直接抵触してきます。その青年が去った後、主は弟子たちに次のように言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか!」(23節)と。

主イエスの意見に彼らはどんなに驚いたことでしょう。当時の神学では、富の所有の豊かさは神に祝福されている証拠であると教えておりました。そして、貧乏は神からの呪いであるとしたのです。

しかし貧乏人や、病気の人や、底辺にいる人々に語り、そのような人々との接点を持っておられた主イエスは、富める人々や、健康で賢い人々にとっては、慰めとなっていたその神学に、直撃を加えられたのです。主は再度次のように言われました。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(24、25節)。

なんと過激な御言葉! 何世紀もの間、教会23の指導者たちや神学者たちが、そこで主張されている簡単な強調点を言い逃れようと努めてきたのは不思議でも何でもありません。彼らは針の穴とはエルサレム城壁の門か壁の穴を指すとしました。今日わたしたちは、金銭自体は問題ではないとし、しかし、富が神となったり、利己的あるいは悪しき目的のために用いられるようになったりしたときにのみ、それが問題になると主張するでしょう。

ここでもう一度主イエスの過激な御言葉に耳を傾けてみましょう。すなわち、金持ちであること自体が一つの問題であるというのです。富を持てば持つほど、わたしたちはますますそれを積み重ね、もっと多くのものを欲するようになり、ますますそのことが天国に入るのを阻害するようになるというのです。

キリストの御言葉は、百万長者や億万長者に対するだけのものではありません。とりわけ、もしもわたしたちが物の豊かな西洋的社会に住んでいるとすれば、それは、そのようなわたしたちすべての者たちに対する御言葉です。もしもわたしたちが主イエスに従う者であることを主張するのであれば、たとえこの御言葉は心地よくないとしても、これに直面しなければなりません。

古代でも現代でも、歴史は主イエスの観察が正しかったことを証明しております。いつの時代でも、豊かな人々より、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(ルカ14の21)たちが、むしろキリスト教を求め続けてきたのです。それは1世紀の教会がそうであったのですが、今日でも同様です。自分が富んでいる、豊かで食事に事欠かない、何も必要はないと感じている所では、その人々はほとんどの場合、人生の十字路で、富める青年の取った道を選択します。しかし、ひとたび人生の下り坂や疎外感を味わうようになると、生き残るため、またよりよい人生を求めてたいていの場合、主イエスの呼びかけに「はい」と容易に応答する準備となっております。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11の28)。

旧約聖書には、ヤベツの祈りがあります。「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」(歴代誌上4の10)。この短い聖句に基づいた小冊子がたちまちベスト・セラーとなり、これに付随した種々の副産物が生み出されました。

これも旧約聖書中にある祈りなのですが、今までのところわたしの知る限り、この「アグルの祈り」には、だれもそれほど注目をしてはいないようです。

「二つのことをあなたに願います。

わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。

むなしいもの、偽りの言葉を

わたしから遠ざけてください。

貧しくもせず、金持ちにもせず

わたしのために定められたパンで

わたしを養ってください。

飽き足りれば、裏切り

主など何者か、と言うおそれがあります。

貧しければ、盗みを働き

わたしの神の御名を汚しかねません」

(箴言の7~9)

この祈りについての本を書くようにと、わたしに煩いをかけないようにお願いします。あなたがたは、これを書いてみたいと思うようなたくさんの人々を発見することはないでしょう。しかしそれにもかかわらず、この祈りこそ、富に関する主イエスの御教えに最も近く、また主イエスが教えられ、捧げるべきとされた祈りに最も近いとわたしは思うのです。

力、性、富、これらはいつの時代でも、男にも女にもある種の動機づけを与えております。ミステリー作家たちは、常に殺人者たちの計画やその容疑者たちを示すとき、その動機としてこれらの要素を挙げてきております。

この三者、すなわち力と性と富とは、互いに絡み合い干渉し合っております。力は性欲と金銭へと導きますし、性欲と金銭とはそれ自体が力でもあります。

力と性と富とは、引き続きこの世界を所有し形成して行きます。しかし、過激なメシアであられる主イエスは、これらに関するわたしどもの考え方をひっくり返しておられるのです。主のお考えはあまりに違っていて、主がわたしたちに為すようにと召しておられる生き方は、現代流の考え方とはあまりに釣り合いがとれませんので、わたしたちはこの世にいながら、なおもこの世を超えて、主イエスの御支配の御許に在ることとし、神の御国の一員となっていなければならないのです。

参考文献

①        Signs of the Times, Feb. 28, 1906.

②        Larry W. Hurtado, Mark: A Good News Commentary(San Francisco: Harper and Row, 1983). p.146, 147

③        Ibid., p.148

*本記事は、レビュー・アンド・ヘラルド出版社の編集長ウィリアム・G・ジョンソン(英William G. Johnsson)著、2005年3月1日発行『マルコーイエス・キリストの福音』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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