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初代教会は、おもにユダヤ人で構成されており、彼らは、ユダヤ人のメシアであるイエスを受け入れることによって、自分たちが先祖の信仰や、神が御自分の民になさった契約の約束から目を背けているなどとは、露ほども考えませんでした。結果的に、彼らは正しかったのです。初期のユダヤ人信徒にとっての問題は、イエスを受け入れるためにユダヤ人がクリスチャンにならねばならないのかどうか、またそのうちの多くの者にとっての問題は、異邦人がキリストを受け入れるには、その前にユダヤ人にならねばならないかどうかということでした。
のちになって、エルサレム会議の中で、はっきりした答えが出ました。ユダヤ人信徒たちは、多くの規則や律法によって異邦人を困らせないという決定を下しました。つまり、異邦人はイエスを受け入れるために、まずユダヤ人になる必要がなくなりました。
しかしこの決定にもかかわらず、ある教師たちは、キリスト教に改宗する異邦人は割礼を含む規則や律法を守るよう主張して教会を悩ませ続けました。つまりそのような教師たちは、こういう異邦人が契約の約束にあずかるためには、イスラエル国民になるための必要条件とみなされた多くの規則や規定に従わねばならないと考えたのです。
何が問題であり、その問題はいかに解決されるべきだったのでしょうか。
「更にまさった契約」
ヘブライ8:6を読んでください。ここの「更にまさった約束」についてどう理解したらよいでしょうか。
旧約聖書の宗教と新約聖書の宗教との最大の違いは、たぶん新約聖書の時代がメシア(ナザレのイエス)の到来によって始まったという事実でしょう。イエスは救い主となるために、神によって派遣されました。人間は、イエスを無視して救いを期待することはできませんでした。イエスが提供してくださる贖いによってのみ、人間の罪は赦され、その完璧な人生を転嫁することによってのみ、人間は罪に定められることなく、神の前に立てるのです。言い換えれば、救いはイエスの義以外の何物によっても得られないということです。
旧約聖書の聖なる者たちは、メシア時代の祝福と救いの約束を待ち望んでいました。新約聖書時代の人々は、「神がメシア(救い主)として遣わされたナザレのイエスをあなたは受け入れますか」という質問を突きつけられました。もし彼らがイエスを信じるなら、つまりイエスをありのままに受け入れ、彼に献身するなら、無償で提供されるイエスの義によって彼らは救われるでしょう。
その一方で、道徳的な要求事項は新約聖書でも変わっていません。なぜなら、これらは神とキリストの御品性に基づいていたからです。神の道徳律に従うことは、古い契約の一部であると同様、新しい契約の一部でもあるのです。
マタイ19:17、黙示録12:17、14:12、ヤコブ2:10、11を読んでください。これらの聖句は、新約聖書における道徳律の大切さについて、教えています。
一方、イスラエル特有の——しかも、明らかに古い契約と結びついており、そのすべてがイエスと彼の死、また大祭司としての彼の働きを指し示している——礼典律は、そっくり廃止されました。そして、新しい秩序、つまり「更にまさった約束」に基づく秩序が始まったのです。
ローマ書におけるパウロの主要な目的の一つは、このようなユダヤ教からキリスト教への移行に伴うことをユダヤ人と異邦人に理解させる手助けをすることでした。移行には時間がかかるでしょう。イエスを受け入れていた多くのユダヤ人が、これからやって来る大きな変化に対してまだ準備ができていませんでした。
ユダヤ人の律法と規則
レビ記12章、16章、23章を読んでください。これらの規則、規定、儀式の多くは、新約聖書の時代には事実上守ることができなくなりました。
旧約聖書の律法を次のようないくつかの種類に分類すると便利です。①道徳律、②礼典律、③民法、④諸規定、⑤健康に関する法。
この分類は、幾分人為的なものです。実際には、これらの種類のいくつかは相互に関係しており、かなり重なり合っています。古代の人はそれらを別個のもの、異なるものとはみなしませんでした。
道徳律は十戒によって要約されています(出20:1〜17)。それは、人間の道徳的要求事項をまとめたものです。これら10の掟は、聖書の最初の五書の至る所で、さまざまな掟と法に敷衍され、適用されています。このような敷衍化は、さまざまな状況において神の律法を守るとはどういうことかを示しています。民法は無関係ではありません。民法もまた、道徳律に基づいています。民法は、市民が当局や同胞とどう関わるかを規定するものです。さまざまな違反に対する罰則を明らかにしています。
礼典律は聖所の儀式に関する規則を定め、さまざまな献げ物や個々の市民の責任を説明しています。祭日が明記され、その順守が規定されています。
健康に関する法は、ほかの律法と重なり合っています。汚れに関するさまざまな法は、儀礼的な汚れを規定しているのですが、さらにそれを超えて、衛生の原則や健康の原則も含んでいます。清い肉と汚れた肉に関する法は、肉体的配慮に基づいています。
ほとんどのユダヤ人は、これらの律法がすべて神からのものなので、たぶん一括りに捉えたでしょうが、頭の中で何らかの区別をしていたに違いありません。十戒は神によって直接民に語られました。この事実は、十戒をとりわけ重要なものとして区別させたことでしょう。ほかの律法は、モーセを通して伝えられました。また聖所の儀式は、聖所が機能している間だけ続けることができました。
民事法は、ユダヤ人が独立を失い、他国の文民統制下に置かれたのちは、少なくとも多くの場所において、もはや課しようがありませんでした。儀礼的な掟の多くは、神殿が破壊されたあと、もはや守りようがなく、またメシアがおいでになって以後、多くの型は、その本体に出会ったので、もはや有効ではなくなりました。
モーセの習慣に従って
使徒言行録15:1を読んでください。ある問題が教会に不和を引き起こしました。ある人たちは、これはユダヤ民族だけのものでなく異邦人にも関係あると考えました(創17:10参照)。
使徒たちは多くの魂をキリストへ勝ち取るために、アンティオキアの聖職者や一般信徒と心を合わせて熱心に努力しました。ところが、「ファリサイ派から信者になった」(使徒15:5)ユダヤ人信者でユダヤから来た数人が、一つの疑問を生じさせることに成功したのです。その疑問は、すぐに教会内で広く論争を引き起こし、異邦人信徒を狼狽させました。これらの教師たちは、人が救われるためには割礼を受け、礼典律をすべて守らなければならない、と自信たっぷりに主張したのです。やはりユダヤ人は、神が命じられた儀式を常に誇りに思っており、キリストの信仰に改宗した者の多くも、神がかつてヘブライ的な礼拝方法をはっきりと説明されたのだから、その仕様のどんな細かい変更も承認することはありえないと、まだ感じていました。彼らは、ユダヤの律法と儀式がキリスト教の宗教儀式に組み込まれるべきだと主張しました。彼らは、すべての犠牲の献げ物が神の御子の死を予表していたにすぎなかったこと、そして型と本体が出会った御子の死のあと、モーセの時代の儀式がもはや拘束力を持たなくなったことを理解するのに手間取ったのでした。
この論争は決着しました。使徒言行録:2〜12を読んでください。
「神の直接の導きを求めながらも、パウロは、教会員として一致している信者たち全体にさずけられた権威を、常に重んじる態度を取った。彼は話し合いの必要を感じていた。そして、重要な事が起こると、彼は快くそれを教会にゆだねて、兄弟たちと共に心を合わせて神に知恵を求め、正しい決定を行った」(『希望への光』1431ページ、『患難から栄光へ』上巻215ページ)。
パウロは、彼自身の預言的な召命や、イエスがいかに彼を召し、彼に使命を授けられたのかをしばしば語りましたが、興味深いことに、パウロは教会というより大きな体と進んで一緒に働こうとしました。言い換えれば、パウロは召しがどのようなものであれ、自分が教会全体の一部であり、可能な限り教会と一緒に働く必要があることを自覚していたのです。
異邦人信徒
使徒言行録15:5〜29を読んでください。会議はどのような結論に至りましたか。彼らの理由づけは、どのようなものでしたか。
結論は、ユダヤの慣習を維持しようとする人たちの主張に反するものでした。この人たちは、異邦人改宗者は割礼を受け、礼典律をすべて守らなければならない、「ユダヤの律法と儀式が、キリストの宗教儀式と結び合わされるべきだ」(『希望への光』1427ページ、『患難から栄光へ』上巻204ページ)と主張しました。
興味深いことに、ペトロは使徒言行録15:10において、これらの古い律法を負いきれない「軛」と表現しています。これらの律法を制定された主が、御自分の民にとって律法をくびきになさるでしょうか。どうしてもそうは思えません。そうではなく、ある指導者たちが長年の間に、彼らの言い伝えによって律法の多くを本来の祝福から重荷に変えてしまったのです。会議は異邦人をこのような重荷から免れさせようとしました。
もう一つ注目すべきは、異邦人は十戒に従う必要がないと言われてもいなければ、従うことが疑問視されてもいないという点です。つまり、この会議が、血は食べてはならないが、姦淫や殺人などを禁じた戒めは無視しても構わないと主張したなどと想像できるでしょうか。
使徒言行録15:20、29を読んでください。ある規則が異邦人信徒に課せられることになりました。ユダヤ人信徒は、自分たちの規則と伝統を異邦人に押しつけるべきではありませんでしたが、一方でこの会議は、異邦人が、イエスにあって彼らと結ばれているユダヤ人が不快に思うことを決してしないように望みました。そこで使徒と長老たちは、偶像にささげられた肉、血、絞め殺した動物の肉、みだらな行いを避けるよう、異邦人信徒に手紙で指示することに同意したのです。安息日の順守が具体的に述べられていないので、安息日は異邦人のためのものではないに違いない、と言う人たちがいます。しかし言うまでもなく、うそをつくことや殺人を禁じた戒めにも具体的に触れられていません。ですから、そのような主張は無意味です。
パウロとガラテヤの信徒たち
会議の結論は明快でしたが、自分の思いどおりにしようとする人たち、すなわち異邦人はユダヤ人の伝統と律法を守るべきだと主張し続ける人たちがいました。パウロにとって、このことは非常に深刻な問題になりました。つまり、それは信仰の細かい点に関するささいなことではありませんでした。それはキリストの福音そのものを否定することだったのです。
ガラテヤ1:1〜12を読んでください。パウロはガラテヤの問題をとても深刻に捉えていました。この問題の重要性について、私たちは学ぶ必要があります。
先に述べたように、ローマ書にこのような内容を書かせたのは、ガラテヤの状況でした。ローマ書の中で、パウロはガラテヤ書の主題をさらに発展させています。ユダヤ人信徒の中には、神がモーセを通して彼らにお与えになった律法は重要なものであり、異邦人改宗者にも守らせるべきだ、と強く主張する人たちがいました。パウロは、律法の真の役目と機能を示そうと努めました。この人たちがガラテヤで足場を固めたように、ローマでもそうならないようにしたいと、彼は願ったのでした。
ガラテヤ書とローマ書において、パウロは礼典律と道徳律のどちらについて語っているのだろうかと問うことは、単純化しすぎています。歴史的に見て、議論になっていたのは、異邦人改宗者は割礼を受け、モーセの律法を守る必要があるかということでした。エルサレム会議はこの問題に対する判断をすでに下していましたが、その決定に従うことを拒んだ者たちがいたのです。
ある人たちは、道徳律、つまり十戒(実際には、第四条だけ)がもはやクリスチャンを拘束していない証拠をガラテヤ書やローマ書の中に読み取ります。しかし、彼らはこれらの手紙の要点を、つまりパウロが対処していた歴史的背景や問題を見逃しています。あとで見るように、パウロは律法(道徳律)を守ることによる救いではなく、信仰のみによる救いを強調しました。ですがそれは、道徳律を守る必要がないと言っているのではありません。十戒を守ることはまったく問題ではありませんでした。それを問題にする人たちは、パウロが扱っていなかった問題、現代的な問題を聖句の中に読み込んでいるのです。
さらなる研究
間違いなく、私たちの教会は論争と不和の時代に直面しています。しかし、それは今に始まったことではありません。サタンは常に教会に敵対してきました。キリスト教の最も初期においてさえ、論争と不和が信徒の集まりの中に生じました。しかも解決されなければ、生まれたばかりの教会を破壊しかねない一つの論争があったのです。
「エルサレムの信者たちの中から起こった偽教師の影響によって、分裂、異端、肉欲主義が、急速にガラテヤの信者たちの間に広まっていた。これらの偽教師たちは、福音の真理にユダヤの伝承を混ぜ合わせていた。彼らは、エルサレム会議の決定を無視して、異邦人の改心者たちに礼典律を守るように勧めた。事態は非常に深刻であった。すでに入り込んで来た害悪は、急速にガラテヤの諸教会を破壊しようとしていた」(『希望への光』1501ページ、『患難から栄光へ』下巻67ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2017年4期『信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙』からの抜粋です。