この記事のテーマ
申命記はもちろん、孤立して存在してはいません。人生のすべてがそうであるように、申命記も文脈の中に存在しています。そして、人生のすべてがそうであるように、その文脈はこの書の意味と目的に重要な意味を与えています。
歴史はその時代や状況を説明します。申命記が書かれる前にも多くの歴史があり、歴史はこの書自身を説明するだけでなく、その時代という文脈を生んだ世界や環境をも説明しています。ちょうど、車のワイパーが車という文脈を抜きにはその目的を語れないように、申命記も、特に今期のテーマの背景である「申命記と現代の真理」という文脈を抜きには、その理解は困難です。
ある人がレオ・トルストイの1500ページからなる『戦争と平和』をわずか3日で読みました。その本は何について書かれた本かと問われてその人は、「ロシアに関する本です」と答えました。
数千年の歴史の上に書かれた申命記を1週間で学ぼうとするのも同じことです。しかし、「現代の真理」という文脈に照らして学ぶとき、私たちはこの書を最もよく理解することができ、その豊かな恵みに味わうことができるでしょう。
愛し、愛される
「神は愛である」(1ヨハネ4:8)という短い言葉の背後にある思想は、極めて深遠で、私たちはその意味のほんのわずかを知るにすぎません。このみ言葉は、神は愛されるとも、神は愛を示されるとも、また神は愛の現れであるとも言っておらず、ただ神は愛であると述べています。まるで愛が、神ご自身、その存在の本質そのものであると述べているかのようです。頭の中に現実を理解するための数キログラムの組織と化学物質しか持たない堕落した人類である私たちは、「神は愛である」ことを完全に理解することができません。
しかし私たちにも、それが良い知らせであることは十分に理解できます。もし、神を啓示する表現が「神は愛である」でなく、「神は憎しみである」「神は復讐である」「神は無関心である」であったら、私たちは不安を覚えていたかもしれません。
「神は愛である」という真理は、すべての被造物に対する神の支配に愛が反映されていることを理解する助けとなります。愛はおそらく重力にもまさって宇宙全体に行き渡っています。神が私たちを愛してくださり、その愛に応えて私たちも神を愛するのです(申6:5、マコ12:30)。
しかし、愛が愛であるためには、それが自由意志に基づくものでなければなりません。神は愛を強いることできず、強制された時点でもはや愛ではありません。神が、愛する能力を備えた知的で理性を持った存在を、天と地にお造りになった瞬間から、そこには常に、彼らが神を愛さなくなるというリスクが存在したのです。ある者がそれを選んだ結果、「大争闘」が始まったのです。
イザヤ14:12~14、エゼキエル28:12~17、黙示録12:7は、愛にまつわる自由とリスクという文脈の中でのみ、理解することができるのではないでしょうか。特に考えさせられるのはエゼキエル28:15で、完全な神によって造られた完全な存在であった天使ルシファーの中に、不正が見いだされたと述べています。元々、彼は不正な存在として造られわけではありませんでした。むしろ、愛する能力を持って造られたルシファーは、真に道徳的自由を持っていました。これらすべてを与えられ、「あらゆる宝石がおまえを包んでいた」(エゼ28:13)にもかかわらず、この天使はもっと多くを望んだのでした。いろいろなことが重なって、ついに「天に戦い」が起きたのでした。
堕落と洪水
学校に通う生徒であれば誰でもニュートンとりんごの話を聞いたことがあるでしょう。ニュートンは重力を発見しました。ここで重要なのは、本当にニュートンの頭の上にりんごが落ちてきたかではなく、彼の偉大な洞察力です。彼の偉大さは、りんごを落としたのと同じ力(重力)が、地球を周る軌道上に月をとどまらせ、太陽を周る軌道上に地球をとどまらせているという事実に気づいた点です。
このことの重要さは、何千年もの間、多くの人々が天を支配する法則と地を支配する法則は別物だと信じていた時代にあって、彼が当時の信仰とも言うべき観念が間違っていることを示したことにあります。
ニュートンは自然界の法則の分野に貢献しましたが、この原則は道徳的法則においても当てはまります。愛に内在している自由が、天でルシファーの堕落につながったように、同じ自由が地上においても人類の堕落へとつながったのです。
問1
創世記2:16、17、3:1~7を読んでください。完全な環境にあり、完全な神によって創造された完全な人間について、どのように書かれていますか。また、愛に内在している自由という確かな真理をどのように表していますか。
人類の堕落の後、世界はますます悪へと進み、遂に主は、人は「常に悪いことばかりを心に思い計っている」(創6:5)とまで言われます。彼らの悪い考えは、彼らの行いをも確実に悪くしました。そこで、主は全世界を洪水で滅ぼすことによって、第二の創造とも言える再出発のチャンスを人類にお与えになったのです。しかし、バベルの塔の物語が示すように(創11:1~9)、人類はなおも神に挑み続けます。「塔の一部が完成したとき、そのある部分が塔の建設者の住居に当てられた。他に、りっぱな調度品を置いて飾られた部屋は、彼らの偶像に捧げられた。人々は彼らの成功を喜び、金、銀の神々をたたえ、天と地の支配者に逆らった」(『希望への光』58ページ、『人類のあけぼの』上巻116ページ)。こうして、彼らの言葉は乱され、神は堕落した人類を地の面に散らされたのでした。
アブラムの召し
(後にアブラハムと呼ばれる)アブラムは、創世記11章の系図に最初に登場します。それは人類がバベルから散らされた記述のすぐ後です。
問2
創世記12:1~3を読んでください。今日、十字架のイエスの死の後の福音の広がりを振り返るとき、私たちは、神がアブラムを通して約束なさったことをどのように理解することができますか。
何世紀も後に、使徒パウロはガラテヤ教会の異端に対処するために、アブラムの召命を引用し、その当時から常に変わらない、世界に福音を伝えるという神のご目的を示します。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたがたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(ガラ3:7~9)。
アブラハムの召しは、創世記12章に最初に出てきますが、創世記の残りの部分のほとんどは、次から次へと機能不全に陥る彼の子孫の物語であり、哀れな家族の姿が続きます。しかし、彼らを通して主の約束は最終的に成就し、モーセの召しという決定的な場面へと向かうのです。
問3
使徒言行録7:20~36に記されている殉教者ステファノによるモーセと出エジプトの描写を読んでください。それは最初のアブラハムに対する神の約束とどのように調和しますか。
無知と誤りと一般的な真理の知識の欠如へと急激に堕落する世界にあって(この3000年以上の間、その状況はほとんど変わっていないのですが)、主は一つの民、神の民、アブラハムの子孫をエジプトから召し出されました。神は彼らの内に真理の知識、すなわちヤハウェの神の知識と救いの計画を保とうとされただけでなく、世界にその知識を告げ広めようとされたのでした。
シナイでの契約
エジプトの住居の鴨居の血から、紅海のドラマに至るまで、出エジプトとそれに伴う出来事はすべて驚きの連続です。イスラエルにとってそれらのドラマは、忘れえないものとなったことでしょう。(エジプトの初子から紅海の底に沈んだ兵士に至るまで、そこで死んだ者たちを神は公正に裁かれます。)主は言われました。「あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを」(出19:4)。
一つの国民を他の国民から救い出すために、主はなぜこれほど衝撃的かつ劇的な方法をお選びになったのでしょうか。モーセ自身が言ったように、「あるいは、あなたたちの神、主がエジプトにおいてあなたの目の前でなさったように、さまざまな試みとしるしと奇跡を行い、戦いと力ある御手と伸ばした御腕と大いなる恐るべき行為をもって、あえて一つの国民を他の国民の中から選び出」されたのでしょうか(申4:34)。
問4
出エジプト記19:4~8を読んでください。主はなぜ神の民をエジプトから召し出されたのでしょうか。
それは単純な理由からでした。彼らが父祖、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であったからであり、神がこれらの子孫をもって、その契約を確立され、彼らの上に文字通り、「すべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである」(出19:5)とのみ言葉を実現させるためでした。そしてこの神の民との関係こそが契約の中心でした。
この「わたしの宝」という考えはしばしば誤解を招きます(事実誤解されました)。
彼らが主の宝であるのは、彼らが聖いからでも、彼らの内に義があったからでもありません。それらは神の恵みのゆえに与えられたものであり、神が彼らに、最終的に世界に広がる「祭司の国」となるように(1ペテ2:9、口語訳)、彼らが従うべき真理を授けられたのでした。
神はその後、彼らに(彼らが最終的に十戒と呼ぶようになった)契約条項もお与えになり(出20章)、この契約は批准されました。新たに建てられた祭壇には献げ物の血が振りかけられ、モーセは「契約の書を取り、民に読んで聞かせ」(同24:7)ました。こうして民は再度、これを守ることを宣言したのです。
背信と罰
「わたしたちは、主が語られたことを、すべて行います」(出19:8、出24:3、24:7も参照)。その都度、民はこれらの言葉を自分たち自身に言い聞かせるのですが、残念ながら、聖書の歴史は、彼らの行動は度々こうした言葉とは矛盾したものになったことを示しています。彼らは選ばれた民であり、主との契約関係に自らの自由意志で入ったにもかかわらず、彼らは、唯一の条件として与えられた義務を果たしませんでした。
問5
イスラエルにとって、契約の決定的な構成要素は何でしたか(出19:4、5)。
神に従い、その律法を守るようにとの召しは当時、今日私たちが考えるよりも律法主義的なものではありませんでした。しかし、イスラエルの子らは何度も何度も義務を果たすことに失敗しました。
実に、シナイ山を目の前にしながら、彼らは背信に陥ったのでした(出32:1~6参照)。不幸なことに、その不信仰は一時の例外でなく、彼らの日常になり、彼らはすぐに約束の地に入る代わりに、40年も荒れ野をさまようことになるのでした。
問6
民数記14:28~35を読んでください。主のみ言葉に信頼しなかったためにイスラエルに与えられた罰は何でしたか。
この時から今日に至るまで、あからさまな反抗でないにしても(それも起こりえますが)、神が言われたことを信じない不服従がなんと多く見られることでしょうか。イスラエルがこの〔不服従の〕罪をさらに憎むべきものとしたのは、神ご自身が言われるように、彼らが、「わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度もわたしを試み」たからでした(民14:22)。すべて彼らが見、経験したことにもかかわらず、勝利の約束にもかかわらず、彼らはなおも、神に従わず、約束の地を彼らのものとすることを拒んだのでした(同13~14章)。
さらなる研究
セブンスデー・アドベンチストの著者による書籍で、愛の神という思想に基づいて、大争闘という主題をより深く掘り下げて研究したいと望むなら、ジョン・ペッカムの『愛の神義論─宇宙的対立と悪の問題』(グランドラピッズ社、2018年)をお薦めします。この著作がアドベンチスト以外の出版社から出版されたという事実は、良質で聖書的な学識は、聖書に描かれた大争闘の実在性を明らかにすることができることを示しています。
「簡潔に述べれば、私は、(正しく理解された)神の愛は、宇宙的論争の中心であり、神の愛による介入と犠牲こそが、神がなぜ悪を容認されるのかという疑問に対する、道徳的かつ必要十分な答えであると信じます。本書は同時に、私が『関与のための契約的法則』と呼ぶ法則によって働く神の摂理を理解する上で、私たちが直面するさまざまな重大な問題について論じるものです」(『愛の神義論』4ページ、英文)。
「イスラエルが40年の間、カナンにはいれないという命令は、モーセとアロン、カレブとヨシュアにとって苦しい失望であった。しかし、彼らはつぶやくことなく、神の決定を受け入れた。しかし、神の御処置についてつぶやき、エジプトに帰りたいと言っていた人々は、自分たちが侮った祝福が彼らから取り去られた時に、激しく泣き悲しんだ。彼らは取るに足らぬことのためにつぶやいてきた。そこで、神は今、悲しむ理由を彼らにお与えになった。もし、彼らの罪がそのまま目の前に示されたときに、彼らが自分たちの罪を悲しんだのであれば、この宣告は与えられなかったはずであった。だが、彼らは、この刑罰を悲しんだ。彼らの悲しみは、悔い改めではなかったから、この宣告の取り消しを得ることはできなかった」(『希望への光』202ページ、『人類のあけぼの』上巻471ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2021年4期『申命記に見る現代の真理』からの抜粋です。