【申命記】モーセによる歴史の教訓【解説】#2

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「モーセは……これらの言葉を告げた」(申1:1)で始まる申命記は、その初めからモアブの地での彼の死に至るまで(申34:5)、モーセの存在が顕著ではありますが、(聖書全体がそうであるように)紛れもなく主イエス・キリストを証しする書です。なぜなら、主が私たちを創造し(創1:2、ヨハ1:1~3)、維持し(コロ1:15~17、ヘブ1:3)、贖うお方だからです(イザ41:14、テト2:14)。さらに、広義において申命記は、贖いの歴史の最も重要な時代にあって、主が神の民をどのように創造し、維持し、贖い続けておられるかを示す書でもあるのです。

モーセは彼らに歴史の教訓を語りますが、その主題は聖書全体を通して繰り返される、「過去に主があなたがたにされたことを忘れるな」というものでした。

これは、より良い「約束の地」の国境にある私たちにとっても意味を持つ勧告です。「過去の歴史のなかに、今、私たちが立っている場所へと続く一歩一歩の歩みを振り返るとき、……私は驚きと共に、私を導かれるキリストへの信頼に満たされるのである。私たちは、キリストがどのように私たちを導かれたかを心に留め、人の過去の歴史を通して語る主の教えを忘れない限り、未来に恐れるものは何もないのである」(『ライフスケッチ』196ページ、英文)。

モーセの働き

聖書全体を通してモーセの存在は感じられます。彼に関する記述は出エジプト記2:2まで出てきませんが、彼は創世記を書き、神の権威と人間の起源、なぜ人間は当時と同じように今も悪の中にいるのか、しかしなぜ私たちにはなお希望があるのかを語ります。創造、堕落、贖いの約束、洪水、アブラハム、福音のすべては創世記をその根拠とし、その著者は預言者モーセなのです。この1人の人物の影響を正確かつ完全に測ることは困難ですが、神には可能です。なぜなら、モーセは主を愛し、主に仕えることを望んだからです。

問1

金の子牛の恐ろしい罪の後に、神とモーセが交わした会話が記録されている出エジプト記32:29~32を読んでください。ここからモーセの品性や、彼の欠点にもかかわらず、なぜ神が力ある言葉を通して彼を用いることができたのかを考えてみましょう。

モーセはこの罪とは無関係だったにもかかわらず、彼らのために自分の魂〔永遠の命〕が失われることさえいとわず、この罪深い民のために神にとりなします。驚くべきことに、出エジプト記32:32でモーセは、神に「彼らの罪の赦し」を求めながら、実際には自らが彼らの罪を「負う」ことを願います。モーセはこの罪の重さとその贖いを求めることが何を意味するかをよく理解していました。彼らの罪であれ、どんな罪であれ、最終的に罪が赦されるためには、唯一この方法しかないことを知っていたからこそ、モーセは神に彼らの罪を「負う」ことを願ったのでした。

このように、やがて神ご自身が、人となられたイエスによって私たちの罪に立ち向かい、その罰を受けられるという身代わりが、聖書の初めのほうに力強く表されています。身代わりこそが、神の統治と律法の原則に忠実でありながら人類を救済する(あらかじめ定められた)神の方法だったのです。

実に、何世紀も後にペトロは、この〔身代わりの〕イエスを次のように描写しています。「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたはいやされたのである」(1ペテ2:24、口語訳)。

私たちは同時に、この民の罪のために取ったモーセの行動の中に、堕落した罪深い人類のためにとりなす仲保者としてのイエスの姿を見るのです。

成就した預言

現代の科学は、真理として世間に広めようとしているいくつかの過ち(宇宙は「完全な無」から自然に生じたとか、地球上のあらゆる生命は偶然に単細胞から生じたといったこと)もありますが、それでもなお、神の創造の御力について驚くべき洞察を私たちに与えてもくれています。自然界における調和、バランス、精密さは、堕落した状態にあるとはいえ、なおもそれらを研究する者たちを驚かせ続けています。

神が目に見える物についてこんなにも几帳面であられるのなら、霊的なことにおいてもそうであるはずです。申命記の最初の数節の中にも、神の信じられないほどの几帳面さをさらに見ることができます。

問2

申命記1:1~6を読んでください。申命記1:3の「第四〇年……」の詳細な記述に、どんな預言的意義を見ることができますか。

モーセは約束の地を調べるために、カデシュ・バルネアから斥候を送り、民はその地を取るようにとの神の召しを拒みます。そのために彼らは約束の地に入ることができなくなり、40年もの間待つことになります。「あの土地を偵察した40日という日数に応じて、1日を1年とする40年間、おまえたちの罪を負わねばならない。お前たちは、わたしに抵抗するとどうなるかを知るであろう」(民14:34)。

こういうわけで、申命記は、神が彼らにお命じになった通りに、正確に第四〇年を記録しているのです。言葉を変えれば、神の預言のみ言葉は、神ご自身のように信じるに足るものなのです。申命記の最初の数節の中に、私たちは、主の預言の確かさの証拠を見ることができます。神は言われた通りに事をなし、定められた時に事をなすお方なのです。

もちろん、これだけが、神が言われた通りに預言が成就した例ではありません。現代からさかのぼって見れば、私たちは、ダニエル9:24~27の預言が、主が言われた通りにイエスの時代に成就したのを見ることができ、また「ひと時とふた時と半時」の預言(ダニ7:25、口語訳、黙12:6、14、13:5も参照)が、ダニエル8:14の2300の朝夕の預言と同じように、歴史の中で成就したのを見ることができます。

正確な時という要素のほかにも、ダニエル2、7、8章の極めて正確な世界歴史についての預言は、神の先見性、支配、そして揺るぎない信頼性に対する圧倒的な証拠を私たちに与えるものです。

千倍にも増やして

荒れ野での長い旅の後、モーセは主に代わって次のように語りました(彼は預言者でしたが、預言者以上の存在でした)。「『見よ、わたしはあなたたちにこの土地を与える。』あなたたちは行って、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに、彼らとその子孫に与えると誓われた土地を取りなさい」(申1:8)。

しかしながら、次に来る聖句に注目してください。

問3

申命記1:9~11を読んでください。カデシュ・バルネアでの反抗のために、彼らが罰を受けていたという事実に照らすとき、これらの聖句は何を意味するでしょうか。

私たちはここに神の恵み深さの一例を見ることができます。彼らは荒れ野の放浪のさなかにあっても祝福されました。「40年間、あなたが支えられたので/彼らは荒れ野にあっても不足することなく/着物は朽ち果てず、足もはれることがなかった」(ネヘ9:21)。

そしてモーセは再び民に愛を示し、それまでの千倍にも増やして彼らを祝福してくださるよう神に願いました。

問4

申命記1:12~17を読んでください。神は直接の祝福として彼らに何をお与えになりましたか。モーセはその状況を解決するためにどんなことをしましたか。

主のご臨在は確かなものでしたが、それでも彼らには組織が必要でした。部族を大小に組分けし、よく意思疎通が図れるようにする必要がありました。イスラエルは組織的な人の集まり(カハル)でした(申31:30参照)。それは新約時代の「教会」を表すギリシア語(エクレシア)の先駆けとなる組織でした(マタ16:18)。異なる文脈においてではありますが、ユダヤ人のルーツから決して遠くないパウロは、1コリント12章に、申命記に見られる荒れ野のカハルに当たる教会が、キリストのからだとして正しく機能するためには、さまざまな役割にふさわしい人材が必要であるとはっきりと述べています。現代の教会は、当時のカハルとして、与えられた賜物に応じたさまざまな役割を果たす人々による一つのからだとなる必要があります。

私たちは時折、「組織的な」宗教に対する批判を耳にしますが(彼らは「無秩序な」宗教を望むのでしょうか)、神のみ言葉、特に新約聖書は他の何物でもなく、組織的な教会を認めています。

カデシュ・バルネア

申命記の最初の部分ではカデシュ・バルネアの悪夢が付きまといます。それは不幸な物語はありますが、申命記が書かれた直接の背景であり、詳しく研究するに値する出来事です。

問5

民数記14章を読んでください。斥候たちの報告に対して人々はどのように反応し、それはどのような結果を生みましたか(申1:20~46参照)。

私たちはこの物語から多くの教訓を得ることができますが、申命記で再び登場する重要な教訓が民数記14章にも見られます。

問6

民数記14:11~20を読んでください。ここでモーセは再び民のためにとりなします。主に民を滅ぼすことを思いとどまらせた彼の論点は何でしたか。

モーセが神に訴えたことを考えてみましょう。「もしあなたがこのようなことをなさるなら、この地に住む諸国民たちやエジプト人たちの目には、どのように映るでしょうか」。この論点が重要なのは、最終的に神がイスラエルになさったことは、すべてが彼らのためであったわけではなく、人類全体のためでもあったからです。イスラエル国民は、世の光となり、古代の人々に愛と力と救いは真の神の内に見いだされるのであり、当時の人々が拝んでいた価値のない偶像の内にはないことを証しするために召されたのでした。

しかしながら、モーセがここで述べているように、もし神がこの民を一掃されたならどうなったでしょうか。諸国民は、「主は、与えると誓われた土地にこの民を連れて行くことができないので、荒れ野で彼らを殺したのだ、と」言ったでしょう(民14:16)。

言い換えれば、私たちはここに聖書全体を貫くテーマを見るのです。それは、神の栄光はその民によって表されるという思想です。神の栄光と慈しみ、そして愛と力は、その民を通して神がなさることによって神の教会の中に表されなければなりません。もちろん、それは神の民にとって容易なことではありませんが、最終的に、地上におけるすべての神の行為を通して神に栄光が帰されるのです。

アモリ人の罪

申命記2章と3章でモーセは続けてイスラエルの歴史を振り返り、神の祝福によって彼らがどのように敵を撃退したかについて語ります。彼らが忠実であるとき、神は彼らに「巨人」に対してでさえ勝利をお与えになりました(申2:10、11、20、21、3:13)。

もちろん、これらの民の壊滅は、触れなければならない難しいテーマです。イスラエルの子らは多くの場合、初めに講和を申し出ます(申20:10、11)。しかし、その申し出にその民が応じない場合は侵攻し、「我々の神、主が彼を我々に渡されたので、我々はシホンとその子らを含む全軍を撃ち破った。我々は町を一つ残らず占領し、町全体、男も女も子供も滅ぼし尽くして一人も残さず」(同2:33、34)とあるように、女や子どもを含めて彼らを滅ぼしています。

これらの記述は単に真実ではないのだと言う人たちもいますが、私たちセブンスデー・アドベンチストは、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益で」(2テモ3:16)あると信じ、それらの聖書の記述が事実であると考えます。ですから、私たちはこれらの出来事に関する難しい疑問が残るのです。

問7

創世記15:1~16を読んでください。神は16節でアブラムに何と言っておられますか。それはこの難しいテーマにどのように光を投げかけていますか。

これらの異教の民の多くは、疑いもなく、極めて粗暴かつ残虐であり、これよりずっと前に神の怒りと罰を受けても当然の状態にありました。それは事実であり、たとえ神が忍耐強く、彼らの変化を待たれたとしても、彼らは変わることがありませんでした。神は忍耐しましたが、子どもたちを含む民すべてが殺されるという厳しい現実は変わらないのです。

この出来事に関する限られた情報の中で、今、私たちがなすべきことは、この厳しい現実を受け入れ、他の多くの方法で、すでに示されている神の慈しみに信頼することです。信仰とは、すばらしい眺めと音に満ちた森で過ごす美しい日に神を愛することだけではありません。信仰はまた、私たちが十分に先を見通すことの出来ない曇りや雨の日にも、なお神に信頼することでもあるのです。

さらなる研究

イスラエルが、いくつかの周辺諸国に対してしたことに関する難しい疑問に対して、1人の学者が答えを試みています。

「すべての事物とすべての人類の創造主として、神は誰に対しても、何でもお望みになることをすることができ、かつそうすることは正しいのである……。神の方法は神秘である。人が神を完全に理解することは決してできないのであるから、私たちの心に浮かぶ疑問は、そのままにしておくほうが良いのかもしれない。この点について、イザヤ55:8、9は慰めとなるだろう。カナン人についての聖書の描写によれば、そこに住む人々は極めて邪悪であり、彼らの全滅は、彼らに対する神の裁きの現れであった。カナン人の滅亡は、神にとって最初でも最後でもなかったのである。カナン人の運命と人類の運命の違いは(ノアの家族を除いて)、創世記6~9章のそれ〔洪水の記録〕と比べて、そのスケールと関与した人々が違うだけである。神は、決して一般論としてイスラエルが周辺の民をすべて滅ぼし尽くすことを意図されたのではなかった。申命記7:1は滅ぼすべき民を明確に限定している。イスラエルはこれらの滅ぼすべき民の中にアラム人やエドム人、エジプト人やその他の民を加えてはならなかった(申20:10~18参照)……。カナン人はすべての罪人が最終的に直面する運命である神の裁きを受けたのであった……。神がカナン人を取り除かれたのは、救済の歴史において必要なステップであった……。カナン人全体が神の裁きの的となったのは、彼らがそれに先立って少なくとも40年以上にわたって警告を受けていたからである(ヨシュ2:8~11のラハブの告白を参照)」(ダニエル・I・ブロック『英語新国際訳聖書適用注解』ゾンダーヴァン出版、2012年、98、99ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2021年4期『申命記に見る現代の真理』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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