【テサロニケの信徒への手紙1・2】手紙の誕生【解説】#3

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新しい回心者の育成

テサロニケの若い教会に対するパウロの優しい思いやりは、牧者と信者とのあいだにあるべき関係の模範です。それは今日、救霊の働きに携わる人たちに、キリストを受け入れる人たちを育成するためのすばらしい模範を提供しています。

アウトライン

1. テサロニケを去るパウロ(使徒17:10〜14) 

2. ベレヤを去るパウロ(使徒17:13〜22、32、33)

3.アテネからコリントへ(使徒18:1〜8、11)

4.テサロニケからのテモテの報告( I テサ1 : 2,3、 3 : 1 〜6)

5.手紙の誕生(Iテサ1:1、3:7〜9、5:27) 

パウロの特別な関心 

偉大な伝道者パウロは、自分がキリストに導いた人々に対して特別な関心を注いでいました。彼は自分の回心者とのあいだの密接な関係を決して捨てようとはしませんでした。救霊者と回心者をバプテスマに導くだけでなく、彼らをキリストにあって不動の者にしようとする彼の父親のような愛情が表されています。

パウロは牧者の心を持っていた 

パウロは新しい信者に手紙を書くよりも彼らを訪問したいと思ったに違いありません。彼らと直接、会って、その悲しみと喜びについて聞き、成長の喜びにあずかりたいと思ったことでしょう。しかし、当時の旅行は現在と比べるときわめて困難でした。パウロが自分の回心者と二度と会えないこともありました。そのため、彼の手紙は信者にとっても彼自身にとっても非常に重要なものでした。手紙を書くことはパウロにできる最善の方法でした。

パウロはその手紙によって、彼の思いやりに満ちた関心ばかりでなく、たとえば教理、個人の信心、人間関係、教会の秩序と組織、信者の働きといった彼らの霊的成長に必要なことがらについて教えようとしたのでした。テサロニケ人への手紙を書くきっかけとなった状況はパウロの経験によくあるもので、それは彼の牧者としての心づかいと彼を働きに召して下さった神の愛をよく表しています。

テサロニケを去るパウロ(使徒17:20〜14)

テサロニケにおける暴動の後、信者はひそかにパウロとシラスをベレヤに送り出しました(使徒17 : 10)。ベレヤはテサロニケよりもずっと小さな町で、沿岸ではなく内陸の町でした。当時の人口は約5万人と考えられています。現在はその半分くらいです。この町は今はベリアと呼ばれています。ベレヤに行くために、パウロは2 日がかりで80キロを旅しなければなりませんでした。

質問1 
ベレヤでの反応はテサロニケと比べてどうでしたか。ベレヤ人の態度は私たちにどういうことを教えてくれますか(使徒17:11)。あなたの教会に同じような人がいませんか。

「よりも素直であって」という表現は、より寛容な精神、より偏見のない精神を意味します。ルカの言葉からは、ベレヤにはテサロニケよりも多くの信者がいたとは考えられませんが、ただベレヤ人はより強い反応を示し、福音に好意的であったことは確かです。

個人的な研究の重要性

「福音の真理が宣べ伝えられるところではどこででも、正しいことをしたいと心から願う人々が、聖書を熱心に調べるよう導かれる。この地上の歴史が閉じられようとする状況にあって、特別の真理を聞かされる人々が、ベレヤの人々の模範に従い、日々聖書を調べて、神のみことばと彼らに伝えられた使命を比べようとするならば、神の律法の教えに忠実なものが、いま比較的少数しかいないところに、今日、もっと多くいるはずである。しかし、人々が好まない聖書の真理が示されるとき、多くの人々はこのように熱心に調べることを拒むのである。聖書の明白な教えに論駁できなくても、彼らはなお、示されている証拠を学ぶことに全く気が進まないのである。ある者たちは、これらの教理が本当に正しいとしても、その新しい光を受け入れるかどうかは大したことではないと考えて、敵が人々をさまよわせるために用いる面白いつくり話に執着している。こうして彼らの心は誤りにくらまされて、天から離れてしまうのである」(『患難から栄光へ』上巻249、250ページ)。

ベレヤを去るパウロ(使徒17:13〜22、32、33) 

質問2
パウロがベレヤを離れたのはなぜですか。それはテサロニケの信者にどんな結果をもたらしましたか。使徒17:13,14

計画の変更 

パウロの教えを拒んだテサロニケのユダヤ人たちはベレヤまでパウロについてきて、下層の人々を扇動して反対させました。パウロの生命を心配したベレヤの信者たちは彼をアテネに送り出します。パウロはテサロニケに戻って、そこの新しい信者を励ましたいと望んでいましたが、それもできなくなりました(『患難から栄光へ』上巻250、251ページ参照)。

パウロはイエスの勧告に従いました。「もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい」(マタ10:14)。

質問3
パウロはベレヤを去ってどこに行きましたか。使徒17: 15 

アテネはソクラテス、プラトン、アリストテレスの生まれたところであり、ギリシヤ芸術、詩歌、哲学の中心地でした。アリストパネスはアテネを、「われらのアテネ、スミレの花で飾られた、輝かしい、いともうらやましき都」と呼びました。アテネは文字通り、「ギリシヤの栄光」を表していました。それはテサロニケの南、約300キロのところにあって、パウロの時代には世界の学問の中心地でした。

質問4
パウロはどのようにしてアテネ人に接近しましたか。このことは大都会で伝道するうえで、どんなことを教えていますか。使徒17:18〜22 

アレオパゴスの評議所

アテネでのパウロの聴衆は彼の学識を認め、その雄弁をたたえました。ガマリエルのひざもとでの長年の訓練(使徒22:3)がこのとき役に立ちました。パウロのラビとしての教育が驚くほどの論理をもって議論をするうえで助けになりました。哲学と文学の知識のおかげで、彼はアテネ人の得意な分野で渡り合うことができました。アレオパゴスの評議所(マルスの丘)はある種の犯罪や宗教問題をさばく古代アテネの法廷でした。この法廷は教師を任命し、アテネの教育を統括する権限を持っていました。

へブル・キリスト教思想がこの偉大な学問の中心地でギリシヤ哲学思想と真正面から渡り合ったということはきわめて意義深いことです。パウロはすぐに、多くの哲学者や神学者が全く認めていないこと、つまりギリシヤ哲学がへブル・キリスト教伝統と根本的に相いれないものであることを発見しました。

質問5
私たちはアレオパゴスの評議所におけるパウロの働きからどんな教訓を学ぶことができますか。私はこの教訓を、教会とは無縁な友人、親戚、隣人、同僚に対する伝道にどのようにいかすことができますか。

愛をもって真理を語る

「パウロの言葉は、教会のための知識の宝を含んでいる。彼は、誇り高い聴衆を刺激するような言葉を軽々しく口に出すことによって、困難を招きかねないような立場にあった。もし彼の演説が、彼らの神々や町の有力者に対する直接の攻撃だったら、彼はソクラテスの運命に合う危険に陥ったであろう。しかし天来の愛から生ずる機知をもって、彼は人々の知らない真の神を彼らに示しながら、人々の心を異教の神々から注意深く引き離した」(『患難から栄光へ』上巻2 6 0 ページ)。

質問6
アテネにおけるパウロの働きはどんな成果をもたらしましたか。使徒17:32〜34 

ほかの町々と比較したアテネ

パウロがどれだけアテネで働いたのか、また彼がのちにそこに戻ったのかについて、聖書は何も記していません。あまり洗練されていないテサロニケ人とコリント人の福音に対する反応を、哲学的教養のあるアテネ人の反応と比較すると、興味深いものがあります。

アテネにおけるパウロの働きは全く無益ではなかった

「アテネにおけるパウロの働きは全く無益であったわけではない。著名な市民の一人、デオヌシオをはじめ何人かの人たちがキリスト教に改宗し、パウロに従った。使徒パウロの言葉、彼の態度と情況についての描写は、霊感の筆によって記録されて、のちのあらゆる世代に伝えられ、彼の不動の確信、孤独と逆境における勇気、さらには異教の中心地におけるキリスト教の勝利についてあかしをするのであった」(『パウロ略伝』96、97ページ)。

アテネからコリントへ(使徒18:1―8,11)

質問7 
パウロはアテネからどこに行きましたか。使徒18:1 

当時のアテネは知的文化の中心地でしたが、コリントは商業、貿易、軍事力の中心地でした。そして、ほとんどの海上貿易の中心地がそうであったように、コリントは悪に満ちた町でした。女神アフロディテへの崇拝は神殿売春と乱行を助長しました。

質問8 
アレオパゴスの評議所におけるキリスト教の哲学的弁証があまり効果がなかったと考えたパウロは、コリントに着いたらどうしようと決心しましたか。Iコリ2:1、2 

積極的な、キリスト中心の説教 

アテネにおけるパウロの伝道はいつもとは違ったものでした。彼は教養のある、議論好きのギリシヤ人と、彼らの得意な分野で語り合おうとしました(『患難から栄光へ』上巻263ページ参照)。彼はイエスの助けによって働き、ある程度の成果をおさめました。しかし、満足できませんでした。そこで、これからはただイエスだけを宣べ伝えようと決心します。神のみことばにもとづいた説教に専念しようとしました。

質問9 
コリントにおけるパウロの伝道はどんなすばらしい成果をもたらしましたか。彼はどのくらいそこで働きましたか。使徒18:1〜8、11 

テサロニケからのテモテの報告(Iテサ1:2、 3、 3:1〜6) 

質問10 
開拓伝道に携わるかたわら、パウロは毎日、テサロニケの新しい信者のためにどういうことをしましたか。Iテサ1:2、3 

質問11 
パウロはだれをテサロニケにつかわしましたか。その最大の目的は何でしたか。Iテサ3:1〜5 

霊的育成の重要性 

使徒パウロは新たに組織されたテサロニケの教会を見たいと切に望みました。テサロニケに短期間しか滞在できなかったこと、急にそこを離れなければならなくなったこと、彼らを教え、励ますという牧者としての責任がパウロの心に重くのしかかっていました。しかし、時と距離と敵意がそれを妨げていました。テサロニケに帰ろうとするパウロの計画は「一再ならず」サタンによって妨害されました( I テサ2 : 1 8)。そこで、彼は次善の策として自分の霊的な息子であるテモテをつかわして新しい信者たちを教え、励まそうとしました。これは賢明なことでした。というのは「移植は簡単にできるが、根がつくには時間がかかる」からです。このことを理解することは救霊において非常に重要なことです。パウロはこの原則を理解して、それをテサロニケ人のために正しく用いたのでした。

質問12 
テモテはパウロにどんな報告をもたらしましたか。Iテサ3:6 

救霊に携わる人は、自分がキリストに導いた人に会って感謝し、満足します。回心した人もまた感謝の念に満たされます。彼は第一にキリストに感謝しますが、同時に自分を真理に導いてくれた人に感謝の念を抱きます。

牧師および信徒伝道者と、彼らが主に導いた人たちとのきずなは特別なものです。信者同士の喜び、思い出、感謝の念は、家族同士のきずなに匹敵するものです。

手紙の誕生(Iテサ1:1、3:7〜9、5:27) 

質問13 
パウロはテモテのもたらした良い知らせをどのように受け止めましたか。Iテサ3:7〜9 

パウロはこの知らせを聞いて自慢したり、自分だけ喜んだりしませんでした。テサロニケにおける成功が聖霊のわざであり、自分の能力の結果ではないことを、パウロは知っていました。そこで、彼は神に栄光と名誉を帰し、感謝をささげました。彼は言葉では言っていませんが、町から町へと献身的に伝道することによって、神の命令に全的に従う生活が神の祝福に対する正しい応答の仕方であることをはっきりと示しました(ロマ12:1参照)。

パウロの感謝の応答

「テモテのもたらした良い知らせを聞いて、パウロは筆をとり、教会にあてて書いたのが、現存する彼の手紙のうちで最古のものと言われているテサロニケ人への第1の手紙である。これはコリント滞在中の最初の数カ月、たぶん紀元52年の初めに書かれたものであろう」(アルフレッド・ワイケンハウザ-『新約聖書序説』364ページ)。

テサロニケ人への第2の手紙は、内容からみて第1の手紙が書かれた数週あるいは数カ月後に書かれたものと思われます。また、両書はアテネからではなくコリントから書かれたと思われます。両書は語調においてかなり異なりますが、内容においてはほとんど違いがありません。ペテロはパウロの手紙にはわかりにくいところがあると言っていますが(Ⅱペテ3:16参照)、テサロニケ人への手紙にはそのようなとごろはありません。テサロニケ教会への手紙には単純で実際的な勧告が述べられています。

質問14 
パウロはどんな勧告をもって両書のメッセージを強調していますか。Iテサ5:21、Ⅱテサ2:15 

まとめ 

パウロは新しい町々で成功をおさめ、また試練に会いましたが、そのためにそこに残してきた人たちに対する関心を失うことはありませんでした。彼はしばしば信者を再訪問することを妨げられましたが、手紙によって彼らとの関係を保ち、彼らが主イエス・キリストの恵みにおいて成長するのを助けました。

*本記事は、安息日学校ガイド1991年3期『再臨に備えて生きる』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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