【ヘブライ人への手紙】イエスの働き【解説】#2

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ヘブライ人への手紙から数十年が過ぎた紀元100年頃に書かれたユダヤの文書に、次のような祈りが含まれていました。「主よ、これがすべてあなたのみ前に私が語った言葉です。あなたは私たちのためにこの世界を創造したと仰せになりました。……そして今、ああ主よ、ご覧ください、私たちの上に威張り散らし、私たちを貪り食らうこれらの何の名声もない国々を。しかし、あなたが初子、独り子と呼び、あなたが夢中になるほどの最愛の子であるあなたの民である私たちは、彼らの手に引き渡されているのです」(ジェームズ・H・チャールズワース編『旧約聖書外典』第1巻536ページ、英文)。

ヘブライ人への手紙の読者たちも、おそらく似た思いを抱いたことでしょう。彼らが神の子なら、なぜこのような苦しみに遭うのでしょうか。

パウロは試練のただ中にある信者たちの信仰を強めるために、ヘブライ人への手紙を書いたのです。彼は、彼らに(そして私たちに)、父なる神の右の座に着き、そして私たちを天の家郷(ふるさと )にまもなく連れて行ってくださるイエスによって、神の約束が実現することを思い起こさせました。それまでの間は、イエスが父なる神の祝福を執り成してくださいます。ですから、私たちは、終わりの時まで私たちの信仰を堅く守る必要があるのです。

私たちの王なるイエス

ヘブライ人への手紙の主要なテーマは、イエスが父なる神の右の座に着かれる統治者であるということです(ヘブ8:1)。神であるイエスは、常に全宇宙の統治者でした。しかし、アダムとエバが罪を犯して以来、サタンがこの世の支配者になりました(ヨハ12:31、14:30、16:11)。しかしながら、イエスがおいでになり、十字架でサタンの支配を撃ち破り、イエスを受け入れる人々の救い主として、彼らを治める権利を回復されたのです(コロ2:13〜15)。

ヘブライ人への手紙の最初の2章は、特に王なるイエスに焦点を当てています。

問1  
ヘブライ1:5〜14を読んでください。ここに何が描かれていますか。

これらの聖句は三つに分けることができ、各部分は御子の即位式の様子を描いています。第一に、神は御子を王子としてお受け入れになります(ヘブ1:5)。第二に、神は御子を礼拝すべき方として天の宮廷に紹介し(同1:6、8)、御子による永遠の統治を宣言されます(同1:8〜12)。第三に、神は御子を御座に着かせ、権威を授与されます(同1:13、14)。

新約聖書の中で私たちが信じる最も重要なことの一つは、神がイエスによってダビデとの約束を成就されたことです(サム下7:8〜16、ルカ1:30〜33)。彼はダビデの町にダビデの子孫として生まれ(マタ1:1〜16、ルカ2:10、11)、公生涯の間、人々はたびたび彼を「ダビデの子」と呼び、彼は「ユダヤ人の王」であると宣言したという罪で処刑されました(マタ27:37)。ペトロとパウロは、イエスが死から復活されたのは、ダビデに与えられた約束の成就であると説き(使徒2:22〜36、13:22〜37)、更にヨハネはイエスを「ユダ族から出た獅子」と認めています(黙5:5)。

ヘブライ人への手紙ももちろんこれに賛同します。神はダビデとの約束をイエスにあって成就しました。彼に偉大な「名」を与え(同1:4)、彼をご自身の御子として受け入れ(ヘブ1:5)、彼の御座を永遠に確立し(同1:8〜12)、イエスを神の「右の座」に座らせました(同1:13、14)。更に、ヘブライ4章によれば、イエスは人々を神の安息に導き入れ、私たちにイエスは神の家をお建てになることを思い起こさせます(同3:3、4)。

イエスは、私たちが神に忠誠を誓えるように、略奪者サタンと戦う正当な統治者なのです。

私たちの仲保者なるイエス

旧約聖書神学の興味深い概念は、約束されたダビデの子孫である王が、神の前にイスラエルを代表する者であるということです。

問2 
出エジプト記4:22、23 をサムエル記下7:12〜14 と、申命記12:8〜10をサムエル記下7:9〜11と、申命記12:13、14を詩編132:1〜5、11〜14と比較してください。約束されたダビデの子孫である王を通して、イスラエルへのどのような約束が成就しましたか。

イスラエルは神の子であり、神は彼らに敵から守る安息の地をお与えになります。神はまた、神のみ名を置く場所として彼らをお選びになります。イスラエルに対するこれらの約束は、約束されたダビデの子孫である王へと移されます。彼は神の子とされ、神は彼に敵からの安息を与え、彼は神のみ名を置く所であるシオンに神殿を建てます。これは神が、約束されたダビデの子孫である王を通してイスラエルと結ばれた約束を成就することを意味します。このダビデの子孫である王は、神の前にイスラエルを代表する者となります。

神とイスラエルの関係に代表者が入ることによって、彼らの契約関係は永続的なものとなります。モーセの契約は全イスラエルに神の保護と祝福を受け入れることを要求しましたが(ヨシュ7:1〜13)、ダビデの契約はイスラエルに約束された祝福を、ダビデの子孫である王の忠実さを通して保証しています。

良い知らせとは、神がその独り子を「ダビデのひこばえ」としてこの世に送られ、彼は常に完全に忠実であったことです。それゆえ、神は神の民と結ばれた約束をこの方において成就することがおできになるのです。神がこの王を祝福なさるとき、すべての民もその祝福を分かち合うことができます。イエスが、神の私たちに対する祝福の仲保者であることの理由が、ここにあります。彼は仲保者、すなわち彼を通して神の祝福が流れる水路なのです。私たちの究極の救いの希望は、イエスにのみ、そして彼が私たちのためにされたことにのみあるのです。

私たちの代表戦士なるイエス

問3 
サムエル記上8:19、20 とヘブライ2:14〜16 を比較してください。イスラエルは自分たちの王に何を求め、その願いはイエスの内にどのように成就しましたか。

イスラエルは神が彼らの王であることを忘れ、彼らを裁き、戦いの陣頭指揮をとる王を求めました。神の民に対する神の支配の完全な回復は、イエスによってもたらされました。敵との戦いにあって、私たちの王として指揮されるのは、イエスです。

ヘブライ2:14〜16はイエスを弱い人類の代表戦士として描いています。キリストは悪魔との一騎打ちで彼を滅ぼし、私たちを捕囚から解放されます。この描写はダビデとゴリアトの戦いを思い起こさせます。ダビデは、油を注がれた後(サム上16章)、ゴリアトを倒し、イスラエルが奴隷となる危機から救いました。この戦いの前には、勝者が相手の軍隊や国を奴隷とすることが決められました(同17:8〜10)。こうしてダビデはイスラエルの代表者として戦ったのでした。

問4 
イザヤ42:13 と同59:15〜20 を読んでください。これらの聖句でヤハウェはご自身をどのように表現していますか。

ヘブライ2:14〜16は、神が代表戦士としてイスラエルを救われるさまを描いています。イザヤ書の次の聖句を読んでください。「主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され/とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い/わたしが、あなたの子らを救う」(イザ49:25)。

クリスチャンとして、私たちはサタンと一対一で戦っているように感じるかもしれません。エフェソ6:10〜18を読むと、実際私たちは悪魔との戦いの中にいることがわかります。しかし神が私たちの代表として、私たちの先頭に立って戦われます。私たちは神の軍隊の一員ですから、神の武具を身につけねばなりません。私たちはひとりで戦っているのではありません。私たちは武具を身につけ、教会として、私たちの代表戦士に率いられて共に戦うのです。そしてその代表戦士は神ご自身なのです。

私たちの大祭司なるイエス

ヘブライ5〜7章はイエスの第二の働きを紹介しています。それは、彼が私たちの大祭司であることです。著者は、このことが、ダビデの子孫の王に神がされた約束の成就であって、彼が「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司」(詩編110:4、ヘブ5:5、6)となると説明しています。

問5 
レビ記1:1〜9、10:8〜11、マラキ2:7、民数記6:22〜26、ヘブライ5:1〜4を読んでください。祭司はどのような役割を果しましたか。

祭司は人類のために任命され、人類を代表して、神や神に関するものとの関係を仲保します。このことは、ユダヤ人、ギリシア人、ローマ人など、その他のどの聖職者制度においてもあてはまります。祭司は私たち人類が神と交わることを可能にし、祭司の職務のすべては、人類と神との関係を円滑にするためのものです。

祭司は人類のために犠牲を献げます。人々は犠牲を直接神に持って行くことはできません。どうすれば「受け入れられる」犠牲をささげることができるかを祭司が知っているので、私たちの献げ物は神に受け入れられ、それによって清めや赦しが与えられるのです。

祭司はまた、人々に神の律法を教えます。彼らは神の戒めの専門家であり、戒めを説明し適用しました。

最後に、祭司はヤハウェの名によって祝福する責任を負っていました。彼らを通して神は、人々に対する神の善意と憐れみ深い目的を表されるのでした。

しかしながら、私たちは1ペトロ2:9に祭司に関する更なる発見をします。イエスを信じる私たちは、「王の系統を引く祭司」と呼ばれるのです。この任務は驚くべき特権を意味します。祭司は聖所で神に近づくことができます。今日、私たちは祈りを通し、確信をもって神に近づくことができるのです(ヘブ4:14〜16、10:19〜23)。しかしこの任務には重大な責任が伴います。私たちは神と共に働いて世を救いに導かねばなりません。神は私たちに、神の律法を人々に説明し教えるよう望んでおられます。神はまた私たちに、神の喜びとなる賛美と善い業という犠牲をささげるように望まれます。何という特権、何という責任でしょうか。

更にまさった契約の仲保者なるイエス

ヘブライ8〜10章は、イエスの新しい契約の仲保者としての働きに焦点を当てます。古い契約はただ、来たるべき更にまさるものの影にすぎませんでした。祭司制度は、イエスが将来になさることを予表するためのものでした。祭司たちは、イエスを象徴していましたが、彼らは死ぬべき罪人でした。彼らはイエスが与える完全を提供することはできませんでしたが、「天にあるものの写しであり影」(ヘブ8:5)である聖所で仕えました。

イエスは真の聖所で奉仕され、私たちに神への道を開きます。動物の犠牲は人類のための犠牲としてのイエスを予表しましたが、その血は人の良心を清めることはできませんでした。しかし、イエスの死は私たちの良心を清めることができるので、私たちは大胆に神に近づくことができるのです(ヘブ10:19〜22)。

問6 
ヘブライ8:8〜12 を読んでください。神は新しい契約において、私たちのために何を約束してくださいましたか。

私たちの大祭司としてイエスが任命されることによって、天の父は、古い契約では予表することしかできなかったことを完成させる新しい契約を開始されました。新しい契約は、完全で永遠の、人間であり神である祭司にしかできないことを実現します。この大祭司は、神の律法を説明するだけでなく、私たちの心に律法を植え付けます。この祭司は、赦しをもたらす犠牲をささげます。私たちを清め、つくり変えます。彼は私たちの石の心を肉の心に変え(エゼ36:26)、真に新しく創造された者とします(2コリ5:17)。この祭司は信じがたい方法で私たちを祝福し、私たちが天の父のご臨在の中に近づく道を開いてくださいます。

未来のイエスの働きを指し示すものとして神が定められた古い契約は、その構想と目的において美しいものでしたが、その目的を誤って理解する者たちもいました。その象徴や影から離れることを良しとせず、象徴が指し示していた真理に固執し、イエスの奉仕が彼らに与えるすばらしい恩恵を逃したのでした。

「キリストは宮の土台であり、いのちであった。宮の儀式は神のみ子の犠牲を象徴していた。祭司職は、キリストの仲保者としての性格と働きをあらわすために設けられていた。いけにえをささげる礼拝の制度全体は、世の人々をあがなわれる救い主の死を予表していた。それらの献げ物が幾時代にもわたってさし示してきた大事件が完結されると、その献げ物にはもう何の効力もないのだった」(『希望への光』747ページ、『各時代の希望』上巻192、193ページ)。

さらなる研究

ヘブライ人への手紙は、すべての良いものと希望に満ちているにもかかわらず、そのクライマックスに近づく10〜12章には一連の勧告が記されています。この最後の部分には少なくとも二つの共通の要素があります。

第一は、荒れ野世代をこのヘブライ人への手紙の読者と対比していることであり、二番目は私たちに信仰を持つよう勧告していることです。

荒れ野世代は、エジプトから解放されたとき、さまざまなしるしや奇跡によって神の驚くべき力が解き放たれるのを見ました。彼らはまた、シナイ山で神が十戒をお語りになるのを聞きました。彼らは、夜は火の柱、昼は雲の柱が彼らを寒さや暑さから守るのを見ました。彼らは天からのパンであるマナを食べました。彼らはまた、どこで宿営していてもその場所の岩から湧き出る水を飲みました。しかし約束の地を前に神を信じることができなかったのです。彼らは神がお求めになったことの核心である信仰に欠けていたのでした。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブ11:6)。

パウロは、私たちも荒れ野世代のように、約束の地を前にしていると言います(ヘブ10:37〜39)。しかしながら、私たちの特権と責任は更に大きいのです。私たちはシナイ山で神の声を聞いてはいませんが、もっとすばらしいシオンの山におられる神を、聖書を通して見ています。すなわち、受肉された神イエス・キリストです(同12:18〜24)。問題は、私たちが信仰を持っているか否かです。ヘブライ人への手紙の著者は、イエスご自身の内にある偉大な品性の模範に倣うよう私たちに勧めています。

*本記事は、『終わりの時代に生きる─ヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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