【ヘブライ人への手紙】揺り動かされることのない御国を受ける【解説】#12

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今回の聖句であるヘブライ12:18〜29は、この手紙のクライマックスであり、繰り返されてきたこの手紙の中心思想のまとめでもあります。すなわち、神は御子の人格を通して私たちにお語りになったこと、私たちはイエスに心して耳を傾け、目を注がねばならないことです(ヘブ1:1、2、12:25)。同12:22 〜24のイエスの描写は、この手紙の彼についての主張を典型的に示しています。すなわち、イエスは新しい契約の仲保者であり、彼の血は信じる者たちに救いを与えます。私たちのための祭司として、また王としての働きをしてくださることは天使たちに祝福されます。そして最後に、同12:25〜29は、最後の訓戒のクライマックスの言葉を告げます。すなわち、神の裁きの時が来ること、その裁きによって彼の敵は滅ぼされること、しかし御国とその民は擁護されることを語ります(同12:28、29)。

この手紙の締めくくりは、イエスの十字架の功績の重要性を再確認し、信じる者たちをイエスの勝利の完成へと導きます。パウロはダニエル書7章の幻を引用し、読者たちに、イエスが裁き主なる神から御国を受け(ダニ7:9〜14)、信じる者たちと共に御国を分かち合い、「いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治める」(同7:18)と教えています。

シオンの山に近づき

問1 
ヘブライ12:22〜24 を読んでください。パウロはここで何を描写していますか。

ヘブライ人への手紙は、私たちがシオンの山に近づき、すばらしい祝いの集まりに参加することを告げます。「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり……です」(ヘブ12:22)。私たちは、人間の代表者としてのイエスにある信仰を通して近づいたのです。この祝いの集いには、無数の天使たち、神御自身、そしてこの祝いの中心であるイエスがおられます。私たちは、「天に登録されている長子たちの集会」の一員となります(ヘブ12:23)。私たちの名前が天の書に、神が公認されたリストに登録されるのです(出32:32、詩編56:9〔口語訳56:8〕、ダニ12:1、マラ3:16、ルカ10:20、黙13:8、17:8)。

私たちは、最もすぐれた長子であるイエス(ヘブ1:6)の財産を共有しているので、「長子」とみなされます。単にゲストとしてではなく、天の市民としてそこに集えるのです(フィリ3:20と比較)。私たちはまた、「完全なものとされた正しい人たちの霊」として描かれます(ヘブ12:23)。これは、私たち人間を〔肉と霊〕全体から成る存在とした上で、その中の一つの次元を強調する表現であり、ヘブライ12:9の「霊の父」が、霊性を持つ私たち人類すべての父としての神を意味しているのと似ています。

この祝いの集いは、イエスの王としての統治、祭司としての奉仕、そして新しい契約の開始を祝うものであり、シオンの山はこれらすべての出来事が行われる場所の象徴です。ヘブライ1:5〜14に見られる詩編からの三つの引用は、御子の即位式とそれがとり行われる場所としてシオンの山を描いています(詩編2:6、7、詩編110:1、2、詩編102:22〜28〔口語訳102:21〜27〕)。

シオンの山はまた、御子が「永遠に祭司」として任命される場所です(ヘブ5:6、詩編110:4)。詩編110編によれば、御子の大祭司としての任命もシオンの山で行われます(詩編110:2)。最後に、ヘブライ人への手紙はイエスの祭司の働きの開始は、新しい契約の開始であると論じています(ヘブ7:11〜22)。このように、シオンの山は新しい契約が批准された場所でした。ヘブライ12:22〜24は、その後、イエスが昇天されたときに天で行われる祝いの集まりを描きます。

 

すべての人の審判者である神に近づく

問2 
ヘブライ12:23 を読んでください。これが祝いの場であれば、なぜ神は審判者として描かれているのでしょうか。審判者は祝いの一部またはその理由となれるでしょうか。ダニエル7:9、10、13〜22も読んでください。

ヘブライ12:22〜24に描かれている祝いは、未来の裁きを予告しています。神は審判者として、書物を用いてその裁きの議長を務めます。この書物に基づく未来の裁きの結果、神の民は御国を受け継ぎます(ヘブ12:28)。この場面は、ダニエル7章の大いなる再臨前審判を想起させます。この裁きの場面で神は、「日の老いたる者」(ダニ7:9)として「幾千人」「幾万人」(同7:10)の天使たちに囲まれ、燃える炎の王座に着かれます。そして巻物が開かれ(同7:10)、「いと高き者の聖徒」のための正当な裁きがなされ、彼らは「国を受け」ます(同7:22、口語訳)。

同様に、ヘブライ12:22〜29は、「無数の天使たち」に囲まれて「すべての人の審判者である神」がおられるシオンの山、天のエルサレムでの裁きの場面を描いています。その神は「焼き尽くす火」(ヘブ12:29)でもあります。また、聖徒たちが「登録」されていると書かれていることから、書物も用いられており、これが彼らにとって有利な裁きが行われることを意味します(同12:23)。

この場面の中心にはイエスがおられます(ヘブ12:24)。彼はヘブライ2章では「人の子」(6節)として描かれ、わたしたちのために「死の苦しみ」を味わった後、「栄光と栄誉の冠」を授けられます(同2:9)。ヘブライ2:10によれば、「人の子」(同2:6)は「多くの子らを栄光へと導くために」苦しみを受けますが、それは信じる者たちが「栄光と栄誉の冠」を受けるためでもありました。「人の子」は今、信じる者たちを、新しい契約を通して天のエルサレム、シオンの山へと連れて行きます(同12:22〜24)。そこで彼らは約束の御国を受けます(同12:28)。

このように、この裁きは信じる者たちにとっては本当に良い知らせです。なぜなら、それは彼らのための審判であり、彼らを擁護するための裁きだからです。それは、かつて聖徒たちを迫害し(ダニ7章)、未来においても同じことをする(黙13章)彼らの敵である竜を打ち破るための裁きなのです。

天と地を揺り動かす

天での祝いの集まりについて描いた後にパウロは、神の御声に注意を払うようにと読者に警告します。神は、「もう一度、地だけではなく天をも揺り動か」(ヘブ12:26)されるからです。パウロは、イエスは天で即位されましたが、私たちの救いはまだ完成していないと言います。私たちはやがて起こるべき重要な出来事に注意を払う必要があるのです。

問3 
ハガイ2:6〜9、20〜22 を詩編96:9、10、詩編99:1 とヘブライ12:26、27を比較してください。神が天と地を揺り動かすとは、何を意味し、その目的は何でしょうか。

旧約聖書において、「地が揺り動く」は、神の、民を救うための降臨を表す一般的な表現です。デボラとバラクがシセラと戦ったとき、神は彼らのために天から参戦されました(士師5:20)。この時の様子が、神の臨在によって地は震え、山々は溶け去ったという大地震として描写されています(同5:4、5)。同じような描写が旧約聖書を通じて、虐げられた者たちを救うために神が現れたときに見られます(詩編68:8、9〔口語訳68:7、8〕、60:4〔口語訳60:2〕、77:18、19〔口語訳77:17、18〕)。このように、地が揺り動くことは、神の裁きのしるしであり、地上の民の上に神の権威を示しています。同様のことが「主の日」〔その日〕にも起こると預言されています(イザ13:13、24:18〜23)。

ヘブライ人への手紙では、天と地が「揺れ動く」ことは、神の敵の滅びを意味します。これは神が、イエスの即位において約束されたことです。神は彼に言われました。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」(ヘブ1:13)。このように、イエスは敵を倒して(同2:14〜16)、王座に着かれましたが(同1:5〜14)、まだ敵を滅ぼし尽くしていません(同10:11〜14、1コリ15:23〜25)。

しかし神は、神が天と地を揺り動かされるとき、これらの敵どもを滅ぼされます。このように、天と地を揺り動かすとは、神の民を迫害する地上の勢力の滅びを意味し、更には、地上の勢力の背後で彼らを支配する天上の勢力(サタンと彼の天使たち)の滅びを意味しています。

揺り動かされることのない御国

神は天と地を「揺り動かす」と言われましたが、それは敵国を滅ぼすことを意味します。そして、揺り動かされないもの、滅ぼされないものがあります。

問4
詩編15:5、16:8、21:8(口語訳21:7)、62:3(口語訳62:2)、112:6とヘブライ12:27を比較してください。揺り動かされないものとは何ですか。

現代の多くの翻訳においては、ヘブライ12:27の「天と地を揺り動かす」は、天と地が取り除かれること、あるいは永久に消え去ることが意味されています。

しかし、聖書は、神が新しい天と地を創造され(イザ65:17、黙21:1〜4)、私たちはその地で新しい体によみがえる(1テサ4:13〜17、フィリ3:20)と明確に告げています。ですから、「揺り動かすこと」は清めと創造の回復を意味しており、完全に取り除くことではありません。それは再創造であり、そこで贖われた者たちが生きるのです。

しかし、そこに揺り動かされない正しい人たちがいます。彼らは神に信頼しているので揺り動かされません。創造主が彼らを支え、彼らの命を保証されます。

ヘブライ人への手紙は、イエスを永遠性と不変性に結び付けて表現しています。ヘブライ1:10〜12はイエスについて、「主よ、あなたは初めに大地を据えた。もろもろの天は、あなたの手の業である。これらのものは、やがて滅びる。だが、あなたはいつまでも生きている。すべてのものは、衣のように古び廃れる。あなたが外套のように巻くと、これらのものは、衣のように変わってしまう。しかし、あなたは変わることなく、あなたの年は尽きることがない」と述べています。また、イエスの祭司としての働きは、贖われた者たちの受け継いだものと同様に永遠に残ると述べています(ヘブ7:3、24、10:34)。最後の裁きにも、「イエスにある」者たちは揺り動かされることはありません(詩編46:6〔口語訳46:5〕)。

ヘブライ12:28もまた、私たちは「揺り動かされることのない御国を受けている」と言います。これはダニエル7:18からの引用ですが、そこには聖者たちが「王国をとこしえに治めるであろう」とあります。この王国とは、ダニエル2:44で「この国は永遠に滅びることなく」と記されている国であり、この王国は御子に属すものですが、私たちと共に分かち合われます。黙示録20:4は、私たちはキリストと共に私たちを迫害した悪の勢力を裁くと述べています(1コリ6:3)。

感謝しよう

ヘブライ人への手紙は、この部分を締めくくるに当たって、私たちのために神がしてくださったすばらしいことのすべてに応えるには、それにふさわしい礼拝を神に献げることによって感謝を表すことであると指摘します。

問5 
ヘブライ12:28 をヘブライ13:15、16 と比較してください。私たちはどのように神に受け入れられる礼拝を献げることができるでしょうか。

古い契約制度では、人々が悔い改めと感謝を表す方法は動物の犠牲でした。しかし、これらの犠牲は礼拝者の心の内にある感謝と悔い改めのしるしでしかありませんでした。そのため、神は詩編の中で、そして預言者を通して、真に神に喜ばれるものは動物の血ではなく、礼拝者の感謝、善い行い、そして正しさであるとはっきり宣言しておられます(詩編50:7〜23、イザ1:11〜17)。

ですからパウロは、神が喜ばれる真の礼拝として、賛美と告白、感謝と善い行いのいけにえを献げることで天の聖所におられる神を礼拝するよう、私たちを招いているのです。私たちが地上で献げたいけにえは、天で神に喜ばれるものとして受け入れられます。これは、著者によってヘブライ人への手紙全体を通じてなされているイエスの御名を公に言い表すようにとの呼びかけ(ヘブ3:1、4:14、10:23)と、常に善い行いに励むことの勧告(同6:10〜12、13:1、2、16)を含みます。

聴衆に対するパウロの「神に喜ばれるよう仕えていこう」という招きは(ヘブ12:28)、信者たちが本当に今、イエスの犠牲によって完成され、聖なるものとされた祭司の国家となることを示しています(ヘブ10:10〜14、19〜23)。世界に救いの良い知らせが伝えられるという神が立てられたイスラエルに対する当初の目的は、この祭司の民によって成就されるのです(出19:4〜6、1ペト2:9、10、黙1:6、5:10)。

ヘブライ13:1〜6は、善い行いと私たちが持っているものを分かち合うとは何を意味するかについて具体的に語ります。それは、まさにイエスが私たちに示された兄弟愛を保つことであり(ヘブ2:11、12)、互いにもてなすことであり、牢に捕らわれている人たちや虐待されている人たちを思いやり(ヘブ13:3)、そして不貞や貪欲を避けることを意味するのです。

さらなる研究

「第一と第二の復活の間の1000年間に、悪人の審判が行われる。使徒パウロは、この審判を、再臨に続いて起こる事件として指し示す。『だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう』(㈵コリント4:5)。ダニエルは、日の老いたる者がきて、『いと高き者の聖徒のために審判をおこなった』と言っている(ダニエル7:22)。この時義人は、王、また祭司として支配する。ヨハネは、黙示録の中で次のように言っている。『また見ていると、数多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。』『彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に1000年の間、支配する』(黙示録20:4、6)。パウロが、『聖徒は世をさばく』と予見したのは、この時のことを指しているのである(㈵コリント6:2)。彼らはキリストと共に悪人を審き、その行為を法規の書すなわち聖書と照らし合わせ、それぞれのなしたわざに従って、すべての者に判決を下す。その時、悪人は、それぞれのわざに応じて、受けねばならない苦しみが定められる。そして、それが、死の書の彼らの名のところに記録される。

サタンと悪天使たちも、キリストとその民によってさばかれる。パウロは、『あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である』と言っている(同6:3)。また、ユダは、『主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた』と言っている(ユダ6)」(『希望への光』1921、1922ページ、『各時代の大争闘』下巻444、445ページ)。

*本記事は、『終わりの時代に生きる─ヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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