神は愛である【ヨハネの手紙】#9
「神は愛である」という聖句は、神が罪を重大視されないとか、あるいは神がすべての人をお救いになることの根拠として用いられることがあります。しかし、それは真実ではありません。イエスがこの世に来て、私たちの代わりに死なれたのは、神が愛であるゆえです。真の愛は厳格で、犠牲を払うものです。
贖罪についての真理
これらの力強い聖句(Iヨハ4:7~21)には、愛と救いとの関係が述べられています。「神は愛である」という真理は、十字架と直接的に結びついていて、それは神の自己犠牲と救いの愛についての究極的な証拠です。神の愛は決して漠然とした感情や無意味な言葉ではありません。むしろ、それは私たちの罪深い利己心に直接働きかける、活発で印象的な力です。
神が望んでおられることは、罪という損なわれた関係によって失われていたものの回復であり、天の父なる神に対する私たちの愛、自発的信頼の回復です。キリストは、十字架の上ですべての人の罪のために無限の苦しみを味わうことによって、すべての信じる人々がご自身と和合する道を備えてくださったのです。ここに神の求められるあがない( at-one-ment、一つになることの意味)、人類と神ご自身との和解があります。神は十字架の上でご自分の真の性質を実証し、すべての罪をあがなってくださいました。それによって、神は(利己的、無関心、厳格、残忍などという)ご自分に対する非難を完全に封じ込められました。まさに、「この蹟罪のうちに、神のご品性があらわされている」(「各時代の大争闘』下巻238ページ)。
愛の源泉(ヨハネの手紙一4章7節、8節)
神は愛であるという言葉は、ありふれた表現になってしまいました。私たちの愛についての観念は、今日の社会に見られる愛によって色づけられており、神の愛からはほど遠いものです。ヨハネは、愛が神の持っておられる特質であると言っているのではありません。愛は神の実際の性質を定義づけたものです。
「愛は神から出るもの」(Iヨハ4:7)という言葉は何を意味していると思いますか。あなたの考えを書いてください。
その字義通りすべての愛は神から出るものなのでしょうか。神が愛する能力の与え主であるという意味では、たぶんそうでしょう。しかし、私たちが愛と呼ぶところのものはほとんど、神の自己犠牲的なアガペの愛からかけ離れたものであり、このようなゆがめられた人間の愛を「神に似たもの」と呼ぶことは不遜です。「これが私の愛なので、神の愛もこのようなものだろう」と考えることによって、神を自分の想像に従って作り上げてはなりません。
ヨハネが霊感のもとで、以下の聖句の中ですぐ、に神の愛をイエスの来臨に結びつけているのは、たぶんそのためでしょう。サタンは愛の観念を完全にゆがめてしまったため、多くの人々は愛を人間の利己心や欲望を表すものと考えるようになりました。神の愛はコリント1・13章に述べられているような愛であって、自己の満足ではなく、他人の利益を追求するものです( I コリ13 :4~7 参照) 。
あるアドベンチストの学生が、アドベンチストでない大学教授と神の愛について語り合いました。教授によれば、神は全能で愛であるから、神の愛はいかに時間がかかろうとも「すべての人を征服する」。神は罪深い人間のために第2、第3、第4、第5の機会を備えておられるので、すべての人は結局、神の愛の力によって確信に導かれ、救われる、というのです。これは一種の普遍救済説です。
アドベンチストの学生の理解によれば、神の愛はそれ以上のものです。なぜなら、神の愛は拒絶することを許すからです。強制は愛に反することであり、権力を用いてすべての人が神を愛するように仕向けることは、神の権力の乱用になります。選択の自由を認めない神は、被造物に自分自身を強制する神です。それでは、神は私たちを選択の能力を持たない奴隷として創造したのも同然です。
愛の証拠(ヨハネの手紙一4章9節、10節)
神は私たちを救うためにこの世に来られました。イエスが来られたのは、「その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」(Iヨハ4:9)。(ヨハ10: 10参照)
あなたの子供が町の中で迷子になったと仮定してください。どういうわけか、家に帰ってきません。「私は子供を愛している」と口で言っても、実際に暗い町の通りに出て行って、必死に子供を捜さない限り、あなたの言葉は無意味です。
神は行為によってご自分の愛を示されます。「神の品性は、反逆した罪深い人類を救うために表された慈悲、憐れみ、同情、愛のうちに啓示されている」(「レビュー・アンド・ヘラルド』1891年3月10日)。
そうではありません。愛は神から出るものです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Iヨハ4: 10)。
「『彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ書53:5)。荒野の、ゲッセマネの園の、または十字架上のイエスをごらんなさい。一点の汚点もない神のみ子が、罪の重荷を負い、また神と共にいたもうた方が罪の結果である神と人との間の恐ろしい離別を経験したもうたのであります。そして『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』(マタイ27:46)という苦しい叫びがそのくちびるをついて出たのであります。罪の重荷、罪の恐ろしさ、神から遮断されることなどが神の子の心を砕いたのでありました」(『キリストへの道』8ページ)。
神は私たちの同意なしには私たちをお救いになりません(ロマ5:17)。しかし、どんな場合にも、私たちは自分で自分を救うのではないということを覚えるべきです。
「キリストが来られたのは、世に神の愛を表すためであり、すべての人の心をご自分に引き寄せるためであった。彼は言われた。『わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう』(ヨハ12:32)。救いに至る第一歩は、キリストの愛の導きに従うことである」(『セレクテッド・メッセージズ」第1巻323ページ)。
愛の結果(ヨハネの手紙一4章11節〜16節)
私たちは(だれも神を見たことがないので)実際に、物理的な形では神の愛を体験したことはありませんが、それでもある意味では人間の愛よりもより現実的な愛によって神と一体となっています。ある人たちは、神を見ることができれば、もっとはっきりと神の愛を体験することができるのに、と言います。しかし、三位一体の神(これらの聖句には、父なる神、御子、聖霊が言及されている)を通して、私たちは「わたしたちの内で全うされている」(Iヨハ4: 12) 最高の愛、すなわち霊的な愛にあずかることができます。
聖霊が私たちの心に臨在されることは、キリストと父なる神が臨在されることです(ヨハ14:18、23)。聖霊が私たちのうちに臨在される限り、聖霊の愛はたえず私たちの生活にみなぎります。聖霊の支配を失うときに、私たちの愛も失われます。私たちが聖霊の臨在によって神と交わるとき、イエスが私たちの救い主であるという確信は強まり、人々を心から愛することができるようになります。
「許しを与える神の愛を受け、また、その精神をあらわすために欠くことのできない一つのことは、神がわたしたちのためにいだいておられる愛を知り、かつ信じることです(ヨハネ第1・4:16参照)。わたしたちがその愛を認めないように、サタンはあらゆる欺きをもって働いています。彼は、あやまちや罪があまりに大きいので、主はわたしたちの祈りをかえりみてくださらず、わたしたちを祝福し、救ってはくださらないと思わせようとします。
わたしたち自身のうちには、欠点以外何も見られず、神にとって魅力のあるものは何も見られません。サタンは、むだだ、品性の欠陥を改めることはできないとわたしたちに告げます。わたしたちが神のもとに来ようとする時、敵は、祈ってもむだだ、あなたはあの悪事をしたではないか、あなたは神に対して罪を犯し、自己の良心にそむいたではないかとささやくでしょう。しかしわたしたちは、『御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである』と敵に告げることができます(ヨハネ第1 ・1:7)。わたしたちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのです。恥じ、誇りをいたく傷つけられているかも知れないが、祈り、かつ信じなければなりません」(『思いわずらってはいけません」151、152ページ)。
完全な愛(ヨハネの手紙一4章17節、18節)
ヨハネによれば、私たちが裁きの日に確信を持つことができるのは、私たち自身のゆえではなく、むしろ「この世でわたしたちも、イエスのようである」からです(Iヨハ4: 17)。ヨハネはまた言っています。「恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていない」(Iヨハ4: 18)。もし私たちの思いが「地獄の恐怖」や「黙示の不安」や「運命・災害」などで満たされているなら、それは神の愛に信頼していない証拠です。
「私たちは恐怖の奴隷になるには及ばない。神は私たちに言われる。『愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します』。
この聖句は恐れを抱いているすべての人に与えられている。これらの言葉のうちに、世の恐怖に対するあらゆる解答が与えられている。なぜなら、それは愛と定義されているお方、すなわち神の言葉だからである。この愛の関係には、恐怖はありえない。恐れは相手の人格に対する不安、信頼の欠如、深い疑いと関係がある。しかし、(愛に基づいた)この神との正しい関係には、完全に信頼できる保証がある。なぜなら、神の真の性質と態度が知られ、賞賛されているからである。
完全な愛は恐れを締め出す。この愛の完全性は神から来る。恐れを取り除くのは、神に対する私たちの愛というよりも、むしろ私たちに対する神の愛である。次の聖句に述べられている通りである。『わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです』。
ここで言われている愛は、軟弱で感傷的なものでもなければ、人間的な愛でもない。私たちの恐れを取り除く、神からの愛は、荒々しい、むき出しの、恐ろしい十字架である。この恐ろしい拷問の道具の上に、神の信じがたい愛が示されたのである。……神の品性と行為のゆえに、恐れに対するすべての理由が取り除かれた。
私たちの『スローガン』にもあるように、『完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴〔う〕……からです』」(ジョナサン・ギャラガー『恐れない理由』95、96ページ)。
いかに愛するか(ヨハネの手紙一4章19節〜21節)
エレン・ホワイトは、「愛は愛によってのみめざめさせられる」と言っています(『各時代の希望」上巻4ページ)。したがって、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(Iヨハ4: 19)。私たちの愛は自分自身から出たものであるとか、神は
私たちの愛に応答して私たちを愛してくださるとか考えるべきではありません。全く逆なのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Iヨハ4: 10)。
創造とあがないに示された大いなる愛によって、神は私たちの心に愛を目ざめさせてくださいます。しかし、神が私たちのうちに愛を目ざめさせてくださるのは、とくに私たちひとりびとりに対して個人的な関心を寄せてくださることによってです。反逆と悲劇に満ちたあなたの生涯を振り返り、神がどのように愛してくださったかを考えてみてください。神の大いなる愛を感じるときに初めて、私たちは神に引き寄せられます。豚を飼っている自分のみじめな境遇に気づいたあの放とう息子のように、私たちは天の父なる神のもとに帰る必要があります。私たちが疲れた足どりで家路をたどるとき、神は走り寄って私たちを迎え、雇い人としてではなく、完全な元の子供、父の完全な信頼にあずかる子供として歓迎してくださいます。
ヨハネは再び、私たちの行為が言葉を裏づけるものでなければならないことを強調しています。私たちは口で神の愛について「信心ぶったこと」を言いながら、態度で兄弟を憎むようなことをすべきではありません。律法学者が「わたしの隣人とはだれですか」(ルカ10:29)と尋ねたのに対して、イエスはすべての人が私たちの隣人であると教えられました。
もしあなたが目に見える兄弟を憎むのであるなら、目に見えない神を愛することができるでしょうか。多くの人々が神の品性を疑いやすいのは、神が目に見えないお方だからです。しかしもし本当に神が愛だと信じるなら、私たちは互いに愛するべきです。これは神の命令です(Iヨハ4:21)。もう一度、この聖句を読んでみてください。兄弟愛は、神が私たちに求められる重要な品性です。なぜでしょうか。私たちが自分よりも他人に関心を寄せていることを示すものだからです。
まとめ
神はその言葉と行為において愛です。神は私たちの罪のために死ぬことによって、また私たちひとりびとりを愛することによって、私たちのうちに愛を目ざめさせてくださいます。これらの方法によって、神は私たちを罪からお救いになります。神の完全な愛のゆえに、私たちはことに神に関しては恐れる必要がありません。私たちを神に似た者としてくれる神の恵みによって、私たちは裁きに対して確信を持つことができます。