善いことを見倣う【神は愛である—ヨハネの手紙】#13
この手紙に言及されている三人の人物のうちに、教会におけるクリスチャンの行動の三つの型を見ることができます。どれに見倣うかは私たちの自由ですが、その結果の違いは見極めておく必要があります。
見るものに見倣う
一人の人物によって支配される教会は戦場です。権力争いがクリスチャンの倫理や標準に取って代わり、その結果、クリスチャンにふさわしくない行動が見られるような教会では、教会員全体が傷つきます。
ヨハネが対処しなければならなかったのも、狭量な独裁者のように振る舞うディオトレフェス(デオテレペス)の抑圧的な支配下にあるこのような教会でした。ヨハネはその手紙の中で、互いに愛するとは、サタンから出るそのような影響力に対して断固とした姿勢をとることであると教えています。何が危険なのでしょうか。そのような指導者の行動を見ると、教会員は教会を離れるか、自分たちも彼の行動に見倣うかのどちらかです。どちらの行為も教会を非常に傷つけ、そのあかしの力を弱めます。
ある教会は長年にわたってこのような誤った支配に苦しみました。そのために多くの人々が傷つき、信仰生活に影響を受けました。主がその人を退けられたので、教会は発展と成長を続けることができました。私たちの影響力はそれほど重大です。私たちはいつでも善いことを見倣うように心がけなければなりません。
幸せな教会(ヨハネの手紙Ⅲ1節~4節)
ヨハネの関心は祈りと賛美となって表されています。これは、真理にあって互いに励まし合おうとしている私たちにとって良い模範です。しかし、悲しいことに、教会はいつでも幸せな場所であるとは限りません。教会員の中には、教会が楽しくない、他人のうわさ話ばかりで、真の友情がないと嘆く人たちがいます。これは、敵が戦いに勝利している証拠で、私たちは愛と真理と喜びの源である神に立ち返らなければなりません。
「真理にある」とはどういう意味ですか。あなたの考えを説明してください。
「真理に歩む(改訂標準訳では、従う)とは、単にそれに同意することではない。『真理に歩む』者とは、言うことと行うこととの間に矛盾のない、統一のとれたクリスチャンのことである。反対に、彼のうちには、信仰と行為の完全な一致がある。自分の子供たちの中の、このような生活と真理の調和が、ヨハネに何よりも大きな喜びをもたらした。ヨハネにとって、真理は重要であった。彼は神学的な問題を取るに足らない事柄とは考えなかった。彼の最大の喜びは、自分の子供たちが信じ、従っていた真理から来ていた」(ジョン・R・W・ストット『ヨハネの手紙』219、220ページ)。
私たちは「真理にある」という言い方をします。これはいくぶん霊的な尊大さを感じさせることがあります。真理が愛に満ちたクリスチャンの行動となって表されるときに初めて、私たちの主張は正当なものとなります。私たちはどのようにして周囲の人々にクリスチャンの愛と関心を表しているでしょうか。私たちはみな、他人の霊的幸福にもっと関心を寄せる必要があります。
「信仰を口で表明することと、心の中に真理を持っていることとは、全く別のことである。単に真理を知っているだけでは、十分ではない。真理の知識はもっていても、心の思いは依然として変わらないことが多い。心が改まり、清まらなければならないのである」(「キリストの実物教訓」71、72ページ)。
忠実な友、カイオ(ヨハネの手紙Ⅲ5節~8節)
教会員に対するガイオの忠誠心と愛のゆえです。ヨハネはガイオにクリスチャンの良さをさらに伸ばすように勧めています。ガイオもたぶん私たちと同じように、自分自身に確信がなく、困難や反発を招くかもしれない責任を引き受けるのをためらっていたでしょう。役員推薦委員会の席上、牧師はよく次のような声を耳にします。「私には時間がありません」。「私には資格がありません」。「私にはとてもできそうにありません」。
教会が必要とするもの、神が必要とされるものは、自分自身の都合を優先する人ではなく、どうしたら神の働きを推進する手助けができるかを考える人です。私たちはみな、ガイオのもてなしと励ましに見倣うことによって、自分の役割を果たすことができます。
自分には求められたことをする能力や資格がないと感じたときには、どのように考えるべきでしょうか。
「あなたには模範であるキリスト・イエスがおられる。彼の模範に従って歩きなさい。そうすれば、あなたは求められるすべての働きにふさわしい者とされる。……あなたは奴隷でなく、神の子であると考えるべきである」(『神の息子・娘たち」283ページ)。
私たちは何か必要を認めたなら、それを満たすように努力すべきです。ガイオは人々に責任を押しつけるようなことをしませんでした。私たちも率先して人々を助けるべきです。ヨハネは訪問伝道者について記しています。彼らは未信者の援助にではなく、同じくクリスチャンの寛大な施しに頼りました。ヨハネは言っています。「だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです」(Ⅲヨハ8)。
「自分自身を正しく用いることは、学ぶことのできる最も価値のある教訓である。私たちは頭脳労働をして事足れりとしてはならない。また、肉体労働をして事足れりとしてはならない。私たちは人間の機関を構成する様々な部分、すなわち頭脳、骨、筋肉、頭、心を最大限に用いるべきである」(「神の息子・娘たち」171ページ)。
権力と高慢の人、ディオトレフェス (ヨハネの手紙Ⅲ9節、10節)
ディオトレフェスは悪意に満ちた言葉を語り、他の教会指導者を受け入れず、教会の権威を濫用しました。このことは、彼が真理に従うと言いながら、実際には従っていないことを示していました。
「目的のためなら手段を選ばず」というやり方が、真のクリスチャンの美徳を捨ててまで自分の野心を満足させようとする人たちの特徴です。
「真理に逆ってうそをつくとはどのようなことであろうか。それは、真理を信じると言いながら、精神と言葉と態度においてキリストよりもサタンを表すことである。悪意を抱くこと、短気で不寛容なことは、真理に逆らってうそをつくことである。しかし、愛、忍耐、寛容は真理の原則にかなうものである。真理はつねに純粋で、親切で、利己心の混じっていない天の香りを放つ」(「レビュー・アンド・ヘラルド」1895年3月12日)。
ディオトレフェス(デオテレペス)とガイオはどんな点で対照的ですか。
この手紙から推測すると、二人共キリスト教に改宗し、神の動かされていました。ガイオは「初めの愛」を持ち続け、それ会と信者の間で良い行いとなって表されていました。一方、ディオトレフェスは教会を普通の組織、自分自身の権力の基盤と見なしていました。
ディオトレフェスデオテレペス)の自己愛は、神よりも優位に立とうと望んだサタンの先例に倣うものです(イザ14章、エゼ28章参照)。自己を誇示しようとする誘惑は個人と教会を動かして、ついにはクリスチャンにあるまじき行いへ駆り立てます。首位に立って他人を支配しようとする「独裁者」は、イエスの言葉に真っ向から逆らっています。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」(マタ20:25、26)。
尊敬された人、デメトリオ(ヨハネの手紙Ⅲ12節)
特別な理由はあげられていませんが、非常に重要なことが述べられています。「真理そのものが彼をほめている」(Ⅲヨハ12、現代英語訳)。ディオトレフェスを非難したあとで、ヨハネはガイオの支えとなってくれる人をひとりあげておきたかったのでしょう。同じ目的を持ち、行いによってその信仰を表すような良い友が教会にいるということは、すばらしいことです。
正しい言動は神から賞賛されることです。権勢欲と誇りに満ちたディオトレフェスとは対照的に、デメトリオは主の「要求」に従う者の模範です。主の求められることは、「正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと」です(ミカ6:8)。
ヨブが悩みと苦しみから解放されたとき、神は、ヨブがその友人たちと違って正しい者であったと言われました。デメトリオもそのような人でした。この神からの賞賛に加えて、ヨハネは自分自身のあかしについて述べ、デメトリオが信頼に値する人であったと言っています。彼はこのことを強調して次のように言っています。「そして、あなたは、わたしたちの証しが真実であることを知っています」(Ⅲヨハ12)。真のクリスチャンの間にいかに信頼が必要であるかがわかるでしょう。
率直に言って、あなたは自分のどんな点が賞賛に値すると思いますか。人から良く言われるだけで十分ですか。
私たちはみな誤りを犯しますし、その判断も欠点だらけです。したがって、私たちの求めることは人から良く言われることではなく、神から喜ばれることであるべきです。私たちには何か功績がいるでしょうか。私たちの墓碑銘には何と書かれるべきでしょうか。
自分で墓碑銘を書く人もいれば、他人に書いてもらう人もいます。しかし、クリスチャンにとって望ましいのは、神に自分の墓碑銘を書いていただくことです。「神の友」と呼ばれることこそ、最も願わしいことです。
デメトリオの働きはあまり目立ったものではありませんが、賞賛という点では、彼は私たちの模範です。私たちの役割も中心的なものではないかもしれませんが、それでも各自がデメトリオのように賞賛に値する働きをすることができます。
善いことを見倣う(ヨハネの手紙Ⅲ11節、13節、14節)
残念なことですが、人間は良いものよりも悪いものをまねることが多いようです。ヨハネはこの短い手紙を結ぶにあたって、良いものを見つけ出して、それに見倣うように勧めています。彼が特にそう言ったわけではありませんが、ヨハネは、パウロの指導に従って、「あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい」(Iコリ4: 16)と勧めることができたはずです。ヨハネは、イエスとの親しい関係のゆえに、模範として見倣うにふさわしい人物でした。
「純粋な人たち、善良であって善をなす人たちは、イエスのすぐ近くにいる。イエスが最も愛された弟子はヨハネであった。なぜなら、ヨハネはイエスの品性を最もよく見倣い、愛の精神に満ちていたからである」(『原稿集」第11巻26ページ)。
この世においては、信頼できる指導者を見つけることは困難です。教会指導者は正しい行いと健全な教えの模範であるべきです。私たちは謙虚な心をもって、人々に指導者の良い点を見倣うように勧めることができます。「善を行う者は神に属する人」だからです(Ⅲヨハl1)。
明らかに、善なるものの源である神ご自身に求めるべきです。再び、私たちはヨハネの文書のテーマである神なるキリストに戻っていきます。
ヨハネがこのテーマに関して述べていることを復習してください。たとえば、ヨハ1:18、12:45、14:9、1ヨハ4:14、15、5:11、12、Ⅱヨハ9参照
私たちはヨハネの言葉をいつも心にとめるべきです。ヨハネ1章とヨハネ1・1章をもういちど読んでみてください。神がイエスにおいてはっきりと啓示されていることについて、ヨハネが何と言っているか復習してください。イエスの生涯、あがないの死、復活、天における働き、再臨について考えてください。滅びゆくこの世界に対して、私たちは何を伝えたらよいのでしょうか。
まとめ
初期の教会と同じく、今日の教会は内外に様々な問題を抱えています。したがって、私たちはみな善に見倣い、真実で正直な信仰生活を送る必要があります。最大の目標は神の賞賛にあずかることであり、神との、また各時代の救われた人々との永遠の交わりに入ることです。
*本記事は、ジョナサン・ギャラガー(英:Jonathan Gallagher)著、1997年第2期安息日学校教課『神は愛である ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』からの抜粋です。