全的確信【神は愛である—ヨハネの手紙】#11
しばしば私たちの確信を失わせる世界にあって、私たち最高の確信の源である偉大な、栄光の神に頼ることができます。
「確信の輪」
何年か前、イギリスのテレビで、ある会社の歯磨き剤の宣伝が放映されていました。キャッチフレーズは「確信の輪」で、それが出ると同時に画面の俳優たちの首に光の輪が現れ、「ポーン」と音がするのです。その歯磨き剤を使えば、安全な確信が持てるということを印象づけるのが目的でした。
しかし、実際に人生を変えるような確信は歯磨き剤から来るものではありません。それは、私たちに永遠の命を与えてくださる神、必ず聞き入れてくださるという確信を持って近づくことのできるお方(Iヨハ5:14)を知ることから来るのです。私たちが礼拝するのは偶像ではなく、偉大な栄光の神です。神はその憐れみのゆえに、ご自分の反逆的で恩知らずの子らに救いを与えるために来られました。神は私たちをご自身に和解させてくださいました。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブ4:16)。
「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります」(ヘブ10:35)。
神に対する確信(ヨハネの手紙一5章13節、14節)
ヨハネは神の前で何ら恐れることがないという確信を持っています。彼は神の性質と品性について知っており、それゆえに神と神の目的に対する疑い、恐れ、不安はすべて消えていました(Iヨハ3: 21、22、2:28参照)。このような確信を持つためには、つねに神のうちにとどまる必要があります。私たちは父と子の親しい関係の中で「神のうちに」とどまり、神のお喜びになることを行う必要があります。
「キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」(エフェ3:12)。ある人たちはこれを、神が遠く離れた、あるいは敵対的なお方なので、私たちは御子の仲介によって神に近づく必要があるという意味に解釈します。これは全くの誤りです。私たちが神に近づきたいと願うのは、イエスによって神についての真理を理解するからです。もしイエスに近づくことができて、神に近づくことができないというのであれば、キリストの神性について何と考えるのでしょうか。私たちが確信をもって神に近づくことができるのは、神であるイエスが完全な生涯を送り、私たちの罪のために死に、それによって神の真の品性を疑いの余地がないくらいにはっきりと示してくださったからです。私たちが信頼に満ちた確信をもって大胆に神に近づくのは、イエスに信頼しているからです。私たちは自分から進んで神に近づくのです。
自分の祈りは神のもとに届いていないのではないかと心配する人たちがいます。ヨハネ1 ・5:14はこのような思いを取り去ってくれます。私たちは感情の上に自分の信仰を確立すべきではありません。私たちが罪のうちに生きることによって自ら神との関係を断絶しない限り、神は私たちを無視したり、お聞きになることを拒んだりなさいません。大切なのは「神の御心に従って」求めることです。私たちはしばしば必要のないものを横柄に要求することがあります。私たちはキリストの謙そんを学ぶ必要があります。神は信頼する友であって、私たちの望みをかなえる「自動販売機」ではありません。
神はいつでも聞き入れてくださる(ヨハネの手紙一5章15節)
ヨハネ1・5:15はどのように理解すべきですか。
求めるものは何でも与えられるということでしょうか。ハリー・エマーソン・フォズディックは次のように言いました。「神はボタンひとつで何でも届けてくれる宇宙の給仕人ではない」。これでは一方通行的な関係にならないでしょうか。
この聖句は先に述べられている内容と照らし合わせて考える必要があります。これまで述べられてきたことは、神の御心に従うということ、神と隣人に愛を表すということ、神の親しい友となるということでした。イエスの教えられた通り、父なる神は私たちに最も益となる賜物を与えてくださいます。パンを求めるのに石を与えるようなことはありません。このように、「願い事」に対する神の答えは、私たちの信仰経験によって決まります。それは私たちの益となるものであって、害となるものではありません。
祈りは、神のまだ知らないことを神に教えることでしょうか。神を説得して何かをしていただくことでしょうか。それとも、神が本当に神であることを立証することでしょうか。そうではありません。私たちが祈るのは、神に教えるためでも、神を説得するためでも、神の虚栄心を満足させるためでもありません。神は私たちを助けようとしておられるのであって、ご自身を喜ばせようとしておられるのではありません。
「祈りとは、友だちに語るように、心を神に打ち明けることであります。これはなにも私どもがどんなものであるかを神に知らせる必要があるからではなく、私どもが神を受け入れるのに必要だからであります。祈りは、神を私どもにまで呼びおろすのではなく、私どもともを神の許へひき上げるのであります」(『キリストへの道』126、127 ページ)。
「祈りには、形式の祈りと信仰の祈りの二種類がある。心に神の必要を感じていないのに、決まりきった習慣的な文句を繰り返すのは形式的な祈りである。キリストは言われる。『あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる』。祈るときにはいつでも心の必要を語り、本心だけを述べるように細心の注意を払うべきである。私たちが自由に口にするどんな飾り立てた言葉も、聖なる願望の一つに匹敵しない。どんなに雄弁な祈りも、もしそれが心の真の思いを表していないなら、むなしい反復にすぎない」(エレン・G・ホワイト『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1 884年8月14日)。
人々の罪のために祈る(ヨハネの手紙一5章16節、17節)
悲しいことに、私たちはとかく非難し、さばきがちです。律法学者とファリサイ人が姦通の場で捕らえられた女をイエスのもとに連れてきて非難したように、私たちも兄弟姉妹の罪を暴露・公表しがちです。自分を良く見せようという思いから、堕落に陥った友人を指さして、聖人ぶった態度をとるのでしょう。
むしろ、悲しみと支援の態度によって、相手を助け、回復するように努めるべきです。ヨハネが言っているように、「その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります」(Iヨハ5: 16)。神は広い心を持ったお方で、「一人も滅びないで皆が悔い改めるように」(Ⅱペト3:9)望んでおられます。神は罪に陥った人をいつでも救い、力づけ、回復してくださいます。私たちは「いちど救われた者は永遠に救われている」という教理を信じるものではありませんが、自分たちの態度によって「いちど失われた者は永遠に失われている」という印象を与えかねません。
この聖句に基づいて、罪には「大罪」と「小罪」があるという奇妙な教理を作り出した人たちがいます。しかし、罪は罪であり、神のゆるすことのおできにならない唯一の罪は、真心からゆるしを求めない罪です。イエスが言われたように、聖霊を冒涜することはゆるされません(マル3:29)。なぜなら、罪を自覚させてくださるのは聖霊だからです(ヨハ16:8~11)。したがって、罪の自覚に逆らうことは罪を否定することであり、ゆるしと回復を与えようとする神の意思を拒絶することです。神はご自身を拒む者たちにご自身を強制されません。
「もし絶えず心を主にとめ、心が主に対する感謝と賛美で満たされているなら、私たちの信仰生活はつねに新たにされる。私たちは祈りによって、友と語るように神と語るようになる。神はご自分の秘密を私たちに個人的に明かしてくださる。イエスの臨在がしばしば、甘美な、喜ばしい実感として訪れるようになる。……祈りはサタンの攻撃をかわす」(『私を生かす信仰』225ページ)。
主にあって安全(ヨハネの手紙一5章18節、19節)
この聖句は特に罪から安全に守られていることについて述べています。これは、神が私たちに選択の余地をお与えにならないという意味ではなく、むしろ私たちが「誘惑に遭わせず」と祈るときに、愛する主の御手のうちに安全に守られることを選ぶようになるという意味です。
ヨブとその苦難からもわかるように、神は苦しみや誘惑が来るのを防止されません。それらは神に、私たちがどのような者であるかを悟らせるためのものではなく、私たち自身、周りの人々、傍観する全宇宙に確信を与えるためのものです。「わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです」(Iコリ4:9)。私たちが罪から守られるのは、誘惑が私たちから取り除かれることによってではなく、私たちがそれにふさわしく対処することによってです。私たちは「恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただく」ことができます(ヘブ4:16)。私たちが神の側に立つとき、一時的な苦しみはあっても、サタンは私たちに危害を加えることができません。私たちが神に信頼する限り、神は私たちを安全に守ってくださるからです。「神からお生まれになった方」イエスが、私たちを「守って」くださいます(Iヨハ5: 18)。
自分はいま経験しているような刑罰の原因となるようなことは何もしていないと、ヨブは言いました。これに対して、ヨブの「慰問者たち」は、自分らの神に対する理解を強調し、神がヨブにそのようにされたのはヨブに悔い改めが必要だったからであると反論しました。実際的な模範として、物語の終わりでヨブは慰問者たちの罪のために祈っています(ヨブ42:8、10)。
「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです」(Iヨハ5:19)。この「所属」についての考えは非常に重要です。現状においては、この世はサタンの支配下にありますが、それにもかかわらず、私たちは神の家族に属することを選んだのです。その結果、たとえこの世では「寄留者・異国人」となろうとも、私たちはすでに王の再臨によってまもなく安全に確立される神の王国の一員です。私たちはつねに自分の属するところに固く立ちたいものです。
神との一致(ヨハネの手紙一5章20節、21節)
私たちは「神の内に」あります。英語現代訳によれば、「わたしたちは真の神との一致の中に、その御子イエス・キリストとの一致の中に生きています」(Iヨハ5:20)。私たちは神と関係を結び、神と一致しており、神と和解しているので、意思・目標・目的において神と調和しています。つまり、私たちは真に神と「ひとつ」なのです。
特に次の点に注目してください。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。……わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。……彼らが完全に一つになるためです」。
言葉というものは、あまり一般的になるとその効力を失うものです。イエスがここで言っておられることにもういちど注目してください。私たちは、イエスが神と一つであられるように一つになるべきです。同じように、ヨハネはその手紙を書き終えるにあたって、私たちが神に対する信仰を共有することによって表すべき一致を強調しています。ヨハネが戒めている分裂的、破壊的な態度の入り込む余地はありません。私たちはみな、すべての点で一致するとはできないかもしれませんが、一つになることは可能です。
「信仰によって、私たちは決して終わることのない関係に入る。私たちは神のうちにおり、神はその民である私たちのうちにおられる。こうして、私たちは可能な限り緊密にキリストのうちにあり、神はご自分の尽きることのない命、永遠の命を私たちに分け与えてくださる。ここに、究極の、絶対的な真実、真理がある」(デビッド・ジャックマン「ヨハネの手紙のメッセージ』171ページ)。
「キリストが私たちに望まれることを理解することによって、またキリストの言葉をそのまま受け入れることによって、キリストをあがめることができるように、私は心から願う。もしそうすることができるなら、私たちは快活なクリスチャンになることであろう。キリストをながめることによって、私たちは彼の姿に変えられる」(『天をながめて』359ページ)。
まとめ
神にある命とは、神と一つになることです。それは神の救いといやしに全的に信頼することによって与えられます。神を真に理解することによってのみ、私たちは心から神に信頼し、祈りの効力を信じ、絶対的な確信をもって神のもとに来ることができます。神は私たちを永遠の命に招いておられます。