勝利【神は愛である—ヨハネの手紙】#10
信仰によってキリストの犠牲を受け入れ、キリストとの新しい関係を持ち続ける人たちは、罪に打ち勝つ力と永遠の命の賜物にあずかります。
競走に勝つ
「世は勝者を愛する」といわれます。この世の勝利者に与えられる賞賛を見れば、この言葉が真実であることがわかります。金メダルの受賞者、宝くじの当選者、国際競技の優勝者、その他あらゆる分野における勝利者は、賞賛を受け、富と名声を手に入れます。「勝者はすべてを独占する」ことさえあります。
聖書もまた勝利について語っています。しかし、クリスチャンの競走は他人との競走ではありません。マラソンのランナーと異なり、クリスチャンの最大の目標は最初にゴールを通過することではなく、最後まで走り抜くことです。コースを完走することが最大の目標です。パウロは次のように言っています。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」(2テモ4:7、8)。
私たちの目標は勝利者となること、すなわち「信仰によって世に打ち勝つ」ことです(Iヨハ5:4、現代英語訳)。そのためには、一意専心、ただ十字架につけられたキリストだけを知るように努めなければなりません。私たちは次のように言うことができるでしょうか。「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(使徒言行録20:24)。
神から生まれる(ヨハネの手紙一5章1節、2節、4節)
新生思想がイエスの教えの中心にあります。手直し、変更、改善では不十分です。イエスの言われる回心は完全な変化であり、全面的な改造であって、新生という象徴だけがそれにふさわしいものです。
この言葉は多用(あるいは乱用)されるあまり、その真意が失われてしまっています。私たちはニコデモのように驚きをもって応答する必要があります。―もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。
誕生は、母親、父親、子供、そして周囲のすべての人々にとって最も驚くべき経験の一つです。自分の子供が誕生する場に立ち会うことは、父親にとって感動的な経験です。新しい生命が誕生するのです。
神から生まれた私たちも、これと同じです。私たちは今、イエスを救い主また主として受け入れているゆえに、愛される子供として父なる神につながっています。
この新生の結果を別の言葉に言い換えると、父なる神を愛することは子を愛することであるとなります。ヨハネによれば、家族は互いに愛し合います。これは霊的な家族にもあてはまります。神の子らを愛さずして神を愛することはできません。だれがオルガンを弾くべきか、どの駐車場にだれが車を止めるべきかといったささいなことで言い争うとき、クリスチャンはこのことを忘れています。すぐに人を愛することを忘れてしまうとは、何と悲しいことでしょう。
原文の意味は、私たちは贈り物を信じるゆえに神から生まれた者である、です。イエスが啓示された真理は、神の子らとしての永遠の命が、今、ここにおいて始まるということです。これは一回限りの経験ではありません。一度生まれても、家族の一員であり続けるように、私たちは神の家族の一員であり続けるのです。「イエスが神のキリストであることを本当に信じる人はみな、自分が神の家族の一員であることを身をもって示すのです」(Iヨハ5:1、フィリップス訳)。特定の家族の一員として、その家族に共通の経験と目的に従い続けるときにのみ、私たちはその家族の一員とみなされるのです。
神の命令(1ヨハ5:2、3、4)
神を愛し、神に従うことによってです。これは不思議な答えです―あるいは、そのように思われるかもしれません。しかし、実際には、どちらも互いに真実を述べているのです。あなたがクリスチャンであることは、あなたの言うことによってではなく、あなたの行うことによって証明されます。あなたが神を愛していると言えば、すぐにそう信じるでしょう。それを否定するだけの直接的な証拠がないからです。同じように、ヨハネがすでに述べているように、神を愛することは神の子らを愛することによって証明されます。逆のことも言えます。神の子らを愛することは神への愛と服従によって証明されます。私たちは人々を愛していると主張するかもしれません。しかし、心から神を愛し、神の律法に従っていなければ、そのような主張には何ら本質的な価値はありません。
これは、福音書の中で自らを「イエスの愛しておられた弟子」と呼んでいるヨハネによる正直な答えです。なぜなら、愛の関係がある限り、イエスの命令は決して重荷や障害とはならないいからです。イエスはご自分の「軛は負いやすく」、「荷は軽い」と言われます(マ11:30)。神の命令に従うとは、「言われた通りにしないと、ひどい目にあうかも」といったことではなく、むしろ愛の心から自然に生まれるものです。それは聖霊の力によってもたらされます。これと対照的なのは、黙って苦しみに耐え、律法を守ることです。それは愛の心から自発的に出るものではなく、もやもやした反逆の精神から出るものです。
「父なる神の意思にいやいや従うことは、反逆者の品性を発達させる。そのような人にとって、奉仕は骨の折れる仕事となる。それは喜んで、神の愛からなされるのではなく、単なる機械的な作業となる。挑戦を受けると、そのような人は反逆する。彼の反逆は内にくすぶっていて、ひどいつぶやきや不平となっていつでも爆発する。そのような奉仕は魂に何らの平和も静けさももたらさない」(『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1897年7月22日)。
信仰による勝利(ヨハネの手紙一5章4節、5節)
「わたしたちの信仰」です。危険なのは、私たちが自分自身の力によって勝利を得ると考えることです。「信仰」とは何なのかを、もっとよく見つめる必要があります。
信仰は何かの物体や物質ではありません。それは重量や容量で測定することのできないものです。信仰は関係を表す言葉であって、だれか(または何か)を信じることです。私たちはただ単に「信仰を持つ」ことはできません。それはつねに、だれかを信じることでなければなりません(Iヨハ3:23、5:5、ロマ10: 17参照)。
さらに言えば、信仰は何か神秘的なもの、未知なものでもありません。聖書の信仰を定義すれば、神に対する信頼です。それは神、その頼もしさ、またその救いの力に対する確信を意味します。
したがって、「わたしたちの信仰は世に打ち勝つ」とは、「神に対するわたしたちの信頼は世に打ち勝つ」という意味です。ここで強調されるのは私たちではなく、神の力と恵みです。
「性急な推測と理性的な信仰の確信とを混同している人が多い。……神は信仰と服従を条件として人に尊い約束を与えておられるが、それらは性急な行為において彼を支えるものではない」(エレン・G・ホワイト「レビュー・アンド・ヘラルド」1875年4月1日)。
「神はすべての魂に十分な証拠をお与えになる。神はすべての疑いを取り除くとは約束されないが、信仰に必要な根拠をお与えになる」(エレン・G・ホワイト「レビュー・アンド・ヘラルド」1899年1月24 日)。
「神から思考力を与えられた人はみな、理性的なクリスチャンになることができる。彼らは証拠もないのに信じるようには要求されていない。したがって、イエスはすべての人に聖書を調べるように命じておられる。賢明な探究者や自分で真理を知ろうと望む者は、自分の知性を働かせて、イエスにある真理を探究すべきである。……主はすべてのクリスチャンに、理性に基づいた聖書の知識を要求される」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』1 887年3月8日)。
水と血(ヨハネの手紙一5章6節~8節)
これらはキリストが死なれたときの「水と血」を思い起こさせますが、ここでのヨハネの言葉の前後関係を見ると、これらの象徴にはさらに深い意味のあることがわかります。ヨハネが特に心を砕いていたのは、イエスがバプテスマのときまではただの人間であり、バプテスマにおいてキリストがイエスに下り、死の直前までとどまられたという主張に反論することでした。この理論は、物質が悪であると信じる人たちに広く受け入れられていました。神がこの悪の世界の一部になるということは考えられないことでした。まして、人間になるということはありえないことでした。それゆえに、ヨハネははっきりと、「この方は……水だけではなく、水と血とによって来られた」(Iヨハ5:6)と言っているのです。
イエスの死と復活が意味するところのものを端的に表すこの言葉は、確かにすぐれた、そして完全に聖書的な概念です。しかし、私たちは誤解しないように、象徴を文字通りの意味に解釈しないように注意しなければなりません。「血には力がある」と歌うとき、私たちは血に文字通りの力を認めるわけではありません。力が与えられるのは、キリストが私たちの罪のために最終的な刑罰を負われたので、今やすべての罪から私たちを清めることがおできになるという事実のゆえです。キリストによるあがないの賜物は、つねに清めの賜物と関連があります。血は、神が私たちを救われる方法、すなわちキリストの血と清めの力を表しています。
普通の経験においては、血は清めはしません―むしろ、その反対です。しかし、旧約の犠牲制度の象徴においては、血は罪と罪の結果を除去する手段とされていました。もちろん、これも文字通りのものではありません。実際に罪から清めたのは、雄牛や雄山羊の血ではなく、神でした。当時、また現在における神の御心は、私たちが罪とその結果の重大性を理解し、ゆるしといやしを求め、これらの実現のために神に頼ることです。
神のあかし(ヨハネの手紙一5章9節〜12節)
神のあかしは確認する必要のないものであると言う人たちがいます。彼らは標語のように次のように言います。「神はそう言われた。私はその通り信じる。必要なのはそれだけ」。もしこれが神のなさることなら、それでもいいでしょう。全宇宙の創造者、維持者である神は、思いの通りになさるからです。
しかし、神に関する限り、神の言われることを確認し、それが真実であるか否かを確かめることは、神に喜ばれることです。ヨハネは、「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています」(1ヨハ5:9)と言っていますが、これは神がその大いなる力のゆえに信じるべきお方であるという意味ではありません。むしろ、神のあかしが「更にまさって」いるのは、それが内住する聖霊によって信者に与えられているからです。それゆえに、神のあかしは道理に合い、真実で、正しいのです。神が御子について言われたことは非常に重要です。そこですぐに思い出すのは、イエスのバプテスマと変容において天から下った声です。神の命令は、「これに聞け」(マタ17:5)です。
これははっきりと示されています。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです」(1ヨハ5:11)。神が伝えようとされるメッセージは、単なる計画や布告ではありません。神のあかしは、キリストの生、死、復活を信じるなら、永遠の命の賜物を受けるということです。
結局のところ、これらは何を教えているのでしょうか。それは、私たちがキリストを離れては霊的に死に、神に反逆しており、救いといやしを受ける唯一の希望は、私たちの愛する救い主によって恵みのうちに提供されている救いを受け入れることにあるということです。フィリップスはローマ6:23を次のようにわかIツやすく訳しています。「罪はそのしもべたちに支払うのであるが、その報酬は死である。しかし、神はご自分に仕える者たちに与えられるが、それは神の無償の賜物であり、私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命である」。
罪の本質的な結果は死です。これには、疑いの余地がありません。イエスは十字架の上で、沈黙のうちに、しかし雄弁に、この厳然たる事実を明らかにされました。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(Ⅱコリ5:21)。キリストはその死と復活において、神の恵み深い永遠の命の賜物を啓示されます。
まとめ
私たちは神に信頼することによってのみ勝利することができます。神は勝利者だからです。神のかたちに生まれ変わるときに、また「水と血によって来られた」御子についての神ご自身のあかしを受け入れるときに、私たちは「神が永遠の命をわたしたちに与えられた」ことを確信することができます。