失うことなく【神は愛である—ヨハネの手紙】#12
せっかくここまで信仰生活を送ってきたのに、今あきらめ、失ってしまうのは愚かなことです。報いを受けることを考えているからではありません。最後まで耐え忍んで、真理と愛の主と共に永遠に生きたいと願うからです。
真理にとどまる
教会の現状を聞くと、本当は「顔を合わせて」話したかったのですが、ヨハネは急いで手紙を書き、その中で自分の愛と関心について述べます。
彼が強調しているのは、失ってはならないということです。今あきらめるのは愚かなことであると、彼は言っています。同じことが今日の私たちについても言えます。今、真理を捨てるのは愚かなことです。私たちの周り、教会の中には、様々な問題や困難があります。しかし私たちは、自分がどのような存在であるか、また愛する主がどのようなお方であるかを覚える必要があります。惑わす者たちが周囲にいます。しかし、私たちは惑わされるには及びません。
この霊感の手紙は私たちに「愛のうちに歩みなさい」と命じています。それは私たちに霊的な優先順位について教えています。
ある少年が学校のマラソン競走で2位を走っていました。そのとき、すぐ後ろの少年の靴が脱げたので、彼は助けてあげました。すると、その少年は先に走り出し、助けた方の少年は3位になりました。
この話はクリスチャンとしての私たちのあるべき態度を例示しています。世の人々はこの世の競走に勝って賞を得ることだけを考えていますが、私たちは人々に対する愛と関心を第一にすべきです。
私たちの生き方は神の愛を反映したものでなければなりません。
真理と愛の聖なる調和(ヨハネの手紙二1節〜3節)
これらの語はこの短い手紙の中で共に6回繰り返されています。ヨハネが強調しているこれらの主要な概念は、彼の最初の手紙と福音書の中心となっています。愛のない真理は冷たく、形式的で、正しくても魅力がありません。真理のない愛は偽りで、不誠実で、愛情はあっても正当ではありません。
ヨハネは神を真理と愛に満ちたお方として提示することによって、神がどのようにお働きになるか、また神が私たちにどんな応答を求めておられるかを明らかにしています。神と神の統治の原則は、これら2本の柱によって支えられています。真理と愛が美しく調和しているなら、クリスチャンの生き方にはっきりした結果が見られます。
「もし真理と愛の神聖な調和が心の中にあるならば、それはことばや行動の中に輝き出るであろう。……ほんとうの慈悲の精神は心の中に宿っていなければならない。愛はそれをもっている人に、上品さや礼儀正しさや優雅な態度を与える。愛は顔を明るくし、声を和らげる。またその人全体を優雅にし高尚にする。愛はまた彼を神と調和させてくれる。なぜなら愛は天国に所属する特質だからである」(『アドベンチスト・ホーム』484ページ)。
真理は「わたしたちのうちに住み、また永遠にわたしたちと共にあります」(Ⅱヨハ2、英語新国際訳)。私たちもこのような確信をもって手紙を書くことができるでしょうか。真理は私たちのうちに住み、永遠に私たちと共にあるという確信があるでしょうか。
「神は、人が小石を地面に投げるようにたやすくサタンとその同調者たちを滅ぼすこともおできになった。しかし神はそうなさらなかった。反逆を暴力によって征服してはならなかった。強制的な力はサタンの統治だけにみられるものである。主の原則はこのような種類のものではなかった。主の権威は、恩恵、あわれみ、愛の上におかれている。このような原則を示すことが用いるべき手段である。神の統治は道徳的であり、真実と愛が有力な力となるのである」(『各時代の希望』下巻283ページ)。
新しい淀ではない(ヨハネの手紙Ⅱ4節~6節)
新しい掟を与えてくださったのはイエスご自身でした(ヨハ13:34)。当時の人々にとってそれは新しいように思われたかもしれませんが、決して新しい掟ではありませんでした。それは初めからあった神の意思と品性の表れでした。ヨハネが最初の手紙の中で述べている通りです。「わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」(Iヨハ2:7、8)。神の掟はイエス・キリストにおいて新しくなります-それは彼のうちにはっきりと啓示されています。この掟はイエスの教えの中心にあります。
真の服従は真理のうちに歩むことから来ます。それは力や強制によって得られるものではありません。これは重要な点です。なぜなら、サタンは神を強制的に服従させるお方として宣伝しているからです。強制は神によって承認されたものであるという考えは、すべての人間的な宗教に見られます。しかし、イエスが愛の掟を強調しておられるので、神が強制や圧力によってご自分の子らを服従させるということはありえません。事実、このような力と強制の原理によって行動することは、途方もない代価を払って達成された大争闘とその結果を無効にすることになります。もし神が力によってその目的を達成することができるのなら、なぜそうされないのでしょうか。なぜ初めからそのようにされなかったのでしょうか。
「もし人に確信を与えようとするなら、イエスのうちにある真理が彼の心に示され、その心に訴える必要がある。キリストは強制、制限、力といった、その他のすべての方法を拒まれる。キリストのただ一つの武器は真理と愛である。彼は言われる。『わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう』。堕落した人類は、どんな立場にでも強制されるのではなく、引き寄せられるのである」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』1898年6月28日)。
惑わされてはならない(ヨハネの手紙Ⅱ7節、8節)
ヨハネの時代の惑わす者たち(Ⅱヨハ7)のように、イエス・キリストについての真理を認めようとしない、現代の惑わす者たちの実例をあげてください。
状況は今日も変わっていません。ヨハネは、キリストが実際の人間でなかったと教える惑わす者たちと対決しなければなりませんでした。キリストの性質をめぐる論争は今もなお教会を悩ませていて、分裂の大きな要因になりかねません。ヨハネは聖書の立場を支持し、キリストの性質が独特のものであったと述べています。キリストは完全に神であり、また完全に人でした。これ以外の考えはキリストの神性を減じるか、キリストの人性を弱めるかのどちらかです。
ある教師がクラスの学生たちに、キリストについての意見をできるだけ多く集めるように要求しました。意見は多種多様でした。しかし、(教会関係は別として)その大多数はキリストの実在すら認めないものでした。彼らはキリストを神話の中の人物と考えていました。キリストの実在を認めた人たちの中でいちばん多かったのは、キリストを一人の「立派な教師」と見るものでした。
受肉、すなわち神がイエスのうちに人間の姿をとられたという信仰は、キリスト教の福音にとって絶対不可欠のものです。私たちは人間キリスト・イエスのうちに神を認める必要があります。そうでなければ、キリストが来られた意味がなくなります。
道を誤ることは悲劇です。これはよくあることで、時には教会の親しい友人にも起こります。だれか魅力的な人物や考えに接すると、人々は次第に周囲の状況に飲み込まれていきます。これはしばしば特定の真理を否定したり、必ずと言っていいほど指導者や働きを批判したりすることにつながります。指導者や牧師に欠点がないとは言いませんが、教会指導者を繰り返し攻撃するような思想や組織は疑いの目で見られても仕方がありません。そのような人たちが権威を手に入れるのは、必ず他人の権威を否定することによるからです。
時には、全くつまらないことが論争の種になります。ある人が自分の見解を擁護するために、酢の害と派手な服装の罪について説教しました。私たちが説くべきなのはキリストであり、十字架につけられたキリストです。これこそ私たちの第一の関心事でなければなりません。
私は人々を惑わしから守るためにどんなことができるでしょうか。
「新しい光」(ヨハネの手紙Ⅱ9節~11節)
真理は漸進的に啓示されるということを否定してはなりませんが、同時に次の立場を受け入れる必要があります。「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません」(Ⅱヨハ9)。
キリストは矛盾するようなことは言われません。だれかの言うことは、すでに啓示されたことによって試してみる必要があります。テレビ伝道者は、自分が神の言葉を直接宣べ伝えていると言うかもしれませんが、それは聖書研究の代用にはなりません。聖書研究に代わる近道はないのです。「聖書はすべて神の霊の導きの下に害かを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(Ⅱテモ3:16)。
これらの聖句は、人をもてなしてはならない、挨拶もしてはならないと言っているようで、厳しすぎるように思われるかもしれません。ヨハネはすでに十分、愛を示すべきことについて語りましたが、改めて愛が無分別な寛大さと同じでないことを明らかにしています。
「『キリストの教え』を携えて来ない者を迎え入れてはならないという命令の意味するところは、そのような者をキリスト教の教師として、また教会の交わりにふさわしい者として受け入れてはならないということである。エホバの証人の一人を家に招いてはならないという意味ではない。……まして、教会秩序に関する意見の違いを『キリストの教え」からの逸脱と考え、除名の根拠として用いるべきであるという意味でもない。……しかし、教会またはその責任ある指導者が、福音に反するような教えの宣伝をその区域内で知りつつ容認することは、ヨハネの言う『悪い行い』に加わることである」(F・F・ブルース『ヨハネの手紙」142ページ)。
親しく話し合う(ヨハネの手紙Ⅱ12節、13節)
「あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです」(Ⅱヨハ12)。
私たちはここに率直に表されたヨハネの深い愛を見ることができます。遠く離れたところにいても、ヨハネの心は真理にとどまっている、愛する兄弟姉妹たちに向けられています。これは私たちにとってすばらしい模範です。キリスト教の真髄が発揮されるのは、神学的な真理が個々の信者の生活において実践されるときです。
ヨハネの最大の喜びは広い意味でのクリスチャンの家族と共にいることでした。彼は愛する者たちへの真の「親心」からこの手紙を書き、何にも増して彼らと共にいることを願っています。教会員に対して、真の、心からの愛を表明しています。それなのに、教会にいたくない、他の教会員とつき合いたくない、愛することなどできないと言う人たちがいるのはなぜでしょうか。
どんな場合であれ、教会に愛が欠けているのは罪と利己心のためです。
「救い主がご自分の教会に望まれることは、愛と真理の原則によって支配されることである。相互の愛は、神の愛が心に宿っていることの証拠である。キリストに従うと言う多くの人々は、自尊心が強すぎるために、キリストのかぐわしい平和を心に持つ余地がない。彼らはキリストの教えを実行していない。キリストの忍耐と愛を表していない。かつては神と兄弟たちへの愛であふれていた心も、利己心によって凍っている。……自己愛はキリストの愛を締め出す。自分のために生きる者たちはラオディキア教会に属する」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』1901年8月6日)。
まとめ
神のいやしの恵みの力によって造り変えられるとき、私たちはもっと愛と思いやりに満ちた者となります。このことが私たちのうちに起こっていないなら、神との関係が正しいかどうかを疑ってみる必要があります。私たちの最高の望みは、現在、そして永遠にわたって、神と共に、また他のすべての信者と共にいるという、このすばらしい経験を失うことなく、継続することです。