エデンからの贈り物、安息日【創世記―起源】#11

目次

この記事のテーマ

第6の日の終わりに、天地創造は完成しました(創1:31、2:1)。世界は居住できる場所に形づくられ、生き物で満たされました。アダムとエバは神にかたどって造られ、美しい、十分に備えのできた園を住まいとして与えられました。彼らは最初の結婚式をあげ、最初の家庭を築きました。神は御自分の造られたものに満足されました。それでもなおこの楽園に、あるものが付け加えられました。第7日安息日です(創2:1~3参照)。

創世記2章は、第7日を「ユダヤ人の安息日」であるとする一般的な考えに対する反証です。なぜでしょうか。なぜなら、神が「第7の日を祝福し、それを聖別された」のは、堕落以前の、もちろんユダヤ人が存在する以前の、遠くエデンにおいてだったからです。

さらに、安息日は(ユダヤ人だけでなく)全人類の創造の記念日です。したがって、すべての人が安息日の祝福にあずかることができます。

今回は、エデンからのもう一つの贈り物、つまり安息日についての聖書の教えに注目します。

創造と第7日安息日

出エジプト記20:8~11で、第4の戒めは直接、創造週に言及しています。これは重要です。なぜなら、それはエデンそのもの、つまり罪のない世界、創造主から出たばかりの完全な世界を指し示しているからです。「安息日は、新しい制度として取り入れられたものではなく、創造のときに制定されたものである。それは創造主のみわざの記念としておぼえられ、守られるのである」(『希望への光』156ページ、『人類のあけぼの』上巻358ページ)。

問1

創世記2:1~3を読んでください。第7日安息日は天地創造そのものとどれほど密接に結びついていますか。これらの聖句は、有神論的進化論が考えるような長い時代にわたってではなく、6日間で、神がこの世界を創造されたという考えを補強する上でどんな助けになりますか。

これら3節の中で、第7日が5回、言及されていることに注目してください。これら5回のうちの3回において、それが特に「第7の日」と呼ばれ、しかも2回、この日が「それ」という代名詞をもって言及されています[英語欽定訳参照]。これらの聖句によれば、この日や、この日が特に何をさすかについては、全く疑問の余地がありません。第7の日に先行するのは創造の6日間です。

問2

ヘブライ4:3、4を読んでください。『ヘブライ人への手紙』の著者は安息についての議論の中でどんな出来事に言及していますか。このことが重要なのはなぜですか。

この新約聖書の言葉は明らかに創世記の創造の記録に言及していて、天地創造が安息日に先立つ6日間でなされたという歴史的な真理に関してさらなる証拠を与えています。

今日、多くの人々は、天地創造が6日間でなされたという考えを受け入れません。彼らは、聖書の記録が真実であるという科学的な証拠を示すように要求します。しかし、科学そのものは多くの偶然性や不確定性、仮定から成り立っています。しかも、いずれにせよ、文字通りの6日間における天地創造がどのように証明でき得るというのでしょうか。

安息日の休みの豊かな意味

問3

申命記5:12~15を読んでください。ここにある安息日の戒めの強調点は出エジプト記20:8~11とどこが異なりますか。

ここで、モーセはイスラエル人に安息日を守るべきことを思い起こさせ、彼らがそうすべきなのは、神が彼らをエジプトから救い出してくださったからであると述べています。これらの聖句は、天地創造が6日間でなされたことや、神が安息日に休まれたことについて全く触れていません。むしろ、ここで強調されているのは救い、解放、贖い、つまり私たちがイエスにおいて与えられている真の贖いの象徴であるエジプトからの贖いです(Iコリ10:1~3参照)。

言い換えるなら、これらの聖句の間に矛盾は全くないし、一方の聖句を用いてもう一方の真理を否定する正当性もないということです。モーセが民に教えていることは、彼らがまず創造によって、次に贖いによって主のものであるということです。

問4

エゼキエル書20:12、出エジプト記31:13を読んでください。安息日を守るもう一つの理由は何ですか。

聖別することに触れているこれらの聖句は、神だけが私たちを聖なる者とすることがおできになることを思い起こさせてくれます。創造主だけが私たちのうちに新しい心を創造することがおできになります。

そこで、安息日を守る理由として挙げられている三つの事柄とそれらの関係について考えてください。私たちが第7日安息日を守るのは、第1に、神が6日間で創造し、7日目に安息された事実を認めるからです。第2に、神がキリストにおいて私たちを贖い、救ってくださった方だからです。第3に、神が私たちを聖別してくださる方だからです。これもまた、神の創造力によってのみなされることです(詩編51:12、IIコリ5:17参照)。

したがって、6日間における天地創造を否定する理論は神の恵みを弱体化し、自分自身の努力によって救われようとする態度を増幅する傾向があります。天地創造の物語は、私たちが恵みと、私たちのためのキリストの身代わりの犠牲とに全的に依存していることを思い起こさせてくれます。

イエスと安息日

マルコ2:27、28を読んでください。イエスはここで、安息日に関する重要な真理を啓示しておられます。イエスと弟子たちが麦畑を通って行くと、空腹だった弟子たちが麦の穂を摘んで、食べ始めました。畑を通っているときに穂を摘む行為は、慣習によって認められたことで、問題ではありませんでした。食物は必要なものであって、弟子たちが歩いているときに見つけたものを食べることによって空腹を満たすことは全く問題ではありませんでした。問題は、宗教指導者たちが自分たちの作り出した安息日遵守に関する規定を人間の必要よりも重要視したことにありました。これはキリストとファリサイ派の人々との間に続いていた論争点でした。イエスの応答は、彼らの優先順位が間違っていることを示していました。安息日は人間を祝福するための日であるべきであって、苦しみを長引かせるための口実として用いられるべきものではありませんでした。

問5

論争を引き起こす危険があったにもかかわらず、イエスは安息日にほかにどんなことをされましたか。マタ12:9~13、ルカ13:10~17、ヨハ5:1~17

福音書に記された安息日に関する論争の中で、安息日の有効性が問題となっている個所は一つもありません。むしろ、問題は第7日をどのように守るべきか、ということであって、それが廃止されるべきだとか、ほかの何かによって置き換えられるべきだとかいうことではありませんでした。

イエスの模範が示しているのは、安息日がなお守られるべきものであること、またそれがどのように守られるべきか、ということでした。イエスの模範からはっきりと読み取れることの一つは、人間の苦しみを和らげるために安息日になされた業は安息日を破ることにはならないということです。どちらかというと、イエスの模範は、人のために善を行うことがまさに安息日のあるべき守り方であることを示しているのです。

安息日と終わりの時

問6

ペトロIIの3:3~7を読んでください。終わりの時のあざける者たちについての描写を現代社会と比較してください。あざける者たちは何を否定しますか。その理由は何ですか。

あざける者たちは、自然が間断なく続いていると主張します。この主張は科学者の間で「斉一説」として知られているもので、事実上、奇跡が起こることを否定します。したがって、この主張は、主が約束されたように来られることを否定するために用いられます。

しかし、彼らがキリストの再臨を否定することと、天地創造(と洪水)の記録を否定することとを、ペトロがどのように関連づけているかに注意してください。一方を否定することは、もう一方を否定することにつながります!

問7

黙示録14:6、7を読んでください。あざける者たちの疑惑と中傷の中にあって、どんなメッセージが天の力をもって宣布されますか。

あざける者たちは間違っています。裁きは来ます。私たちは「天と地と海」と、その他いっさいのものとを創造された方を礼拝するように求められています。これは天地創造をさす言葉です。それは出エジプト記20:11を暗示し、終わりの時の創造と安息日の重要性を指し示しています。安息日が聖書にある創造と贖いの物語を象徴するように、創造物語を否定することは第7日安息日を否定し、人間によって作られた代用物を制定することにつながります。その結果は、黙示録14:8~10にあるように、霊的姦淫と神からの離反です。

神は創造主としての神を礼拝するように人々に求めておられます。しかも、第7日安息日ほど、神を創造主として完全に指し示しているものは聖書のどこにも見当たりません。したがって、私たちが創造主である神を示す最初の印である安息日を、終わりの時の中心軸と見るのも不思議ではありません。

安息日のための詩編

問8

詩編92編を読んでください。ここに、部分的にですが、安息日遵守の経験がどのようなものであるべきだと書かれていますか。私たちが主について考えるとき、この詩編にあるような喜びを表すべきなのはなぜですか。

詩編作者は明らかに主を知っていました。つまり、主がどのような方であるか、主が何をしてくださったか、主が将来、何をしようとしておられるかを知っていました。詩編作者が詩編92編で喜びを表しているのは、こうした理由のためです。

また、「安息日のための詩編」であるこの詩編の中に表されている豊かな主題に注目してください。最初にあげられているのが、神の慈愛と真実に対する賛美と感謝です。加えて、どの「安息日のための詩編」にもあるように、創造主としての神への感謝がここにも見られます。

さらに、裁きについて書かれていることに注目してください。聖書においては、神の裁きは悪人を裁くためだけでなく、義人を擁護するためにもあります(ダニ7:20~28参照)。裁きの持つこれら二つの側面が詩編のここにも啓示されています。たとえこれらの約束がいま実現しなくても、神が万物を新しくされる終わりの時に(黙21:5)、この裁きが最終的になされるという約束が私たちに与えられています。

もしこの詩編からほかに何も得るものがないとしても、私たちは安息日を、それがいかに聖なる日であっても、主にあって喜ぶべき時と理解すべきです。主にあって、また主が私たちのために成し遂げられ、また成し遂げると約束しておられるすべてのことにおいて喜ぶべき時と理解すべきです。この詩編の基調となっているのは賛美と喜び、幸福です。それは詩編作者の業によるのではなく、ただ主が成し遂げられ、また成し遂げると約束しておられるすべての業によるのです。

なんという素晴らしい賜物でしょうか。私たちの人生の7分の1が毎週、安息するために、また日常の忙しさとストレスから逃れて、私たちのための主の御業を喜ぶために聖別されているのです。

さらなる研究

「神はご自分にかたどって人間を創造された。そこには、秘められた意味は全くない。人間が動物や植物などの下等な生命形態から、ゆっくりした発達の段階をたどって進化したと仮定する根拠は全くない。そのような教えは創造主の偉大なみ業を、人間的な狭い、地上的な考え方の水準に引き下げる。人間は、宇宙の主権から神を締め出そうとするあまり、人間の品位を落とし、自らの崇高な起源を見誤っている。星の世界を高くすえ、巧みな技をもって野の花を飾り、み力の不思議な業をもって地と天を満たされた方は、その輝かしいみ業を仕上げるにあたって、美しい地球の支配者として立つ者を中央に置くために、彼に命を与えた御手にふさわしい存在者を創造することをお忘れにならなかった。霊感によって与えられた人類の系図は、その起源をたどれば、発達する細菌や軟体動物、四足獣の系列にではなく、偉大な創造主に行き着く」(『希望への光』19ページ、『人類のあけぼの』上巻18ページ、一部改訳)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年1期『起源』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次