この記事のテーマ
新約聖書は旧約聖書で溢れています。それは聖霊を受けて書いた新約聖書の記者たちが、その権威の源として旧約聖書を引用したからです。イエスご自身も「……と書いてある」(マタ4:4)と言われ、それは「旧約聖書に書いてある」ということを意味しました。主はまた、「これは聖書の言葉が実現するためである」(マコ14:49)と言われ、これもまた旧約聖書を意味します。またイエスが2人の弟子と共にエマオへの道を行かれたときも、奇跡によってご自分をお示しになる代わりに、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のでした(ルカ24:27)。
新約聖書の記者たちは、旧約聖書から直接引用したり、間接的に引喩として用いたり、旧約の物語や預言を参照したりしていますが、いずれにせよ、彼らは自分たちの主張を裏付けたり、正当性を示すために旧約聖書を用いています。
旧約聖書中、(詩編やイザヤ書と並んで)最も多く引用や参照されているのが申命記です。
マタイ、マルコ、ルカ、使徒言行録、ヨハネ、ローマ、ガラテヤ、第一、第二コリント、ヘブライ、牧会書簡、黙示録は、すべて申命記から引用しています。
私たちは、こうした例を通して、その中に示された真理と、現代の真理を引き出し、学んでいきたいと思います。
「……と書いてある」
問1
マタイ4:1~11を読んでください。このイエスのお答えにどのような教訓が含まれていますか。
イエスはサタンと論争はされず、ただ「生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭」い神のみ言葉を引用されます(ヘブ4:12)。これらの聖句はいずれも申命記からの引用でした。イエスが荒れ野で引用された聖句は、イスラエルが同じように荒れ野で与えられたみ言葉であったというのは、興味深いことです。
最初の誘惑で、イエスは申命記8:3を引用されます。モーセは古代イスラエルに、マナや聖めの制度を含め、荒れ野で主がお与えになったものすべてを思い起こさせました。主は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」、すなわち、神はあなたがたを肉体的に養うように、霊的にも養ってくださる。あなたがたは霊的な糧を無視して肉体の糧のみを得ることはできないと語られたのでした。イエスは申命記からパンの譬えを引き出すことによって、イエスの内に疑いを起こさせようとするサタンの試みを譴責されたのでした。
第二の誘惑では、イエスは申命記6:16を引用します。モーセはマサ〔マッサ〕での民の反抗を思い起こさせて言います(出17:1~7参照)。「あなたがマッサでしたように、あなたの神、主を試みてはならない」(申6:16、口語訳)。「試みる」という言葉には、「試す」という意味があります。主はすでに、彼らに何度もみ力と善意をお示しになっていたにもかかわらず、苦難の時に彼らは訴えます。「主は我々の間におられるのかどうか」(出17:7)。イエスはこの物語からみ言葉を引き出し、サタンを叱責されました。
第三の誘惑では、サタンはキリストにひれ伏して彼を拝むように求めます。彼が真に何者であり、真に何を求めていたかを顕わす、なんと大胆で露骨な要求でしょうか。イエスは再び論争することなく、申命記のみ言葉によってサタンに勝利されます。それは主の、民が主を離れ異教の神々を礼拝すること、及びその結果に対する警告でした。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」(申6:13)。それは「神、そして神のみ」を意味する教えでした。
人を偏り見ること
モーセは申命記10章で、(再び)イスラエルの歴史を繰り返し述べ、民に(再度)忠実であるように勧告します。その勧告の中で、彼はあることを語りました。
問2
申命記10:17~19を読んでください。ここにイスラエルに対するどのような本質的なメッセージがありますか。それはなぜ今日の神の教会にも関係があるのでしょうか。
ここに出てくる「人を偏り見ず」という表現は、一つのヘブライ語の話法で、字義どおりに訳せば、「顔を上げない」という意味になります。これは法廷において、裁判官または王が判決を受ける者の顔を見て、その人物の地位(重要人物かそうでないか)に基づいて判決を下すことから来ていると考えられています。申命記のこの箇所は、大いなる権威と力を持っておられるにもかかわらず、主はそのように人を扱われないことを意味しています。地位によらず、主は誰に対しても公平です。言うまでもなく、この真理は、イエスのご生涯の中で、社会的に最も軽蔑されていた人々への彼の接し方の中で明らかにされました。
問3
使徒言行録10:34、ローマ2:11、ガラテヤ2:6、エフェソ6:9、コロサイ3:25、1ペトロ1:17を読んでください。これらの聖句は申命記10:17をどのように引用していますか。
これらの聖句が引用された状況はそれぞれ異なります(エフェソ書でパウロは、主人は僕をどのように扱うべきかを、ローマ書では、救いと罪の宣告の間に、ユダヤ人やガラテヤ人の区別はないという文脈で用いています)。これらの聖句はすべて、申命記とそこに流れている、神は「人を偏り見ず」という思想に基づいています。そして、「神々の中の神、主なる者の中の主」なるお方が偏り見られないのなら、私たちもそうあるべきではないでしょうか。
特にパウロがローマ書で引用した中に、私たちはこの〔平等の神という〕福音を見ることができます。私たちは誰も、その地位によらず皆罪を犯して神の救いの恵みを必要とする存在であるという意味で平等なのです。この福音は、人の地位によらず、イエス・キリストにあって私たちすべてに提供されているのです。
木の呪い
問4
ガラテヤ3:1~14を読んでください。パウロは今日の私たちにも関係する重要な真理を語る中で、なぜ申命記27:26と21:22、23を引用したのでしょうか。
残念ながら、この手紙は十戒や律法を守らないことを正当化するために用いられることがあります。当然、十戒の第四条を守らないことの理由としても用いられ、まるで一つの戒めに従うことがほかの九つの戒めに反することであり、それがパウロの言及している律法主義であるかのように言われます。
しかし、パウロは律法に反対したのではありません。ここで安息日の戒めを破ることの正当性については、何も言われていません。理解の鍵となるのは、ガラテヤ3:10です。ここに彼は、「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています」と書いています。そして、彼は申命記27:26を引用します。問題は律法に従うことではなく、「律法の実行に頼る」ことなのです。これは私たちのような罪の存在にとって、不可能とは言わないまでも非常に困難なことです。
パウロは、私たちが救われたのは律法の行いによるのではなく、私たちのために死なれたキリストによるのであると指摘します。その〔キリストの功績〕が信仰によって私たちのものと認められるのです。彼の強調点は、キリストが十字架で私たちのためにされたことにあるのです。そのために、彼は申命記21:23を再度引用します。イエスのようにパウロは、旧約聖書の権威を示すために「……と書いてある」と言います。そして今、彼は重大な罪に定められ、そのために刑を執行され、おそらく他者への見せしめとして木に架けられる者についての聖句を引用します。
しかしパウロは、この聖句を私たちのためのキリストの身代わりの死の象徴として用います。キリストは「わたしたちのために呪い」となり〔ガラ3:13〕、律法の呪い、すなわちすべての人間が、律法を破ったために受けるはずの死を経験されました。福音の良き知らせは、その呪いが私たちのものとなるはずだったのに、十字架において彼のものとなったと告げます。それは、「わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした」(ガラ3:14)。
「罪を犯した人間を律法ののろいから贖い、再び、天と調和させることができるものは、キリストのほかになかった。キリストは、罪のとがと恥とをその身に負われるのであった。罪は天父とみ子とを離れさせるほど、聖い神にとっていまわしいものであった」(『希望への光』33ページ、『人類のあけぼの』上巻53ページ)。
あなたのような預言者
主はすでに何度もイスラエルに周囲の異教国の慣習に倣ってはならないとの警告を与え続けておられました。本来、彼らは周辺諸国に対して主なる神を証ししなければなりませんでした(申4:6~8)。モーセは申命記18:9~14で再び彼らの「いとうべき行い」(12節)に対して警告を与えます。この文脈の中で彼は次に「あなたの神、主の前にあなたは全き者でなければならない」と告げます(13節、口語訳)。
問5
申命記18:15~19を読んで、この箇所を使徒言行録3:22、7:37と比較してください。ペトロとステファノは、申命記18:18をどのように引用していますか。
シナイでの契約を引用し、モーセは、神の律法の啓示に際して(出20:18~21)、民が〔ホレブで〕どのようにモーセに、彼らと神との間の仲保者、調停者としてとりなしを求めたかを語ります。この時、モーセは彼らに、主がモーセのような預言者を起こされるとの約束を二度語ります(申18:15、18)。このモーセのような預言者は、ほかの事柄においても彼のように民と神の間の仲保者となるのでした。
数世紀の後に、ペトロとステファノは、この聖句をイエスに当てはめて引用します。ペトロにとって、イエスはすべての「聖なる預言者たち」(使徒3:21)によって語られた預言の成就でした。ユダヤの指導者たちはイエスと彼の言葉に従う必要がありました。ですからペトロは、ユダヤ人たちが知っていたこの聖句をイエスに当てはめ、彼らがイエスにしたことの悔い改めを迫ったのでした(使徒3:19)。
次に使徒言行録7:37では、文脈は異なりますが、ステファノもまたこの有名な約束を引用してイエスの使命を宣言します。彼は、ユダヤ人を導いたモーセの歴史上の役割は、イエスを予表するものだと述べます。ペトロと同じようにステファノは、イエスは預言の成就であり、彼らは彼に聞き従わねばならないと訴えました。「モーセと神を冒瀆する言葉」を彼が吐いたとの告訴とは裏腹に(使徒6:11)、ステファノは、イエスはメシアであり、神がモーセを通して約束されたことの直接の成就であると宣言したのでした。
恐ろしいこと
ヘブライ人への手紙は、その深さと崇高さをもって、さまざまな形でイエスを信じるユダヤ人たちに語られたたった一つの長い勧告であると言えます。それは、主に忠実でありなさいという勧告です。
この忠実さはもちろん、神の存在、ご品性、慈しみ、そしてキリストの十字架においてはっきりと表された神の愛に対する私たちの愛から生まれるものです。しかし人間は、時折、神から離れたことの恐ろしい結果を思い起こす必要があります。それはとどのつまり、イエスが、私たちが支払うべき報酬を私たちに代わって支払って下さったという福音を私たちが受け入れないなら、「そこで泣きわめいて歯ぎしり」し、永遠の滅びに至ることを意味するのです(マタ22:13)。
問6
ヘブライ10:28~31を読んでください。ここでパウロが言っていることはまた、どのように私たちにも当てはまるでしょうか。
興味深いことに、パウロはユダヤ人に、神に忠実であるよう勧告するにあたって、申命記17:6から、誰かが死刑に値すると判断されるには、少なくとも2人ないし3人の証言が必要であるという事実を引用します。
しかしパウロがそうしたのは、もし古い契約の下で、不忠実が死に値するなら、「神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか」(ヘブ10:29)ということを強調するためでした。つまり、あなたがたは彼らより多くの光と真理を知り、あなたがたの罪のための神のみ子の犠牲を知っているのだから、もし神から離れるなら、あなたがたへの非難はより大きなものになるだろうということです。
その直後の30節でパウロは、彼の論点を明らかにするために再び申命記32:35を引用します。彼らがキリストにあって与えられたもの、彼らのために与えられた大いなる戒めの知識を考えるとき、「復讐はわたしのすること」であると言われる主は、その背信と不忠実のために「民を裁かれる」のです。主は、新約時代のユダヤ人が持っていたもの、つまり十字架で示された神の愛のより完全な啓示を持っていなかった彼らの父祖を裁かれたのです。だからこそパウロは彼らに、注意するように言っているのです。
さらなる研究
旧約聖書が(預言書やモーセ五書など)それ自身を引用しているのと同じように、新約聖書も旧約聖書からの直接の引用や引喩に満ちています。その中でも最も多く引用されているのが詩編、イザヤ書、そして申命記です。新約聖書の記者たちはしばしば、ヘブライ語聖書の最も古いギリシア語訳として知られる「七十人訳聖書」(「ギリシア語旧約聖書」とも呼ばれる)からも引用しています。「トーラー」、または「(モーセ)五書」と呼ばれる旧約聖書の最初の五書は、紀元前3世紀に〔ギリシア語に〕翻訳され、残りの書巻は紀元前2世紀ごろに翻訳されました。
私たちはまた、聖書の解釈の仕方について、霊感を受けた新約聖書の記者たちがどのように旧約聖書を用いたかという点から多くを学ぶことができます。それについて私たちが最初に学ぶべき教訓の一つは、新約聖書の記者たちは、今日の多くの聖書学者たちとは違い、旧約聖書の信頼性や権威をまったく疑問視しなかったということです。たとえば、アダムとエバの存在に始まり、人類の堕落、洪水、そしてアブラハムの召しに至るまで、旧約聖書の物語の史実性について、何の疑念も示していません。これらのことについて疑問を唱える「学問」は、ただの人間的懐疑論であり、セブンスデー・アドベンチストの心と頭に人間的な懐疑論が入るべき余地があってはならないのです。
*本記事は、安息日学校ガイド2021年4期『申命記に見る現代の真理』からの抜粋です。