【ヘブライ人への手紙】魂の錨イエス【解説】#7

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ヘブライ5:11〜6:20では、イエスが私たちのために祭司となられたことの神学的な解説が中断されています。パウロはキリストから離れることの危険性について、厳しい警告をそこに挿入しています。

人々は明らかに、自己憐憫と不信仰という滑りやすい坂を転げ落ちる危険に瀕していました。使徒パウロは、彼の手紙の読者たちが、彼らが直面している困難な状況のために、彼らの霊的感覚が鈍り、福音の理解と経験において彼らの成長が止まってしまっていることを心配したのです。

試練に遭って失望し、キリストから離れてしまうことは、私たちが皆、潜在的に持っている危険ではないでしょうか。

しかし、この厳しい警告は、愛情に満ちた励ましで締めくくられています。パウロは彼の読者たちの内に信仰を認め、破られることのない神の彼らに対する救いの約束の実現としてのイエスを称賛します(ヘブ6:9〜20)。この警告と励ましのサイクルはヘブライ10:26〜39にも見られます。今回、私たちはこのサイクルを学び、イエスが私たちにお与えになる力強い励ましの言葉に焦点を当てます。

御言葉のすばらしさを味わう

問1
ヘブライ6:4、5 を読んでください。キリストに忠実であった間、信者たちはキリストにあってどのような経験を与えられていましたか。

「光に照らされ」るとは、回心の経験を意味します(ヘブ10:32)。それは、サタンの支配の「闇」から神の「光」に立ち帰った人々を指し(使徒26:17、18)、罪(エフェ5:11)と無知(1テサ5:4、5)からの解放を意味します。この「光を照らす」という動詞には、「神の栄光の反映」(ヘブ1:3)であるイエスを通して成し遂げられた神の行為であることが示唆されています。

「天からの賜物を味わ」うことと「聖霊にあずかるようにな」ることは、同じことを表しています。神の「賜物」は神の恵みを(ロマ5:15)、あるいは神が恵みを与えるために働く聖霊を意味します(使徒2:38)。聖霊を「味わった」者たちとは(ヨハ7:37〜39、1コリ12:13)、神の御心を成就する力を含む神の「恵み」を経験した者たちなのです(ガラ5:22、23)。

「神のすばらしい言葉」(ヘブ6:5)を味わうとは、個人的に福音の真理を経験することです(1ペト2:2、3)。「来るべき世の力」とは、神が未来において信じる者たちのために行う奇跡(ヨハ5:28、29)、すなわち復活と私たちの体の変化、そして永遠の命を意味します。しかし、信じる者たちは現在すでにそれらを「味わい」始めているのです。彼らは霊的な復活(コロ2:12、13)、新たにされた心(ロマ12:2)、そしてキリストにある永遠の命(ヨハ5:24)をすでに経験しています。

パウロはおそらく、神の恵みと神の救いを経験した荒れ野世代を念頭に置いていたことでしょう。荒れ野世代は、火の柱によって「照らされ」(ネヘ9:12、19、詩編105:39)、天からの賜物であるマナを「食べ」(出16:15)、聖霊を経験し(ネヘ9:20)、「神のすばらしい言葉」と(ヨシュ21:45)、エジプトからの救出において示された「不思議な業としるし」の中に「来るべき世の力」を体験したのです(使徒7:36)。しかしながらパウロは、荒れ野世代がこれらの証拠にもかかわらず、信仰を捨てて神に背いたように(民14:1〜35)、ヘブライ人への手紙の聴衆も、すでに神の好意の証拠をすべて体験していたにもかかわらず、同じことをする危険にさらされていたと言っているのです。

回復できないこと

問2
ヘブライ6:4〜6、マタイ16:24、ローマ6:6、ガラテヤ2:20、5:24、6:14を比較してください。これらの聖句は、キリストを十字架につけることについて何を語っていますか。

ギリシア語の原語では、「できない」という言葉が強調されています。「堕落した」者は「神の子を自分の手で改めて十字架につけ」たわけですから、神は彼らを立ち帰らせることはできません(ヘブ6:6)。パウロはここで、キリストによる以外に救いはないことを強調しています(使徒4:12)。「神が偽ることはありえません」(ヘブ6:18)。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(同11:6)。同じように、他の方法で救われることもできないのです。

神の子を改めて十字架につけるとは、イエスと信者との個人的な関係において起きることを描写しようとした比喩的表現です。

ユダヤの宗教指導者たちがイエスを十字架につけたのは、イエスが彼らの優越性と自治権を脅かしたためでした。彼らは、人間としてのイエスを抹殺し、この強力で危険な敵を滅ぼそうとしたのです。同様に、福音は、最も基本的な意味において個人の主権と自己決定権に挑みます。クリスチャン人生の本質は、十字架を背負い、自分を捨てる(自己に死ぬ)ことです(マタ16:24)。それは「世」(ガラ6:14)と「古い自分」(ロマ6:6)と「肉を欲情や欲望もろとも」(ガラ5:24)十字架につけることです。クリスチャン人生の目的は、ある意味、死を経験することです。私たちは、この自己に死ぬ経験をしない限り、神が私たちに与えたいと望んでおられる新しい命を受けることはできません(ロマ6:1 〜11)。

イエスと自分との対立は、死をもたらす対立です(ロマ8:7、8、ガラ5:17)。それは困難な闘いであって簡単に勝てるようなものではありません。この箇所は、「古い自分」や「肉」との闘いにおいて、時々負けてしまう人について言及しているわけではありません。これは、真の救いとそれに含まれる祝福(ヘブ6:4、5)を経験した後に、イエスが自分の好む生き方を脅かす存在であると断定し、イエスとの関係を断とうとする人の罪のことです。つまり、その人が完全にイエスから離れることを選ばない限り、そこにはまだ救いの希望があるのです。

故意の罪のためのいけにえは残っていない

ヘブライ6:4〜6の警告と同10:26〜29のそれは非常によく似ています。

ここでパウロは、イエスによる以外に罪の赦しの手段がない以上(同10:1〜14)、イエスの犠牲を拒む者たちは罪の赦しの手段を失うことになると説明しています。

問3
ヘブライ10:26〜29 を読んでください。パウロはここで赦しの手段のない罪をどのような三つの方法で描写していますか。

著者がここで言いたいことは、真理の知識を受け入れた後に犯した罪は、も

う贖うことができないということではありません。神はイエスを私たちの「弁護者」として任命し(1ヨハ2:1)、彼を通して私たちは罪の赦しを得ることができます(同1:9)。いけにえも贖いの手段もない罪とは、「神の子を足げにし、……契約の血を汚れたものと見なし、……恵みの霊を侮辱する」罪です(ヘブ10:29)。これらの表現の意味を考えてみましょう。

「神の子を足げに」するとは(ヘブ10:29)、イエスの支配を拒むことを表しています。「神の子」の称号は、天の聴衆の前で神が、イエスを神の右の座に着かせ、イエスが彼の敵を「足台とする」と約束された情景を思い起こさせます(同1:13、同1:5〜12、14も参照)。イエスを足げにするとは、背信の者がイエスを敵として扱うことを意味します。パウロが論じている文脈(同1:13)において、背信者に関して言えば、イエスが御座から降ろされ(今は背信者自身が座っており)、代わりに足台とされていることを意味します。これこそ、ルシファーが天でしたいと望んだことであり(イザ14:12〜14)、「不法の者」が将来実行しようと企てていることなのです(2テサ2:3、4)。

「契約の血を汚れたものと見な」すとは、イエスの犠牲を拒むこと(ヘブ9:15 〜22)を、そしてイエスの血にある清めの力を認めないことを意味します。

「恵みの霊を侮辱する」とは非常に強い表現です。ここで使われている「エニュブリサス」(「侮辱する」)というギリシア語には、「傲慢」「尊大」といった神に対する思い上がりという意味が含まれます。この言葉は、「恵みの霊」と描写された聖霊と極めて対照的です。この言葉は、背信の者が神の恵みの申し出に対して、侮辱をもって応えたことを意味しているのです。

背信の者は擁護しえない立場、すなわちイエスを拒み、イエスの犠牲を拒み、聖霊を拒む立場に自らを置いているのです。

もっと良いこと

ヘブライ6:4〜8の強く真摯な警告の後に、パウロは、読者たちが御子から離れていないこと、そして未来においても離れることはないという確信を述べています。彼は、彼の聴衆が警告を受け入れ、実を結ぶと確信しています。彼らは神によって耕され、神が期待する実を結ぶ「土地」のようです(ヘブ6:7)。これらの人々は神から「救い」という祝福を受けます(同6:9)。

問4
ヘブライ6:9〜12 を読んでください。この聴衆が以前も今も続けている良いことを挙げて、それらが何を意味するか説明してください。

信者たちは、聖なる者たちに仕えることによって、神の「名」、すなわち神御自身への愛を示します。それらの奉仕は過去のある時点におけるその場限りの行為ではなく、現在へと持続される行為です。たまに見られる行動がその人の真の品性を表すわけではありません。神に対する愛の最も重要な証拠は、いわゆる「宗教的な」行為ではなく、人類同胞、特に不利な立場にいる者たちに対する愛の行為なのです(マタ10:41、25:31〜46)。ですからパウロは、信者たちに「善い行い……を忘れない」ように熱心に勧めているのです(ヘブ13:2、16)。

ヘブライ6:12を見てください。成熟できない者や、堕落する者たちの特徴である「怠け者」にならないよう警告しています(ヘブ5:11〜14、6:12)。信仰は、頭の中だけの知識ではなく、愛の行為の中に表現されて初めて生きたものとなるのであり、これこそが希望です(ロマ13:8〜10)。

パウロは読者たちに、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣ってほしいと言います。彼はすでに、信仰と忍耐が欠けていたために約束されたものを受け継ぐことができなかった荒れ野世代を消極的な例として示しています。彼はその後、アブラハムを「信仰と忍耐」によって約束のものを受け継いだ例として示しています(ヘブ6:13〜15)。11章には信仰の偉人たちの名を模範として連ね、12章では信仰と忍耐の最高の模範としてイエスをその頂点に挙げています(同12:1〜4)。黙示録14:12には、信仰、忍耐、そして戒めを守ることが終わりの時代の聖徒たちの特徴として挙げられています。

魂の錨なるイエス

パウロは、背教への警告と愛と信仰への励ましを、キリストにおける保証についての美しく高尚な説明で締めくくっています。

問5
ヘブライ6:17〜20 を読んでください。神はどのように私たちに対する約束を保証していますか。

神は私たちに対する約束をいくつかの方法で保証しておられます。第一に、神は誓いをもって保証してくださいます(ヘブ6:17)。聖書によれば、アブラハムやダビデに対する神の誓いは、イスラエルに対する神の不変の寵愛を信じる究極の基礎となりました。金の子牛を作って背信した後に、モーセが神のイスラエルに対する赦しの保証を求めたとき、神のアブラハムへの誓いを引用しました(出32:11〜14、創22:16〜18参照)。神の誓いは変更不可能であるということが、彼の嘆願の強さに込められていました(ロマ9:4、11:28、29)。

同様に詩編記者も、ダビデへの誓いを引用して神の前にイスラエルを執り成しています。神は言われました。「わたしは……契約を破ることをせず/わたしの唇から出た言葉を変えることはない。聖なるわたし自身にかけて/わたしはひとつのことを誓った/ダビデを裏切ることは決してない、と。彼の子孫はとこしえに続き/彼の王座はわたしの前に太陽のように/雲の彼方の確かな証しである月のように/とこしえに立つであろう」(詩編89:34〜38〔口語訳89:33 〜37〕)。新約聖書によれば、これらの誓いは、アブラハムの子孫であって、天に昇ってダビデの王座に着かれたイエスにおいて成就されました(ガラ3:13〜16、ルカ1:31〜33、54、55)。

二番目に、神はイエスを神の右の座に着かせることによって、私たちへの約束を保証されました。イエスが「わたしたちのための先駆者」として昇天されたことによって(ヘブ6:20)、イエスの昇天には、信じる者たちに約束の確証を与えるという目的があります。このように、イエスの昇天は私たちのための神の救いの確実性を示すものです。神は「すべての人のため」の「死の苦しみ」を通してイエスを栄光へと導き、それによって、「多くの子らを栄光へと」導かれました(同2:9、10)。父なる神の御前のイエスの存在は、神の御座につながれた「魂の錨」なのです(同6:19)。神の統治の誉れは、神の約束がイエスを通して成就されるか否かにかかっていました。私たちにとってこれ以上の保証が必要でしょうか。

さらなる研究

「自己との戦いは最も大きな戦いです。自己に打ち勝ち、神のみ心に全く従うには戦いを通らなければなりません。しかし神に服従しなければ、魂が聖化されることはないのです」(『希望への光』1948ページ、『キリストへの道』改訂第三版60ページ)。

「ヨハネはイエスのようになりたいと望んだ。そして、キリストの愛の人間を変える感化力のもとに、彼は柔和で謙遜になった。自己はイエスの中に隠された。ヨハネは仲間たちのだれよりも、その不思議ないのちの力に服従した……。ヨハネは、キリストに抱いていた深い愛により、いつもキリストのそば近くにいたいと願った。救い主は12人の弟子たちみんなを愛されたが、ヨハネの気持ちは最も受容性に富んでいた。彼は他のだれよりも若かった。そして、だれよりも、子供のような打ち解けた信頼からイエスに心を開いた。こうして彼はキリストと更に共鳴するようになり、彼を通して救い主の最も深い霊的教えが人々に伝えられた。……彼を変えた神聖な美しさが、キリストのような輝きをもって彼の顔から輝き出た。ヨハネは敬慕と愛を抱いて救い主を見つめているうちに、キリストに似た者となった。そしてキリストと交わることが彼の1つの望みとなり、ついには彼の性格のうちに主のご品性が反映するようになった」(『希望への光』1564ページ、『患難から栄光へ』下巻247、248ページ)。

*本記事は、『終わりの時代に生きる─ヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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