この記事のテーマ
完全な人生を生き、そして私たちのために死ぬことによって、イエスは私たちと神との間の、新しい、更にまさった契約の仲介者となられました。その死を通してイエスは、私たちのとがが求める死という刑罰を無効にし、新しい契約を可能にされました。
この真理はヘブライ10:5〜10に説明されており、契約の要求に完全に従った方としてイエスを示しています。この箇所は、もともと、詩編40編のダビデが神に献げようとした完全な服従を引用したものです。「そこでわたしは申します。御覧ください。わたしは来ております。わたしのことは巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み」(詩編40:8、9〔口語訳40:7、8〕)ます。この詩編には、神がイスラエルと結ばれた契約の条件が表されています。すなわち、喜びとしての服従と心に書き記された律法です(申6:4〜6)。しかし、ダビデにできたことはそれをしたいと望むことだけであり、それを完成されたのはイエスでした。
パウロにとって、この詩編はイエスの受肉について特別な意味を持っていました。イエスは新しい契約への服従を体現されました。彼は私たちの模範です。私たちが救われたのは、彼の死によるだけでなく、彼の完全な服従にもよるのです。
新しい契約の必要
問1
ヘブライ7:11〜19 を読んでください。なぜ新しい契約が必要だったのでしょうか。
ヘブライ人への手紙によれば、イエスがメルキゼデクに等しい祭司に任命されることは、新しい契約が開始されたことを意味しました。古い契約はレビの系統の祭司制度に基づいて与えられたものでした(ヘブ7:11)。レビの系統の祭司制度は、神とイスラエルの間の仲保者としての役割を果たし、律法はレビの系統以外の者が祭司になることを禁じていました。パウロはそれで、祭司制度の変更は、契約の変更と同時に、祭司制度を定めた律法の変更をも意味すると結論づけたのです(同7:12、18、19)。
古い契約に伴う問題は、祭司制度自体が人に完全な状態を与えることはできないということでした(ヘブ7:11)。パウロはここで、レビの系統の祭司制度とその奉仕(犠牲、祭礼など)について述べているのですが、動物の犠牲は彼らを、罪から真の完全な清めをもたらすことも、神に近づけることもできませんでした(同10:1〜4、9:13,14、10:19〜23)。
犠牲は、民にイエスを指し示すことによって、彼らが「世の罪を取り除く神の小羊」に希望と信仰を置くのを助けるはずでした(ヨハ1:29、イザ53章)。これはパウロが「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」(ガラ3:24)、あるいは、「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」(ロマ10:4)、と述べている点と共通する思想です。
言い換えれば、それ自体は善であり完全である十戒でさえも、人に救いを与えることはできないということです(同3:20〜28、7:12〜14)。十戒は人に完全な義の標準を与えることはできますが、鏡を見ることが年齢によるしわを消すことはできないように、人に義を与えることはできません。私たちの身代わりとしてのイエスだけが、私たちに完全な義を与えることができるのです。
新しい契約と更新された契約
問2
ヘブライ8:10〜12 と申命記6:4〜6、30:11〜14、エレミヤ31:31〜34を比較してください。これらの聖句は新しい契約の性質について何を教えていますか。
ヘブライ人への手紙の新しい契約の約束は、エレミヤ書にさかのぼります。エレミヤによれば、神の新しい契約の約束は、事実、神が最初にモーセを通してイスラエルと結ばれた契約の更新でした(エレ31:31〜34)。ですから、エレミヤ31章のそれは、厳密に言えば「新しい」契約ではなく、初めにイスラエルと結んだ契約の「更新」であったと言えます。事実、ここで用いられている「新しい」を意味するヘブライ語の「ハダシャー」には、「更新された」と「真新しい」の両方の意味があります。
古い契約の問題は、民がそれを破ったことでした(ヘブ8:8、9)。契約が間違っていたのではなく、民が間違っていたのです。もしイスラエルが、メシア到来のしるしを見極め、彼らの信仰を来るべきメシアに置いていたなら、契約は破られなかったでしょう。実際に、イスラエルの歴史においても多くの信じる者たちがいて、彼らを通して契約は成就され、彼らは心に書き記された律法を持っていました(詩編37:31、40:9〔口語訳40:8〕、119:11、イザ51:7)。
この新しい契約は、古い契約の更新されたものでありながら、実は新しい契約です。エレミヤが約束した「新しい契約」は、単に捕囚前の状態を更新することを想定したものではありませんでした。この契約は、民が何度も背教に陥ったために、何度も破棄と更新が繰り返されてきました。それは単に民が神との契約を守る気がなかったからです(エレ13:23)。
だからこそ、神は「新しいこと」を創造すると約束されたのです(エレ31:22)。この契約は、神が「彼らの先祖」と結んだようなものではありませんでした(エレ31:32)。なぜなら、民の不信仰のために、神がモーセの契約のもとに交わされた約束は、一度も成就されなかったからです。そして今、神は、御子によって与えられた保証によって(ヘブ7:22)、その契約の目的を成就されるのです。神は神の律法を変更することも、その標準を下げることもされませんでした。その代わりに、神は御子を契約の約束の保証として地上に送られたのです(ヘブ7:22、6:18〜20)。それによって、この契約は呪いとならず、イエスが完全に成就されたことによって祝福となりました。
更にまさった仲介者を持つ新しい契約
問3
ヘブライ8:1〜6 を読んで、イエスはなぜ更にまさった契約の仲介者なのか考えてみましょう。
ギリシア語の「メシテース」(仲介者)という語は「メソス」(中間)という語に由来し、中間に立つ人を意味します。この専門用語は、次のような役割の一つかそれ以上を担う人を指しています。(1)二つあるいはそれ以上の関係者の間の調停者、(2)交渉人または商売上の仲介人(業者)、(3)法的な意味での証人、(4)連帯保証人として契約の履行を保証する者。英語訳聖書に用いられている「メディエーター」(仲介者)の意味は、上記の初めの二つ、あるいは三つの意味しかありませんので、この手紙が用いているギリシア語の「メシテース」の訳語としては不十分です。ヘブライ人への手紙は上記の四番目の役割を強調しています。父なる神と人類の争いを解決する者、対立する当事者同士を和解させて平和を実現する者、または契約の存在と内容が申し分ないことを証明する者であるという意味で、イエスを「仲介者」と言っているわけではありません。ヘブライ人への手紙は、イエスが新しい契約の「保証人」(あるいは連帯保証人)であると見なしているのです(ヘブ7:22)。
ヘブライ人への手紙では、「仲介人」を「保証人」と同等に見なしています。イエスは契約の約束の成就を「保証」しているのです。キリストの死が新しい契約の制定を可能にするのは、イエスの死が、破られたイスラエルと最初に交わされた契約の要求を満たすものだからです(ヘブ9:15〜22)。この意味において、イエスはすべての破られた法的履行義務を、御自分の身に負った保証人です。天で神の右の座に着いたイエスは、別な意味で人類に対する神の約束の成就の保証なのです(同6:19、20)。イエスが契約の保証人となれるのは、神の人類に対する約束が真実であることを証明したからです。イエスをよみがえらせ、玉座の右に着かせることによって、父なる神は、やがて私たちをもよみがえらせ、神のもとに連れて行ってくださることを示されたのです。
イエスがモーセに優る仲介者であるのは、彼が天の聖所で奉仕する大祭司であり、私たちのための完全な犠牲として御自身を献げられたからです(ヘブ8:1〜5、10:5〜10)。モーセの顔は神の栄光に輝きましたが(出34:29〜35)、イエスは神の栄光そのものです(ヘブ1:3、ヨハ1:14)。モーセは顔と顔を合わせて神と語りましたが(出33:11)、イエスは神の言(ことば)そのものなのです(ヘブ4:12、13、ヨハ1:1〜3、14)。
更にまさった約束に基づく契約
私たちは、より大きな報い(天の故郷や永遠の命など)があるという意味で、新しい契約は古い契約よりも「更にまさった約束」だと考えがちです。神は、私たちに与えられたのと同じ報いを旧約時代の信者たちにもお与えになっていました(ヘブ11:10、13〜16)。ヘブライ8:6は、「更にまさった約束」が、「異なる」種類の約束であると述べています。
神とイスラエルの間の契約は、神とイスラエルの間の正式な約束の交換でした。神がまず先にイスラエルをエジプトから救い出し、彼らを約束の地に導き入れると約束してくださいました。
問4
出エジプト記24:1〜8 とヘブライ10:5〜10 を比較してください。これらの約束の間にある相違点は何ですか。
神とイスラエルの間の契約は、血によって批准されました。この血は、神を表す祭壇と民を表す12の石の柱の上に振りかけられました。そしてイスラエルの民は、主が語られたすべてのことに従うと約束しました。それは神聖な約束であり、神との契約に入る私たちにも求められていることなのです。
「とこしえの命を受ける条件は、私たちの先祖が罪に陥る前、すなわちパラダイスにいたときと全く同じであって、それは神のおきてに完全に服従すること、つまり完全に義であることです。もし、とこしえの命がこの条件以下で与えられるものであるとすれば、全宇宙の幸福は危険にさらされ、罪の道が開けてあらゆる災いと悲惨とが永久に絶えないことでしょう」(『希望への光』1955ページ、『キリストへの道』改訂第三版87ページ)。
神が私たちのための新しい契約の絶対的要求を満たしてくださるのは、ご自身の御子を世に遣わしてくださったからです。この御子は完全な人生を送られました。契約の約束が御子によって成就し、イエスを信じる信仰によって私たちに与えられるためです。このイエスの従順は契約の約束を保証しています(ヘブ7:22)。それは、神がイエスに契約の祝福を与えることを要求し、その後、その祝福は私たちにも与えられるのです。実に、「キリストの内に」ある者たちは、彼と共にこの約束を楽しみます。次に神は私たちに、神の律法を完成する力を与えるために聖霊をお与えになるのです。
心の問題を解決した新しい契約
問5
エレミヤ31:33 の新しい契約の約束とエゼキエル36:26、27 を比較してください。両者はどのように関係していますか。
最初の契約文書は神によって石の板に書かれ、神の民との契約の重要な証しとして契約の箱に収められました(出31:18、申10:1〜4)。しかし、石に書かれた文書も割れ、エレミヤの巻物は切り裂いて燃やされました(エレ36:23)。
しかし今、神はその律法を民の心に記されます。心は記憶と理解をつかさどる組織である知性を意味し(エレ3:15、申29:4)、特に良心を働かせて決断するところです(エレ3:10、29:13)。
この約束は、単にすべての人が律法の知識に到達することを保証するものではありません。もっと重要なことは、それは民の心を変えることを意味したことです。イスラエルの問題は、彼らの罪が「心の板に……鉄のペンで書きつけられ/ダイヤモンドのたがねで刻み込まれて」(エレ17:1)いたことでした。彼らは「かたくなな心」を持っており(エレ13:10、23:17)、そのために正しいことをすることは、もはや不可能でした(エレ13:23)。
ここでエレミヤは律法の変更を告げてはいません。なぜならイスラエルの問題は、律法ではなく彼らの心にあったからです。神は、イスラエルの信仰が、神がまず彼らのためにされたことに対する感謝の応答であることを望んでおられました。そのために、神は救済の歴史の序章と共に十戒を与え(出20:1、2)、彼らに対する愛と配慮を示しました。神がイスラエルにとっての最善を望んでおられることを彼らが認めて、律法に従ってほしいということが、神の望みでした。大いなるエジプトからの救出に現わされた真理を知ることによって、神の律法に従うことを望まれました。彼らの服従は彼らの感謝の表れ、彼らの神との真実な関係の表明であるべきでした。
同様に、今日の私たちにとっても、私たちのために死んでくださったイエスの愛と慈しみは、新しい契約の序章です(ルカ22:20)。真の服従は愛の表現として心から湧き出てきます(マタ22:34〜40)。この愛は、信じる者の生活に聖霊が臨在されることの証拠です。神は聖霊を通して私たちの心に愛を注がれ(ロマ5:5)、聖霊は愛という実を実らせます(ガラ5:22)。
さらなる研究
「私たちの心が神のみかたちに似て新しくされ、神の愛が心のうちに植えつけられるならば、神のおきては日々の生活に実行されるのではないでしょうか。
愛の原則が心に植えつけられ、私たちの心が創造主である神のみかたちに似て新たにされるとき、はじめて『わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう』(ヘブル10:16)という新しい契約が成就されるのです。こうしておきてが心に記されるとき、それはその人の生活を左右するのではないでしょうか。服従すなわち愛よりでた奉仕と忠誠は、弟子であることの真のしるしです。聖書にも、『神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである』(1ヨハネ5:3)。『「神を知っている」と言いながら、神の戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない』(1ヨハネ2:4)としるされています。人は服従しなくてもよいというのではありません。信仰─ただ信仰のみが私たちをキリストの恵みにあずからせ、服従できるようにするのです……。
イエスに近づけば近づくほど、ますます欠点が多く見えてきます。それは自分の目が開けて明らかになり、イエスの完全さに比べて、自分の不完全さが大きくはっきりと見えるからです。これは悪魔の惑わしの力が失われ、人を生かす聖霊の力が働いている証拠です。 自分の罪深さを悟らない人の心には、イエスに対する深い愛も宿りません。キリストの恵みによってつくりかえられた魂は、キリストの清い品性をほめたたえます。しかし、もし私たちが自分の道徳的欠陥を知らないとすれば、それは、キリストの美しく優れた品性をまだ見たことがないという明らかな証拠です」(『希望への光』1955、1957ページ、『キリストへの道』改訂第三版84、85、91、92ページ)。
*本記事は、『終わりの時代に生きる─ヘブライ人への手紙』からの抜粋です。