第2章 汚れた霊を追い出す人(マルコによる福音書1章21節~2章17節)
今日多くの人々は、そして説教家たちですら、もはや神が存在しておられることに確信がなくなっています。そして同様に、彼らは悪霊が人格的な存在であることをも信じません。しかし主イエスの御生涯と御働きとを述べているマルコの記事は真正面からこのような存在に当面させるのです。
マルコによる福音書によれば、主イエスの公になされた最初の御働きは、人間から悪霊を追い払うことを含んでおりました。それはある安息日のことでした。主イエスはガリラヤ湖畔の町、カファルナウムに来ておられて、礼拝に集って来ていた人々に御教えを与えておられます。
それ自体が驚くべきことです。というのは、主イエスにはその資格が与えられていなかったからです。主は律法を解釈するにふさわしい能力が与えられると考えられていたラビの学校に出席したことはなかったのです。更に、マルコは、その安息日の朝、人々は主イエスの御教えに触れて驚嘆したと語っています。主イエスの御教えは、明瞭で、歯切れよく、疑う余地のないもので、しかも何の資格もなく、また「ラビのヒレルがこう言っている」とか「しかしながら、ラビのシャンマイによれば、聖書をこのように解釈している」といった言い方も、なかったのです。
突然、安息日の静寂を台なしにするようにして、一人の男が会堂で叫び始めました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(マルコ1の24)。すると主イエスは、直ちに教えることを止め、その人を通して語っている悪霊に命令します。「黙れ。この人から出て行け」と(同25節)。するとその人は激しく痙攣し、それから悪霊が出て行くとき金切り声を上げます。それで、安息日に礼拝に来ていた人々はなおも驚いてしまいます。彼らは互いに「これはいったいどういうことなのだ」と言い、「権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(同27節)と論じ合います。
主イエスの御働きの幕開けとして、これ以上に劇的な場面を想定することはできません。諸福音書の中でも、最も注意を引く始まりです。読者がこの発端から見る主イエス像は悪霊の力に正面から向かい合ってそれに打ち勝たれる御方としての御姿です。主イエスは悪霊を追い出すことにおいてまさに卓越した存在です。
このような考え方は、心理学や精神医学でもって説明することに慣れ親しんでいるわたしたち現代の西洋人的心の持ち主には驚きです。これらのことは、聖書を厳密に学ぼうとしていてしかも時代の流れに沿って生きようとしている人々をして、あらためて深い熟考の経験へと招きます。ここでは(マルコ1の21~2の17)、注意深く研究し論議を深めるべき実に多くのことが宿されております。しかし限られた紙面の関係上、次の五つの観点にだけ限定して考察を加えてみることにいたします。(一)各福音書記事の形成について、(二)悪霊と悪霊つきということについて、(三)主イエスがしばしば御自分を指す呼称とされた「人の子」という表現について、
(四)主の祈りの生活について、そして最後に(五)「メシアの真義」について。
各福音書記事の形成について
マルコの描く主イエス像を理解しようとするとき、そしてとりわけ、カファルナウムの会堂での悪霊払いを主の最初の働きとしてマルコが選び出した意図を知ろうとするとき、福音書記者としてのマルコを、マタイやルカやヨハネと比較し、対照してみることは助けとなります。
200年もの間、聖書学者たちは、四福音書記者たちがどのようにそれぞれの仕事をなしたのかについて、明らかにしてみようと試みてきました。彼らは、四つの福音書、しかしその中でも特にマタイ、マルコ、ルカの共感福音書の中での、驚くほどの類似点と相違点の故、困惑を覚えることがしばしばでした。何年かは、四人の記者は、いずれも当時キリスト者たちの間ですでに言いまわされていた主イエスの言葉といわれているものやその他の資料を、ちょうど切り抜きを寄せ集めて編集するような形で、それぞれの書を書いたとした考えが支配的でした。
しかし福音書形成に関するこのような見方は、捨てられて久しく時を経ました。現在の考えでは、各々の記者たちは、聖霊によって導かれ、マタイとヨハネの場合は自分の個人的記憶に残っていることをもたどりながら、そしてまた最初にキリストに従った人々が共有していた主の御言葉や奇跡の出来事などのデータから各自が自由な裁量で選び、それから彼ら固有のイエス像を形作ったということになっております。
このようにして、四つの福音書は同じ分野を扱い、数多くの共通の資料を用いながらも、各福音書は独立した個別的な記事となっております。どの福音書も十全ではなく、どれか一つをもって他を省くことはできません。四福音書に見るイエス像を結集させることによってのみ、ナザレの主イエスの複雑な肖像を把握し得るようになるのです。御神が福音書形成過程の背後にあったと考えます。従って、四福音書は御神の意図によって生み出されたものといえましょう。そして人間の文学や宗教にはこれに匹敵するものはないのです。
ここに、熱心な真理の探究者であれば、各福音書記者の描いた固有の主イエスの肖像とはどんなものであるかを把握し得るようないくつかの方法があります。y
1 できれば一気に、他の福音書からの考えを混ぜ合わせることなく、一つの福音書それ自体を通して読んでみる。
2 その福音書がどのように書き始められているかを注意深く観察する。主イエスの公の働きの開始において強調されていることを考究する。すなわち、その福音書記者は初めに、どんな働き、あるいはどんな出来事を強調点として据えているかを見る。
3 その福音書がどのように閉じられているかを観察する。
こうしてみると、各福音書で、公生涯の始まりと終わりとの描写の間には、それぞれに一つの調和があることを発見するでしょう。それぞれの判断で、あらゆる資料の中から、各自は、自分たちが生み出す主イエスに関する独自の霊的肖像に適する材料を選別しているのです。
マタイ
彼は「アブラハムの子ダビデの子」であるイエス・キリストという表現でその福音書を始めています(マタイ1の1)。直ちにわたしたちは、主イエスのユダヤ人としての民族性が、この福音書全体を支配している中心思想であることに気づきます。マタイは、主にユダヤ人読者を考慮に入れて書いております。そして彼は、イスラエル人たちが長く待ち望んでいたメシア、ダビデの子とはイエスであったのだということを知らしめたかったわけです。
公生涯は何か劇的な働きによってではなく、一つの説教(マタイ5~7章に見る山上の垂訓)によって始めています。主イエスの五つの説教が福音書全体を構成しており、それはモーセ五書の反響とも言えます。このように主イエスは第二のモーセであり、しかしモーセよりもはるかに偉大で、加えて王であられるということなのです。
最後の部分では、復活された主がなおも教えておられます。主は御自身に従う者たちに、行って、洗礼を施し、教育し、すべての民を御自身の弟子となすようにとの使命を与えておられます(マタイ28の18~20)。
ルカ
彼はテオフィロという人への献呈の辞によってその福音書を始めております。このような書き方は、当時の異邦人社会ではごく一般的な書き方であり、このことは、マタイとは反対に、ルカの意図していた読者は、ユダヤ人ではない人々であったことを示しています。
主イエスの働きの初めはルカによる福音書ではナザレにおける説教でありました(ルカ4の116~30)。しかしながら、山上の垂訓の場合とは異なり、その強調点は主が引用された旧約聖書からの御言葉(イザヤ61の1、2)にあります。すなわち、貧しい人への良い知らせや捕らわれ人の解放、目の見えない人には視力の回復、圧迫されている人には自由を与えるとの、旧約聖書の御約束です。その聖句を詳細に説明してから主イエスは、旧約時代であっても、サレプタのやもめやシリア人ナアマンのように、異邦人たちがいかに御神の愛顧を受けたかを示します。主のこれらの言葉は会堂に集まっていた会衆を怒らせ、群集は、彼を会堂の外に引き出し、殺そうとします。
この福音書の最後の部分では、主イエスは、御自身に従う者たちに、エルサレムから始めて、すべての民に証しをするようにと命じておられます(ルカ24の45~49)。しかし本当は、ここが、ルカによる最後の部ではありません。といいますのは、彼は第二部を付加しており、これもテオフィロに献呈しており(使徒言行録1の1)、この中で彼は、主に従う者たちが、いったいどのようにして福音を世に伝播して行ったのか、それがエルサレムから始まって、結果的には当時の帝国の首都であるローマというはるか遠くに至るまで及んで行ったのかを順序立てて物語るのです(使徒言行録28の16、30、31)。
ヨハネ
彼はすべての福音書の中で、もっとも荘厳な言葉をもってその福音書を始めています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1の1)。ヨハネが告げていることによれば、彼は神について書いているのです。その御方は永遠の造り主であられ、少しの間だけでしたが、わたしたちのところに仮の宿りをして人間となられたのであり、恵みと真理とに満ちておられたのです(同14節)。
主イエスのお働きは御自身と最初の弟子となっていった者たちとの間の一連の出会いから始められております(同35~51)。それはアンデレ、ペトロ、フィリポ、ナタナエルたちです。主は、御自分が彼らのすべてを見抜いておられることを示されながら、そして彼らに関心を寄せておられることと、彼らのためのもろもろの計画とを示されながら、彼ら一人びとりと一対一で対話をしておられます。そしてこの形が、この栄光ある福音書の型となるのです。すなわち、肉体を取られた神であられる御方は対話をなさるため、よい人々とも悪い人々とも、また神学者たちとも物乞いをする人々とも、御自分の母上ともふしだらな女たちとも、政治家たちとも名もない人たちとも時間を取って下さるのです。
終わりの部分で、主イエスはなおも話し続けておられます。ペトロやヨハネやその他の者たちとです。やさしく、ペトロを譴責しながら、主は彼を弟子たちの間に復帰させておられます。それから、どんなことが前途に横たわっているかのヒントを与えられます。恵みと真理とに満ち満ちておられた御方は、地上生涯の最後まで、心を注ぎ、世話をなさり、同情を投げかけておられます。その現れた命があまりに驚きであまりにすばらしかったので、ヨハネはその一つひとつを書くなら、世界もその書かれた書物を収めることができないであろうと言ったのです(ヨハネ21の25)。
それでは再びマルコに戻ってみましょう。わたしたちはすでに、どのようにしてマルコは、主イエスが神の子であられるという(マルコ1の1)鍵となる洞察を展開し始めたかを指摘しました。主のお働きは暗黒の権力との劇的な遭遇というところで始められています。そのような場では、マルコの主張する御方がまさにその通りであることが明らかにされます。主の前に悪霊は震え上がり、公にイエスを認め、悲鳴をあげて彼らが虜にしていた者たちを解放するのです。悪霊の力は強力です。しかし神の御子、イエスははるかに強いのです!
一方マルコによる福音書の終わり方についてですが、本書の最終章でも指摘しますように、写本に違いがあり、実際の終わりはどこなのか議論されているところです。最も古い写本は16章の8節、すなわち、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」で終わっております。学者たちの多くは、マルコはこんな急な形でその福音書を終えようとは意図しなかったに違いないと考えております。そしておそらくは、そう考えるのが正しいようにも思われます。
しかし、それが誤りであるとするなら、その始まりが、「神の子イエス・キリストの福音の初め」といった具合に16唐突な形であったのと同様であるということになります。その上、会堂でなされた悪霊の追放に際し、最初から見られる主イエスに対する人々の反応、そして続いてこの福音書全体に見られる同じ驚きや賛美といった反応は、主イエスの復活という出来事で震え上がっている、16章8節に見る婦人らの反応と類似していて絶妙です。
悪霊と悪霊憑き
欧米での多くのキリスト者たちにとって、悪霊や悪霊につかれるという概念はピンと来ないし、もはや意味をなさないようになって来ております。彼らの多くは、どんな超自然の出来事をも否定する自然主義的世界観を取り入れていて、その結果は、人格的悪霊の存在をもはや信じないし、従ってその世界観では、善悪さえも相対化されていってしまっております。
そのような考え方への変革を応援した秀れた学者たちの一人は、世紀ドイツの神学者、ルドルフ・ブルトマンでありました。彼は一連の著作や記事を通し、現代科学や心理学が、聖書の中の奇跡や悪霊払いの記事を、時代遅れのものとしているので、新約聖書の教えは非神話化①して解釈されるべきであると主張しました。そして大多数の現代の学者たち、特に主要教会の大多数の教会員がブルトマンの考えを受け入れました。
しかしながら、これらの群れに加わる前に、いくつかの目立っている重要な諸点を調べてみる必要があります。
まず第一は、聖書は明瞭に、悪霊あるいはサタンとして知られている人格的存在があることを教えている点です。特に新約聖書において、わたしたちが目にしているこの世界と共に、目に見えない世界があることを述べています。この目に見えない世界には善と悪の両方の存在者があって、わたしたちの人生に影響を与えていること。ですから使徒パウロはこの世界観を簡潔に述べて次のように言っております。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(エフェソ6の12)と。
この世界観を非神話化するということ、すなわち、その字義通りの現実を否定し、ただ霊的意味だけにそれを追いやるということは、この聖句の権威を否定し、捻じ曲げることとなります。そして、聖書のテキストとして関わることもなくなることでしょう。しかし、ここで、わたしたちは、主御自身が理解していたと考えられることと、その御働きとを直視してみたいと思います。そうしますと福音書全体を通じ、特にマルコによる福音書では、わたしたちは、主イエスが悪霊に直面し、彼らに語り、彼らを沈黙させ、彼らに命じておられるのを見いだします。実に新約聖書は、随所で主の救いの御働きを、悪霊の力に対する勝利として描いています。すなわち、「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」(コロサイ2の15。一ペトロ3の21、22も参照のこと)。
更にもう一点。現代の考え方は悪霊という概念をそんなに性急に塗りつぶしてしまっているのかどうかも問わねばなりません。ほんの少し前に過ぎ去った世紀を見た だけでも、人類歴史で予測し得なかったほどのレベルと規模で悪が立ち上がっていたのをわたしたちは見ています。二大世界戦争と無数のより小さい戦争、極悪凶暴とまた表現し得ないほどの暴力行為、地上のすべての生命を払拭し得るような大量破壊の兵器や弾薬、ヒットラー、イデ・アミン、ポルポト、そして世界が怪獣たちと名づけ得る悪の犯罪者たちの長い行列です。もしも悪霊が、現代にはもはや存在しないというのなら、それに似た誰かがその地位に取って代わったのです!
このような悪の現実を認めることに不承不承なのが、欧米世界の特性です。至る所で人々は、悪霊はいないとする概念に問題を感じておりません。一方、わたしは数年間、インドのスパイサー・メモリアル・カレッジで教えていた時があり、その折の「イエスの生涯と教え」というクラスでの生徒たちは、一度ならず何度も主イエスが悪霊と対峙したという福音書の話は本当かと、問いかけてきました。しかし多くの場合欧米の問いかけとは逆で、彼らは自分たちが同じ経験をしていることを語ってくれ、彼らの興味深い話でわたしを興奮させてくれたものです。
インドで見いだしていた傾向は、アフリカやラテンアメリカ、またアジアの至る所でも同様です。「次世代のキリスト教」という重要な記事(Atlantic Monthly, October, 2002)の中で歴史学教授のフィリップ・ジェンキンスは、北方キリスト教(ヨーロッパと北米)と南方キリスト教(アフリカ、ラテンアメリカ、アジア)との間で増大している緊張関係を分析しています。彼はその中で次のように指摘しております。「アメリカの改革派たちは、もちろん初代教会への回復を夢見ている。しかしアメリカ人たちが見ている回復の夢とは、階級制度や迷信や教会の教義からの解放であるのに対し、他方南方の諸キリスト教会が目指している方向は、霊の力で満たされることや、多くの病気や貧困の原因となっている悪霊の力を追い払うことができるようにということである。そう、彼らにとっては、『悪霊』が鍵となる言葉です。最大に成功している南方の諸教会は、今日、霊的な癒しとか悪魔払いということを公に語っているのです」(60ページ)。
一方、セブンスデー・アドベンチスト教会にとっては、今日、悪霊とか悪霊に憑かれるということについては、それを否定するような問題とはなってはおりません。わたしたちは歴史を、宇宙における戦い、すなわちキリストとサタンとの間の大争闘という言い方で読み取って来ております。その戦いはキリストが初臨なされたとき最高度の緊張までに高まったのです。この世界に救いをもたらそうとする主イエスの使命を挫折させるため悪の諸勢力が隊列を整えて力と狡猾さとを結集したのです。それゆえわたしたちは、マルコによる福音書の中でも、主イエスが、しばしば悪霊との直接の戦いに当面されているのを見ているのです。
わたしたちはまた、主イエスの御再臨の直前、すなわち人類歴史の終焉に当たり、サタンとその軍勢とが、彼らの力を倍加して、自分たちの所有と主張しているこの世界を確保しておくため戦うようになることを信じております。このようにして、たとえ今日、欧米社会の多くの人々が悪霊の存在を否定しましても、それにも関らず今日、彼らとても、キリストとサタンのどちらを選ぶのか、といった心の戦いに巻き込まれているのです。
ちょうど、キリストの初臨の時、主イエスが悪霊のもろもろの力に勝利を収められたように、終末においても勝利の内に現れることとなるでしょう。
人の子
マルコによる福音書においては、その2章10節で初めて「人の子」という句に出会います。主イエスは律法の教師たちに語っておられます。「人の子が罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と。マルコによる福音書中に14回用いられている「人の子」というこの表現は、本書全体を通して、主イエスが御自身を表すのにもっとも普通に御用いになられた用語です。興味深いことには、誰か他の人が、主に対してこのような呼び方をしている箇所はどこにも見いだされません。
「人の子」という主イエスの用いられた呼称は好奇心をそそるものがあります。わたしたちには、このような言い方は奇妙に感じます。たとえば、米国大統領自身は、「その大統領は次のような決定をいたしました」のような言い方をいたしません。明らかに主イエスは、注意深くその表現の仕方を選ばれ、御自身に従う者たちや一般の人々に御自身がどのような御存在なのか、またその使命がどのような性質を持つものであるかを印象づけようとされたのです。
しかしそれではいったい、「人の子」という呼称はどのようなことを意味したのでしょうか? 聖書学者たちは、このことについて、数多くの論文や本を書きあらわして、激しい討論を積み重ねてまいりました。しかし、今日までその意味についていかなる合意点にも至っておりません。いくつかの論文は、新約聖書時代の聖書外の文書との関係からその解を探し求めようとしていますが、わたしは、その表現の聖書的用法にそれを解く鍵があると考えます。
旧約聖書中で、「人の子」あるいは「人の子ら」という表現があり、それはしばしば「人」、「単なる人」、あるいは「人間」を意味しております(たとえば、詩編8の5、144の3、145の12)。エゼキエル書の中では、神は、その預言者に「人の子」と呼びかけております(たとえば、2の1、3、6、8)。しかしながら、エゼキエル自身はこの用語を自分自身を表現する呼称としては用いておりません。これらのすべての旧約聖書の「人の子」という表現は、明らかに、名指された人が人間なのだということが強調されております。
しかしながらダニエル書では、この「人の子」が注目すべき前後関係の中で登場していて、しかも、旧約聖書中唯一つの用法です。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み」(ダニエル7の13)と。ここで「人の子」は、天の特別な御存在を指していて、この御方には、権威、威光、王権が与えられており、そしてまた、普遍的に礼拝されております(14節)。
これらの旧約聖書に見られる「人の子」の用法が、御自身とその使命を正確に指し示す自己称号として、主イエスに「人の子」なる呼称を用いさせるようになったとわたしには思えます。受肉により、主イエスは真実にわたしたちと共なる御存在となられました。すなわち、彼は「人」の子であり、骨の骨、肉の肉であられます。しかし、彼は単なる人間以上の御方です。彼は天から来られ、また御神のためにこの世界を勝ち取られる過程の中で、天に帰って行かれました。その結果、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2の10、11)。
主イエスは、イスラエル民族が長く待ち望んできた救世主であり、すなわちメシアです。そして、ペトロがそのように告白した時、主は、その言葉を修正なさいませんでした(マタイ16の16、17。ここでの「キリスト」とは、ヘブライ語のメシアに相当するギリシャ語であることに留意してください)。しかし、主イエスの時代の人々のメシアへの期待は、当時その地を占領していた憎むべき異邦人であるローマに敵対し勝利をもたらしてくれるものとしての役割であり、メシアに対しては、ひたすらその一点にその焦点が据えられておりました。しかしながら主イエスは、不動の姿勢で、御自身の使命の政治的役割を否認し、力によって侵入者を放逐する革命運動の先頭に立たれることを拒絶されました。これがおそらく、御自分の役割を表す用語としては、確かに意味深い呼称であったにもかかわらず、メシアなる呼ばれ方あるいは呼び方を主が避けようとされた理由であったと考えられます。
マルコによる福音書に関するその注解書の中で、ラリー・ハルタドは、主イエスが「人の子」の呼称を用いられたことについて、その本質を捉えて次のように語っております(ただし、ダニエル7章13節との関係は指摘し得てはおりませんが)。「この人間である『人の子』は、実際は単なるもう一人の人間なのではなく、神の権威を行使しておられます。この用語の用法は、マルコによる福音書全体のメッセージを映していて、人間イエスは、実際は『神の子』なのです(1の1、15の39)。ここでは、この用語に関するあらゆる歴史的用法を扱ってはいないので、マルコによる福音書で用いられているこの用語は、本当は彼がいったい誰なのかが認識されていない人間であるとしてイエスを描いていると結論づけるのが安全であろうと考えます。『人の子』という用語は『外向け』の『公』の呼称であり、それ自体は特に明らかな神性を含んではいない用語です。しかし、イエスの真の重要性は何であるかをわたしたちはすでに知らされておりますように(それは『神の子』であることを〔1の1〕)、この呼称に反語的風刺を見ます。そのタイトルはイエスに関する醜聞を伝えております。すなわち、(彼を理解し得ない当時の人々の目に映った)このただの人間が、あのような過激で衝撃を与えるような教えと行動を取るとは何ごとかというわけです」②
主イエスの祈りの人生
マルコによる福音書の1章35節には、主イエスの隠れた一つのお姿が描かれております。すなわち、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」
主イエスは極端にぎっしり詰まった一日を過ごしておられました。会堂で教えられ、悪霊を追い出し、それからペトロの義理の母を癒されました。日が沈むと人々は、彼の周りに、病人や悪霊に取りつかれた者たちを伴って、マルコが「町中の人が」と言っている人々が群がって集まって来ました。それから主イエスは、無制限と思えるほどに、人々の痛みや苦しみを和らげる助けを与えられました。
何時頃になって主は休まれたのかをわたしたちは知りません。疲れ切って、すぐ眠りに落ちられたのでしょうか? それともその日の興奮がなおもこの御方を捕らえていたのでしょうか? 次から次にその日の出来事が思い起こされて目を覚まし続けておられたのでしょうか?
たとえどうであったにせよ、主イエスにとってその夜は短かったに違いありません。多分数時間、あるいは5時間くらいは眠れたかもしれません。しかし、夜の明けるよほど前に主イエスは起きられ、家を出られ、星明りを頼りに、人里離れた寂しい場所へと歩みを進められたのです。
主イエスにとって祈ることは眠ることよりもっと大事なことでした。簡潔明瞭な文章で、エレン・ホワイトは、主イエスの歩みと御働きにおける祈りの役割を捉え示しております。「彼の人間性は祈りを必要としまた特権としました。イエスは、父なる神と交わって慰めと喜びをお受けになりました。もし人類の救い主である神の子でさえ、祈りの必要をお感じになったのであるならば弱い罪深い人間には、どれほど熱心な、絶えざる祈りがなければならないことでしょう」。③主が特権と考えられたということは容易に把握できます。しかし、主が「必要」とされた? そうです。必要性という要素の持つ真意をわたしたちが捉え得たときにのみ、わたしたちは、主イエスは本当にわたしたちが直面している葛藤や試みに直面され、勝利するためにわたしたちが持たねばならない神の御助けを同じように必要とされて、はかなさと弱さの内にあるわたしたちと同じ歩みをされたのだということを実感することとなるでしょう。
マルコは、主イエスが他の二つの場合に祈られたことを記述しております。すなわち、5000人の人々を養われた後と(6の46)、ゲッセマネの園と(14の32~39)においてです。しかしながらルカは主イエスの8回の祈りを記録(ルカ3の21・5の16・6の12・9の18、28・11の1・22の32、41)しております。その中の一度は夜を徹して祈っておられたのです(6の12)。
主イエスの御足跡に習う者と自称しているわたしたちが、祈るということをどれほどおろそかにしていることでしょうか! 愚かにもわたしたちは、しばしば自分の力でもって、キリスト者としての人生を生き、主の御働きを成し得ると考えております。わたしたちは食べたり、飲んだり、眠ったりする時間はあります。買い物をしたりパーティーを開いたりする時間はあります。テレビを見たり新聞を読んだりする時間はあります。しかし、あまりに忙しすぎて祈る時間はないと言います。真実は、わたしどもはあまりに忙しすぎて祈ることができないのではありません。会議には何時間も費やすのですが、主との交わりにはほんのわずかしか用いないのです。計画や討議や予算措置には時間をとっても、それらのことを、わたしたちの限られた能力と不完全な知恵の範囲で行おうとしているのです。
主イエスの採られた方法はいとも単純ですが、しかしそれは、わたしたちのキリスト者としての人生や働きに成功をもたらさせる唯一つの方法なのです。単純ですが、しかし難しいです。真に祈るということは、自分の無力を告白することであり、主の御力に自分の身をおまかせするということであり、従って自分の心と働きとを主が御取りになられるようにとお招きし、そうしていただくことを許すことなのです。わたしたちの誇り高き自己は、このようなことが生起するのを阻むのです。
マルコによる福音書が報告している中で、更に、もう一つの点に注目してみたいと思います。それは静かな時と所とを必要としているという点です。今日世代の狂乱した、また無分別な世界においては、静寂を見いだすことはますます困難になってきております。ますます人々は、静かさに耐えられなくなってきているようにも思われます。それがどこにおいても、そしてまたそれがどんな時であってもです。彼らは、どんな瞬間もそしてどんな空間も、音、しかもよりやかましい音で充満させたいのです。何故人々は静寂を恐れるのでしょうか? それは、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46の10、口語訳)と言われる御方に、出会いの機会を与えたくないということではないでしょうか?
魂と霊性の健康のためには、静かな時を持つということが絶対に必要である、とわたしは思うのです。一人になり静かに在る時、人は自分自身の内面奥深くを見、自分自身がいったい何者なのかを知り、その過程で人は安らぐようになるのです。そしてこの一人静かに在る時、御神は御自身の御愛の不思議さと、わたしたちに対する御自身の御目的とを告げ知らせられるのです。信仰の偉大な男女のすべては、この静寂という養生法を知り、それに従っていたのです。神と共に歩んだエノク、星空の下で神と交わったアブラハム、ミデアンの荒野でのモーセ、家族の羊の群れを見張って世話をしていた羊飼いのダビデ、自分の民の命乞いのため王の前にはべる前に導きと力とを願い求めていたエステル、神殿で祈っていた若者イザヤ、バビロンで祈っていた行政家ダニエル、早朝に起きて祈っていたマルチン・ルター、夜の明けるよほど前にすでに机に向かっていたエレン・ホワイトなど。
主イエスは、わずかな睡眠の後起きて、人里離れた寂しいところに行かれ、そして御父の御心を求められたのです。
メシアの真義
3度にわたりマルコによる福音書の1章21節から2章17節の中で、主イエスは御自身を見、そしてその御教えに耳を傾けた人々を驚かされたと記録されています。会堂での礼拝者たちはその教えに非常に驚いたし(1の22)、悪霊を追い出されるその業に驚き(27節)、一方人々は、屋根から吊り下ろされた中風の患者が癒されるのを見て、やはり驚いたのです(2の12)。
マルコによる福音書をだんだんと読み進むにつれ、主御自身の弟子たちも、主イエスが言われたことや為された御業を見て、群集と同様、継続的に驚きの反応を示していることがわかります。時として、主の御業は彼らに恐れをさえ感じさせました。弟子たちは繰り返し、主がいったいどなたなのか、そしてまたどんな目的で来ておられるのかを把握することに失敗しております。こんな状態がまさに最後まで続きます。主イエスは弟子たちに、御自分がエルサレムに行き、そこで御自身は排斥され、あざ笑われ、鞭打たれ、唾をかけられ、そして殺されること、それから復活されることを告げられるのですが、彼らはただ狼狽するだけであったように思われます。理解できなかったのです。
それに引きかえ、人間以外の他の存在、すなわち悪霊たちは違っておりました。マルコによる福音書1章24節では、悪霊は自分が捕らえていた人間の口を通して叫んでおります。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。マルコによる福音書では、悪霊がしばしば、同じような言葉を発しているのを発見します。
この福音書は、主イエスについての物語を、イエスという御方はいったい誰なのかという問いの周りに、高度に印象的な出来事を配して組み立てております。群集にとっては、この御方は途方もないことを語り行われる御方であり、一方弟子たちにとっては、この御方は驚くべき御方ではありましたが、神秘的で、彼らが先入観的に抱いていたメシア像にはなかなか適合しない御方であったのです。
この福音書が先に進んで行くにつれ、緊張感が高まり、エルサレムにおける排斥と十字架でそれが最高潮となり、それからその墓が空っぽとなるのです。
しかしながら、マルコによる福音書の読者たちにとってイエスの物語は、最後まで別な平面で、役割を演じていることになります。読者たちは最初から、その群集も弟子たちも把握できなかった主イエスが神の子であられるということを知っています。いや、少なくとも著者マルコがこの不可思議な御存在の神秘を解く鍵として信じ理解していたことを読者たちはその読み始めから知らされているからです。
そういうことですから、マルコによる福音書は、いわば探偵小説のようなものです。文学のジャンルからすれば、イギリスの作家が卓越しているように思えるミステリーの部類となるのでしょうか。典型的な形式では、まず犯罪を描写し、それから誰がそれを為したのかにヒントを与えるような数々の証拠を陳列して見せます、そして読者たちの前に何人かの容疑者をちらつかせるのです。作者は登場している刑事と共に犯人探しの旅へと読者を導きます。結果的にその刑事は誰が犯人かを暴いて見せることになります。最後になってのみ、読者はそれを知るようになるのです。しかしながら一方、ミステリーはこれとは逆のコースをたどることがあります。読者は最初から誰が犯人かは知っているのです。そしてその興味は刑事に一歩一歩付いて行くことにあるのです。この刑事は順序正しく、どのようにその犯罪が為されたのかを暴いてゆき、ついに犯罪者と対峙するようになるといったコースです。テレビ映画のシリーズもの、刑事コロンボのような推移に近いと思います(このテレビ内容が文書になっているかどうかはわかりません)。
マルコによる福音書では両方のコースが同時並行的に見られます。福音書はいわば、イエスという謎の人物に関するミステリーです。弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう」(4の41)と問い、一方イエス御自身は彼らに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(8の27)と言われ、更に「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節)と問われるのです。人々と弟子たちには、徐々にイエス御自身のミステリーが解明されていくことになります。しかし、最後にいたってさえも、実際はほとんど理解し得てないのです。本書は、この御方の弟子たちでさえ、驚いており、震えており、狼狽していて、理解も信じることもできていない形で終章を迎えております。しかし、読者たちにとっては、ミステリーは最初から解明されております。もちろん、その読者がマルコの最初の言葉を受け入れればの話ですが。福音書が読み進まれるにつれ、神の御子としての主イエスの御言葉や御業がどのようであったか、そして地上におけるその使命はどのような目的でありどんな経験を内包していたかが明らかにされていくのです。
主イエスはメシアです。しかしこの御方は神秘的なメシアであり、メシアという言葉に関係して一般に広く受け入れられていた主張や期待を拒絶されたお方でした。
その周りに群れた人々、そして大方の人々にとっては、この御方は好奇心をそそる存在ではありましたが、一方世間一般のもろもろの慣例を破り、そしておぞましい死に方で死に困惑を与えた不思議を行う人物でありました。しかし信じる者たち、すなわち、「理解」し得た人々にとっては、この御方は真のメシアであり、この世界に永遠の救いをもたらすために天から下ってこられた神の御子であられるのです。
参考文献
① ブルトマンによって提唱された新約聖書解釈法。新約聖書当時の表現形式の裏にある本質を捉えよと主張。その背景には、新約聖書中の超自然的描写は真実ではなく神話であるという考えで、その言わんとされていることの意義を把握するように試みよとの提言で、それを「非神話化」と呼び、今にいたる影響を与えている。訳者注。
② Larry W. Hurtado, Mark: A Good News Commentary(San Francisco: Harper and Row, 1983). p.24.
③ 『キリストへの道』p.119,(同ポケット版p.127,128)
*本記事は、レビュー・アンド・ヘラルド出版社の編集長ウィリアム・G・ジョンソン(英William G. Johnsson)著、2005年3月1日発行『マルコーイエス・キリストの福音』からの抜粋です。