【ヘブライ人への手紙】忠実な祭司イエス【解説】#6

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神と私たちとの間に存在する深い淵は、罪によるものです。この問題の複雑さは、更に罪が人間の性質を堕落させたことにあります。神は聖であり、罪は神の御前に存在することはできません。堕落した人間の性質は、人を神から引き離しました。更に人の堕落した性質は、人類が神の律法に従うことを不可能にしました。罪は誤解をも引き起こします。人類は神の愛と憐れみを見失い、神は怒りに満ちた厳しい存在だと思うようになりました。

神とイエスは、その深い淵を越えて橋をお架けになりました、今回私たちは、その驚くべき御業について学びます。ヘブライ5章から7章は、イエスの祭司としての働きを注意深く分析しています。手紙の著者は、イエスの祭司職の起源と目的を分析し(ヘブ5:1〜10)、その後、読者〔信者〕たちに、このイエスの働きを忘れることがないように勧告し(同5:11〜6:8)、更に祭司イエスが与える希望の確証に堅く立つよう勧めます(同6:9〜20)。彼はまた、イエスの祭司職の特徴を説明し(同7:1〜10)、それを神と信者との関係に当てはめます(同7:11〜28)。今回は、ヘブライ5:1〜10と7:1〜28に焦点を当てて学んで行きます。

人類のための祭司

問1
ヘブライ5:1〜10 を読んでください。祭司の役割は何ですか。イエスはどのようにこの役割を果されますか。

基本的な祭司の役目は、罪の内にある人々と神の間の仲保です。祭司は、人類を代表して奉仕するために神によって任命されたので、人類の弱さを理解し、憐み深くある必要がありました。

ヘブライ5:5〜10でパウロは、イエスがこの目的を完全に満たしていたことを示しています。すなわち、神がイエスを祭司に任命し(同5:5、6)、イエスは苦しまれたゆえに、私たちを理解してくださいます(同5:7、8)。

しかし、そこにはいくつかの重要な違いがあります。イエスは「人間の中から選ばれ」(ヘブ5:1)たのではありません。そうではなく、私たちのために祭司として奉仕するために、神であったのに人性を取られたのです。イエスはご自身の罪のために犠牲をささげたのではなく、私たちの罪のためだけにささげました(同5:3)。なぜなら、彼は罪のないお方だったからです(同4:15、7:26 〜28)。

ヘブライ人への手紙は、イエスが「御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、……聞き入れられ」(ヘブ5:7)たと言います。また、第二の死に触れ、神はイエスを、死からよみがえらせることによって救われたと言います(同13:20)。更に、イエスは「多くの苦しみによって従順を学ばれ」(同5:8)たと言います。イエスにとって従順は新しいものでした。イエスが不従順であったからではなく、イエスが神だったからです。宇宙の統治者であったイエスは、誰かに従っていたのではなく、すべてが彼に従っていたのです。

イエスの十字架での苦しみと死は、彼の祭司としての働きに必須でした。苦しみによってイエスが道徳的、倫理的に完全になったのではなく、苦しみが彼を憐れみ深くしたのでもありません。イエスは常に憐れみ深いお方であり、私たちを憐れむがゆえに地上においでになったのです(ヘブ2:17)。その苦しみを通して、イエスの真実の兄弟愛、本物の人性、そして人間の代表としての死を受け入れた父なる神への従順が真に表現され、明らかにされました。その苦しみが彼を私たちの大祭司としての資格を与えたという意味において、彼は「完全な者とされた」〔同2:10〕のです。完全に従順であったその人生と十字架の死によって、イエスは父なる神の御前に私たちの祭司として立たれ、犠牲の供え物となられたのでした。

メルキセデクと同じような祭司

問2
創世記14:18〜20 とヘブライ7:1〜3 を読んでください。メルキゼデクとは誰ですか。彼はどのようにイエスを予表していましたか。

メルキゼデクは王であり、祭司でした。アブラハムが彼にすべてのものの十分の一を贈ったことから〔ヘブ7:2〕、彼はアブラハムに優る者であったことがわかります。同様に、イエスは王であり祭司ではありますが(同1:3)、メルキゼデクとは違って罪のないお方でした(同7:26〜28)。

ヘブライ7:15(新共同訳)には、イエスは「メルキゼデクと同じような……祭司」であり、ヘブライ5:6(口語訳〕では、「メルキゼデクに等しい祭司」とあります。これはイエスがメルキゼデクの後継者という意味ではなく、メルキゼデクに似た祭司であったことを意味します。

ヘブライ人への手紙は、メルキゼデクには父もなく母もなく、系図もなく生涯の初めも、終わりもなかったと言います。そこで、メルキゼデクはアブラハムの時代に受肉したイエスであったとの考えもありますが、この考えはヘブライ人への手紙の思想とは相容れません。メルキゼデクはイエスに「似た者」(ヘブ7:3)であったということは、彼がイエスとは異なる存在であることを意味するからです。

メルキゼデクはまた、天使であるとも考えられてきましたが、この考えもヘブライ人への手紙の主張に反するものです。もしメルキゼデクに父も母も、初めも終わりもなかったのなら、彼は神であったでしょう。この考えは一つの問題を生みます。メルキゼデクの天での、完全な祭司の働きは、イエスの祭司としての奉仕より先行したことになります。もしそうなら、ヘブライ人への手紙が言うように、「いったいどうして、……別の祭司が立てられる必要があるでしょう」(ヘブ7:11)。

その代わりに、ヘブライ人への手紙は、メルキゼデクの誕生、死、系図について聖書が何も語っていないことを利用し、メルキゼデクをイエスの祭司としての働き(創世記14:18〜20)と、イエス自身が永遠であるという事実の予型、象徴としています。結論として言えることは、メルキゼデクは、キリストの型として働いたカナン人の王であり祭司であったということです。

「メルキゼデクを通して語られたのは、至高者なる神の祭司であるキリストであった。メルキゼデクはキリストではなかったが、彼は世にあっては神の声であり、天父の代表者であった。過去のすべての世代を通じてキリストはお語りになったのである。すなわち、キリストは彼の民を導き、世の光であられたのである」(『セレクテッド・メッセージ』第1巻409ページ、英文)。

真に罪を清めることのできる祭司

「ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、─というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから─いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう」(ヘブ7:11)。

祭司は神と人間の間の仲保者です。しかしヘブライ人への手紙は、レビ人の祭司は人に完全で確実な神への道を開くことはできないと言います。なぜなら彼らは完全を与えることはできないからです(ヘブ7:11、18、19)。結局のところ、祭司たち自身が完全ではなかったのですから、彼らがどうして他者に完全を与えることができるでしょう。

同様に、動物の犠牲も罪人の良心を清めることはできませんでした。それらの犠牲の役割は、来るべきイエスの奉仕と、それのみが罪からの真の清めを与えるキリストの犠牲を指し示すことでした(ヘブ9:14、10:1〜3)。レビ人の祭司と彼らの犠牲は一時的なものであり、予表にすぎませんでした。神は彼らの奉仕を通して、人々の信仰を来るべき未来の「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1:29)なるイエスの奉仕に向けさせたいとお望みになったのです。

問3
ヘブライ7:11〜16 を読んでください。なぜ律法を変える必要があるのでしょうか。

ヘブライ7:12は、祭司制度の変更によって、律法の変更も必要になったと説明しています。なぜなら、律法はアロンを通してレビ人の系統以外のものが祭司職に就くのを厳しく禁じていたからです(民3:10、16:39、40)。ヘブライ7:13、14は、イエスがユダ族出身であったと述べていますから、律法は彼が祭司となることを禁じていました。それでパウロは、イエスの祭司としての任命は、神が祭司制度に関する律法を変えたことを意味すると論じているのです。

イエスの到来はまた、犠牲制度を定めた律法の変更をも意味しました。罪人たちは贖罪を得るためにさまざまな犠牲を献げることを求められていました(レビ1〜7章)。しかし今、イエスがおいでになり、完全な犠牲を献げられたことによる、新しい契約と救いの計画のより完全な啓示の結果、動物による犠牲制度を定めた律法はその役目を終えたのでした(ヘブ10:17、18)。

永遠の祭司

問4
ヘブライ7:16を読んでください。イエスを祭司として立てている基は何ですか。

イエスは朽ちることのない命の力によって祭司として立てられたので、その奉仕は永遠にわたって続くものです。この事実の持つ意味は驚くべきものです。それは、未来にわたってイエスの奉仕を凌ぐものも、それに優るものも決してないことを意味します。イエスは完全かつ永遠に、「最果てまで」救うことができるのです(ヘブ7:25、新欽定訳)。イエスが提供される救いは、全体的かつ最終的なものです。それは人の性質の最も深い内面にまで届くものです(同4:12、9:14、10:1〜4)。神の御前のイエスのとりなしは、新しい契約のもとに約束されたすべての恩恵を含みます。

それは罪の赦しだけではありません。それは私たちの心に律法を書きつけ、わたしたちの内にキリストにあって新しい人を創り、私たちを世界への福音宣教へと導きます(ヘブ8:10〜12)。神と共にあり、人類と共にあるお方として、イエスは父なる神の御前に私たちの代表者となられるのです。御自分の命を犠牲として献げたお方として、イエスは神の御前に揺るぐことのない信任を得るのです。

問5
ヘブライ7:22 を読んでください。イエスは新しい契約とどのような関係にありますか。

イエスは新しい契約の連帯保証人です。なぜなら神は、イエスが「永遠に祭司である」(ヘブ7:21)と誓われたからです。この誓いの重要性は、誤って理解されやすいものです。パウロはすでに神が荒れ野世代とアブラハムにされた誓いについて述べていますが(同3:7〜11、6:13〜15)、彼らにされた誓いと、御子にされた誓いとの違いは、彼らにされた誓いは死ぬべき人間と交わされた誓いであったということです。誓いは受益者が生存している間のみ効力を持つものですから、神が荒れ野世代とアブラハムにされた誓いは、彼らが生きている間のみ有効なものでした。しかしながら、神と「朽ちることのない命」をお持ちである御子との誓いは、永遠に効力を持つのです。人が連帯保証人になるということは、死を含めて保証する人物と同じ罰を受ける覚悟をすることを意味します。だからこそ、父なる神は、私たちのために、約束を必ず守る保証人であるイエスをお立てになったのです。このように、イエスにあって私たちに与えられている救いは、確実で信ずるに値するのです。

罪なき祭司

問6
ヘブライ7:26 を読んでください。ここに描かれたイエスの五つの特徴は何ですか。

イエスが「聖であり」とは、彼が神との関係において過ちを犯さなかったことを意味します(ヘブ2:18、4:15、5:7、8)。古代ギリシア語訳の旧約聖書では、神との、そして他者との契約関係を維持している者たちを指して、同じ「聖であり」というギリシア語が使われていました。

イエスが「汚れなく」と言われているのは、彼が「あらゆる点において」試練に遭われたにもかかわらず(ヘブ4:15、2:18)、悪から遠ざかり、純潔を保たれたことを意味しています。イエスが全く罪のないお方であることは、その祭司職にとって重要でした。古い契約は、神に受け入れられる犠牲が「無傷」でなければならないと規定していました(レビ1:3、10)。地上生涯におけるイエスの完全な従順が、彼が神に受け入れられる犠牲となることを可能にしたのです(ヘブ9:14)。

イエスは天に昇られたとき、「罪人から離され」ました。ここでイエスの状態を表す「離され」というギリシア語は、ある特定の時から今に至るまでの継続を表す現在形が使われています。地上生涯において、イエスは罪人たちの敵意を耐え忍ばれ、勝利され、神の右の座に着かれました(ヘブ12:2、3)。イエスはまた、全く罪がなかった点においても「罪人から離され」ていました(同4:15)。

イエスが「もろもろの天よりも高くされ」たとは、イエスが天にあるものすべてに勝って高められていることを意味します。すなわち、彼は神と共にいるお方なのです。詩編には、神は「天の上に高くいま」(詩編57:6、12〔口語訳57:5、11〕、108:6〔口語訳108:5〕)す方であるとあります。イエスは完全に人でしたが、私たちのように罪は犯されませんでした(ヘブ2:14〜16、4:15)。イエスが完全であるのは、単に彼が罪を犯されなかったからではなく、私たちのように罪によって堕落しなかったからです。更に、彼は完全に人であったので、私たちの模範にもなりえたのです。彼は人生の競争をどう走るべきかを示し(ヘブ12:1〜4)、私たちのために模範を残されました(1ペト2:21〜23)。彼は「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され」たお方であり(ヘブ7:26)、かつ彼は私たちの救い主であるからこそ、私たちもイエスのご品性を反映することができるのです。

さらなる研究

「キリストは見ておられる。彼は私たちの重荷、私たちの危険、私たちの困難のすべてを知っておられる。キリストの心は私たちのためのとりなしの言葉で一杯である。彼は、ペトロの場合のように、1人ひとりの魂にふさわしい執り成しをされる。……キリストの心は、サタンの誘惑に対して踏みとどまることができるよう、試みられ、誘惑されている彼の者たちへの教えの言葉で一杯である。彼は敵の動きの一つひとつを説明し、さまざまな出来事の意味を整理してくださる」(『SDA聖書注解』第7巻931ページ、英文)。 「神と人とを永遠にひき離すことがサタンの目的であった。しかしキリストのうちにあるときに、われわれは堕落しなかった場合よりももっと密接に神につながるようになるのである。救い主は、われわれの性質をおとりになることによって、決してたちきれることのないきずなでご自分を人類にむすびつけられた。……これこそ神がご自分のみことばを成就される保証である。『ひとりのみどり子がわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり』(イザヤ9:6)。神はみ子自身のうちに人間の性質をとり入れ、これを一番高い天にまで持ちつづけさせられた。神とともに宇宙のみ座を占めておられるのは『人の子』である。その名を『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられるのは『人の子』である(イザヤ9:6)。『有って有る者』は神と人間の間にあって、両方に手を置いておられる仲保者である。『聖にして、悪もけがれもなく、罪人とは区別され』るお方は、われわれを、『兄弟と呼ぶことを恥じ』たまわない(ヘブル7:26、2:11)。キリストのうちに、天の家族と地の家族が一つに結ばれている。栄光をお受けになったキリストは、われわれの兄弟である。天は人間のうちに宿り、人間は限りない愛の神の胸にいだかれている」(『希望への光』678、679ページ、『各時代の希望』上巻11、12ページ)。

*本記事は、『終わりの時代に生きる─ヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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