【ヘブライ人への手紙】完全な犠牲イエス【解説】#9

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罪を犯して十字架で処刑された人間が、神として礼拝を受けるべきだという考えは、古代の人々にとって不快なものでした。ローマ時代の文献には、十字架に関する記録がほとんどないことからも、当時の人々がこの考えを嫌っていたことがわかります。ユダヤ人にとって、木にかけられた者は、神に呪われたものであるということは、律法によって定められていることでした(申21:23)。ですから、ローマ時代に初期のキリスト教徒によって地下墓地に描かれた絵には、(おそらく不死の象徴として描かれたであろう)クジャク、鳩、勝利の象徴であったシュロの葉、そして魚などが多く描かれていました。後になって、ノアの箱舟、イサクの代わりに小羊を献げるアブラハム、ライオンの穴のダニエル、魚から吐き出されたヨナ、小羊を担いだ羊飼いなどが描かれるようになり、足の麻痺した者の癒やしやラザロのよみがえりといった奇跡も描かれました。これらは、救い、勝利、そして神の配慮の象徴でした。一方、十字架は敗北や恥の象徴として人々に嫌悪される存在でした。しかし、そんな十字架が後にキリスト教のシンボルになったのです。事実、パウロは福音を「十字架の言葉」と呼びました(1コリ1:18)。

今回、私たちはヘブライ人への手紙に見られる十字架について学びます。

なぜ犠牲が必要だったのか

ヘブライ9:15は、イエスの死の目的は「最初の契約の下で犯された罪の贖い」の犠牲となることであり、それによって神の民が、「約束されている永遠の財産を受け継ぐため」であると述べます。

古代中近東では、二者あるいは二国間の契約は非常に重要なものでした。それは誓いのもとに交わされる約束を含みました。誓いを破った者には、神々による罰が与えられると考えられました。多くの場合、このような契約は、動物の犠牲をもって批准されました。

たとえば、神がアブラハムと契約を結ばれたとき、動物たちが二つに切り裂かれる儀式が行われました(創15:6〜21)。契約をする二者は、それぞれ裂かれた動物の間を歩くのですが、それは契約を破った者はそうなるという運命を表していました。ここで重要なのは、神だけが裂かれた動物の間を歩まれたことです。それは、神は決して約束を破ることはないことをアブラハムに示すためでした。

問1
創世記15:6〜21 をエレミヤ34:8〜22 と比較してください。これらの聖句は契約について何を語っていますか。

神がイスラエルに与えた契約は、彼らを、彼らの嗣業である「約束の地」に導くという約束でした。しかしながら、この約束には一連の戒めに加えて、祭壇の上に血を振りかけることが含まれていました。それは、その契約を破った者の運命を示していました。ヘブライ人への手紙が、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブ9:22)と言うのはそのためです。

イスラエルが契約を破ったとき、神は苦しいジレンマに直面しました。契約は違反者に死を要求しましたが、神は違反者であるその民を愛しておられたからです。神がもし、見て見ぬふりをしたり、あるいは違反者を罰することを拒んだりすれば、もはや神の戒めは守られなくなり、この世界は混沌と無秩序に沈んだでしょう。

しかしながら、神の御子が御自身を身代わりとしてお献げになりました。彼が私たちに代わって死なれたので、私たちは「永遠の財産を受け継ぐ」ことができるのです(ヘブ9:15、26、ロマ3:21〜26)。そのようにして、神は神の律法の神聖さを保ちつつ、同時に律法を破った者たちをお救いになりました。そしてそれは、ただ、十字架を通してのみ可能だったのです。

犠牲のさまざまな形

イエスの死は罪の赦しを与えました。しかしながら、罪の赦しは、私たちの契約違反に対する罰を取り消すだけではありません。それ以外にも重要な要素を含みます。イスラエルの犠牲制度には五つの異なる種類の犠牲があったのはそのためです。その一つひとつが、キリストの十字架の深い意味を表すために必要でした。

問2
エフェソ3:14〜19 を読んでください。パウロが信者たちのためにささげた祈りの意味をめい想しましょう。

「焼き尽くす献げ物」(燔祭)は、動物を祭壇の上で焼き尽くすことが求められました(レビ1章)。この動物は私たちのためにその命を焼き尽くされたイエスを象徴しています。贖罪はイエスの完全な献身を要求しました。イエスは神と等しい方であったにもかかわらず、私たちのために「自分を無にして、僕の身分にな」られたのです(フィリ2:5〜8)。

「穀物の献げ物」(素祭)は、食物を与えてくださることに対する、神への感謝の贈り物でした(レビ2章)。それは、「命のパン」であるイエスをも表し、イエスを通して私たちは永遠の命をいただくことを意味します。

「和解の献げ物」(酬恩祭)は、神が与えてくださる健康と幸福を、友人や家族と食事を共にしながら祝うものでした(レビ3章)。それは私たちのための平和の供え物であるキリストを表し、(イザ53:5、ロマ5:1、エフェ2:14)。私たちがキリストの肉を食べ、血を飲むことによってイエスの犠牲にあずかる必要を強調するものでした(ヨハ6:51〜56)。

「贖罪の献げ物」(罪祭)は、罪の贖罪を与えるものです(レビ4:1〜5:13)。この犠牲は動物の命を象徴する血の役割を強調するものであり、その血は罪からの贖いを与え(レビ17:11)、私たちを罪から贖うイエスの血を指し示すのもでした(マタ26:28、ロマ3:25、ヘブ9:14)。

「賠償の献げ物」(愆祭)は(レビ5:14〜6:7)、償いや弁償が可能な場合に赦しを与えるものでした。神の赦しは、私たちが過ちを犯した相手に対して、償いや弁償が可能である場合は、私たちを償いの義務から解放するものではないことを告げています。

聖所における犠牲制度は、救いの経験が、単にイエスを私たちの身代わりとして受け入れる以上のことであると教えています。私たちはキリストを「食べ」、キリストから受けたものを他者と分かち合い、私たちが過ちを犯した人々に償うことをも意味するのです。

イエスの完全な犠牲

問3
ヘブライ7:27 とヘブライ10:10 を読んでください。イエスの犠牲がどのように描かれていますか。

レビ人の祭司たちは、永遠に生き、永遠の祭司であるイエスとは違って(ヘブ7:24、25)、「死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました」(同7:23)。彼らは「毎日」(同7:27)、「年ごとに」(同9:25)、供え物やいけにえを献げましたが、「礼拝をする者の良心を完全にすること」はできませんでした(同9:9、10:1〜4)。

しかし、イエスは御自身を「すべてのためにただ一度」(ヘブ10:10、標準英語訳)、私たちの良心を清めることのできる(同9:14、10:1〜10)「唯一のいけにえ」(同10:12〜14)として献げることによって、私たちの罪を取り除かれました(同9:26)。

「すべてのためにただ一度」という表現には、いくつかの重要な意味があります。

第一に、イエスの犠牲は完全であり、これに優るものはありません。レビ人の祭司たちのいけにえは、「神に近づく人たちを完全な者にすることは」できなかったために繰り返されました。「もしできたとするなら……、いけにえを献げることは中止されたはず」(ヘブ10:2)でした。

第二に、旧約時代のすべての犠牲は、十字架において成就されました。ですから、イエスは私たちを罪から清めてくださっただけでなく(ヘブ9:14)、私たちの人生から罪を取り除き、私たちを「聖なる者」としてくださったのです(同10:10〜14)。祭司たちは聖所で神に近づき、人々のために奉仕する前に、彼ら自身が清められ、聖化または聖別されねばなりませんでした(レビ8、9章)。イエスの犠牲は、私たちを清め、聖なる者とすることができるので(ヘブ10:10 〜14)、私たちは「信頼しきって、真心から」神に近づくことができ(同10:19 〜23)、「王の系統を引く祭司」として神に仕えることができるのです(同9:14、1ペト2:9)。

最後に、イエスの犠牲は、私たちの霊的人生を豊かにするものであり、私たちが守り、倣うべき模範を示すものです。だからこそ、ヘブライ人への手紙は、私たちの目をイエスに、特に十字架での出来事に目を注ぐように招き、イエスの導きに従うように招いているのです(同12:1〜4、13:12、13)。

十字架と赦しの対価

問4
ヘブライ9:22〜28 を読んでください。この聖句は天の聖所でのキリストの働きについてどのように述べていますか。

天の聖所が清められなければならないという考えは、旧約聖書の聖所を見ると理解できます。聖所は神の統治の象徴であり(サム上4:4、サム下6:2)、神がその民の罪をどのように扱うかは、神の統治の正しさに対する一般の人々の理解に影響を与えます(詩編97:2)。統治者である神は、その民の裁き主でもあり、公正さが期待され、罪なき者を擁護し、罪を犯した者に有罪判決を下します。ですから、神が罪人を赦すなら、赦すための法的責任を神が負うことになります。神の品性と統治を表す聖所は、汚されます。このことは、神が罪人である私たちを赦す時に、神が私たちの罪を背負う理由です(出34:7、民14:17〜19、原語のヘブライ語では、「赦す」という動詞には「運ぶ、負う」という意味があります)。

イスラエルの聖所における犠牲制度はこのことを示しています。人が罪の赦しを求めるなら、その人は彼の罪を告白した動物を身代わりとして献げ、その動物を殺さなければなりませんでした。その動物の血は至聖所である臨在の幕屋の聖なる垂れ幕の前に振りかけられ、香をたく祭壇の四隅の角に塗られました。こうしてその人の罪は象徴的に聖所に移されました。神が人々の罪を取り、自ら負われるのです。

イスラエルの犠牲制度においては、罪からの清めと贖いには二つの段階がありました。一年の間、悔い改めた罪人が犠牲を聖所に持って来ると、彼らは罪から清められますが、その罪は聖所に、つまり神御自身に移されました。その年の終わりの、裁きの日である贖罪日には、神はそれらの罪をアザゼル、すなわちサタンを代表する雄山羊に移すことによって法的責任を清算し、聖所を清めました(レビ16:15〜22)。

この二段階の制度は、天の聖所の型である地上の聖所の二つの部屋に象徴され(出25:9、ヘブ8:5)、神の憐れみと裁きが同時に示されています。その年の間、罪を告白した者たちは、贖罪日には厳粛に休み、自身の心を悩ますことによって神に忠誠を示しました(レビ16:29〜31)。しかしこうして忠誠を示さない者は「民の中から断たれる」(同23:27〜32)のでした。

裁きと神の御品性

問5
ローマ3:21〜26、1:16、17、5:8 を読んでください。私たちの罪を赦すための十字架の贖いは、神について何を明らかにしていますか。

私たちの罪の赦しは、天の聖所の二つの部屋におけるイエスの仲保者としての二段階の奉仕を必要としています。第一に、イエスは私たちの罪を取り除き、イエスを信じる者すべてに赦しを与えるために、十字架のイエス御自身の上に罪を移されました(使徒2:38、5:31)。イエスが十字架の上で彼らの罪をその身に負うことによって、彼を信じるすべての者を赦す権利を得ました。彼はまた、聖霊によって信じる者たちの心に神の律法を置くことができるよう、新しい契約を開始されました(ヘブ8:10〜12、エゼ36:25〜27)。

イエスの奉仕の第二段階は、裁きの働きであり、それはヘブライ人への手紙の視点からはまだ先のことであった再臨前審判を意味します(ヘブ2:1〜4、6:2、9:27、28、10:25)。この裁きは神の民から始まることが、ダニエル7:9〜27、マタイ22:1〜14、黙示録14:7に記されています。その目的は、神の民を赦された神の義を示すことです。この裁きにおいて彼らの人生の記録が宇宙の前に公開されます。神は信じる者たちの心で何が起きたのか、彼らがどのようにイエスを救い主として信じ、イエスの霊を彼らの人生に受け入れたかを示すのです。

この裁きについて、エレン・G・ホワイトは次のように書いています。「人間は自分自身でサタンの告発に向き合うことはできません。罪に汚れた衣のままで罪を告白し、神の前に立つしかありません。しかし私たちの擁護者なるイエスは、悔い改めと信仰によって魂をイエスに献げたすべての者たちために、力ある弁明をしてくださいます。彼は彼らに対する申し立てを弁護し、カルバリーという強力な論拠をもって彼らを訴える者を打ち負かしてくださるのです。彼が十字架の死に至るまで、神の律法に対して完全に服従したことで、天と地のすべての権威が彼に与えられました。そして、彼は天父の憐れみと罪人のための和解を求めてくださるのです……。しかし私たちは、自分の罪深い状態を認めつつ、私たちの義、私たちの聖さ、私たちの贖いなるキリストに頼る必要があります。私たちはサタンの私たちに対する告発に答えることはできません。キリストだけが、私たちのために力ある弁明をすることができます。彼は、私たちの功績ではなく、彼の功績に基づく論拠をもって告発者を沈黙させることができるのです」(『教会への証』第5巻471、472ページ、英文)。

さらなる研究

ジリ・モスカラ教授は再臨前審判の性質について次のように解説しています。神は「私の罪を、店のショーウィンドーのように人目にさらすためにおられるのではない。反対に、彼は何よりもまず、その驚くべき人をつくり変える力を指し示し、そして全宇宙を前に、私の全生涯の真の証人として、私の神に対する態度、私の内なる動機、私の思い、私の行為、私の人生の方向を釈明するためにおられるのである。彼はそれらすべてを実行される。イエスは、私が過ちを犯し、神の聖なる律法に違反したことの証人となる。しかし同時に、私が悔い改め、赦しを願い、主の恵みによって変えられたことの証人ともなるだろう。彼はこう宣言するだろう。『わたしの血は罪人モスカラのために十分である。彼は私により頼む人生を歩み、彼の私への、そして他者への態度は温かく私心がない。彼は信頼に値する人物であり、私の良い忠実な僕である』と」(「神の裁きに関する聖書神学について─神の宇宙的裁きの七つの段階における十字架の意義を讃えて」『アドベンチスト神学学会会報』第15号(2004年春号)155ページ、英文)。 「あがなわれた者も、堕落しなかった者も、キリストの十字架に彼らの科学と彼らの歌を見いだすであろう。イエスのみ顔にかがいている栄光は自己犠牲の愛の栄光であることがわかるであろう。カルバリーの光に照らしてみて、おのれを捨てる愛の法則が天と地の生命の法則であること、『自分の利益を求め』ない愛はそのみなもとが神の心にあること、柔和で心のへりくだったお方のうちに、だれも近づくことのできない光のうちに住んでおられる神のご品性があらわれていることなどがわかるであろう」(『希望への光』675ページ、『各時代の希望』上巻2ページ)。

*本記事は、『終わりの時代に生きる─ヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

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