【ヘブライ人への手紙】垂れ幕を通って道を開かれるイエス【解説】#10

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イエスが天に昇られた直後、オリーブ山から戻って来た弟子たちの心は、歓喜と勝利の思いで満たされました。彼らの主であり、友であるお方が天に昇り、全世界に及ぶ権限を手にされたのです。彼らは、神は彼らの祈りに喜んで応えてくださるという絶対的確信をもって、イエスの名によって神に近づくよう招かれているのでした(ヨハ14:13、14)。彼らは依然として地上の世界にいて、悪の勢力の攻撃にさらされていましたが、彼らの希望は揺るぎませんでした。彼らは、イエスが彼らのために場所を用意するために天に昇られたことを知っていました(同14:1〜3)。彼らは、イエスが彼らの救いの指揮官であり、彼の血によって天の家郷への道を開いてくださることを知っていました。

イエスの昇天はヘブライ人への手紙の神学の中心をなすテーマです。それはイエスの統治の始まりと、私たちのための大祭司としての奉仕の始まりを意味します。更に重要なことは、最終的にイエスの昇天は、私たちが信仰によって大胆に神に近づくことができるようにする新しい契約の開始の瞬間でもあったということです。イエスとイエスの義の功績によって、確信をもって神に近づくことができるのは、今を生きる私たちの特権です。

父なる神の御前に出るイエス

問1
ヘブライ9:24 を読んでください。この聖句によれば、イエスの昇天の目的は何でしたか。

神はイスラエルに、男子は年に三度「主なる神の御前に出る」ために、献げ物を持ってエルサレムに上るようお命じになりました。そのために過越祭(除酵祭・種入れぬパンの祭)、七週祭(ペンテコステ・五旬祭)、仮庵祭が定められました(出23:14〜17、申16:16)。過越祭はイスラエルのエジプトからの解放を祝うものでした。五旬祭は大麦の収穫を祝うもので、新約時代にはシナイでの律法の賦与に関連する祭でした。仮庵祭は荒れ野の旅の間の神の守りを祝うものでした。

ヘブライ9:24は神の御前に出るためのイエスの昇天を記しています。彼は、「まことのもの」として御自身の血である「これらよりもまさったいけにえ」を携えて「神の御前に現れ」るために天の聖所に入りました(ヘブ9:23、24)。イエスは驚くべき正確さをもって、この巡礼される三大祭を実現されました。彼は、過越しの小羊がいけにえとなる時である、過越祭の準備の日の午後3時(直訳では第9時)に死なれ(ヨハ19:14、マタ27:45〜50)、3日目によみがえり、彼の犠牲が受け入れられた保証を受け取るために天に昇られましたが(ヨハ20:17、1コリ15:20)、それは祭司が収穫された大麦の初穂を御前に差し出す行為に象徴されました(レビ23:10〜12)。そして復活から40日後に、神の右の座に着くために昇天され、そして五旬祭の日に〔聖霊降下によって〕新しい契約を開始されたのでした(使徒1、2章)。

古代イスラエルにおける巡礼の目的は「神の御顔を仰ぐこと」でした(詩編42:3〔口語訳42:2〕)。それは神に正しさを認められ、神の好意を得る経験を意味しました(詩編17:15)。同様に、ヘブライ人にとって「神の御顔を求める」という表現は、神に助けを求めることを意味しました(代下7:14、詩編27:8、105:4)。これがヘブライ人への手紙において、イエスの昇天が意味することです。イエスは完全ないけにえをもって神のもとに昇りました。イエスは、神の御前に入っていく私たちの先駆者として、昇天されました(ヘブ6:19、20)。彼は、信じる者たちが「故郷を探し求め」る旅において「熱望」した、「更にまさった故郷」、神御自身が彼らのために準備された都を現実のものとされたのです(同11:10、13〜16)。

神の招き

問2
ヘブライ12:18〜21 を読んでください。シナイ山でのイスラエルの経験はどのようなものでしたか。

神がイスラエルをエジプトから召し出された目的は、彼らとの個人的で親密な関係を築くためでした。神はモーセに言われました。「あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを」(出19:4)。

こうして、神はモーセを通して民に、神と会うために必要な準備をするよう教えられたのでした。民はまず身を清める必要がありました(出19:10〜15)。準備せずに山に登る者は死んでしまうからです。民が2日間の準備を整えたならば、神は3日目に、「角笛が長く吹きならされるとき」、民は「山に登ることができる」(出19:13)と指示しました。神は彼らにも、モーセや民の代表者たちが山に登り、神の御前で「神を見て、食べ、また飲んだ」と同じ経験をさせたいと望まれたのでした(同24:9〜11)。後に民は、彼らが神の栄光を見たことを知りましたが、それはまさに「神が人に語りかけられても、人が生き続けることもある」(申5:24)経験でした。しかし、いざという時、彼らの信仰は弱くなっていました。モーセは数年後に、民が「火を恐れて山に登らなかった」(同5:5)と記しています。民は彼らが山に登る代わりに、モーセに彼らの仲保者になってくれるよう頼みます(同5:25〜27、出20:18〜21と比較)。

神がシナイ山でその神聖を現わされたのは、民に神を「畏れること」または敬うことを学ばせるためであり(申4:10を詩編111:10、箴1:7、9:10、10:27と比較)、同時に、神は憐れみ深く恵みに富むお方でもあられることを学ばせるためでした(出34:4〜8)。このように、神の御もとに来るようにとのイスラエルに対する招きにかかわらず、彼らは山に登ることを恐れ、モーセに仲保者になってくれるよう頼んだのでした。ヘブライ人への手紙におけるシナイでの出来事の描写は、モーセが民に彼らの不信仰と金の子牛の背信を思い起こさせ、それらの罪のために彼がどれほど神に会うことを恐れたことを述べています(申9:19)。神の招きに対して民の取った行動は神が計画されたものではなく、彼らの不信仰の結果でした。

幕の必要

幕には二つの役割がありました。ヘブライ人が用いる幕に当たる言葉(カテペタスマ)は、聖所の庭を囲む幕(出38:18)、天幕の入り口に掛ける幕(同36:37)、または聖所と至聖所を分けるための幕(同26:31〜35)を意味します。これらの幕は、いずれも一部の人だけが通り抜けることができる入り口であり、境界でした。

問3
レビ記16:1、2 と同10:1〜3 を読んでください。これらの聖句からどのような警告を読み取ることができますか。

幕は、聖なる神の前で奉仕する祭司たちを、〔神の栄光から〕守るものでした。金の子牛の罪の後、神はモーセに、彼らが「かたくなな民である」(出33:3)ために、彼らを途中で滅ぼしてしまうことがないよう、神は民に同行して約束の地に上ることはしないと言われました。そこでモーセは臨在の幕屋を移動させ、宿営から遠く離れた所に一つの天幕を張りました(出33:7)。神は、モーセのとりなしの後、民に同行することに同意しました(同33:12〜20)。しかし神は、民の間におられるとき、民を守るためにいくつかの方法をお定めになりました。

たとえば、イスラエルは宿営する際、その中央に幕屋を張るための四角い空き地を設けなければならないことが厳格に定められていました。加えて、その周囲には幕屋とその調度品を異邦人の侵略から守るためにレビ人が宿営しました(民1:51、3:10)。彼らはまた、イスラエルの民を守るための、ある種、人間の幕なのでした。「レビ人は掟の幕屋の周囲に宿営し、〔神の〕怒りがイスラエルの人々の共同体に臨まないように、掟の幕屋の警護の任に当たらねばならない」(民1:53)。

イエスもまた私たちの祭司として幕になってくださったのです。神はイエスの受肉によって人の間に神の幕屋を張り、それによって私たちが神の栄光を見ることができるようにしてくださいました(ヨハ1:14〜18)。イエスは、聖なる神が不完全な人の間に住まわれることを可能にしてくださったのです。

幕を通って入る新しい生きた道

問4
ヘブライ10:19〜22 を読んでください。この聖句は私たちを何に招いていますか。

ヘブライ人への手紙は、イエスは天の聖所に入られたことを述べ、そして彼の導きに従うよう私たちに語りかけます。この考えは前に紹介された、イエスは信じる者たちの「指揮官」であり先駆者であるという考えと一致するものです(ヘブ2:10、6:19、20、12:2)。「新しい生きた道」とは、彼の犠牲と昇天によってイエスが開始された新しい契約を指します。「新しい生きた」という表現は、古い契約を表す「年を経て古びた」という表現とは対照的です(同8:13)。私たちが大胆に神に近づくことを可能にするのは、私たちに罪の赦しを与え、私たちの心に律法を置いた新しい契約です。それは、私たち自身の功績によるのではなく、ただイエスが私たちのために契約の義務を果たしてくださったことによるです。

ヘブライ人への手紙は、古い契約の開始には、聖所の建設と祭司たち聖別が含まれていたと指摘しています(ヘブ9:18〜21を出40章、レビ8、9章と比較)。契約の目的は、神とその民の間に親密な関係を築くことでした(出19:4〜6)。イスラエルがこの関係を受け入れたとき、神は、彼らの間に住むことができるように、彼らにただちに聖所を建てるようお命じになりました。聖所が完成し、神の民の間に神が臨在することで、神とイスラエルの間の契約が完成したのです。

新約時代にも同じことが言えます。新しい契約もまた、イエスが人類のために祭司としての務めを開始したことをも意味しています(ヘブ5:1〜10、7:1〜8:13)。

イエスの神の御前への昇天は、神の民のための新しい時代の開始を宣言するものです。ゼカリヤ3章は、サタンが神の民を代表する大祭司ヨシュアを訴えるために神の御前にいたことを描写しています。この訴える者は、ヨブの神への忠誠について疑問を提起した者と同じです(ヨブ1、2章)。しかしながら、

イエスの犠牲によってサタンは天から投げ落とされました(黙12:7〜12をヨハ12:31、16:11と比較)。そして今、イエスはその犠牲と忠実さによって私たちをとりなし、私たちのために救いを主張してくださっているのです。

彼らは主の御顔を見る

問5
ヘブライ12:22〜24 を読んでください。天のエルサレムで神の御前に出るとはどのような感覚なのでしょうか。

この箇所では、信じる者たちが、シオンの山、天のエルサレムで神の御前に「近づいた」と表現されています。彼らのこの経験は未来に起こるものであるのに、すでに起こった出来事として表現されています。従って、天のエルサレムは「望んでいる」ものであり、「見えない」ものでありながら、信仰によって私たちに保証されているのです(ヘブ11:1)。この箇所の意味するところはこれで終わりではありません。彼らだけでなく私たちもまた、私たちの代表であるイエスを通して、シオンの山に到着したのです(エフェ2:5、6、コロ3:1)。イエスの昇天は信仰の出来事ではなく事実です。

この歴史的事実としてのイエスの昇天は、ヘブライ人への手紙の、公に告白している信仰に堅く立つようにとの勧告に説得力を与えます。パウロは言います。「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから……、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブ4:14、16)。

このように、私たちはすでに私たちの代表者を通して〔天のエルサレムに〕着いているのですから、それにふさわしく行動すべきなのです。イエスを通して私たちは、「天からの賜物を味わい……、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験」(ヘブ6:4、5)しているのです。イエスの昇天と天の聖所における奉仕という事実は、「魂にとって頼りになる、安定した錨」(同6:19)です。

その約束は実体を伴うものであり、信じるに値するものであることの保証なのです(同7:22)。私たちにとって、信仰は歴史的裏づけのある錨なのです。

神の目的はイエスにおいて成就するだけでなく、私たちの中にも成就します。イエスの昇天は、過越祭と五旬祭というイスラエルの最初の二つの年毎の祭りの成就であることはすでに学びました。ヘブライ人への手紙と黙示録によれば、最後の祭である仮庵祭はまだ成就されていません。私たちはこの祭りをイエスと共に祝うのです。それは私たちが、天の故郷で「神が設計者であり建設者である……都」に入るときに成就します(ヘブ11:10、13〜16)。私たちは仮の住まいを建てませんが、神のお建てになる住まいが天から下ってきて、私たちはそこで主と共に永遠に住むことになるのです(黙7:15〜17、21:1〜4、22:1 〜5、民6:24〜26)。

さらなる研究

「キリストの昇天は、主に従う者たちが約束の祝福を受けることのしるしであった。彼らは、仕事にとりかかる前にこれを待たなければならなかった。キリストは天の門の中に入って行かれて、天使たちのさんびのうちに王座につかれた。この儀式が終わるとすぐ、聖霊は豊かな流れとなって弟子たちの上にくだり、キリストは永遠の昔から父と共に持っておられた栄光をお受けになった。ペンテコステの聖霊降下は、あがない主の就任式が完了したことを知らせる天からの通報であった。主は、その約束に従って、ご自分が祭司、また王として、天と地の全ての権威を引き継ぎ、神の民の上に立つ油注がれた者となられたしるしとして、弟子たちに天から聖霊を送られたのであった……。  弟子たちはイエスのみ名を、確信をもって語ることができた。それは、イエスが彼らの友であり、兄であられたからではなかっただろうか。キリストとの親しい交わりに導かれて、彼らは主と共に天に備えられた場所に座った。キリストをあかしするとき、弟子たちの思想を包んだのは、すさまじく燃えることばであった」(『希望への光』1370、1373ページ、『患難から栄光へ』上巻32、34、41ページ)。

*本記事は、『終わりの時代に生きる─ヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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