【ヘブライ人への手紙】信仰の創始者また完成者であるイエス【解説】#11

目次

この記事のテーマ

ヘブライ11、12章は、この手紙の中でも最も愛されている章でしょう。これらの章では、クリスチャン人生は私たち全てが参加しなければならないレースであり、忠実である者はすべて報いを受けると言われています。また過去に苦しみに耐えて信仰に生きた人々の人生の贖いのドラマをレースにたとえて描いていますが、彼らはまだその報いを受けてはいません。

なぜなら、このドラマには彼らだけでなく私たちも含まれているからです。私たちはこのレースの最終ランナーです。このドラマは、クライマックスを迎えており、私たちがレースの最後の部分を走っており、ゴールラインでは神の右に座っているイエスが持っています。彼はこのレースの究極の走り方を示してくださっただけでなく、私たちを鼓舞し励ましてくださるのです。彼はまた、信仰の報いは真実であることの究極の証人であり、私たちのためにその道を開かれた先駆者でもあるのです(ヘブ6:19、20、10:19〜23)。

ヘブライ11章は、信仰とは、私たちがまだ見ることができなくても、神の約束を確信することであると説明しています。この課では、過去の信仰の勇者たちの模範から信仰とは何かを学びますが、特にその中心となるのは、「信仰の創始者また完成者であるイエス」の模範を通しての学びです(ヘブ12:2)。

信仰によって生きる義

問1 
ヘブライ10:35〜39 を読んでください。神はこれらの聖句を通して何と語っておられますか。

忍耐は最終時代の神の民の特徴です。忍耐なくして約束されたものを受けることはできません(黙13:10、14:12)。しかしながら、耐え忍ぶためには信仰を「しっかり保〔つ〕」必要があります(ヘブ10:23、4:14)。パウロは、荒れ野世代が約束されたものを受けることができなかったのは、信仰が不足していたためだと示しています(ヘブ3:19)。ヘブライ人への手紙はまた、信じる者たちは約束の成就の入口にいるのだから(同9:28、10:25、36〜38)、約束のものを受けたいと望むなら、信仰を働かせる必要があると説きます(同10:39)。

ここでパウロは信仰の解説するためにハバクク2:2〜4を引用します。ハバククは神に、神の義に逆らう背信の者たちをなぜ見過ごされるのかと問います(ハバ1:12〜17)。この預言者と彼の民は苦しんでいたので、神に裁きを求めました。しかし神は、神の約束の成就には定められた時があり、彼らはまだ待たねばならないとお答えになります(ハバ2:2〜4)。ハバククと彼の民は、私たちと同じように、約束の時とその成就の時の間に生きていました。神のメッセージはヘブライ人への手紙の中に続きます。「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない」(ヘブ10:37、ハバ2:3も参照)。

このメッセージはイエスについて述べています。彼は義なる方であり、神に喜ばれ、命を与える信仰の体現者です(ヘブ10:5〜10)。では、なぜ彼は「遅れられ」ているのでしょうか。遅れているわけではありません。彼はすでに私たちのために死ぬためにおいでになりました(ヘブ9:15 〜26)。そして彼は定められた時に必ず再びおいでになります(同9:27、28、10:25)。

神のメッセージは続きます。「わたしの正しい者〔義人〕は信仰によって生きる」(ヘブ10:38)。パウロは同じことをローマ1:17、ガラテヤ3:11でも述べています。ローマ1:16、17は特に、神の義は「始めから終りまで信仰を通して実現される」と説明します。ここでパウロが言いたいことは、神が御自分の約束に対して忠実であることが先行し、それが結果として、私たちの信仰あるいは忠実さを生み出すということです。

このように、神が約束に忠実なので(2テモ2:13)、その忠実さに対する応答として、正しい者〔義人〕たちも忠実であり続けるのです。

信仰によってアブラハムは

ヘブライ人への手紙は信仰を、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」であると定義しています(ヘブ11:1)。そして、イスラエルの歴史から信仰の勇者たちを挙げ、彼らがどのようにその信仰を行いによって表したかを紹介しています。

問2 
ヘブライ11:1〜19 を読んでください。これらの信仰の勇者たちはどのように、見えないものを望み見て行動しましたか。

おそらく、この章で最も重要な登場人物はアブラハムでしょう。アブラハムのこの信仰による行動は特に信仰の本質について教えています。

ヘブライ人への手紙は、イサクを犠牲として献げるようにとのアブラハムに対する神の命令は、神の約束とは矛盾することのように思えると述べています(ヘブ11:17、18)。イサクはアブラハムの独り子ではありませんでした。アブラハムの初子はイシュマエルでした。神は、イシュマエルとその母は御自身が面倒をみること、アブラハムの子孫はイサクを通して続いていくと告げ、サラの願いを聞き入れて、彼らを家から追い出すことをお許しになります(創21:12、13)。しかしながら、神は次の章では、彼にイサクを全焼のいけにえとして献げるようにお命じになります。創世記22章の神の指示は、創世記12〜21章の神の約束とはまったく矛盾するように思えます。

ヘブライ人への手紙は、アブラハムはこの難問を、彼がイサクを献げた後にも、神はイサクをよみがえらせることのできるお方であると信じたことによって解決したと結論づけています。これは驚くべき信仰です。なぜならそれまでに復活した者は一人もいなかったからです。しかしアブラハムのこの決断は、それまでの神の彼に対する導きから来たものでした。ヘブライ11:12は、イサクは「死んだも同様の一人の人」から神の力によって生まれた子であったと述べ、パウロはまた、アブラハムが「死んだも同様の人」であり、サラも不妊であったにもかかわらず、彼は「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」たので「多くの民の父と」なったのだと述べ、それは彼が、神は「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる」方だと信じたからだと言います(ロマ4:17〜20)。ですから、アブラハムは、イサクに〔彼の出生の際に〕死から命をお与えになった神は再び彼に命をお与えになるに違いないと考えたのです。過去における神の導きの中に、アブラハムは、神が将来になさることの暗示をすでに見ていたのです。

見えないものを信じたモーセ

問3 
ヘブライ11:20〜28 を読んでください。これらの信仰の勇者たちの行為は、見えないものを望み見ることとどのように関連していましたか。

モーセはこの信仰の章で2番目に重要な人物でしょう。モーセの人生は、王に対する二度の大胆な行動に始まり、終わっています。彼の両親はモーセが生まれたとき、「王の命令を恐れ」ず彼を隠しました(ヘブ11:23)。やがてモーセは「王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました」(同11:27)。しかし、モーセの最も重要な行動は、「ファラオの王女の子と呼ばれることを拒ん」だことです(同11:24)。彼を養子にした母親が「ファラオの娘」であったということは、彼は次のファラオになる候補者であったことを意味します。しかしモーセは、当時最も強力であった国家の王という栄誉を喜んで捨て、代わりに、新しく解放された奴隷の民、事実上の難民の指導者になったのです。

問4
ヘブライ11:24〜27 と同10:32〜35 を比較してください。ヘブライ人への手紙の元々の読者とモーセの経験との間にはどのような共通点がありますか。

モーセの偉大さは、彼がエジプトの王という約束を超えて、見えない神の約束を見たことにあります。ヘブライ人への手紙は、その鍵はモーセがエジプトの富にまさる、「与えられる報い」に目を向けていたからだと言います。この報いはヘブライ10:35が記している、神が神を信じる者すべてに約束されたのと同じ報いです。

パウロのこの言葉は、この手紙の元々の読者たちの心に力強く響いたはずです。彼らはキリストを信じる信仰のゆえの非難と侮辱とに耐え、苦しめられ、財産までも奪われ(ヘブ10:32〜34)、ある者は獄に入れられました(同13:3)。同様にモーセは、神の民と共に不当な扱いを受けることを選び、エジプトの富と引き換えに、キリストと共に恥ずかしめを受けることを選んだのでした。なぜなら彼は、キリストの報いはエジプトが与える何物よりも大きいことを信じていたからです。

信仰によってラハブとその他の者たちは

問5
ヘブライ11:31 とヨシュア2:9〜11 を読んでください。異教の娼婦であったラハブはなぜ聖書の聖い人物たちの中に加えられているのでしょうか。

ラハブはヘブライ11章に最もふさわしくない人物でしょう。この信仰の勇者の中で、ラハブはこのリストの中のわずか二人しかいない名前が載っている女性の内の1人です。最初の女性は父祖や家長で、彼女はこのリストの10番目に出てきます。それぞれが義人とみなされています。更に、彼女は女性であるだけでなく、異邦人の娼婦なのです。

最も驚くべきは、彼女の名が、この章の中心的テーマであり、クライマックスであることです。このリストはユニークな方法で並べられています。各人物の紹介は、繰り返し「信仰によって」という言葉で始まります。「信仰によって、誰だれはこれこれをした」という基本的なパターンがあります。この繰り返しは読者の期待をクライマックスへと高め、「信仰によって、ヨシュアは民を約束の地へ導き入れた」に続いていくはずでした。

しかし、聖書はそこにヨシュアでなく、娼婦ラハブの名前を入れたのです。ラハブの名を記した後、この繰り返しは、「これ以上、何を話そう」という言葉をもって突然終わります(ヘブ11:32)。そしてパウロは、急ぎ足で何人かの名前を簡潔に列挙します。

ラハブの信仰の行いは、彼女が見ていないことを聞き、信じ、従った結果です。彼女はエジプトの災いを、紅海の奇跡的救出劇を、また岩からの水も天からのパンも見なかったのに彼女は信じました。イエスの説教を聞いたことがなく、奇跡も見たことのなかったヘブライ人への手紙の聴衆にとって、そして同じようにそれらの出来事を何も見ていない私たちにとって、ラハブは必要な人物なのです。

「ラハブはエリコの城壁に住む遊女だった。彼女はエリコの町の防御を偵察するために送られたスパイをかくまった親切と、彼女の神を信じるとの宣言のために、スパイたちは、彼らがエリコを攻めるとき、彼女の命と彼女の家族を救うことを約束した」(『神の娘たち』35ページ、英文)。

パウロは更に、多くの信仰者たちが経験した困難のリストを続けます(ヘブ11:35〜38)。「釈放を拒み」という表現は(ヘブ11:35)、彼らが逃げることができたのに、そうしなかったことを意味します。なぜなら、彼らの目は神の報いに注がれていたからです。

信仰の創始者また完成者であるイエス

問6
ヘブライ12:1〜3 を読んでください。この聖句は私たちに何を求めていますか。

信仰についての説明のクライマックスは、12章のイエスにあります。パウロは、イエスについて、「来るべき方がおいでになる。遅れられることはない」と始め(ヘブ10:37)、私たちの信仰の「完成者」であると結んでいます。イエスは「信仰の創始者また完成者」(同12:2)です。これは、イエスが信仰を可能にし、信仰生活がどのようなものであるかを完全に体現し模範となったということを意味しています。イエスによって信仰は完全に表現されたのです。

イエスは少なくとも三つの意味において、私たちの信仰の「基礎」(または「創始者」あるいは「先駆者」)です。

第一に、イエスだけがこのレースを完全に走り切りました。信仰の勇者たちはまだゴールに到達していません(ヘブ11:39、40)。しかしイエスは、天で神の安息に入り、父なる神の右に着かれました。私たちは、かの勇者たちと共に将来、イエスと共に統治するのです(黙20:4)。

第二に、イエスの完全な生涯は、勇者たちが彼らのレースを走ることを可能にしました。もしイエスがおいでにならなかったなら、彼らのレースもまた無駄なものになっていたでしょう。

第三に、イエスは私たちの信仰の基礎です。神と共におられるお方として、彼は私たちに対する神の忠実さを示されました。神は決して私たちを救う努力をあきらめられないので、私たちもあきらめさえしなければ、最後には報いというゴールに着くことができます。イエスは私たちが不忠実であったときでさえ、忍耐をもって走り、忠実であり続けられました(2テモ2:13)。私たちの信仰は、ただイエスの忠実さに対する応答なのです。

最後に、イエスは信仰の「完成者」です。なぜなら彼はこの信仰のレースをどのように走るべきかの完全な模範だからです。彼は私たちのためにすべてを捨てることによって、すべての身分と権威を放棄されました(フィリ2:5〜8)。イエスは一度も罪を犯されず、常に堅く報いを見つめておられました。それは神の恵みによって贖われた人類を見るという喜びでした。だからこそ、彼は誤解とののしりに耐え、十字架の恥をも忍ばれたのです(ヘブ12:2、3)。

さあ、今度は私たちが走る番です。私たちの力でイエスのように生きることは決してできませんが、私たちにはイエスの完全な模範があります。私たちは、イエスにある信仰によって、イエスに目を注ぎ続け(信仰の勇者たちと同じように)、彼の約束された大いなる報いを望みつつ、信仰によって前進しましょう。

さらなる研究

「信仰によってキリストのものとなったのですから、また、信仰によってキリストのうちに成長するのです。これは、こちらからも与え、また、神からも受けることです。自分の心も意志も奉仕もすべてを神にささげ、神のご要求にことごとく従わなくてはなりません。

そして、服従する力を受けるには、あらゆる祝福に満ちあふれるキリストを心に宿し、キリストをあなたの力、義、また永遠の助けとして受け入れなければなりません」(『希望への光』1958ページ、『キリストへの道』改訂第三版98ページ)。

「神は、私たちに、信仰の基礎を置くに足る証拠を十分与えられた上でなければ、信じるようにはお求めになりません。神の存在も、品性も、また、み言葉の真実性もみな、私たちの理性に訴えるあかし、しかも多くのそうしたあかしによって確立されています。けれども、神は、疑う余地を全く取り除かれたのではありません。私たちの信仰は、外見的なものの上に築くのではなく、証拠の上に築くのでなければなりません。疑おうと思う者には疑うことができますが本当に真理を知りたいと求めている人は、信仰の基礎となる十分の証拠を発見することができます。 限りある心をもって、限りなき神のご性質やみわざを十分に悟ることは不可能です。どんなに鋭い知能の持ち主でも、どれほど教育を受けた人にとっても、聖なる神は神秘に包まれてよくわからないのです。『あなたは神の深い事を窮めることができるか。全能者の限界を窮めることができるか。それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。それは陰府よりも深い、あなたは何を知りうるか』(ヨブ11:7、8)」(『希望への光』1972ページ、『キリストへの道』改訂三版150、151ページ)。

*本記事は、『終わりの時代に生きる─ヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

関連コンテンツ

よかったらシェアしてね!
目次